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第001話:泥濘の追放と、442ヘルツの不協和音

「おいカイル。お前、今日限りでこの『紅蓮の覇剣』からクビだ。ただ剣を石で擦ってるだけの雑用係に、これ以上分け前を払う余裕はないんだよ」


 冷たい秋雨が石畳を叩く王都の路地裏で、リーダーのガイルは鼻で笑いながらそう言い放った。

 10月の夕暮れの空気は、馬糞の混じった泥水と、濡れた犬の毛皮のような生臭い湿気を帯びている。パーティー宿舎の裏口から漏れる暖炉の薪の匂いと、ロースト肉の脂の香りだけが、やけに遠く感じられた。


「……雑用係、か」


 俺――カイルは、雨粒が伝う前髪を指の甲で拭い、目の前に立つ男を見上げた。

 拭った指の関節は、長年の水仕事でひび割れ、爪の間にはどれだけ洗っても落ちない黒鉄の研ぎ粉と油が黒く染み込んでいる。

 対する24歳のガイルは、公爵家の三男坊という後ろ盾と、神代遺物『紅蓮魔剣イグニス』の威光を笠に着て、わずか2年でS級冒険者へと駆け上がった男だ。着ている白銀のミスリル胸当てには泥一つなく、真紅のマントには金糸の刺繍が施されている。奴の白い指には、剣ダコ一つ満足にできていない。

 その隣では、パーティーの金庫番を務める付与魔術師のロゼッタが、むせ返るほど強い薔薇の香水を撒き散らしながら、俺の足元にある背負い木箱を汚物でも見るような目で見下ろしていた。


「当然でしょう? あんたが毎月請求してくる『砥石代』と『研磨油代』、先月だけで3万2,000ゴールドよ。ただの河原の石ころとトカゲの脂に、なんでそんな大金がかかるのよ。馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわ」


 ロゼッタが真っ赤に塗った爪先で、自分の手首にはめた金の腕輪をチャラチャラと鳴らす。その細工物の腕輪が、先月俺が請求した天然砥石の代金とほぼ同額であることに、彼女は隠す素振りすら見せない。


「ロゼッタ、あれは河原の石じゃない。迷宮の地下40層以深でしか採れない天然の巣板(すいた)砥石と、魔力導管の熱を逃がすための氷晶トカゲの澄まし脂だ。それを使わずにガイルの『紅蓮魔剣』や、ダリオの大斧を研げば、金属内部に溜まった『魔力澱(まりょくおり)』が抜けきらずに刃が死ぬ。それに――」


 俺は懐から、油紙で厳重に包んだ羊皮紙の束を取り出した。

 羊皮紙をつまむ俺の親指の腹には、10年間毎日欠かさず砥石を握り続けてできた、石のように硬く黄色いタコが盛り上がっている。爪の甘皮はささくれ立ち、砥石の角で削れた古い傷痕が幾重にも重なっていた。


「先月からロゼッタが『経費の決済が遅れている』と言うから、俺の個人貯金から立て替えていた特殊砥石と、ガイルの剣の柄に仕込む緩衝真鍮材の代金――合計37万8,000ゴールドがまだ未払いだ。クビにするなら構わないが、この立替金だけはきっちり払ってもらうぞ」


「あぁ? 立替金だと?」


 ガイルの後ろから、重戦士のダリオと斥候のヴェインが下卑た笑いを浮かべて歩み出てきた。身長1.9メートルを超えるダリオが、泥のついた革ブーツで俺の背負い木箱を乱暴に蹴り飛ばす。

 ガシャン、と鈍い音がして、総重量42キロの木箱が泥水の中へ横倒しになった。


「おいおいカイル、寝言は寝て言えよ。お前が勝手に石ころを買って、夜な夜な俺たちの武器を撫でてただけだろうが! 頼んでもいねえ趣味の請求書なんざ、払う義理がどこにあるんだよ」


「そうだそうだ。だいたい、俺たちの攻撃力が上がったのは、俺たちのレベルが上がって、ロゼッタ姉さんの『硬化付与(ハードニング)』が極まったからだ。戦闘中に後ろで荷物番をしてるだけの無能が、S級パーティーの功績にタダ乗りしようって方が虫が良すぎるぜ」


