第016話:落ちぶれた『紅蓮の覇剣』の来訪と、傲慢な泥靴
朝の7時を回ったばかりの辺境都市カルデラには、製鉄炉から吐き出される白炭の煙と、冷え込んだ山風が運んでくる湿った鉄鉱石の匂いが立ち込めていた。
昨夜、結晶大蠍のバター醤油焼きを腹いっぱい平らげた余韻がまだ工房の梁に残っているのか、微かに焦がしニンニクと柑橘の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
俺――カイルは、作業場の隅に据えた欅の研ぎ台の前で、冷たい井戸水に浸しておいた中砥『白雲(1,200番)』を引き上げた。
指先の腹で石の表面を撫でる。面直し用の金剛砂で0.01ミリの狂いもなく平面を出した灰白色の石肌が、吸いつくように親指のタコに馴染んだ。
「カイル、お湯が沸きました。朝の分の白椿油と、氷晶トカゲの澄まし脂の湯煎も42度で止めてあります」
エプロン姿のセリアが、湯気の立つ真鍮の小鍋を両手で抱えて持ってきた。
銀黒色の長い髪を後ろで一つに束ね、側頭部の小さな黒曜石の竜角が朝日にツヤツヤと光っている。俺が「ありがとう」と受け取ると、彼女のスカートの下から覗く尻尾が、控えめにパタ、パタッと2回だけ床板を叩いた。
「あんたたち、朝からイチャついてる暇があったらこの伝票の山を見なさいよ!」
帳場机の向こうで、半ドワーフのミアが赤銅色のツインテールを揺らしながら、猛烈な勢いでそろばんの玉を弾いていた。パチパチパチッ、と乾いた音が工房に響き、彼女の左足が秒間4回のペースで貧乏ゆすりを刻んでいる。
「昨日の地下17層の結晶大蠍討伐で、うちの工房の名前がカルデラ中に知れ渡ったのよ! 朝からB級パーティーの剣だの、採掘ギルドの鶴嘴だの、予約だけで28件! 前金だけで銀貨140枚よ、銀貨140枚! ほらカイル、耳ほじってないでさっさと次の鉄剣を研ぎなさい!」
「分かってるって。……だがなミア、1日に研げる本数は、俺の目が届く12本までって決めてる。雑に砥石を当てて刃角が0.1度でも狂ったら、迷宮の底で死ぬのはその武器を握る奴だ」
俺は小指で耳の穴をポリポリと掻きながら、依頼品の幅広剣を木箱から取り出した。
その時だった。
工房の表通りから、重苦しい馬車の車輪の音と、荒々しい怒鳴り声が近づいてきた。
カルデラのメインストリートは朝市へ向かう荷馬車や炭焼き職人たちでごった返しているはずだが、「どけ、田舎者ども! 王都S級パーティーのお通りだぞ!」という甲高い男の声が、街の喧騒を無理やり切り裂いた。
馬車が止まり、泥水を跳ね上げる革ブーツの足音が4人分、うちの工房の軒先へと真っ直ぐ向かってくる。
ミアがそろばんを止めて眉をひそめ、セリアが反射的に壁際の『黒鉄竜槍』へ手を伸ばした。
――ドォンッ!
