第008話:最初の亀裂――王都S級パーティーの異変
カイルたちがカルデラで鍛冶組合の公認を勝ち取っていた、ちょうど同じ日の午後。
南へ400キロ離れた王都近郊の『紅蓮迷宮・地下19層』では、焦げた硫黄の匂いと、苛立ちに満ちた怒声が狭い玄武岩の回廊に反響していた。
「――クソッ! なんだこの鎧トカゲ(アーマー・リザード)どもは! なぜ1発で斬れねえんだッ!」
王都最強と持て囃されるS級パーティー『紅蓮の覇剣』のリーダー、ガイルは、息を荒らげながら愛剣『紅蓮魔剣イグニス』を力任せに振り回していた。
カイルを路地裏へ追放してから、今日でちょうど7日目。
本来なら、地下19層の中型魔物である鎧トカゲなど、ガイルが魔剣に火炎魔力を流して一閃すれば、鱗ごとバターのように両断できるはずの雑魚だった。
だが――今日の『紅蓮魔剣』は、鞘から抜いた瞬間からどうにも様子がおかしかった。
そもそも今朝、迷宮へ潜る前に立ち寄った王都ギルドの酒場でも、ガイルは小さな恥をかいていた。
いつものように貴族令嬢や若手冒険者たちの前で『紅蓮魔剣』を華麗に抜き放って見せようとしたところ、鞘の入り口にこびりついた血脂と赤錆のせいで刀身が途中で引っかかり、「ギギッ……」と不格好な音を立てて抜刀に失敗しかけた。
以前は、どんなに泥だらけで宿舎へ帰っても、翌朝には鞘の内側の滑走ローラーに最高級の白椿油が塗られ、柄を握っただけで吸い出されるように刀身が滑り出ていた。それがカイルの毎晩の手入れのおかげだったとは夢にも思わないガイルは、「ちっ、王都の湿気が多いせいだ」と鞘を乱暴に叩いて誤魔化していた。
そして今、実際の戦闘に入ると、異常はさらに顕著になっていた。
ガァン! ギギギッ!
ガイルが全力で振り下ろした赤黒い刀身は、鎧トカゲの背中の鱗を3ミリほど斬り裂いたところで鈍い金属音を立てて止まり、逆に激しい衝撃が柄を通してガイルの右手首へと跳ね返ってきた。
「ぐあっ……!? つ、痛えっ! なんだこの反動は、右手の皮が剥けるだろうが!」
ガイルが顔を歪めて一歩後退する。
剣が、異常に重い。
カイルがパーティーにいた頃は、まるで自分の指先を動かすように羽のように軽く振れていたはずの魔剣が、ここ3日ほどでまるで鉛の塊を振り回しているかのように重くなっていた。
それも当然の結果だった。ガイルの『紅蓮魔剣』の柄の内部には、本来カイルが特注で作った「3.8グラムの偏心鉛ウェイト」と「真鍮の衝撃吸収バネ」が仕込まれていたが、5日前の戦闘でバネが金属疲労を起こして折れ、柄の中で重りが先端側へズレ落ちていた。
さらに刀身内部の魔力導管が黒紫色の『魔力澱』で詰まりきっているため、魔力を流すたびに柄の隙間からジリジリと不快な熱気が逆流し、ミスリル籠手の下のガイルの掌に赤黒い火傷の水膨れを作っていた。
それだけではない。カイルが毎晩、鹿革に白椿油を染み込ませて刀身の表面を0.001ミリの油膜で保護していた処理が失われたせいで、昨日倒した酸粘液スライムの体液が刀身の地鉄に直接染み込み、目に見えない無数のピンホール腐食(孔食)を広げていた。
振るたびに「ブォン、ブォン」と間延びした濁った風切り音が鳴り、以前の「ヒュンッ!」という鋭い斬撃音は見る影もない。
「おいダリオ! ヴェイン! ぼさっとしてないで前へ出てトドメを刺せ!」
「む、無理言うなよガイル! 俺の大斧も、なんか知らねえが刃先が丸まってて、さっきからトカゲの甲殻に弾かれっぱなしなんだよ!」
前衛の重戦士ダリオが、脂汗を流しながら両手持ちの戦斧を振り回す。
しかし、カイルが毎晩調整していた「柄の重心バランス」と「刃角16.8度の蛤刃研ぎ」を失ったダリオの大斧は、刃先がノコギリのようにギザギザに欠け、振るたびに遠心力でダリオ自身の肩の関節をギシギシと軋ませていた。
おまけに柄の滑り止め革に染み込んだ獣の脂を誰も拭き取らなかったせいで、汗をかいたダリオの手の中で柄がズルズルと回り、狙った場所から20センチも外れた地面ばかりを叩き割っている。
斥候のヴェインに至っては、双剣の切っ先が2本とも外側に1.5ミリ反り返っており、トカゲの脇腹を突いた瞬間に刃が滑って自分の太ももを浅く斬りつけてしまう始末だった。
「いてててっ! クソッ、なんで俺の短剣、こんなに滑るんだ!? 前はちょっと当てただけでスッと肉に食い込んだのに!」
「あーもう、どいつもこいつもモタモタして! 私の『火球』で吹き飛ばしてあげるわ!」
後衛のロゼッタが杖を振り上げ、中級火炎魔術を放ってようやく手負いの鎧トカゲ3頭を焼き殺した。
