第8話「火曜日の夜、俺は土曜日の朝をまだ持っていた」
日曜日、月曜日と、普通に過ぎた。
土曜日の朝につけた名前を、俺はまだ持っていた。頭の中に、静かに持っていた。声には出さなかった。ルシアにも言わなかった。でも消えなかった。持ったまま、日曜日と月曜日が過ぎた。
ルシアは聞かなかった。
日曜日の朝、卵焼きを一緒に作った。俺が巻いて、ルシアが「前より上手いです」と言った。「まだ崩れてます」と俺は言った。「でも前より上手いです」と彼女は繰り返した。
月曜日の夜、配信が終わってルシアが倒れた時、緑茶を差し出した。「ありがとうございます」と言って受け取った。一口飲んで、天井を見た。
「まだ持ってますか」とルシアが言った。
「持ってます」
「そうですか」
それだけだった。聞かなかった。待っていた。
火曜日も、最初は普通だった。
朝、卵焼きを作った。今日は俺が作った。綺麗には巻けなかったが、前より少しましだった。ルシアが「上手くなってます」と言った。「崩れてますけど」と俺は言った。「でも上手くなってます」と彼女は繰り返した。
昼過ぎまで、普通だった。
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午後、ルシアが配信を始めた。
火曜日の午後に配信することは、あまりなかった。でもその日はイベント配信があるらしく、いつもより早い時間から始めた。
「長くなるかもしれません」とルシアは言った。
「大丈夫ですか」と俺は聞いた。
「たぶん」
たぶん、という言い方が少し気になった。でも今の俺には、その気になり方の意味がわからなかった。
配信が始まった。
いつもの声だった。柔らかく、丸く、何百人かを包めそうな声。俺は本を読んでいた。今日は少し読めた。土曜日から、本が読めるようになっていた。名前をつけてから、少し落ち着いた部分があった。
一時間が過ぎた。
ルシアの声が、少し変わった気がした。
変わった、というより、薄くなった。いつもの丸さが、少し削れた感じがした。俺は本から目を上げた。スマートフォンの画面に向かっているルシアの背中が見えた。姿勢は変わっていなかった。声は続いていた。
でも、薄くなっていた。
「ルシアさん」と俺は声をかけた。
配信中だった。声をかけるべきじゃないかもしれなかった。でも声をかけた。
ルシアは配信を続けながら、少し振り向いた。俺を見た。目が、いつもと違った。焦点が、少し定まっていなかった。
「少し待ってください」とルシアは配信に向かって言った。「すみません、少しだけ」
イヤホンを外した。そのまま横に倒れた。
いつもの「つかれた」は言わなかった。
床に手をついて、目を閉じた。呼吸が少し乱れていた。
「ルシアさん」
「……少し、来すぎました」
「来すぎた」
「イベントで、人が多くて。感情が、少し」
それだけ言って、黙った。
俺は立ち上がった。台所に行って、冷たい水を持ってきた。緑茶じゃなくて、水にした。なんとなく、今は水の方がいい気がした。
「飲めますか」
ルシアは目を閉じたまま、手を伸ばした。受け取った。一口飲んだ。
「……ありがとうございます」
「横になりますか」
「少し、このままで」
床に座ったまま、目を閉じていた。呼吸が少しずつ落ち着いていった。
俺はその隣に座った。
何もしなかった。ただ、隣に座った。感情同期のノイズが来ない人間が隣にいると、ルシアは少し楽になると言っていた。だから座った。それだけだった。
でも、今の俺には感情が来ていた。
三日前のものじゃない。今この瞬間の。
心配、という感情が、今来ていた。
遅れていなかった。今ここで、ルシアが床に手をついていて、呼吸が乱れていて、俺は心配していた。今この瞬間に。
こういうことは、今まであまりなかった。感情はいつも三日後に来る。でも今は、今来ていた。
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十分くらいして、ルシアが目を開けた。
「……落ち着きました」
「そうですか」
「すみません」
「謝らなくていいです」
ルシアは俺を見た。床に座っている俺を見た。
「隣に座ってたんですか」
「はい」
「ずっと」
「ずっと」
ルシアは少し黙った。
「……変ですね」と彼女は言った。
「何が」
「あなたが心配してる」
俺は何も言えなかった。
「いつもは、三日後に来ますよね」とルシアは続けた。「でも今、心配してます。今」
「してます」
「三日前のじゃなくて」
「三日前のじゃないです。今してます」
ルシアは黙った。俺を見たまま、黙っていた。
「初めてですか」と彼女は聞いた。「リアルタイムで、誰かを」
「……たぶん」と俺は言った。「こういうのは、あまりなかったです」
「なんで今日は来たんですか」
俺は少し考えた。正直に言うことにした。
「わからないです。でも、来ました」
ルシアはまた黙った。水を一口飲んだ。それから、少しだけ笑った。小さい笑いだった。
「そうですか」と彼女は言った。
今日の「そうですか」は、今まで聞いた中で一番柔らかかった。
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夕方、ルシアは配信を再開しなかった。
「今日はもうやめます」と言って、スマートフォンをテーブルに置いた。珍しかった。途中でやめることは、ほとんどなかった。
