第023話:神話を超える一撃と、静まり返る地下28層
音が、消えた。
セリアの放った『黒曜の牙』の切っ先が、炎獄竜の喉元に位置する「逆鱗」の0.3ミリの隙間に触れた瞬間、灼熱の地下28層からあらゆる騒音が吸い込まれたかのような錯覚が走った。
ガイルが「神代魔剣イグニス」を全力で叩きつけても傷一つ付かず、逆に剣の方を粉々に粉砕した、厚さ15センチを超える黒鉄結晶の竜鱗。
並の武器なら、0.3ミリの隙間に穂先を差し込んだところで、周囲の分厚い鱗の圧力に阻まれて途中で噛み止まるか、柄の根元からへし折れるのが関の山だ。
だが、カイルが研ぎ上げたその刃は違った。
超仕上げ天然砥石『蒼霞(14,000番)』と氷晶トカゲの乳化脂によって、金属の結晶粒界の乱れすら極限まで均された青白い鏡面。その摩擦係数は限りなくゼロに近い。
さらに、カイルがバルトロ親方の『星鉄の継手管』を用いて復元した槍の穂先には、肉眼では見えない「0.05ミリの微細波紋刃」が、1ミリあたり20本の密度で精巧に刻み込まれていた。
セリアが槍に竜人族特有の螺旋の魔力を流し込んだ瞬間。
キィィィィィィン……ッ!!
俺の懐にある442ヘルツの純銀音叉と完全に同調した、超高周波の金属共振が『黒曜の牙』の刀身全体を駆け抜けた。
かつてガイルたちが使っていた武器は、内部の魔力導管が燃えカスである魔力澱で詰まり、魔力の伝達効率が30パーセント以下にまで落ち込んでいた。
だが、俺が昨夜3時間かけて『翠蓮華(6,500番)』と『月雫(9,800番)』で導管の毛穴を1本残らず開口させ、さらに14,000番の『蒼霞』で仕上げたこの黒竜鋼は、セリアの魔力を99.8パーセントの純度で切っ先へと集中させる。
0.05ミリの微細波紋が、1秒間に数千回の微細振動となって竜鱗の結晶構造(劈開面)を内側から直撃する。硬すぎる鉱物や装甲ほど、固有振動数と一致した衝撃波を内部から叩き込まれれば、ガラス細工のように脆く自己崩壊を起こす。
ピシッ、ピシピシピシィッ!!
炎獄竜の喉元の逆鱗を中心に、半径2メートルの分厚い黒鉄鱗に無数の白い亀裂が蜘蛛の巣状に走った。
抵抗を完全に失った『黒曜の牙』の穂先は、熱した銀ナイフが冷えたバターを貫くように、全長2.15メートルの半分以上――1.2メートルの深さまで、摩擦音一つ立てずにズブリと炎獄竜の胸腔深部へと沈み込んだ。
切っ先が捉えたのは、竜の生命活動の源である摂氏1,400度の『魔力炉心』のど真ん中だ。
そして、0.5秒の静寂の後。
ドゴォォォォォンッ!!
遅れてやってきた超音速の衝撃波と、内部から共振粉砕された魔力炉心の暴発音が、地下28層の岩盤全体を激しく揺さぶった。
灼熱の爆風が吹き荒れ、観戦結界の後方にいた記録官たちの羽根ペンと帽子が宙へ吹き飛ぶ。泥水に這いつくばっていたガイルとロゼッタ、ダリオとヴェインの四人は、その風圧だけで枯れ葉のように3メートル後ろまでゴロゴロと転がされた。
「ぐ、ぎゃああああ……っ!?」
断末魔の咆哮すら、喉の魔力導管を完全に断ち切られた炎獄竜には許されなかった。
セリアが空中で華麗に身体をひねり、右腕の手首を15度返して『黒曜の牙』をスッと引き抜く。
着地した彼女の背後で、全長16メートル、推定重量28トンを超える迷宮深層の支配者が、ゆっくりと傾き――ズズゥゥゥンッ!と凄まじい地響きを立てて溶岩の川縁へと崩れ落ち、二度と動かなくなった。
パラパラ……と、天井から剥がれた小石が地面に落ちる音だけが響く。
セリアは立ち上がり、右手の黒鉄竜槍を軽く一振りした。
シュン、と空気を切る涼やかな音が鳴る。
驚くべきことに、竜の心臓部を貫き通したはずの穂先には、赤黒い血のりも、焦げた脂の1滴すらこびりついていなかった。14,000番の鏡面仕上げが持つ究極の撥水・撥油性が、引き抜く瞬間の風圧だけで汚物をすべて弾き飛ばしていた。
溶岩の赤い光を反射し、槍の刃がまるで澄み切った氷の刃のように青白く輝いている。
それどころか、14,000番『蒼霞』で極限まで磨き上げられたその穂先には、背後で崩れ落ちた全長16メートルの炎獄竜の巨体と、赤く燃える溶岩の川が、絵画のように鮮明なコントラストで映し出されていた。
1秒。2秒。3秒。
