第022話:調律匠の号令と、黒鉄竜槍姫の超音速抜刀
「ぎゃあああっ! よ、寄るな! 来るなぁぁっ!」
地下28層の灼熱の岩場に、元S級リーダー・ガイルの裏返った悲鳴が木霊した。
硫黄と焦げた肉の臭いが充満する空気が、摂氏65度を超えて陽炎のように揺らめいている。溶岩脈から立ち昇る赤黒い照り返しの中、全長16メートルの『炎獄竜』が、溶けた銅のような双眸をギラつかせて大きく顎を開いた。
その喉の奥で、白熱したマグマの塊がゴボゴボと不気味な音を立てて膨れ上がっていく。
「うわあああ! ロゼッタ、結界を張れ! 早くしろ!」
「む、無理よ! 杖の魔石が割れてるのよ!? あんたが盾になりなさいよ、公爵家の騎士なんでしょう!?」
「ふざけるな、俺の剣は折れたんだぞ! おいダリオ、ヴェイン! お前らが前に出ろ!」
「嫌だぁぁ! 右肩が外れて動かねえんだよぉ!」
泥と自分の小便でズボンを濡らしたガイルが、愛人であるはずのロゼッタの髪を掴んで盾にしようと引きずり回し、ダリオとヴェインが四つん這いで岩陰へと逃げ惑う。
魔導投影機(遠隔中継器)のレンズが、その醜悪な泥仕合を余すところなく捉え、カルデラ市街の中央広場へと映し出していた。
観戦結界の後方で、カルデラ辺境伯が血の気を失った顔で立ち上がり、軍配を振り上げようとする。
「もはやこれまでか……! 総員、緊急退避――」
「待ってください、辺境伯閣下。まだ退避の銅鑼を鳴らすには早すぎますよ」
俺――カイルは、一歩前に出ると、首筋の汗を親指の腹で拭いながら声をかけた。
足元には、ガイルの『紅蓮魔剣イグニス』の錆びついた破片が転がっている。俺はそれを革靴のつま先で脇へと蹴り退け、隣で静かに息を整えている銀黒髪の少女――セリアの肩をポンと軽く叩いた。
「セリア。うちの工房の看板に、これ以上泥を塗らせるわけにはいかないよな」
セリアの側頭部に生えた黒曜石の竜角が、溶岩の光を浴びて艶やかに煌めいた。
かつて路地裏で泥水をすすり、右腕の『0.4秒の魔力痙攣』に怯えて泣いていた少女の面影は、そこには微塵もない。
彼女は、俺が昨夜遅くまで14,000番の超仕上げ砥『蒼霞』で研ぎ上げた全長2.15メートルの黒鉄竜槍――『黒曜の牙』の柄を、白い包帯の巻かれた右手で滑らかに握り直した。
「ええ、カイル。――私の調律匠の腕前を、あのトカゲと王都の連中に教えてやります。1秒で片付けます」
「よし。ミア、耳を塞いでおけ。バルトロ親方、後の証明は頼みますぜ」
「へっ、誰に口を利いてやがる! さっさとあのデカブツの皮を剥いでこい、小僧!」
隻眼のバルトロ親方がニヤリと口の端を吊り上げ、ミアが「死んだら未回収の経費、あんたの遺産からぶんどるからね!」と叫びながら革エプロンの裾を握りしめた。
俺は懐から、長さ12センチの『純銀の基準音叉(442ヘルツ)』と、真鍮の聴診棒を引き抜いた。
親指の腹にある硬い砥石ダコで音叉の根元を弾き、聴診棒の先端を足元の玄武岩の岩盤へと押し当てる。反対側の端を自分の右の奥歯でガチリと噛み締めた。
骨伝導を通じて、地下28層の地脈の微細な震えと、炎獄竜の巨体が岩盤に伝える重低音のノイズが、俺の頭蓋骨の内部へと直接流れ込んでくる。
炎獄竜の喉元が限界まで膨張し、周囲の酸素が一気に吸い込まれて気圧が下がる。鼓膜がツンと痛むほどの負圧だ。
ブレスが来る。
だが、慌てる必要はない。あの巨大なトカゲが火炎を吐き出す直前、胸腔の魔力炉心がどの周波数で脈動し、どの筋肉が収縮し、喉元のどの鱗が何ミリ浮き上がるか――その「生体と金属結晶の摩擦音」はすべて、442ヘルツの基準音とのズレとして俺の耳に届いている。
「ゴードン! 前へ出ろ!」
俺の号令に、後方待機組にいた中堅B級パーティー『灰色の砦』の盾役・ゴードンが、「おうっ!」と野太い咆哮を上げてガイルたちの前へと躍り出た。
彼がその丸太のような太い両腕に構えるのは、俺が先日『翠蓮華(6,500番)』と『月雫(9,800番)』で流体受け流し鏡面へと調律し直した、厚さ18ミリ、重さ34キロの黒鋼の大盾だ。
裏側の持ち手は、ゴードンの左肩の古傷と手首の回内角度に合わせ、樫の添え木を0.4ミリ単位で削り出して完璧にフィットさせてある。
「ま、待てゴードン! そんなB級の安物盾で、炎獄竜のブレスを受け止められるわけが――」
王都の特命監査官が制止しようと叫ぶ。
しかし、俺は音叉をもう一度岩盤に打ち鳴らし、空気の熱膨張率とブレスの射出初速、そして大盾の表面曲率を瞬時に頭の中で弾き出した。
「真正面から受けるな、ゴードン! 左足を靴半足分引いて、重心をへその下3センチに落とせ! 傾斜角2.4度の鏡面大盾を、仰角38度で固定しろ! 衝撃の82パーセントは斜め上に滑って逃げる、残りの18パーセントだけ奥歯を噛み締めて脚の骨で耐えろ!」
「任せろ、親方ァァッ! お前が研いでくれたこの盾なら、地獄の業火だろうが弾き返してやるぜぇっ!」
ゴードンが岩場に鉄靴の踵を食い込ませ、大盾を斜め38度の角度でピタリと静止させた。
その0.2秒後。
グオオオオオォォォン!!
