第003話:0.4秒の震えと、聴診音叉の診断
カルデラの北西区画、鉱山から引かれた水路のすぐ脇に、その古びた石造りの鍛冶小屋は建っていた。
前の持ち主だった老鍛冶師が腰痛で引退してから半年ほど放置されていたらしく、家賃は月銀貨14枚という破格の安さだった。
重厚な樫の扉を押し開けると、長年染み付いた石炭の煤と、冷え切った鉄床の匂いが鼻をくすぐる。
「……本当に、ただの工房なんだな。私を奴隷商人に売り飛ばすつもりかと、少しだけ疑っていた」
入り口の敷居の手前で足を止め、折れた黒鉄槍を杖代わりに抱えたセリアが、警戒を解ききれない声で呟いた。
夕暮れの冷たい風に吹かれてきたせいで、彼女の唇は紫色に冷え、麻の外套の下で細い肩が小刻みに震えている。
「人聞きの悪いことを言うな。俺が興味あるのは、お前のその『黒竜鋼の槍』と、そいつを振っていたお前の腕のクセだけだ。ほら、突っ立ってないで中に入れ。まずは炉に火を入れて、温かいもんを腹に入れるぞ」
俺は42キロの砥石箱を作業台の横に下ろし、手慣れた手つきで石積みの小型炉の灰をかき出した。
道すがら市場で買い込んできた『楢の白炭』を井桁に組み、松脂のついた焚き付けに火打石で火花を飛ばす。
パチッ、パチパチッ……と赤い火の粉が爆ぜ、手動の革ふいごを3分ほど一定のテンポで押し引きすると、白炭の中心部が美しい黄金色の熾火へと変わった。
途端に、凍りついていた工房の空気が、遠赤外線の柔らかい熱気でじんわりと緩んでいく。
「……あたたかい……」
炉のすぐ横の木箱に腰を下ろしたセリアが、かじかんだ両手を火にかざして、ほっと小さな吐息を漏らした。
俺は炉の五徳の上に、使い込まれた黒鉄の深鍋を乗せた。
鍋底が温まったところで、ラード(豚脂)をひとすくい落とす。ジュワァッ、と白い煙が立ち上り、そこへ包丁の腹で潰したニンニク2片と、千切りにした黄金生姜を放り込む。
たちまち工房いっぱいに、胃袋を直接鷲掴みにするような香ばしい香りが充満した。
「っ……!」
セリアの側頭部の小さな竜角がピクリと跳ね、彼女の視線が鍋の中へと釘付けになる。
俺は笑いを噛み殺しながら、1センチ角に切った塩漬けの豚バラ肉を鍋へ投入した。表面がカリッと狐色に焼け、透明な脂が滲み出たところで、乱切りにした人参、蕪、それに甘みの強い冬玉葱を加えて一気に炒め合わせる。
仕上げに水路から汲んだばかりのカルデラの湧き水を注ぎ、岩塩と粗挽きの黒胡椒、乾燥させた山ハーブをひとつまみ落として蓋をした。
白炭の強火で煮込むこと15分。
鍋の蓋を開けると、黄金色の脂がキラキラと浮かぶ、湯気たっぷりの『塩豚と根菜、焦がしニンニクの生姜スープ』が出来上がった。
「ほら、食え。火傷するなよ」
木椀になみなみと注いだスープと、炉の縁で軽く炙ったライ麦パンを差し出す。
セリアは両手で木椀を受け取ると、最初は遠慮がちに、しかし一口すすった瞬間に琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「……っ! な、なんだこれは……! 塩豚の旨味と、生姜の熱が、喉から胃の底まで一気に広がっていく……!」
そこからはもう、言葉もなかった。
彼女は熱々の蕪と豚バラ肉をハフハフと頬張り、スープにライ麦パンを浸しては夢中で口へと運ぶ。
3杯目の木椀を綺麗に空にした頃には、青白かった彼女の頬にはすっかり血色が戻り、うっすらと汗ばんだ額から満足げな湯気が立ち上っていた。スカートの下から伸びた黒鱗の尻尾が、本人の意思とは無関係にパタパタと床板を叩いている。
「……ごちそうさま、でした。こんなにお腹がいっぱいになったのも、体中がポカポカしたのも、半年ぶりです」
セリアは慌てて居住まいを正し、赤くなった顔を下に向けて頭を下げた。
「よし。腹が落ち着いたところで、本題の『検診』に入るぞ。セリア、お前の右腕と、その折れた槍を作業台の上に出せ」
「……はい」
俺はランプの芯を3ミリほど繰り出して光を強くし、作業台を挟んでセリアと向かい合った。
まず、彼女が差し出した右腕の手首を、自分の左手でそっと支える。
ゴツゴツした俺の指先が触れた瞬間、セリアの肩がビクッと跳ねたが、俺は構わず彼女の右手首から肘にかけての筋肉と腱の張りを親指の腹で確かめた。
0.4秒ごとに、ピクッ、ピクッ、と前腕の橈骨筋が小さく跳ねる。
俺は懐から『純銀の基準音叉(442ヘルツ)』と、先端を丸く磨いた『真鍮の聴診棒』を取り出した。
