第007話:隻眼の老鍛冶師と、槌に潜む3.2ミリの死神
「ひっ……! バ、バルトロ親方……!」
俺の隣を歩いていたミアが、工房の前に仁王立ちする隻眼の老ドワーフを見るなり、珍しく声を裏返らせて俺の背中の後ろへと隠れた。
「知り合いか、ミア」
「知り合いどころじゃないわよ! このカルデラの鍛冶職人200人を束ねる『カルデラ鍛冶組合』の組長、バルトロ・ガンツ親方よ! 30年前に迷宮の鉱石で名剣をいくつも打ち上げた伝説の鎚使いだけど、気難しくて人間嫌いで、半端な仕事をする職人はハンマー1発で街から叩き出すって有名な鬼親方なんだから!」
ミアが小声で早口に耳打ちする。
今年で54歳になるというバルトロは、白髪混じりの豊かな顎髭を揺らし、残った右目だけで俺の頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように睨みつけた。
分厚い革の前掛けには無数の火花焦げがあり、丸太のような両腕には火傷の痕と血管が浮き出ている。間違いなく、何十年も炉の前で鉄と向き合ってきた本物の職人の体つきだ。
「小僧、お前がカイルとかいう人間か。今朝、路地裏のゴロツキどもやギルドの解体場から妙な噂が耳に入ってきてな。『新しく越してきた若い人間が、炉で鉄を赤めもせず、ただ砥石で擦っただけの折れ槍で鉄甲イノシシを斬り捨てた』と」
バルトロの低い声は、まるで洞窟の底で岩が擦れ合うように重く響いた。
「このカルデラはな、汗と炭と鎚の音で鉄を鍛える街だ。王都から流れてきた口先だけの研ぎ屋が、小手先の誤魔化しで『魔剣調律』などと看板を掲げるのを、組長として黙って見過ごすわけにはいかん。――お前の仕事が本物か、それともただのイカサマか、わしの目の前で見せてみろ」
「いいだろう。ちょうど工房を開けるところだ、中に入ってくれ」
俺は臆することなく扉の鍵を開け、バルトロを工房の中へと招き入れた。
セリアが警戒して黒鉄槍の柄に手をかけようとしたのを、俺は目配せで制する。
工房の中へ入ったバルトロは、俺が昨夜使った作業台の上――まだ乾ききっていない『七段天然砥石』の並びと、ガラス管の中に溜まった黒紫色の『魔力澱』を一瞥し、わずかに片眉をピクリと動かした。
「……ほう。天然の黄昏巣板に、一番奥にある青白い石は……まさか地下47層の『蒼霞』か? 小僧、どこでそんな特級砥石を手に入れた」
「死んだ俺の師匠から受け継いだ商売道具だ。だが親方、あんたに俺の腕を見せるのに、セリアの槍を検分してもらう必要はない」
俺は作業台の前に立ち、バルトロの太い腰ベルトに吊るされている愛用の商売道具――頭部の重量が3.4キロある『ミスリル合金製の片手鍛造槌』を指差した。
「俺が診るのは、親方が腰に下げているその鍛造槌だ」
「なに……? わしの鎚がどうしたというんじゃ。これは20年前、わしが自分の片目を代償に炉の暴発を抑え込んで打ち上げた、わしの右腕そのものだぞ!」
バルトロの隻眼がカッと見開かれ、怒気で工房の空気がビリビリと震える。
だが俺は一歩も引かず、静かに、しかし断定する口調で告げた。
「いい鎚だ。長年の使い込みでヒッコリーの柄が親方の掌の形に馴染んでる。だがな親方――その鎚、このままあと15回本気で鉄床を叩けば、鎚の右側の角が内側から爆発するように弾け飛ぶぞ。その破片が跳ね返る角度は、ちょうど親方の残っている『右目』の高さだ」
「……貴様、わしの魂の鎚にケチをつける気かッ!!」
バルトロが激昂し、腰からミスリル鍛造槌を引き抜いて作業台の上にドォン!と叩き置いた。
「毎日欠かさず油を引き、表面の傷1つまで手入れしておるわしの鎚に、爆発するような欠陥があるだと!? もし出任せだったら、その両腕の骨をへし折ってカルデラからつまみ出してやるぞ!」
「出任せかどうかは、親方自身の耳で確かめな」
俺は懐から『純銀の基準音叉(442ヘルツ)』と『真鍮の聴診棒』を取り出した。
聴診棒の丸い先端をバルトロの右耳の軟骨に当てさせ、俺は音叉を膝で鳴らして、作業台に置かれたミスリル鍛造槌の頭部の「左側」に当てた。
――キィィィン……。
澄み切った442ヘルツの倍音が、ミスリル合金を伝わってバルトロの耳へと届く。
「これが正常なミスリル鋼の鳴りだ。次に、親方がいつも鋼材を叩く時に一番力がかかる『右側の角から3.2ミリ奥』の音を聴け」
俺は音叉を再び鳴らし、鎚の打撃面の右端から1.5センチ内側のポイントへピタリと押し当てた。
