第002話:赤錆の辺境都市と、路地裏の折れた竜槍姫
乗合荷馬車の硬い荷台で、藁の匂いと車輪の軋む音に揺られること4日間。
北の鉱山都市『カルデラ』の巨大な赤鉄門をくぐった瞬間、鼻腔を突いたのは、コークスが燃える独特の硫黄臭と、湿った赤錆の匂いだった。
「ふぅ……ようやく着いたか。尻の皮が3ミリくらい擦り切れた気分だぜ」
俺は42キロの砥石箱を背負ったまま荷台から飛び降り、固まった腰の骨をボキボキと鳴らした。
見上げるカルデラの街並みは、王都のような白亜の優美さとは無縁だ。火山灰を練り込んだ灰色の石造りの建物が並び、あちこちの屋根から突き出た煙突が、鍛冶炉の黒煙を低い曇り空へと吐き出している。
大通りを行き交うのは、煤で顔を黒く汚したドワーフの職人や、分厚い革鎧に重装備を括り付けた荒くれ者の冒険者ばかり。誰もが実用一点張りの無骨な得物を腰に下げていた。
――悪くない。少なくとも、剣の鞘に宝石を埋め込んで喜んでいるような連中はここにはいなさそうだ。
俺は安宿と空き工房の貼り紙を探しながら、大通りから1本外れた鍛冶屋街の裏路地へと足を踏み入れた。
石畳の溝には、鍛冶屋が焼き入れに使った後の鉄臭い排水がチョロチョロと流れている。
その路地の突き当たり、潰れた古道具屋の軒下を通りかかった時だった。
「――だから言ってんだろうが、この『壊れもんのトカゲ女』が! 銀貨2枚でその折れた槍を置いていけってんだよ!」
濁った怒声とともに、ガシャン、と重い金属が石畳を滑る音が響いた。
足を止めて視線を向けると、腹の出た中年の武器商人と、その用心棒らしき大剣背負いのゴロツキ冒険者が二人、路地の隅にうずくまる小柄な人影を取り囲んでいた。
「い、いやだ……っ。これだけは、売れない……! 父さんから受け継いだ、私の……!」
泥水を被った麻の外套の下から見えたのは、銀色がかった長い黒髪と、側頭部の髪をかき分けるように生えた、小さな黒曜石のような二本の竜角だった。
半竜人の少女だ。年齢は19歳前後だろうか。
引き締まった長い脚をしているが、着ている革鎧はあちこちの留め具が千切れ、飢えのせいか白い頬が痛々しいほどにこけている。
それでも彼女の琥珀色の瞳だけは、手負いの獣のように鋭い光を宿し、自分の胸元に抱きしめた「穂先の折れた黒鉄の槍」を必死に守っていた。
だが、槍を握る彼女の右腕が――まるで目に見えない電流でも流れているかのように、0.4秒間隔で不規則にカタカタと痙攣しているのが、俺の目にははっきりと見えた。
「けっ、まだ自分がA級冒険者の『銀翼の戦乙女』だった頃のつもりかよ、セリア!」
用心棒のゴロツキが、泥のついた革靴でセリアの折れた槍の柄を乱暴に踏みつけた。
ミシッ、と樫の柄が悲鳴を上げ、それを離すまいとしたセリアの細い指先が石畳に擦れて血が滲む。
「半年前の魔竜討伐で槍をへし折られて、右腕が勝手に震える呪いを受けた役立たずだろうが! 今じゃどこのパーティーからも門前払い、宿代も払えずに路地裏で泥水をすすってるくせに、生意気な目をしやがって! その穂先の『黒竜鋼』、溶かして釘にでもすりゃあ銀貨10枚にはなるんだ。さっさと手を離せ!」
「う、あぁ……っ!」
ゴロツキが体重をかけてブーツの踵をぐりぐりと捻る。
セリアの右腕が激しく痙攣し、力が抜けて指が剥がれそうになった、その瞬間。
――キィィィン……。
俺が無造作に投げた1本の『純銀の基準音叉』が、ゴロツキのブーツのすぐ脇、折れた黒鉄槍の穂先に当たって澄んだ高音を響かせた。
「……あん? なんだテメエは」
ゴロツキ二人がギロリと俺を睨みつける。
俺は返事もせず、彼らの間をすり抜けてしゃがみ込むと、地面に落ちた音叉を拾い上げ、もう一度だけ折れた槍の断面にコツンと当てた。
真鍮の聴診棒の端を自分の奥歯に当て、骨伝導で返ってくる442ヘルツの倍音に意識を集中する。
――7.2秒。減衰なし。
表面は赤錆と乾いた血脂で黒く汚れ、穂先から18センチのところで無残に折れている。
だが、その奥にある芯材の『黒竜鋼』は、澄み切った冬の湖面のような、一切の濁りもない美しい共鳴音を返してきた。
「おい待て、この鋼の鳴り方……たまらんな。鍛造した職人の火入れが完璧だ。表面の魔力導管が逆流で少し焦げてるだけで、芯は1ミリも死んでねえぞ」
俺が思わず独り言を漏らしながら、爪先で折れた断面の結晶粒をなぞっていると、頭上からゴロツキの怒声が降ってきた。
「おいコラ、無視してんじゃねえぞ貧乏人が! その鉄くずは俺たちが先にツバをつけたんだ、邪魔するならテメエの頭からかち割って――」
ゴロツキが背中の大剣を抜こうと柄に手をかけた。
俺はしゃがんだまま、視線だけをそいつの腰元から大剣の鍔元へと滑らせた。
