第017話:嵐の前夜――2種類の「刃」の対比
その日の夜、カルデラ都市の中央高台にそびえる領主館の大広間では、翌朝の『地下28層・炎獄竜公開討伐』に向けた前夜祭の晩餐会が開かれていた。
天井の魔導シャンデリアが煌々と輝き、長テーブルの上には香ばしく焼き上げられた鹿肉の丸焼きや、南方のブドウ酒が惜しげもなく並べられている。
「いやあ、ガルガン辺境伯閣下! 明日の討伐は、このガイルと『紅蓮の覇剣』にすべてお任せください! 地下28層に居座る『炎獄竜』など、俺の『紅蓮魔剣イグニス』の一閃で3分以内に灰にしてみせますよ!」
広間の上座で、金糸の礼服を着込んだガイルが、ワイングラスを掲げて高笑いを響かせていた。
だが、グラスを握る彼の右手には、白い麻の包帯が幾重にも巻かれている。
包帯の下の掌には、ここ数日の戦闘で剣の柄から逆流した魔力熱と毒ガスによる赤黒い水膨れが5つも潰れ、ズキズキと脈打つような激痛を放っていた。ガイルはその痛みを誤魔化すように、強い蒸留酒を喉へ流し込む。
「ほう……3分とな。王都のS級パーティーとは、頼もしい限りだ」
テーブルの正面に座る初老の貴族――カルデラを治めるガルガン辺境伯は、白髪交じりの顎髭を撫でながら、鷹のように鋭い隻眼でガイルの右手と、その腰に吊るされた『紅蓮魔剣』を静かに見つめていた。
その隣には、王都の本部から派遣されてきた特命武具監査官の男が控え、手元の羊皮紙に何かを淡々と書き留めている。
「しかしガイル殿。最近の貴殿らの王都での戦績報告書を読むと、直近の10日間で中型魔物の討伐失敗が3件、武具の破損による撤退が2件とあるが……体調でも崩しておられるのかな?」
「なっ……! そ、それは王都の迷宮の魔物が、例の異常繁殖期で普段より硬くなっていただけです! なあ、ロゼッタ!」
「ええ、もちろんよ辺境伯様! それに、明日の決戦に向けて、さっき控え室でガイルの魔剣にも、ダリオの大斧にも、私の秘術である『硬化付与』と『光輝付与』を第5段階まで重ね掛けいたしましたわ! ご覧ください、この神々しい輝きを!」
ロゼッタが得意げに杖を振ると、ガイルが鞘から5センチだけ抜いて見せた刀身が、ギラギラとした下品な極彩色の光を放った。
周囲の取り巻き貴族たちは「おお、なんと眩しい!」と拍手したが、ガルガン辺境伯と特命監査官の二人は、ピクリとも笑わなかった。
控え室でロゼッタが5回目の『硬化付与』をかけた時、刀身の中央に入っていた2.5センチの黒い亀裂から「ブスブスッ」と硫黄のような悪臭が漏れたのだが、ロゼッタはその上から無理やり『光輝付与』の光の膜を厚塗りして、ヒビ割れを見えなくしていた。
見栄と虚勢だけで塗り固められた、まさにガラス細工のハリボテ。
ガイル自身、鞘からわずか5センチ抜いただけで、まるで自分の腕に30キロの鉛の塊がぶら下がっているような異常な重さを感じていたが、「これは魔力が満ちている証拠だ」と無理やり自分に言い聞かせて鞘へ戻した。
*
同じ時刻。
領主館の喧騒から遠く離れた、カルデラ下町の鍛冶職人街にある『魔剣調律工房・ヴァーミリオン』は、深い静寂と白炭の温もりに包まれていた。
パチッ、と炉の炭が小さく爆ぜる音。
作業台の脇に置かれた黒曜石の蓄熱プレートの上では、明日の長丁場に備えて俺が焼いた『熟成ラム肉の香草ローストと、山芋のすり流し鉄鍋スープ』が、湯気と一緒にローズマリーと焦がし醤油のたまらない匂いを漂わせている。
「はふっ、はふ……んんっ、お肉が柔らかくて、噛むたびに脂の甘みがじゅわって広がります……!」
「ちょっとセリア、あんた自分の分ばっかり食べないでよ! この黒曜石でカリカリに焼けたラムの脂身は、経理を頑張ったうちの分なんだから!」
セリアとミアが木製のスプーンとフォークを動かしながら、小競り合いをしている。
俺は自分の分のスープを飲み干すと、白樺の樹液で手を洗い、作業台の中央に並べられた3組の武具の前へと向き直った。
作業台の上には、昼間に鍛冶組合のバルトロ親方が持ってきた、ガルガン辺境伯直々の『特命招聘状』が置かれている。
そこには、こう記されていた。
『明朝7時より実施する地下28層・炎獄竜討伐において、王都の「紅蓮の覇剣」の戦力に重大な懸念あり。魔剣調律匠カイル・ヴァーミリオン、ならびに専属槍士セリア、中堅パーティー「灰色の砦」のゴードン、斥候リィンを、領主直属の予備戦力・兼・現場武具監査役として召集する。報酬は前金にて金貨40枚――』
辺境伯は、昼間のガイルたちの横柄な態度と、王都から届いた不自然な失敗報告を見て、最初から彼らを信用していなかったらしい。バルトロ親方を通じて、俺たちの工房へ極秘裏にバックアップの依頼を回してきたらしい。