――キィ……ジリリッ、ブツッ……。
澄んでいたはずの金属音が、わずか1.8秒で濁った雑音に変わり、まるで砂袋を叩いたかのようにプツリと途切れた。
「なっ……!? な、なんじゃこの濁った音は……!? まるで中に空洞が……」
バルトロの血色の良かった顔から、見る間に血の気が引いていく。
「20年前に炉が暴発した時、親方が強引に焼き入れをしたせいで、表面から3.2ミリ深部の結晶粒界に『焼き入れ歪み(内部残留応力)』が閉じ込められたんだ。それに、親方は自分の魔力を鎚に込めて鍛造するタイプだろ? 20年間、毎日何千回と叩くうちに、その微細な歪みの隙間に『魔力澱』が溜まり続け、今では直径4ミリの高圧ガス溜まりみたいになってる。外見はピカピカでも、皮1枚下はいつ破裂してもおかしくない爆弾だ」
「ば、馬鹿な……わしが20年も気づかなかった内部の傷を、音叉1本で見抜いただと……!? し、しかし、内部3.2ミリの空洞と歪みなど、一度鎚を溶かして打ち直さん限り直せるわけが――」
「溶かす必要はない。俺が15分で『調律』してやるよ。ミア、炉のふいごをゆっくり3回だけ押せ!」
「えっ? あ、あいよっ!」
ミアが慌てて革ふいごの取っ手に飛びつく。
俺はバルトロの鍛造槌をヤットコで掴み、白炭の熾火から20センチ離した位置で、槌の右側だけをじっくりと140度まで温めた。
その上で、打撃面の角にあえて2番目の中荒砥『黒鉄喰い(600番)』を当て、表面の硬化層をわずか0.15ミリだけ斜めに削り落とす(面取り調律)。
そして、一番熱が集中した一点に純銀の音叉を強く押し当て、442ヘルツの倍音振動を内部3.2ミリの空洞へと直接叩き込んだ!
――ピシッ、プシュゥゥゥッ!!
削り落とした0.15ミリの極小の毛細管から、針の先ほどの黒紫色の煙(気化した魔力澱)が勢いよく噴き出し、それと同時にミスリル合金の内部応力が「カキン!」という澄んだ音を立てて解放された。
俺はすぐさまその打撃面を4番目の『黄昏巣板(3,200番)』と6番目の『月雫(9,800番)』で滑らかに鏡面仕上げし、最後にヒッコリーの柄の握り部分を小鉋で0.6ミリだけ削った。
「親方、半年前に左肩を少し痛めたろ? そのせいで、振り下ろす時に鎚の頭が0.8度だけ外側に傾くクセがついてる。柄の右側を0.6ミリ削って重心を補正しておいた。――ほら、そこの鉄床を軽く叩いてみな」
俺が差し出したミスリル鍛造槌を、バルトロは震える手で受け取った。
握った瞬間、老ドワーフの隻眼が信じられないものを見るように見開かれる。
「かるい……! 3.4キロあるはずの鎚が、まるで自分の拳の延長みたいに吸い付きおる……!」
バルトロは工房の中央にある古い鉄床の前に立ち、ミスリル鍛造槌を振り上げて、カーン!と一撃振り下ろした。
――カァァァァァァン……!!
先ほどまでの鈍い音が嘘のように、教会の大鐘を鳴らしたかのような澄み切った高音が工房の天井を突き抜け、水路の向こう側まで美しく響き渡った。
しかも、鉄床から跳ね返ってきた反動が、バルトロの痛めていた左肩に1ミリも負担をかけず、次の一撃を振り上げる力へと自然に変わっている。
バルトロは鉄床の上に鎚を置いたまま、しばらくの間、彫像のように動かなくなった。
やがて、鍛冶組合の鬼と恐れられた54歳の老ドワーフは、俺の方へと向き直ると――分厚い両膝を床につけ、額が地面に擦りつくほど深く頭を下げた。
「……わしの負けじゃ、カイル殿。いや、カイルマイスターと呼ばせてくれ。火も使わず、鉄の声を聴き、砥石と小鉋だけで20年の歪みを抜き去る職人がこの世におるとは……わしの50年の鍛冶人生、井の中の蛙じゃったわい!」
「頭を上げてくれよ、親方。俺は親方が打ったその鎚の地鉄が最高だったから、詰まってたゴミを掃除しただけだ」
「いや、命と右目を救われた恩は一生忘れん! 今日からこの工房は、わし『バルトロ・ガンツ』が後見人となって鍛冶組合の特認看板を出す! カルデラで貴殿の商売に文句をつける奴がおったら、わしがこの鎚で頭をかち割ってやるわい!」
ガハハハッ!と豪快に笑うバルトロ親方の横で、ミアが「う、嘘でしょ……あの鬼のバルトロ親方が、人間相手に土下座した……!?」と口をあんぐり開けて固まっていた。
こうして俺たちは、辺境都市カルデラでこれ以上ない最強の後ろ盾を手に入れた。




