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第7話「土曜日の朝、俺は水曜日の朝に名前をつけた」



 木曜日、金曜日と、普通に過ぎた。


 水曜日の朝に来た感情は、まだ残っていた。重さが続いていた。どこかに向かっている何かが、ずっと胸の中にあった。名前はつけなかった。つけないまま、木曜日と金曜日が過ぎた。


 ルシアはいつも通りだった。卵焼きを作って、プリンを食べて、配信をして倒れた。木曜日の朝、卵焼きの巻き方を教えてもらいながら作った。少し上手く巻けた。完全には巻けなかったが、前よりはましだった。


 「前よりいいです」とルシアは言った。


 「まだ崩れてます」


 「でも前よりいいです」


 それだけだった。


 金曜日の夜、電気を消す前にルシアが言った。


 「明日、来ますね」


 「来ます」


 「水曜日の朝の分が」


 「そうです」


 ルシアは黙った。天井を見たまま、毛布を体に巻きつけた。


 「……名前、つけましたか」


 俺は少し考えた。


 「つけてないです」


 「そうですか」


 「明日来たら、つくかもしれないです」


 「つけたくないんじゃなかったですか」


 「つけたくなかったです。でも」と俺は言った。「明日来たら、つかないままでいられないかもしれないです」


 ルシアは黙った。しばらくして、「そうですか」と言った。今日の「そうですか」は、柔らかかった。


 「おやすみなさい」


 「おやすみなさい」


 電気を消した。


-----


 土曜日の朝、来た。


 今回は目が覚めた瞬間に来た。


 水曜日の朝の感情が、今朝届いた。水曜日の朝に来た「どこかに向かっている何か」が、今朝また来た。三日前に来て、今朝また来た。同じものが、二回来た。


 二回目の方が、重かった。


 布団の中で、天井を見ていた。


 どこかに向かっている何かが、今朝の俺の胸の中で動いていた。向かっている先が、わかっていた。水曜日の朝もわかっていた。今朝も、わかっていた。


 名前をつけようとした。


 頭の中で、言葉を探した。この感情に当てはまる言葉を探した。いくつか出てきた。どれも少し違う気がした。でも、一番近い言葉は、わかっていた。


 ずっとわかっていた。水曜日の朝からわかっていた。ただつけたくなかっただけだった。


 今朝、つけた。


 声には出さなかった。誰にも言わなかった。頭の中だけで、つけた。


 つけた瞬間、何かが変わった気がした。でも思っていたより、怖くなかった。名前をつけたら何かが壊れると思っていた。でも壊れなかった。ただ、はっきりした。霧の中にあったものが、輪郭を持った。それだけだった。