 ヴェインがぺっと石畳に唾を吐き捨て、俺が差し出した羊皮紙の束を指先で弾き飛ばした。

 領収書の束が茶色い水たまりに落ち、泥水がインクの文字をじわじわと滲ませていく。

 俺は何も言わず、泥水の中に膝をついて背負い木箱を起こした。冷たい泥がズボンの布地を突き抜けて、膝の皿を氷のように冷やす。

 木箱の真鍮の留め具を開け、中に収められた7つの天然砥石を確認する。鹿革と油布で三重に包んであったおかげで、命の次に大切な14,000番の超仕上げ砥『蒼霞(あおがすみ)』には、泥一滴すら染み込んでいなかった。

 それだけを確かめてから、俺はゆっくりと立ち上がった。


「……本当に、俺の手入れがいらないんだな、ガイル」


「くどい! 俺の『紅蓮魔剣イグニス』は神代の不壊武具だぞ。今朝からロゼッタに頼んで、表面に特級の『硬化付与』を2重に掛けてもらった。刃こぼれ1つしなくなったわ! 貴様みたいな泥臭い研ぎ師の時代は終わったんだよ!」


 ガイルが誇らしげに腰の鞘を拳で叩いた。

 チャリン、と黄金の鍔(つば)が鳴る。

 だが、その瞬間――俺の鼓膜の奥が、嫌な虫歯を錆びた針で突かれたように鋭く疼いた。


 雨粒がガイルの豪華な金細工の鞘に当たり、その表面で不規則に歪んだ細かい波紋を弾けさせている。

 普通の人間の耳には、今の音はただの景気の良い金属音にしか聞こえないだろう。

 しかし、毎日3時間、純銀の基準音叉と真鍮の聴診棒を使ってあの剣の「脈拍」を聴き続けてきた俺の耳には、鞘の奥から漏れる微細な金属の悲鳴がはっきりと聞こえていた。

 本来なら、健全な魔導鋼は442ヘルツの澄んだ倍音を7.5秒間、水面に広がる同心円のように美しく響かせる。

 だが今、ガイルの腰で鳴った音は、442ヘルツから半音近く低く濁り、わずか1.8秒でプツリと途切れた。その末尾には、「ジリ……ブツッ……」という、砂を奥歯で噛み潰したような不協和音が混じっていた。


 ――ああ、こりゃ駄目だ。すでに内部3.2ミリの魔力導管が、黒紫色の『魔力澱』で6割以上詰まってやがる。


 神代魔導武具というのは、魔法使いが考えるような「絶対に壊れない魔法の杖」ではない。

 超高密度の魔力を強引に刀身へ通す、極限までピーキーな暴走機関車だ。

 1日ダンジョンで振るえば、刀身の内部を走る髪の毛ほどの魔力導管に、魔力の燃えカスである『魔力澱』がコールタールのようにびっしりとこびりつく。さらに、斬撃の衝撃と摂氏600度を超える魔力熱の膨張差で、刃先には肉眼では見えない0.03ミリ単位の微細亀裂(マイクロクラック)が何百本も走る。


 俺は毎晩、ガイルたちが高級酒場で騒いで眠りについた後、夜中の1時から4時までの3時間、冷え切った裏庭の作業小屋にこもってその尻拭いをしていた。

 まず低温の白炭炉で刀身を85度まで均一に温め、専用の中空針と442ヘルツ音叉の共振を使って、導管に詰まったドロドロの魔力澱を1滴残らず吸い出す。あの澱は腐った卵と硫黄を混ぜたような悪臭がして、吸い出すたびに俺の喉の粘膜までヒリヒリと焼けた。

 次に、荒砥の220番から超仕上げの14,000番まで7段階の砥石を順番に当て、刃角14.2度の鏡面に研ぎ直すことで微細亀裂を完全に消し去る。

 さらに、ガイルには「踏み込む時に右肩が0.2秒遅れて開き、手首が外へ逃げる」という致命的な三流の悪癖があった。だから俺は、柄の内部に3.8グラムの鉛の重りを偏心配置し、奴がどんなに雑に振り回しても刃筋がブレないよう、毎日0.1ミリ単位で重心調律(バランシング)をやり直していた。


 それだけの手間をかけて初めて、『紅蓮魔剣イグニス』は反動なしで本来の3倍の火炎出力を発揮できていた。

 それを、ロゼッタの『硬化付与』で2重に塗り固めただと?