開業したばかりの杉板の引き戸が、外から乱暴に蹴り開けられた。
蝶番が悲鳴を上げ、隙間から朝の冷気と一緒に、むせ返るような安物の高級香水と、何日も洗っていない汗と脂の混じった悪臭が流れ込んでくる。
「おい! ここがカルデラで一番腕がいいと噂の『研ぎ屋』か! 王都のS級パーティー『紅蓮の覇剣』のガイル様がわざわざ足を運んでやったぞ、店主を出せ!」
入り口に仁王立ちしていたのは、見覚えのある白銀のミスリル胸当てと、真紅のマントを羽織った男――ガイルだった。
その後ろには、派手な毛皮の襟巻きをした付与魔術師のロゼッタと、重戦士のダリオ、斥候のヴェインが並んでいる。
だが、13日前に王都の路地裏で俺を追放した時とは、彼らの様子が明らかに違っていた。
ガイルの誇りだった白銀の胸当てには、魔物の爪で引っ掻かれたような浅い傷が何本も走り、煤と脂汚れで薄黒くくすんでいる。目の下には濃い隈が張り付き、ロゼッタの化粧もどこか荒れて粉が浮いていた。
王都のギルドで聞いた風の噂では、俺を追い出した直後から、彼らは王都近郊の迷宮依頼に3回連続で失敗したらしい。
討伐時間が以前の3倍以上かかり、仕留め損ねた魔物に荷馬車を壊され、スポンサーだった中央貴族からも「最近の『紅蓮の覇剣』は動きが鈍すぎる」と出資を打ち切られかけているという話だった。
その汚名返上のために、明日このカルデラ大迷宮の地下28層で行われる領主主催の『炎獄竜公開討伐』へ、公爵家のコネを使って無理やり主役としてねじ込んできた――それが、彼らがこんな辺境の鉱山都市まで落ちてきた理由だろう。
「はあ!? ちょっとあんたたち、入り口の札が見えないの!? 土足厳禁よ、その泥だらけのブーツを脱ぎなさい!」
ミアが帳場から立ち上がって怒鳴りつけた。
しかしガイルとダリオは鼻で笑い、赤土と馬糞の混じった泥靴のまま、セリアが毎朝雑巾がけしている磨き抜かれた床板へズカズカと上がり込んできた。
「うるせえなチビ助! 王都のS級冒険者である俺たちが来てやったんだぞ。むしろ床に泥をつけてやっただけでも、この店の宣伝になるって感謝しろよ」
「そうよ。街の酒場で聞いたわ、ここに『なまくらでも一撃で魔物を斬れるようにする研ぎ師』がいるって。明日の公開遠征までに、ガイルの剣とダリオたちの武器を全部研ぎ直しておきなさい。代金は『紅蓮の覇剣』御用達の看板を掲げる権利でチャラにしてあげるわ!」
ロゼッタが傲慢に顎を上げ、帳場机の上にダリオの大斧とヴェインの双剣をガシャンと乱暴に放り出した。
俺は研ぎ台の椅子からゆっくりと立ち上がり、手に持っていたウエスで油を拭き取りながら、作業場の奥から歩み出た。
「……宣伝料でチャラ、か。相変わらず都合のいい頭をしてるな、ガイル、ロゼッタ」
俺の声を聞いた瞬間。
ふんぞり返っていたガイルとロゼッタの肩が、雷に打たれたようにビクッと跳ね上がった。
「……え?」
「なっ……カ、カイル!? なんで貴様がここにいる!?」
ガイルが目玉がこぼれ落ちそうなほど見開き、後ずさった拍子に自分の泥靴で足を滑らせかけた。ダリオとヴェインも「うそだろ、あの雑用係かよ!?」と間の抜けた声を上げる。
「なんでって、お前たちが13日前に『石で擦るだけの雑用係はいらない』って追い出したから、空気の美味い辺境で自分の工房を開いたんだよ。看板に書いてあっただろ、『魔剣調律工房・ヴァーミリオン』って」
「ふ、ふざけるな! カルデラで噂になっていた神業の研ぎ師が、まさか貴様だったというのか!?」
ガイルは顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたが、その視線がチラリと自分の右腰――黄金の鞘に収められた神代遺物『紅蓮魔剣イグニス』へと泳いだのを、俺は見逃さなかった。
いや、見るまでもない。
ガイルが工房に一歩足を踏み入れた時から、俺の鼻と耳は、あの剣が発している「死臭」をはっきりと捉えていた。
「……おい、ちょっと待て」
俺はガイルの罵声を完全に無視して、無意識のうちに目を細め、奴の腰元へと一歩近づいた。
鼻腔を突くのは、金属が焦げたような酸っぱい匂いと、ドブ川の底のヘドロを煮詰めたような『魔力澱』の腐敗臭だ。
さらに、ガイルが歩くたびに鞘の中で刀身が揺れ、「ミシ……ジジッ……」と、乾燥しきった枯れ枝がひび割れるような不気味な摩擦音を立てている。
「おいガイル、ちょっとその剣を3センチだけ抜いてみろ。いや、抜かなくても分かる。……お前、俺が追放された後、その『紅蓮魔剣』にロゼッタの『硬化付与』を何回重ね掛けした?」
