第009話:暖簾を掲げた『魔剣調律工房・ヴァーミリオン』
カン、カン、カンッ!
澄み切った秋の朝空の下、セリアが小さな木槌で真鍮の釘を打ち込み、新しく削り出した楢の一枚板の看板を工房の軒先へと掲げた。
看板には、バルトロ親方の鍛冶組合による「特認印」の焼き印とともに、俺がノミで彫った『魔剣調律工房・ヴァーミリオン』の文字が力強く刻まれている。
「よし、水平もバッチリだ。――今日からここが、俺たち三人の城になる」
俺が新しい藍染めの暖簾をくぐって外に出ると、脚立から降りたセリアが嬉しそうに頬を綻ばせた。
今朝のセリアは、工房の裏庭で白炭用の楢の丸太30本を『調律・黒鉄竜槍』の素振り代わりにスパスパと真っ二つに割り終えたばかりで、額に爽やかな汗を浮かべている。
その後ろでは、真新しい革表紙の帳簿を抱えたミアが、黒檀のそろばんをチャッと鳴らして俺の前に突き出した。
「看板は立派だけどね、カイル兄さん! おとといの鉄甲イノシシの報酬銀貨83枚から、工房の半年分の前払い家賃と、白炭30俵、それに氷晶トカゲの脂や研磨油の原料を買い込んだら、手元の運転資金はもう銀貨21枚しか残ってないのよ! 初日からじゃんじゃん稼いでもらわないと、来月のセリア姉さんのお肉代が消えるからね!」
「お、お肉代が消えるのは死活問題です……っ! カイル、私、大通りに出て呼び込みでも何でもします!」
セリアが慌てて黒鉄槍を握り直す。そのスカートの下で、黒鱗の尻尾が危機感からピンと突っ張っていた。
「落ち着けって。職人の店ってのは、最初から金持ちのA級冒険者が列をなすもんじゃない。まずは目の前の仕事で『刃に嘘をつかない』ことだ。本物の仕事をしていれば、鉄が勝手に客を呼んでくれる」
俺がそう言った矢先、工房の前の石畳を、一人の腰の曲がった老農夫と、見るからに懐の寂しそうな17歳くらいの新米D級冒険者の青年が、おずおずと歩いてきた。
「あのう……すまねえが、ここは何でも研いでくれる店かい? バルトロ親方の印があるから高えのかもしれねえが、この草刈り鎌、刃が欠けて冬の飼い葉が刈れなくてよ……銅貨5枚しかねえんだが……」
「お、俺も、この古道具屋で買った鉄のショートソード、赤錆だらけでゴブリンの皮すら切れなくて……銀貨1枚で、なんとかなりませんか?」
二人とも、申し訳なさそうに錆びた鎌と安物の鉄剣を差し出す。
ミアの眉がピクリと跳ね、俺の脇腹を肘でグイグイとつついた。
「ちょっと兄さん、銅貨5枚と銀貨1枚ですって! 砥石の減り代と白炭代を考えたら大赤字よ、丁重にお断りしてセリア姉さんと迷宮へ狩りに行った方が――」
「毎度あり。喜んで引き受けるぞ、じいさん、それに兄ちゃんも」
俺はミアの言葉を遮り、老農夫の草刈り鎌と、青年のショートソードを両手で丁寧に受け取った。
「30分待ってくれ。その間にミアが淹れた熱い番茶でも飲んで、炉の前で温まっててくれよ」
「えっ、銅貨5枚で引き受けてくれるのかい!? ありがてえ……!」
俺は作業台へと向かい、まず老農夫の草刈り鎌に442ヘルツの音叉を当てた。
安物の軟鉄に、薄い鋼を貼り合わせただけの農具だ。だが、長年このじいさんが畑で振るい続けてきた歴史が、柄の擦り減り方に刻まれている。
「じいさん、いつも右足を半歩前に出して、腰をひねって手前に引く刈り方をしてるな? それに、最近右手の握力が落ちてきて、引き終わりの最後3センチで刃先が下がって地面の小石を噛んでる」
「なっ……!? お、おう、なんで俺の畑仕事を見てたみてえに分かるんだ!?」
「刃こぼれの角度と、柄の親指の跡を見りゃ一発さ」
俺は1番目の荒砥『赤鬼(220番)』で小石を噛んだ欠けを綺麗に落とし、3番目の『白雲(1,200番)』と4番目の『黄昏巣板(3,200番)』を使って、鎌の曲線に沿った『刃角18度の片刃段差研ぎ』を施した。
ただツルツルに研ぐだけじゃない。4番目の砥石を当てる際、あえて刃筋に対して斜め35度の角度で微細な研ぎ目(小刃)を残すことで、硬い冬草の茎に刃が触れた瞬間にキュッと食い込む「草噛み刃」に仕上げる。
さらに、鎌の先端3センチの刃角をあえて22度に少しだけ鈍角化し、地面の小石に当たっても絶対に欠けないように逃がしを入れた。仕上げに、木の柄の根元を炉の蒸気で3分ほど蒸してから万力で曲げ、内側に2.5度傾けることで、握力が弱くても手首を引くだけで草の根元に刃が滑り込むよう重心を変えた。
続いて、新米冒険者の青年のショートソードだ。
音叉を当てると、「ビィィン……」と間延びした音が返ってくる。古道具屋で雨ざらしにされていたせいで、刀身が0.8ミリほど弓なりに反り、表面に赤錆が浮いている。