地下28層の戦場も、そして魔導投影機を通じてその光景を見つめていたカルデラ市街の広場も、水を打ったような絶対の静寂に包まれていた。
誰も息をしていなかった。いや、目の前で起きた物理現象が理解できず、脳が思考を停止させていた。
王都から来た特命監査官の手から、記録用の羊皮紙バインダーがパタリと床に落ちる。
バルトロ親方ですら、咥えていた火の消えたパイプをポロリと落としたまま、隻眼を見開いてセリアの立ち姿に釘付けになっていた。
王都最強と謳われたS級パーティー『紅蓮の覇剣』が、四人がかりで手も足も出ず、神代魔剣まで粉々に砕かれて逃げ惑った災害指定魔獣。
それを、辺境の無名工房の看板を背負った半竜人の少女が、たった一突き――時間にしてわずか0.8秒の踏み込みと抜刀だけで、無傷のまま一撃で葬り去った。
しかも、セリアがまとっているのは高価なミスリル鎧でもなければ、派手な付与魔術でもない。カイルが研ぎ澄ませた1本の槍と、彼女の身体に100パーセント寄り添うように調律された0.01ミリの職人技だけだった。
「……き、消えた? いや、貫いたのか……!?」
観戦結界の中で、最初に声を絞り出したのはカルデラ辺境伯だった。
その呟きが引き金となった。
「う、うおおおおおおおおおっ!!」
「やった! 一撃だ! 炎獄竜を一突きで沈めやがったぞぉぉっ!!」
「見たか今の! ゴードンの盾がブレスを弾いて、あの竜人のお嬢ちゃんの槍が光みたいに突き刺さったぞ!」
地下28層の護衛騎士団と冒険者たちから、天井が崩れ落ちんばかりの歓声と指笛が爆発した。
同時に、魔導投影機のスピーカーからも、地上のカルデラ広場で観戦していた数千人の市民や職人たちの「ヴァーミリオン工房!」「黒鉄の竜槍姫!」という地鳴りのような大喝采が、ビリビリと空気を震わせて流れ込んでくる。
「がっ……あ、うそ、だろ……?」
泥と灰にまみれて尻餅をついたまま、ガイルが口を半開きにして震えていた。
火傷で水膨れになった自分の右手と、足元に散らばる『紅蓮魔剣』の赤錆びた破片。そして、そのすぐ横を歩いてくるセリアの、傷一つない美しい鏡面の槍。
ガイルのすぐ脇を通り過ぎる際、セリアは彼らを一瞥だにしなかった。まるで道端に転がる石ころを見るような冷淡さですらなく、そもそも視界にすら入っていないかのように、真っ直ぐに俺の前へと歩み寄ってきた。
カツン、と槍の石突を岩場に立て、セリアが琥珀色の瞳を真っ直ぐに俺へ向ける。
戦闘の興奮でほんのりと桜色に染まった頬。スカートの下から伸びる黒鱗の尻尾が、誇らしげに、そしてどこか褒めてほしそうに、パタ、パタ、と小さく空気を揺らしていた。
「カイル。あなたの言った通り、第4鱗の隙間は0.3ミリでした。右腕の震えも、刃こぼれもゼロです。――調律通り、討伐完了しました、マイスター」
凛とした声で報告し、セリアが深く頭を下げる。
俺は彼女の手から『黒曜の牙』を受け取り、穂先を目の高さにかざして刃線をチェックした。
14.2度の刃角には、0.001ミリの歪みも、微細なチッピング(欠け)すら見当たらない。純銀の音叉を柄の根元に当ててみると、「キィィィン……」と442ヘルツの澄み切った倍音が、8秒以上も美しく伸びやかに響き続けた。
「……ああ、上出来だ、セリア。お前の踏み込みが0.1秒でも遅れてたら、鱗が閉じて刃が噛むところだった。俺の砥石の腕に、お前の槍捌きが100パーセント応えてくれたおかげだ」
俺が照れ隠しに耳の穴を小指でポリポリと掻きながら槍を返すと、セリアの尻尾が「パタパタパタッ!」と一気に高速で揺れ、彼女の顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
「ちょ、ちょっとあんたたち! イチャついてる場合じゃないわよ! この炎獄竜の魔核と逆鱗、傷なしで討伐したから特S級査定よ! そろばんの桁が足りないわよぉぉ!」
ミアが目を黄金色に輝かせながら駆け寄ってきて、その後ろからバルトロ親方が腹を抱えて豪快に笑いながらやってくる。
ゴードンやリィンたちも加わり、俺たちの周りには温かい笑いと勝利の熱気が渦巻いていた。
だが、その歓喜の輪の外側――冷たい岩場の隅で。
すべてを失った元S級パーティーの四人に、逃れられない断罪の時間が迫っていた。