「は、はあ!? 何回だろうが俺の勝手だろうが!」
「4回だな。いや、鍔元の魔力反射の濁り方からして、今朝も掛けてきたか。……信じられねえ。神代魔導鋼の表面に硬化魔法を4重掛けするなんて、赤ん坊に鉄の鎧を着せて水底に沈めるようなもんだぞ」
俺は呆れを通り越して、職人としての背筋が寒くなるのを感じた。
机の上に放り出されたダリオの大斧とヴェインの双剣も同じだ。
ダリオの大斧は、刃先がノコギリのように2ミリ間隔でボロボロに欠けているのに、その上から無理やりガラス質の『硬化膜』を塗りたくったせいで、刃角が本来の16.8度から32度近い鈍角の丸太みたいに膨れ上がっている。
それだけじゃない。柄のヒッコリー材に染み込んだダリオの脂汗と魔力澱が酸化し、重心位置が先端側へ14グラムもズレていた。こんなものを全力で振り回せば、遠心力に引っ張られて自分の肩の関節が外れる。
そして何より酷い状態だったのが、ガイルの『紅蓮魔剣イグニス』だった。
鞘の隙間から覗く刀身の根元には、まるで皮膚病のかさぶたのように黒紫色の結晶が盛り上がり、表面の硬化メッキの下で、0.5ミリ幅の亀裂が蜘蛛の巣状に走っているのが肉眼でも見えた。
ガイルの右手の甲がやけに赤く腫れ上がっているのも、導管から逆流した魔力熱で毎戦やけどを繰り返している証拠だ。
「ガイル、忠告しておく。その剣、内部3.2ミリの魔力導管が95パーセント以上詰まってる。芯材の鋼が魔力澱の毒で完全に窒息して、中からボロボロに腐り落ちてる状態だ。明日の公開遠征でその剣に火炎魔力を流して振ってみろ――1発で内圧が臨界を超えて、粉々に爆発するぞ」
「だ、黙れぇぇっ!!」
ガイルが図星を突かれた子供のように顔をひきつらせ、唾を飛ばして吠えた。
「貴様ごとき雑用係が、知ったような口を利くんじゃない! 最近ちょっと剣が重いのは、カルデラの迷宮の磁場が狂っているせいだ! 俺の『紅蓮魔剣』は神代の聖遺物だぞ、腐るわけがないだろうが!」
「そ、そうよ! 私の特級『硬化付与』で表面はダイヤモンドみたいにピカピカなんだから! あんた、自分がいなくなった後も私たちがS級として脚光を浴びてるのが悔しくて、デタラメな呪い言を吐いてるだけでしょう!」
ロゼッタが金切り声を上げ、机の上の大斧と双剣をひったくるように回収した。
セリアが静かに一歩前へ出て、身長1.8メートル近いガイルたちの前に立ち塞がる。琥珀色の瞳が、絶対零度の氷のように細められていた。
「……お引き取りください。あなたがたが踏み荒らしたこの床も、カイルが毎朝研ぎ澄ませているこの工房の空気も、あなたたちの嘘と泥で汚れています。これ以上カイルを侮辱するなら、私が表へ放り出します」
セリアが右手の『黒鉄竜槍』の石突を、トン、と床に突いた。
ただそれだけの動作なのに、地下17層の結晶大蠍18頭を単独で葬り去った重前衛の覇気が、工房の空気をビリビリと震わせた。
ダリオとヴェインが「ひっ」と喉を鳴らして半歩引き、ガイルも冷や汗を浮かべながら唇を歪めた。
「ちっ……どいつもこいつも、辺境の野蛮人どもが! いいだろう、貴様なんかに頼まなくても、明日の地下28層では俺様が『炎獄竜』を一撃で屠って、カルデラ辺境伯から金貨500枚の褒賞を受け取ってやる! その時になって泣きついても遅いからな、カイル!」
「ええそうよ! あんたなんか一生、この煤臭い小屋で農夫のクワでも擦ってなさい!」
ガイルたちは捨て台詞を吐き散らし、逃げるように工房の戸口から出ていった。
後には、床板にべったりとついた4人分の泥靴の跡だけが残された。
「……なんなのよあいつら! 頭の中まで魔力澱が詰まってんじゃないの!?」
ミアが顔を真っ赤にして地団駄を踏み、セリアがすぐに濡れ雑巾を持ってきて床の泥を拭き取り始めた。
俺は首筋をポリポリと掻きながら、彼らが去っていった表通りの方を見つめた。
「まあ、放っておけ。本人が『磁場のせいだ』って言い張ってるんだ、誰が何を言っても聞きゃしないさ」
ただ一つだけ、確かなことがある。
さっきガイルが踵を返した時、奴の腰の鞘から「パキッ」と、内部の芯材が最後の1ミリまでひび割れる乾いた音が響いていた。
あの『紅蓮魔剣イグニス』に残された寿命は、もう24時間もない。
次にガイルがあの剣へ本気の魔力を流し込んだ瞬間――13日間溜めに溜め込んだツケが、最も残酷な形で噴き出すことになる。