ドサッ、と黒焦げの死体が倒れ、戦闘は辛うじて終わったものの、4人の息はまるで深層のボス戦を終えた後のように激しく乱れていた。しかも、ロゼッタの魔法でトカゲの革まで黒焦げになってしまったため、剥ぎ取れる素材はゼロだ。
「ハァ、ハァ……どうなってやがるんだ! たかが地下19層のトカゲ3頭に、なんで5分もかかってんだよ!」
ガイルが苛立ち紛れにトカゲの死体を蹴飛ばし、『紅蓮魔剣』の刀身を睨みつけた。
かつてカイルが14,000番の『蒼霞』で毎晩磨き上げていた刀身は、今や魔物の脂と血が焦げ付いて黒ずみ、刃先には肉眼でも分かるほどの細かい欠け(チップ)が10箇所近く並んでいた。
「おいロゼッタ! お前、カイルをクビにする時、『私の硬化付与があれば砥石なんていらない』って見栄を切ったよな!? なんで剣がこんなに重くて斬れなくなってんだよ!」
「わ、私のせいにしないでよ!」
ロゼッタがヒステリックに声を張り上げ、化粧の濃い顔を歪めた。
彼女の白い首元には、カイルに払うはずだった月3万2,000ゴールドの砥石代を横領して昨日宝石商で買ったばかりの、ルビーの首飾りがギラギラと光っている。
「私の『硬化付与』は完璧よ! ただ、最近の迷宮の魔物の甲殻が異常に硬くなってるだけじゃない! それに、ガイルが乱暴に振り回すから、付与の効果が薄れてきてるだけよ!」
「なら、今すぐもっと強力な『硬化付与』を掛け直せ! 来週は北の鉱山都市『カルデラ』の辺境伯から、金貨100枚の報酬で『地下28層・炎獄竜の公開討伐』に招待されてるんだぞ! こんな鈍った剣で無様なところを見せたら、父上の公爵家から勘当されちまう!」
「分かってるわよ! ほら、そこに剣と斧を並べなさい!」
ロゼッタは懐から、横領した金で買い込んだものの、実は出力の制御もろくにできていない「見栄え用の高級魔石杖」を取り出した。
そして、すでに2重に『硬化付与』が掛けられ、内部の魔力導管が黒紫色の『魔力澱』で8割以上詰まりきっているガイルの『紅蓮魔剣』に向かって、呪文を詠唱した。
「――《剛鉄硬化・3重重ね掛け》! ついでに表面が綺麗に見える《光輝皮膜》も掛けておいたわ!」
ギラッ、とケバケバしい紫色の魔力光が刀身を包み込み、表面の脂汚れや細かい刃こぼれの上から、厚さ1ミリのガラスのような硬質魔力膜が無理やりコーティングされた。
ダリオの大斧とヴェインの双剣にも、同じように3重の硬化魔法が塗りたくられる。
「ほら見なさい! ピカピカになったじゃない! あの貧乏研ぎ師のカイルが3時間も汗水垂らして石で擦ってた作業なんて、私の魔法なら30秒で終わるのよ!」
「おお、確かにな! 表面の傷が消えて新品みたいに光ってるじゃねえか!」
ガイルは単純に満足して頷き、試しに近くの岩壁に向かって『紅蓮魔剣』を軽く叩きつけてみた。
ガキン!と火花が散り、岩壁の角が砕け落ちる。
だが――その直後だった。
――ピキィィッ……。
分厚い『光輝皮膜』の下、誰の目にも見えない刀身の中心部(深さ3.2ミリ)で、取り返しのつかない崩壊が進行していた。
カイルが追放される前に警告していた通り、ロゼッタの3重の硬化魔法によって、刀身内部の魔力導管は完全に密閉・窒息させられた。
逃げ場を失った高濃度の『魔力澱』が、ガラス質の硬化膜の内側で沸騰した硫酸のように金属結晶を腐食させ、鍔元にあった0.08ミリの微細亀裂が、一気に長さ2.5センチ、深さ4ミリの致命的な内部断裂へと拡大していた。
刀身はもはや、外側を薄い飴でコーティングしただけの「乾いた泥の棒」と化していた。
あと数回、高出力の火炎魔力を流して硬い標的に叩きつければ、神代遺物『紅蓮魔剣イグニス』は内側から大爆発を起こして粉々に砕け散る――そのカウントダウンは、すでに残り5発を切っていた。
しかも、ロゼッタが自分の懐へ着服した月3万2,000ゴールドの予算で買われていたはずの『氷晶トカゲの冷却脂』も『天然仕上げ砥石』も、今の彼らの荷物には1つも入っていない。あるのは、見栄を張るための安っぽい香水瓶と、帳簿を改ざんした偽の領収書束だけだった。
「よし、これなら来週のカルデラ遠征も楽勝だな! ははは、やっぱりカイルなんて無能、さっさと追い出して正解だったぜ!」
自分の剣が死の淵にあることなど露ほども知らず、ガイルとロゼッタは下品な笑い声を響かせながら、地上へと引き返していった。
お読みいただきありがとうございます!
カイルの研ぎ技とセリアの一閃、そして鍛冶場メシはいかがでしたでしょうか?
次回、さらに物語が大きく動きます!
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