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第9話「水曜日の朝、俺は名前を口に出した」


 水曜日の朝、目が覚めた。


 いつもなら、朝に感情が届く日が多い。三日前の何かが、起きた瞬間に来ている。でも今朝は、来ていなかった。


 昨日の感情過負荷の時のことは、もう体験済みだった。リアルタイムで心配した、初めての経験。三日後に届く分は、たぶん今夜か明日か、いつかのタイミングで来る。でも今朝は、まだ来ていなかった。


 昨夜、俺は「明日、言える」と言った。ルシアは「明日、聞きます」と言った。今日が、その明日だった。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 胸の中には、土曜日の朝につけた名前があった。先週からずっと持っている名前。声には出さずに、頭の中に持っていた名前。


 今日、それを口に出す。


 怖くなかった。


 起き上がった。


-----


 台所に行ったら、ルシアがいた。


 卵を出していた。今日は卵焼きを作るつもりらしかった。火曜日に倒れた疲れは、もう抜けているように見えた。


 「おはようございます」と俺は言った。


 ルシアは振り向いた。少し間を置いた。


 「おはようございます」


 俺の顔を見て、彼女は少し首を傾けた。


 「……いつもより、落ち着いてます」


 「そうですか」


 「眉間の皺が浅いです」


 「そうですか」


 「来てますか、まだ」


 「今朝は来てないです」と俺は言った。


 「珍しいですね」


 「珍しいです」


 「でも、いつもより落ち着いてる」


 「来てないからかもしれないです」と俺は言った。「今日は、話したいことがあるので」


 ルシアは卵を持ったまま、俺を見た。


 「話したいことが」


 「あります」


 「卵焼き、後でも大丈夫ですか」


 「大丈夫です」


 ルシアは卵をボウルに戻した。フライパンを火から下ろした。テーブルの椅子に座った。俺も向かいに座った。


 窓の外は晴れていた。水曜日の朝の光が、横から部屋に入っていた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 言いたいことは決まっていた。先週の土曜日からずっと、頭の中にあった。でも、いざ口に出そうとすると、最初の一言がうまく出てこなかった。


 ルシアは急かさなかった。テーブルの上で両手を組んで、待っていた。


-----


 俺は息を一回吸った。


 「先週の土曜日に、名前をつけました」と俺は言った。


 「言いましたね」


 「ずっと持ってました。声に出さずに」


 「持ってましたね」


 「今日、言います」


 ルシアは黙った。少し緊張した顔をしていた。でも逃げなかった。俺を見ていた。


 俺はもう一回、息を吸った。


 「『好き』とは少し違うんです」と俺は言った。「正確には」


 「違う」


 「『好き』だと、たぶん足りないです。もっと、別の言葉です」


 ルシアは何も言わなかった。続きを待っていた。


 「あなたが、自分の感情がわかるようになるまで」と俺は言った。


 ルシアの目が、少し動いた。


 「待ちたいです」


 言った。


 部屋が静かだった。窓の外で鳥の声がした。それ以外、何も聞こえなかった。


 ルシアは何も言わなかった。両手をテーブルの上で組んだまま、俺を見ていた。何かを読もうとしている顔だった。でも今日も、読めていない顔だった。


 でも、いつもとは少し違った。今日は読めなくても、表情に何かが浮かんでいた。


 俺は続けた。


 「ずっと、他人の感情の中で生きてきたって言ってましたよね」


 「……はい」


 「自分の感情だけになると、本物かどうかわからないって」


 「言いました」


 「だから、わかるようになるまで待ちたいです」と俺は言った。「あなたが、自分の感情を信じられるようになるまで。それまで、ずっと隣にいたいです」


 「『好き』じゃなくて」


 「『好き』も入ってます。でも、それだけじゃないです」


 ルシアは少し黙った。


 「待ちたい、というのは」と彼女は言った。「あなたの感情が遅れて届くから、ですか」


 「それもあります」


 「それも」


 「俺は、今この瞬間の感情がうまく動かないです。三日後にしか動かない。だから、今この瞬間に答えを出すのが下手です。待つしかできない」


 「……」


 「でも、それでよかったんだと思います、今日は」と俺は言った。「待つしかできない人間と、待たれることに慣れてない人間と。たぶん、ちょうどいいです」


 ルシアの目が、少し赤くなった気がした。


 でも、泣かなかった。


 「練習ができてないので」と彼女は言った。


 「練習」


 「泣き方の。自分の感情で泣く練習」


 俺は何も言わなかった。


 ルシアはテーブルの上の両手を、少しだけ動かした。組んでいた手を解いて、また組んだ。何度かそれを繰り返した。


 「……白瀬さん」と彼女は言った。


 「はい」


 「私も、答えたいです」


 俺はうなずいた。


 「でも」とルシアは言った。「今、自分の感情がわかりません」


 俺は少し笑った。小さく笑った。


 「わかってます」


 「他の人の感情なら、すぐ読めます。でも自分のは、ずっとわからない。だから今、白瀬さんに何を返したらいいか、わからないです」


 「わかります」


 「三日後だったら、わかりますか」と彼女は聞いた。


 俺は少し考えた。


 「わからないです、それは。あなたの感情ですから」


 「ですよね」


 「でも」と俺は言った。「答えなくていいです、今すぐは」


 ルシアは俺を見た。


 「待ってくれますか」と彼女は言った。


 「待ちます」と俺は言った。「それを言ったので、今」


 ルシアは少し下を向いた。テーブルの木目を見ているような視線だった。


 「変ですね」と彼女は言った。


 「何が」


 「ずっと、誰かを待たせる側だったので」


 「ずっと」


 「他人の感情がわかりすぎて、相手より先に答えがわかる。だからいつも、相手が言葉にする前に、こちらが対応してました。配信でも、リアルでも。誰かを待たせるのは、私の方でした」