 金属の表面1ミリだけをガラスのように無理やり硬くする硬化魔法は、刀身内部の微細亀裂と魔力澱の排気口を完全に塞ぐ、武具にとっての「窒息処置」に等しい。

 腐りかけた生木の表面にニスを分厚く塗りたくるようなもんだ。中で行き場を失った高圧の魔力ガスと金属疲労は、逃げ場を求めて内部のオリハルコン結晶を食い破り、通常の3倍の速度で芯材をボロボロの軽石みたいに腐らせていく。


「ガイル。最後に職人として、1つだけ教えておく」


 俺は42キロの木箱を背負い直し、擦り切れた麻縄の肩紐を鎖骨の上へぐっと食い込ませた。


「その剣、今の状態で魔力を流して振れば、72時間以内に鉛みたいに重くなる。そして14日も経たずに、芯まで魔力澱で腐り落ちて、乾いた泥人形みたいにポッキリ折れるぞ。ダリオの大斧も、ヴェインの双剣も同じだ」


「ぷっ……ははははは! おい聞いたか、神代遺物が泥人形みたいに折れるだとよ! 負け犬の遠吠えにしても傑作だぜ!」


 ダリオが腹を抱えて笑い転げ、ロゼッタが氷の礫(つぶて)を作る初級魔法の光を手のひらにちらつかせた。


「さっさと失せなさい、貧乏研ぎ師! これ以上ウロウロして『紅蓮の覇剣』の評判にケチをつけたら、貴族侮辱罪で衛兵に突き出すわよ!」


 バタン、と宿舎の裏口が乱暴に閉められ、内側から重い鉄の閂(かんぬき)が下ろされる音が響いた。

 路地裏には、石畳を叩く冷たい雨音と、俺の白い呼吸音だけが残った。


「……言ったからな、俺は」


 俺は首筋をポリポリと掻き、泥の跳ねた外套の裾を一度だけ手で払った。

 不思議と、怒りよりも呆れの方が勝っていた。いや、むしろ胸のつかえが取れたような爽快感すらある。

 自分の魂を削って研いだ刃が、あんな風に雑に扱われ、中身も見ずに「俺様の力だ」と誇示されるのを黙って見ているのは、職人としてずっと腹の底に錆びた釘を飲み込んでいるような気分だったからだ。


 手元に残った革の財布を改める。

 中にあるのは、銀貨38枚と銅貨6枚。ガイルたちに37万8,000ゴールドを踏み倒されたせいで、王都の高い家賃を払う余裕はもうない。

 だが、背中の木箱の中には、亡き師匠から受け継いだ『七段天然砥石』と、俺の10年間の腕が丸ごと詰まっている。


「王都の連中は、光る魔法の見た目ばかりで、鉄の声を聴ける奴がいねえ。……行くか、北の鉱山都市『カルデラ』へ」


 北方の辺境都市カルデラ。良質な鉄鉱石と白炭が採れ、巨大迷宮の入口を抱える、無骨な冒険者と鍛冶師たちの街だ。あそこなら、少なくとも「本物の刃」の価値が分かる人間がいるはずだ。


 俺は雨の降りしきる王都の大通りへと歩き出し、北門から出る最終の乗合荷馬車へと乗り込んだ。


 ――その頃。

 パーティー宿舎の豪華な食堂で、高価な赤ワインのグラスを掲げて哄笑していたガイルの腰元で。

 鞘に収められた『紅蓮魔剣イグニス』の鍔元から、髪の毛よりも細い0.08ミリの亀裂が「ピシッ」と乾いた音を立てて伸び、腐った血のような黒紫色のどろりとした液体が1滴、鞘の内側へと滲み出していたことに、気づく者は誰一人としていなかった。

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