「さて……腹も膨れたし、最後の仕上げに入るか」
俺が純銀の基準音叉(442ヘルツ)を手に取ると、それまで賑やかに食事をしていたセリアとミアが、スッと背筋を伸ばして息を呑んだ。
工房の空気が、一瞬にして張り詰めた職人の領域へと切り替わる。
作業台の上に並んでいるのは、明日俺たちと一緒に地下28層へ潜る3つの刃と盾だ。
一つ目は、B級パーティー『灰色の砦』の盾役ゴードンから預かった、厚さ14ミリの重装大盾。
二つ目は、双剣使いリィンの左右非対称の短剣。
そして三つ目が、セリアの右腕そのものである全長2.15メートルの『真・黒鉄竜槍』。
俺はまず、純銀の音叉を鉄床の角で軽く叩いた。
――キィィィン……。
1秒間に442回振動する、寸分の狂いもない澄み切った基準音が、夜の工房の空気を震わせる。
俺はその音叉の柄をセリアの黒鉄竜槍の根元に押し当て、真鍮の聴診棒の先端を自分の右奥歯に噛み締めた。
頭蓋骨を伝って、黒竜鋼の内部を走る音波が直接脳の奥へと響いてくる。
1秒、3秒、5秒、7.5秒……。
砂を噛むような雑音は一切ない。地下17層で18頭の結晶大蠍を粉砕した後の微細な金属疲労も、先ほど『純粋天然砥・翠蓮華(6,500番)』と『秘伝砥石・月雫(9,800番)』で2時間かけて抜き去ったおかげで、内部3.2ミリの魔力導管は生まれたての血管のように澄み渡っていた。
「よし、導管の詰まりはゼロだ。……最後に、地下28層の『60度の熱気』に合わせた高温調律を入れる」
俺は42キロの木箱の最下段から、青白い光を宿す神代超仕上げ砥『蒼霞(14,000番相当)』を取り出した。
地下28層は溶岩脈がむき出しになった灼熱の階層だ。室温20度の地上で完璧に研ぎ上げた刃でも、60度の熱風に晒されれば金属がわずか0.02ミリ膨張し、刃先の応力バランスが崩れて切れ味が2割落ちる。
だから俺は、あらかじめ小鍋で62度まで温めておいた『氷晶トカゲの澄まし脂と白椿油の乳化液』を、スポイトで3滴だけ『蒼霞』の表面に垂らした。
さらに、炉の余熱で黒鉄竜槍の穂先を約60度まで温め、実際に明日戦うのと同じ熱膨張状態を再現する。
――シャアアアッ、シャアアアッ……。
静まり返った工房に、14,000番の天然砥石の上を鋼が滑る、絹を撫でるような微かな水音だけが響く。
俺は呼吸を止め、手首の関節を完全に固定し、足腰の体重移動だけで穂先を一定の速度で引いた。
刃角は、炎獄竜の分厚い耐熱鱗を「斬る」のではなく、鱗の隙間の0.1ミリの繊維へ滑り込ませて内側から断ち切るための『14.2度・極薄鏡面仕様』。
1往復、2往復、3往復。
石の上から灰青色の細かい砥泥が滲み出し、その中に混じる0.001ミリ単位の鉄粉が、油膜の中で星屑のように煌めく。
俺の親指の腹にあるタコが、石と鋼の間に生じる摩擦抵抗の消失――「刃が完全に乗り切った瞬間」を捉えた。
俺は穂先をすっと引き上げ、鹿革の布で砥泥を静かに拭き取った。
ランプの橙色の光を受けた黒鉄の穂先が、まるで深い湖の水面のように青白く澄み切った鏡面となって、俺とセリアの顔を一点の歪みもなく映し出した。
試しに、セリアの肩から落ちた銀黒色の髪の毛を1本つまみ上げ、上向きの刃先の上へ、ふわりと自然落下させる。
音すら鳴らなかった。
髪の毛が刃に触れた瞬間、自重だけでスッと左右に2つへ分かれ、作業台の上へ舞い落ちた。
「……すごい。昨日よりもさらに、刃が空気と溶け合っているみたいです」
セリアが自分の槍を受け取り、軽く片手で構えた。
柄頭の内部には、高温で手汗をかいても滑らないよう松脂を擦り込んだ鹿革を巻き直し、重心をいつもより0.4グラムだけ手元へ寄せてある。セリアが穂先を1ミリ動かしただけで、彼女の琥珀色の瞳と槍の切っ先が、まるで一本の神経で繋がったかのようにピタリと連動した。
「ゴードンの盾と、リィンの双剣も熱膨張補正は終わってる。明日の地下28層がどんな灼熱地獄だろうと、俺が研いだ鉄は絶対に裏切らない」
俺は『蒼霞』の水分を丁寧に拭き取って木箱へ収め、パチンと真鍮の留め具を閉めた。
窓の外を見上げれば、カルデラの夜空に浮かぶ三日月が、領主館の派手な灯りと、俺たちの小さな工房の屋根を同じように照らしている。
「行くぞ、セリア、ミア。しっかり寝ておけよ。――明日は、見栄と魔法のメッキで塗り固めた『ハリボテの聖剣』と、職人が魂を込めて研ぎ上げた『本物の鉄』、どっちが迷宮の底で生き残るか、カルデラ中の人間に証明してやる」
「はい、私の調律匠!」
「ふふっ、帳簿と証拠書類の準備もバッチリよ! 吠え面かかせてやりましょう!」
工房のランプを吹き消すと、心地よい白炭の残り香が暗闇に広がった。
そして数時間後――運命の朝が幕を開ける。