「抜かない方がいいぞ、その大剣。柄の目釘が湿気で腐って0.5ミリ浮いてる。おまけに、中砥も飛ばして荒砥の200番あたりで雑に削ったせいで、刃先から4センチのところに焼き戻し不良のヒビが入ってる」
「はぁ!? 何をごちゃごちゃ抜かしてやがる、死ねッ!」
ゴロツキが聞く耳も持たず、力任せに大剣を振り上げた、その直後だった。
遠心力がかかった瞬間、俺が指摘した通り、腐った目釘が「パキッ」と乾いた音を立てて弾け飛んだ。
次の瞬間、柄からすっぽ抜けた重さ4キロの鋼の刀身が、ゴロツキ自身の頭上へクルクルと回転しながら舞い上がり――すぐ後ろに立っていた武器商人の荷車の幌を真っ二つに引き裂いて、商品の鉄兜の山へドガシャァン!と突き刺さった。
「ひぃぃっ!? お、俺の商品がぁっ! てめえボルグ、なんて下手くそな振り方をしてやがる!」
「お、俺じゃねえ! 今、勝手に剣の柄が抜けて……!」
手の中に木の柄だけを残して呆然とするゴロツキ。
俺はゆっくりと立ち上がり、もう一人のゴロツキが構えている短槍を指差した。
「そっちの短槍も、穂先のソケットに赤錆が噛んで3度ほど右に曲がってるな。そのまま突けば、自分の右手首の腱を捻挫するぞ。試してみるか?」
「う、うわあああっ! なんだこいつ、気色悪い目をしてやがる! 行くぞ、こんなボロ槍なんざくれてやる!」
武器商人とゴロツキ二人は、壊れた荷車を引っ張りながら、脱兎のごとく路地の奥へと逃げ去っていった。
騒がしかった路地裏に、再び鍛冶屋の煙突から漏れる蒸気音と、冷たい風の音だけが戻る。
「……怪我はないか」
俺が振り返って手を差し伸べると、セリアはハッと肩を跳ねさせ、折れた黒鉄槍を胸に抱いたまま、背中を石壁に押し付けるようにして後ずさった。
「ち、近寄るな……っ! あんたも、どうせこの槍の『黒竜鋼』が目当てなんだろう! それとも、呪いで右腕が震える半竜人がそんなに珍しいか……!」
威嚇するように小さな白い犬歯を剥き出しにするセリア。
その右腕は、先ほどよりも激しい0.4秒周期の痙攣を繰り返し、槍の柄がカタカタと音を立てている。
だが、その必死の威嚇の直後だった。
――ぐぅぅぅぅぅっ……。
静まり返った路地裏に、驚くほど盛大で、情けない腹の虫の音が響き渡った。
セリアの白い頬から、側頭部の竜角の根元までが、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まる。彼女は自分の腹の音をごまかそうとするかのように、折れた槍の石突で石畳をガンガン!と不器用に突き鳴らした。
「な、今の音は違う! 石畳の下の水脈が鳴っただけだ! 断じて私の腹ではない……っ!」
「……水脈が『ぐぅ』なんて鳴るかよ。何日まともな飯を食ってないんだ、お前」
俺は呆れて息を吐き、懐の革袋から、荷馬車の中で食べ残していた『塩漬け鹿肉の干し肉』を1本取り出して、彼女の膝の上へと放り投げた。
セリアはビクッと身をすくめたが、鼻先をくすぐる燻製肉と黒胡椒の香ばしい匂いに、琥珀色の瞳が吸い寄せられるように揺れる。喉仏がゴクリと上下し、やがて彼女は観念したように干し肉を掴むと、小動物みたいに両手で持って端からガツガツと噛みちぎった。
「……んぐっ……う、うまい……っ。塩気が、五臓六腑に染みる……」
ポロポロと目尻に小さな涙を浮かべながら、あっという間に干し肉を平らげる半竜人の少女。
俺はその横で、彼女が膝の上に置いた黒鉄槍と、震える彼女の右腕の手首をじっと観察した。
人差し指の付け根にあるタコの厚み。前腕の橈骨筋の張り方。そして、槍の折れた断面からかすかに漂う、焦げたオゾンのような魔力臭。
頭の中で、すべてのパズルのピースがカチリと音を立てて噛み合った。
「おい、セリアと言ったか。お前、その右腕の震えを『魔竜の呪い』だと思ってるのか?」
「……え? あ、ああ。王都の神殿でも、この街の治癒師にもそう言われた。魔竜の返り血を浴びたせいで神経が腐っているから、金貨50枚の特級解呪を受けない限り、二度と槍は握れないと……」
セリアが自分の震える右手を左手で強く押さえ込み、悔しそうに唇を噛む。
俺は首筋をポリポリと掻き、ぶっきらぼうに言い放った。
「ヤブ医者どもの言うことを真に受けるな。お前のその右腕も、その黒鉄の槍も、まだ1ミリも壊れちゃいねえよ」
「……なっ……!?」
セリアが弾かれたように顔を上げた。
「いいか、俺の名前はカイル。しがない『武具研ぎ師』だ。ちょうど今から、この街の外れにある空き工房を借りて炉に火を入れる。――腹いっぱい温かい飯を食わせてやるから、その槍を持って俺についてこい」