 「そうですか」


 「待たれる側になったのは、初めてです」


 俺は少し考えた。


 「俺は、待つしかできないので」


 「白瀬さんは、待つしかできなくて」と彼女は繰り返した。「私は、待たれることに慣れてない」


 「ちょうどいいかもしれないです」


 ルシアは少し笑った。下を向いたまま、小さく笑った。


 「ちょうどいいですか」


 「たぶん」


 しばらく、二人とも黙っていた。


 ルシアの目が、少し赤いままだった。でも泣かなかった。練習ができていないから、と言っていた。それを思い出した。


 窓の外で、また鳥が鳴いた。


-----


 しばらくして、ルシアが立ち上がった。


 「卵焼き、作ります」


 「すみません、止めて」


 「いいんです。話したかったから止めたんでしょう」


 台所に立った。卵をボウルに戻して、また割り直した。フライパンを火にかけた。背中を向けたまま、卵を溶いていた。


 俺はテーブルに座って、その背中を見ていた。


 火曜日の心配の感情が、まだ胸にあった。でも今朝の俺は、もう動けないほど重くはなかった。土曜日の朝の名前を、今、口に出したから。


 名前をつけて、口に出したら、何かが少し変わると思っていた。


 変わっていた。


 でも、思っていたよりも、静かに変わっていた。


 大きく何かが起きるわけじゃなかった。ルシアはすぐに答えなかった。「待ちたい」と俺は言った。ルシアは「待ってくれますか」と言った。それだけだった。


 でも、それでよかった。


 卵焼きが綺麗に巻けていく音がした。


-----


 しばらくして、ルシアが言った。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「私、今度言います」


 「今度」


 「いつになるかわからないです。すごく先かもしれません」


 「待ちます」


 ルシアはフライパンを傾けながら、少し笑った。背中を向けたままだった。でも笑ったのは、わかった。


 「ありがとうございます」と彼女は言った。


 卵焼きが皿に盛られた。今日も綺麗に巻けていた。


 二人でテーブルについて、食べた。


 いつもと同じ朝だった。少しだけ、違った。


 窓の外で、鳥がまた鳴いた。


-----


 午後、ルシアがソファに座って、スマートフォンを見ていた。


 俺は本を読んでいた。今日は少し読めた。朝の感情が、ちゃんと胸の中にあった。でも、邪魔ではなかった。むしろ、本の世界に集中できる土台みたいに、静かに胸の中にあった。


 しばらくして、ルシアが顔を上げた。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「ちょっとだけ、聞いていいですか」


 「どうぞ」


 ルシアはスマートフォンを置いた。膝を抱えるように座って、俺を見た。


 「いつから、ですか」


 「いつから、というのは」


 「いつから、その名前をつけてたんですか」


 俺は少し考えた。正直に答えることにした。


 「先週の土曜日です」


 「土曜日」


 「水曜日の朝に来たのが、土曜日の朝にもう一度来て、その時につけました」


 「水曜日の朝に来た、というのは」


 「日曜日の夜に、ルシアさんが言ったやつです」


 ルシアは少し黙った。


 「あれが、そうだったんですか」


 「あれが、そうでした」


 しばらく沈黙があった。


 ルシアは膝の上に視線を落とした。何かを思い出しているような顔だった。


 「あの夜のこと、覚えてますか」と彼女は聞いた。


 「覚えてます」


 「私、何を言ったか、白瀬さんは覚えてますか」


 「覚えてます」


 ルシアは少しだけ、安心したような顔をした。


 「そうですか」


 「ずっと、忘れないと思います」と俺は言った。


 ルシアは何も言わなかった。膝を抱えたまま、窓の外を見た。


 午後の光が、彼女の横顔に当たっていた。


-----


 夜、ルシアが配信をした。


 いつもと同じ手順だった。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけて、姿勢が変わって、声が変わって、配信が始まった。


 でも今日は、配信時間が短かった。十五分くらいで終わった。「今日は短くてすみません」と配信の最後に言って、配信を閉じた。


 イヤホンを外して、横に倒れた。


 「つかれたー」


 関西弁だった。いつも通りだった。


 でも、いつもより少しだけ早かった気がした。


 「短かったですね」と俺は言った。


 「今日はあんまり、人の感情を聞きたくなくて」と彼女は言った。


 「そうですか」


 「今日は、自分の感情を聞きたい日です」


 俺は何も言わなかった。


 しばらくして、ルシアが言った。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「明日もこの部屋にいていいですか」


 俺は少し驚いた。今までそんなことを聞かれたことはなかった。最初の夜に「泊めてもらえませんか」と言われたきり、彼女はずっとここにいた。許可を取り直す必要なんて、なかった。


 「いいですよ」と俺は言った。


 「明後日も」


 「いいですよ」


 「ずっと」


 「ずっと、いていいです」


 ルシアは天井を見たまま、少し笑った。


 「ちゃんと答えてくれるんですね」


 「聞かれたので」


 「ありがとうございます」


 それだけだった。


-----


 電気を消した。


 暗闇の中で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。


 今朝、名前を口に出した。ルシアは「待ってくれますか」と言った。俺は「待ちます」と言った。それだけだった。


 でも、それでよかった。


 大きく何かが変わったわけじゃない。明日もたぶん、卵焼きを食べて、プリンを食べて、ルシアは配信して倒れる。いつも通りの日が続く。


 いつも通りの中に、今朝の言葉がある。それだけが、違った。


 とりあえず、寝ることにした。

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