炎獄竜の顎から、直径3メートルを超える摂氏1,200度の白熱火炎奔流が吐き出された。
大気を焼き焦がす圧倒的な熱量と運動エネルギーが、ゴードンの大盾へと直撃する。ガイルとロゼッタが「死ぬぅぅっ!」と頭を抱えて地面に突っ伏した。
だが――大盾は砕けなかった。
俺が6,500番の天然砥石で0.01ミリの凹凸すら消し去り、氷晶トカゲの乳化脂で磨き上げた2.4度の傾斜鏡面は、超高熱の火炎流体に対して「摩擦ゼロの滑り台」として機能した。
キィィィィンッ!!
甲高い金属の共鳴音が響き渡り、1,200度の火炎ブレスは盾の表面を一切焦がすことなく、計算通り斜め上空45度の岩盤天井へと綺麗に全反射した!
まるで巨大な鏡が太陽のレーザーを跳ね返したかのように、白熱する炎の柱がL字型に折れ曲がって天井を直撃し、鍾乳石が赤いガラスの雨となって溶け落ちる。
その凄まじい光の奔流のど真ん中で、ゴードンの足元の岩盤が3センチ沈み込んだだけで、彼の身体は微動だにしていない。それどころか、ブレスが滑り抜けた後の『鏡面大盾』の表面には煤ひとつ付着しておらず、ゴードンの獰猛に笑う顔が青白く映り込んでいた。
「なっ……!? ブレスを、ただの鋼の盾で跳ね返しただと!?」
「う、嘘だろう!? 魔法の防御障壁もなしに、物理の角度と表面の滑らかさだけで1,200度の竜の息吹を滑らせたのか!?」
監査官と辺境伯が驚愕に目を見開いて椅子から立ち上がる。
地面に突っ伏していたガイルも、顔を上げてその光景を目撃し、「ば、馬鹿な……俺のミスリル胸当てを一瞬で溶かした熱波だぞ!? なんであんなB級のおっさんの鉄盾が無傷なんだよ!?」と信じられないものを見るように叫んだ。
そして、火炎を吐ききった炎獄竜が、反動で首をわずかにもたげた瞬間――そこに、絶対的な『0.8秒の空白』が生まれた。
「今だ、セリア! 喉元から数えて第4鱗の左端! ブレスの熱膨張で、鱗の噛み合わせに0.3ミリの隙間が開いてやがる! 角度14.2度、そのまま捻じ込め!」
「――はいっ!」
ゴードンの大盾の陰から、銀黒の閃光が飛び出した。
双剣使いのリィンが左右非対称の短剣で足元の溶岩トカゲ2頭の腱を瞬時に断ち切り、セリアの走路を完全にクリアにする。
セリアが地面を蹴った。
その瞬間、セリアの視界から、周囲の溶岩の光も、泣き叫ぶガイルたちの姿も、歓声も、すべてが消え失せた。
死線を越える武人だけが到達する、極度の視野狭窄。
彼女の琥珀色の瞳に映っているのは、遥か頭上にある炎獄竜の喉元――赤黒く脈動する第4鱗の、髪の毛数本分しかない『0.3ミリの隙間』ただ一点だけだった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
かつての彼女なら、ここで右腕の橈骨神経に古傷の魔力痙攣が走り、穂先が数センチ狂っていたはずだ。
だが今、彼女の右手が握る樫の柄には、カイルが0.1ミリ鉋で削り出した吸いつくようなグリップと、彼女の震えの周期を完全に相殺する3.6グラムの鉛のカウンターウェイトが埋め込まれている。
2.15メートルの黒竜鋼の槍が、まるで生まれつき自分の右腕から生えていた骨の延長であるかのように、重さを感じさせない。
――軽い。カイルが研いでくれたこの刃なら、星だって貫ける!
セリアは息を止め、全身のバネを右肩の一点へと集約させた。
岩場を蹴り砕き、砲弾のように宙へ舞い上がる。
引かれた右腕から、青白い鏡面の穂先が――音速の壁を突破して突き出された。
パァンッ!!
大気が断熱圧縮されて爆ぜる白い円錐状の雲を纏いながら、14,000番『蒼霞』で研ぎ澄まされた刃角14.2度の切っ先が、炎獄竜の喉元、0.3ミリの隙間へと寸分の狂いもなく吸い込まれていった。