「大丈夫ですか」と俺は言った。
「大丈夫です。でも今日は、もういいです」
二人でソファに座った。テレビをつけようかと思ったが、つけなかった。今日はなんとなく、つけない方がいい気がした。
しばらく、二人とも黙っていた。
「あの」とルシアが言った。
「はい」
「少し話してもいいですか」
「どうぞ」
ルシアは膝を抱えた。窓の外を見た。少し雲が出てきていた。
「引退配信の日」と彼女は言った。「最後の、何十万人が見てた配信」
「あの日」
「あの日、配信の最後の方で、私、倒れたんです」
俺は少し驚いた。あの配信は最後まで見ていない。途中で寝た。倒れたという情報は、あとから流れたかもしれない。でも記憶になかった。
「途中で配信が切れて、運営が代わりに『以上で終わります』って言って終わらせました」と彼女は続けた。「画面の前では何十万人が泣いてて、その感情が全部、私に来てて」
「来すぎて、倒れた」
「倒れました。デバイスを持ってない人間でも、画面越しに少し感情が伝わるくらいの規模だったので。私にとっては、何十万人分の感情が一度に来た感じでした」
俺は黙って聞いていた。
「それで、しばらく動けなくて」と彼女は言った。「病院に行きました。脳の検査とか、いろいろ。異常はないって言われました。でも、また配信したら倒れる、たぶん、と」
「だから引退した」
「引退しました。Lulu=Luciaは終わりました」
ルシアは膝を抱えたまま、窓の外を見ていた。
「でも、完全に辞めるのは怖くて」と彼女は続けた。「全部やめたら、自分が何なのかわからなくなりそうで。だから別アカウントで、小さく続けてます」
「数百人くらいの」
「はい。誰も私だとは知らないです」
俺は何も言わなかった。
「それで、ここに来たのは」と彼女は言った。「噂を聞いたからです」
「噂」
「『感情同期に反応しない人間がいる』って。SNSで一度だけ話題になってました。住んでる地域とか、年齢とか、特徴とか。それを読んで、たぶんこの人なら、私が近くにいても何も伝わらない、私も何も受信しない、ってわかって」
「探した」
「探しました」と彼女は言った。「半年くらいかけて」
半年。
俺は半年前から、知らない間に探されていた。
知らない間に、誰かに探されているということが、こんなに不思議な感覚だとは思わなかった。今までの俺は、誰にも探されていなかった。感情が遅れて届く体質のせいで、人間関係はだいたい途中で消えた。長く続く関係は、ほとんどなかった。
でもこの半年、俺は探されていた。半年前の俺は、今日この瞬間に向かって生きていた。知らないままで、向かって生きていた。
その事実が、胸の中で動いていた。
「迷惑だったらすみません」と彼女は言った。
「迷惑じゃないです」
「ほんとですか」
「ほんとです」
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外で、風が少し強くなった。雲が早く動いていた。
「今日、来すぎたのは」と彼女は言った。「久しぶりにイベント配信したからです。普通の配信は数百人だから大丈夫だけど、イベントだと一気に増えるので」
「無理しないでください」
「はい」
「やめてもいいんじゃないですか、配信」
ルシアは少し首を傾けた。
「やめると、自分が何なのかわからなくなりそうで」
「……」
「でも、考えてみます」と彼女は言った。「白瀬さんに言われたので」
俺は何も言えなかった。
胸の中で、土曜日の朝につけた名前が、また動いた。
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夜になっても、ルシアの話したことが頭に残っていた。
倒れた配信のこと。半年探されていたこと。「自分が何なのかわからなくなる」という言葉。
今までルシアは、自分のことをあまり話さなかった。「天国や」と床に転がる。「なんでもいいです」と言う。プリンを食べる。配信して倒れる。それで一日が終わる。でも、その日常の裏に、半年探していた時間があった。倒れた配信があった。完全に辞めるのが怖い、という気持ちがあった。
全部、今日初めて聞いた。
俺が「やめてもいいんじゃないですか」と言ったのは、たぶん、今リアルタイムで心配していたからだった。三日後に来る感情じゃなくて、今この瞬間の感情で、彼女のことを思った。
その感情に、土曜日の朝につけた名前が混ざっていた。
もう、分けられなかった。
夜、電気を消す前に、俺は言った。
「あの」
「はい」
「言えそうです、明日」
ルシアが俺を見た。
「言えそうですか」
「たぶん。言えると思います」
ルシアは少し間を置いた。
「急がなくていいです」と彼女は言った。
「急いでないです」と俺は言った。「言いたいです、明日」
ルシアはまた間を置いた。今度は少し長かった。
「……わかりました」と彼女は言った。「明日、聞きます」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消した。
暗闇の中で、土曜日の朝につけた名前が、静かにあった。
明日、言う。
怖くなかった。
今日、リアルタイムで誰かを心配した。感情が遅れてくる俺が、今この瞬間に誰かを心配した。
半年前から探されていた、という話も、今日聞いた。
その全部が、胸の中にあった。
明日、言える。
とりあえず、寝ることにした。