「兄ちゃん、この剣、見た目はボロいが、芯に使われてるのは15年前のカルデラ官営炉で打たれた良質な『高炭素鋼』だ。表面の赤錆を落として、反りを直してやれば見違えるほど化けるぞ」
俺は木槌と銅の当て板を使い、音叉の倍音を聴きながらコン、コン、と絶妙な力加減で刀身の0.8ミリの反りを完全な直線へと矯正した。
その上で、『黒鉄喰い(600番)』から5番目の天然砥『翠蓮華(6,500番)』までを駆け上がらせ、刃角15.5度の美しい蛤刃へと研ぎ上げる。
鹿革で砥泥を拭き取ると、赤錆だらけだった安物の鉄剣が、青白い光を帯びた優美な白銀の刃へと生まれ変わった。
「ほら、出来上がりだ。二人とも握ってみな」
「うわあっ……! こ、これ、本当に俺が銀貨3枚で買った古剣ですか!? 鏡みたいに俺の顔が映ってるし、振るだけでヒュッと風を切る音がする……!」
「お、おい、この鎌もなんだこりゃ! 持った瞬間に、手にピタッと張り付いて重さをまるで感じねえぞ!」
大喜びで銅貨5枚と銀貨1枚を置いて帰っていく二人を見送りながら、ミアが頬を膨らませて腕を組んだ。
「もう、銀貨1枚の仕事に6,500番の『翠蓮華』まで使っちゃうなんて、やっぱり兄さんは採算度外視の職人バカだわ! 今日の売上、たったの銀貨1枚と銅貨5枚よ!」
「種まきってのは、そういうもんだ。明日の朝を楽しみに待ってろ」
俺はニヤリと笑い、作業台の下から黒い布包みを引っ張り出した。
開業初日の今夜は、気合を入れた極上の『鍛冶場まかないメシ』で二人の労をねぎらうつもりだった。
白炭の炉の上に、磨き上げた厚さ3センチの『黒曜石プレート』を乗せ、じっくりと250度まで蓄熱させる。そこへ乗せるのは、今朝市場の肉屋のおっちゃんから「バルトロ親方の紹介なら」と特別に分けてもらった、厚さ2センチの『三年熟成・塩豚の厚切りバラ肉』と、朝採れの瑞々しい『春キャベツのざく切り』、それに輪切りにした大量のニンニクと赤唐辛子だ。
――ジュワアアアアアッ!!
黒曜石プレートに塩豚を乗せた瞬間、たまらない脂の弾ける音と、ニンニクが焦げる暴力的なまでの芳醇な香りが工房いっぱいに広がった。
黒曜石から放たれる遠赤外線が、塩豚の分厚い脂身をカリッカリの黄金色に焼き上げ、溶け出した旨味たっぷりのラードを春キャベツが1滴残らず吸い込んでいく。仕上げに粗挽きの黒胡椒をガリガリと挽き、香りづけの焦がし醤油をひと回しすれば、『熟成塩豚と春キャベツの黒胡椒ガーリック鉄板焼き』の完成だ。
「う、うわああああっ……! キャベツが豚の脂でツヤツヤに光ってます……!」
セリアが木皿を受け取るなり、熱々の塩豚とキャベツを一緒に頬張った。
シャキッ、ジュワァッ!と小気味よい音が響き、セリアの琥珀色の瞳が幸せそうに細まる。スカートの下で、黒鱗の尻尾がパタパタパタッ!と床の石畳を軽快に叩き鳴らした。
ミアも「んんっ! 塩豚の塩気と春キャベツの甘みが最高だわ! これなら明日からまた帳簿つけを頑張れるわね!」と炊きたての麦飯をかき込む。二人が競うように平らげるのを見て、俺は満足して眠りについた。
――そして、翌朝7時。
俺が工房の暖簾を出そうと扉を開けた瞬間、目の前の光景にミアが「ひゃあっ!?」と裏返った悲鳴を上げた。
「お、親方ァッ!! 店が開くのを待ってたぞォッ!!」
「カイルさん! 俺の仲間たちの剣も全部研いでください!!」
なんと、狭い水路脇の路地を埋め尽くすように、昨日の老農夫が連れてきた農具持ちの農民たち12人と、昨日のD級青年が連れてきた若手冒険者たち22人が、目を血走らせて長蛇の列を作っていた!
「親方、聞いてくれ! 昨日研いでもらったあの鎌で牧草地をひと撫でしたらよ、力を入れちゃいねえのに、硬い冬草が根元から10束いっぺんに『シャコン!』と気持ちよく刈り取れたんだ! 村の連中が腰を抜かして、銀貨2枚出すから全員分研いでくれって!」
「カイルさん! 俺のあの古剣、昨日の夕方地下5層で振ったら、ゴブリンリーダーが構えた『鉄の丸盾』を、剣ごとバターみたいに真っ二つに叩き斬ったんです! ギルドの詰所でその断面を見せたら、みんながどこで研いでもらったのかって大騒ぎになって……!」
ミアの琥珀色の目が、みるみるうちに「銀貨のマーク」へと変わった。
「え、ええっと、農具が12本で銀貨24枚、冒険者の剣が22本で1本銀貨4枚として……ひぃ、ふぅ、みぃ……午前中だけで銀貨112枚!? はいっ、1列に並んでくださーい! ただいま受付番号札を配りますからねーっ!!」
手のひらを返したように大張り切りでそろばんを弾き始めるミアと、列の整理に走るセリア。
だが、その賑やかな行列の最後尾に、一人の大柄な男が、深くひび割れた巨大な『鋼の大盾』を抱えて暗い顔で立っているのに、俺は気づいていた。