「少し冷たいぞ。力を抜いてろ」
音叉を膝で叩いて鳴らし、その根元をセリアの右手首の脈動部に当て、聴診棒の反対側を自分の右耳の軟骨へと押し当てる。
目を閉じ、工房の炭が爆ぜる音を意識から遮断する。
骨と筋肉を伝わる微細な振動――その奥に、本来人間の生体には存在しないはずの「キィン……」という極小の金属質の反響音が混じっていた。
「……やっぱりな。次に、槍を診る」
俺は作業台に置かれた、全長1.6メートル(元々は2.1メートルあったはずだ)の折れた黒鉄槍へと音叉を移した。
穂先から18センチの部分が、斜めにギザギザとへし折れている。
音叉を柄の根元から穂先へと10センチ刻みで滑らせていくと、ちょうどセリアが右手で握るグリップ部分――柄の中央から42センチの箇所で、442ヘルツの倍音が「ジリリッ」と激しく濁った。
「見つけたぞ。セリア、お前が半年前に魔竜と戦った時、最後にこの槍で魔竜のブレスか爪を真正面から受け止めたな?」
「え……? な、なぜそれを……! はい、仲間を逃がすために、魔竜の雷撃爪を槍の柄で受け止めて……その瞬間に穂先が折れ、右腕に焼けるような激痛が走ったんです」
「だろうな。いいか、よく聞け。お前の右腕が0.4秒おきに震えるのは、断じて『魔竜の呪い』なんかじゃねえ」
俺は聴診棒の先で、槍のグリップの革巻きをコンコンと叩いた。
「原因は2つある。1つ目は、この黒鉄槍の内部を走る魔力導管だ。お前が今まで頼んでいた街の鍛冶屋は、槍の表面をハンマーで叩いて直すだけで、内部の『魔力澱』を一度も抜いていなかったな?」
「ま、魔力澱……? 鍛冶屋からは、黒竜鋼は頑丈だから油を塗るだけでいいと……」
「素人の生兵法だ。魔力澱で導管が詰まりかけていたところに、魔竜の強烈な魔力衝撃が流れ込んだ。結果、逃げ場を失った魔力澱が『目に見えない微細な魔力の棘』になってグリップの隙間から噴き出し、お前の右手首の橈骨神経のすぐ脇に滞留してる。だからお前が『槍を握ろう』と意識して魔力を流すたびに、その残留した澱が0.4秒周期で神経を突いて痙攣を起こしてるだけだ」
「そ、そんな……! 治癒師たちは、特級解呪に金貨50枚かかると……」
「神殿の治癒魔法は『外傷』や『呪詛』は治せても、金属由来の『魔力澱の共振』までは分からねえからな。そして2つ目の原因――これが一番デカい。この槍、最初から穂先側が18グラムも重すぎる」
俺は折れた穂先と柄を片手で持ち上げ、重心位置に人差し指を添えた。
「この槍を打ったお前の親父さんは、おそらく身長1.9メートル以上の大男だったはずだ。腕が長く、上腕の筋力で強引に振り回せる人間向けに重心が設計されてる。それを身長1.68メートルのお前が、親父さんの形見だからとそのまま使っていたせいで、突くたびに右手首の腱に通常の2.5倍のねじれ負荷がかかっていた。魔竜の一撃は、最後の引き金になったに過ぎない」
セリアは息を呑み、まるで魔法でも見ているかのように俺の顔と自分の右腕を交互に見つめた。
「で、では……私の右腕は……もう二度と……」
「逆だと言ってるだろ。原因が物理的な『魔力澱の共振』と『18グラムの重心ズレ』なら、俺の専門分野だ」
俺は作業台の横に置いた木箱の蓋を開け、油布に包まれた7つの天然砥石をランプの光の下に並べた。
赤褐色の荒砥から、青白く輝く14,000番の『蒼霞』まで、手入れの行き届いた石肌が静かな光を放つ。
「今夜、俺がこの折れた穂先を『短槍』として研ぎ直し、柄の内部に詰まった魔力澱を1滴残らず抜き取ってやる。さらに、お前の右腕に残った0.4秒の痙攣をピタリと打ち消すように、柄の内部に3.6グラムの逆位相カウンターウェイト(重り)を仕込む」
俺はニヤリと口角を上げ、純銀の音叉を軽く鳴らした。
「明日の夜明けには、お前の右腕の震えは完全に止まる。――それどころか、全盛期の3倍の速さで突ける『お前専用の魔槍』に生まれ変わらせてやるよ、セリア」
澄み切った442ヘルツの音が工房に響き渡る中、セリアの琥珀色の瞳から、ずっと堪えていた熱い涙がポロポロと零れ落ちた。
――その頃。
南へ400キロ離れた王都近郊の浅層ダンジョンでは、S級パーティー『紅蓮の覇剣』のリーダー・ガイルが、ゴブリンロードを斬り捨てた直後、「……チッ、なんだ? 今日、やけに剣が重く感じるな……」と、わずかに痺れる右手首を不機嫌そうに振っていた。