 「白瀬さん」


 ドアの向こうからルシアの声がした。


 「起きてますか」


 「……起きてます」


 「来てますか」


 「来てます」


 「大きいですか」


 「……水曜日の朝と同じです。でも少し重いです」


 間があった。


 「朝ごはん、作ります」


 足音がした。台所の方に移動する音がした。


-----


 起き上がって、台所に行った。


 卵焼きと味噌汁が用意されていた。今日もプリンがあった。


 「また特別ですか」と俺は言った。


 「毎週土曜日は特別にしようと思って」


 「毎週」


 「はい」とルシアは言った。「毎週土曜日、三日後が来る日なので」


 俺は何も言えなかった。


 毎週土曜日、三日後が来る日。ルシアはそれを覚えていた。覚えて、プリンを用意していた。


 座って食べ始めた。ルシアも向かいに座った。


 今日、ルシアは俺を見た。じっと見ていた。いつもは窓の外を見たり、自分の食事を食べたりしている。今日は俺を見ていた。


 「何ですか」と俺は言った。


 「顔、見てました」


 「何か変ですか」


 「変じゃないです」とルシアは言った。「でも、今日はいつもと違います」


 「どう違いますか」


 ルシアは少し考えた。


 「水曜日の朝より、落ち着いてます」


 「そうですか」


 「眉間の皺も、いつもより浅いです」


 「そうですか」


 「……名前、つきましたか」


 俺は卵焼きを食べながら、少し間を置いた。


 「つきました」


 ルシアの箸が止まった。


 「……そうですか」


 「声には出してないです。頭の中だけで」


 「言いたくないですか」


 「言えそうです。でも」と俺は言った。


 ルシアが俺を見た。


 「でも?」


 「まだ、今日は言いたくないです」


 ルシアは黙った。しばらして、卵焼きを食べた。窓の外を見た。晴れていた。土曜日の朝の光が、横から部屋に入っていた。


 「わかりました」と彼女は言った。


 「すみません」


 「謝らなくていいです」とルシアは言った。「今日は聞きません」


 「……ありがとうございます」


 「でも」


 「でも?」


 ルシアは窓の外を見たまま言った。


 「いつか言えそうですか」


 俺は少し考えた。正直に答えることにした。


 「言えると思います。たぶん」


 「そうですか」


 今日の「そうですか」は、また違った。さっきより少し、温かかった。


 二人でプリンを食べた。今日も三個あった。ルシアが二個食べた。俺が一個食べた。


-----


 午後、ルシアがコンビニに行くと言った。


 「一緒に行きますか」と俺は言った。


 ルシアは少し驚いた顔をした。


 「いいんですか」


 「どうせ行くので」


 「でも、人が多いと」


 「わかってます。無理そうなら戻ります」


 ルシアは少し考えた。それから「じゃあ」と言った。


 二人でフードを被って出た。ルシアのフードは深かった。俺のフードは浅かった。


 外は晴れていた。風が少しあった。土曜日の午後だった。


 コンビニまでは五分くらいだった。道を歩きながら、ルシアは少し肩を縮めていた。感情同期のノイズが来るからだろう。人とすれ違うたびに、少し強張った。


 「大丈夫ですか」と俺は言った。


 「……少し来ます」


 「戻りますか」


 「もう少し大丈夫です」


 コンビニに入った。ルシアはフードを深く被ったまま、棚を見た。からあげ棒を取った。プリンを取った。それから少し迷って、新しいフレーバーのプリンも取った。


 「新しいの出たんです」と彼女は言った。


 「そうですか」


 「食べてみようかと思って」


 「何味ですか」


 「キャラメルです」


 俺もからあげ棒を取った。二本。ルシアが「三本にしないんですか」と言った。「俺は二本でいいです」と俺は答えた。ルシアが「そうですか」と言った。


 レジで会計をして、外に出た。


 帰り道、ルシアが少し歩きやすそうだった。来る時より肩が上がっていなかった。


 「慣れましたか」と俺は聞いた。


 「慣れてないです」とルシアは言った。「でも、隣に誰かいると少し違います」


 「誰かいると」


 「あなたがいると」と彼女は訂正した。「ノイズが来ても、隣に静かな人がいると、少し落ち着きます」


 俺は何も言わなかった。


 胸の中で、今朝つけた名前が、少し動いた。


 アパートに戻った。ルシアはフードを脱いで、ソファに座って、キャラメルプリンを開けた。一口食べた。


 「……美味しいです」


 「そうですか」


 「でも普通のプリンの方が好きかもしれないです」


 「どうしてですか」


 ルシアは少し考えた。


 「最初に食べた時の『美味しい』が、一番自分のものだった気がするので」


 俺は何も言えなかった。


 最初に食べた時の「美味しい」。この部屋で初めてからあげ棒を食べた時の。あの「美味しい」が、一番自分のものだった。


 今朝つけた名前が、また動いた。


-----


 夕方、帰ってから少し時間があった。


 ルシアは配信の準備をしていた。俺はソファに座って、本を読んでいた。今日は少し読めた。日曜日の夜の言葉が来てから、ずっと本が読めなかった。でも今日は、少し読めた。


 名前をつけたからかもしれなかった。はっきりしたことで、かえって落ち着いた部分があった。霧の中より、輪郭が見えている方が、怖くなかった。


 「白瀬さん」とルシアが言った。


 「はい」


 「本、読めてますか」


 「今日は少し読めてます」


 ルシアは少し間を置いた。「そうですか」と言った。


 「水曜日より落ち着いてるので」と俺は言った。


 「名前がついたから」


 「たぶん」


 ルシアは何も言わなかった。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。配信の準備をした。


 姿勢が変わった。声が変わった。


 「……今日も来てくれてありがとう」


 配信が始まった。


 俺は本を読みながら、その声を聞いていた。今日の配信の声も、いつもと同じだった。柔らかく、丸く、何万人も包めそうな声。


 でも今日は、その声を聞いても、さっきより落ち着いていた。


 配信の声も本物だ、と思った。床に転がる声も本物だ。俺だけに向けた声も、本物だ。全部同じ人間から出ている。全部、本物だ。


 そのことが、今日は少しわかった気がした。


-----


 夜、ルシアが配信をして、倒れた。


 「つかれたー。ほんま、今日もよう頑張ったわ」と言った。関西弁だった。いつも通りだった。


 緑茶を差し出したら受け取った。一口飲んで、天井を見た。


 「今日、外出ましたね」とルシアが言った。


 「久しぶりでした」


 「一緒に来てくれてありがとうございます」


 「どうせ行くので」


 「でも」とルシアは言った。「一人だったら、もっと早く戻ってたと思います」


 「そうですか」


 「隣にいてくれたので、もう少し歩けました」


 俺は何も言えなかった。


 今朝つけた名前が、また動いた。今日一日で何度も動いた。コンビニで、帰り道で、キャラメルプリンの話で、今。何度も動いた。


 「あの」とルシアが言った。


 「はい」


 「名前、つけたって言ってましたね」


 「言いました」


 「今日は聞かないって言いました」


 「言ってましたね」


 「でも」とルシアは続けた。天井を見たまま。「明日も聞きません」


 「明日も」


 「白瀬さんが言いたくなった時でいいです」


 俺は少し間を置いた。


 「……いつになるかわかりません」


 「わかりました」


 「もしかしたら、すごく先かもしれません」


 「わかりました」とルシアはもう一度言った。「待ちます」


 待ちます。今日二回目だった。


 俺は何も言えなかった。


 胸の中の名前が、今日一番大きく動いた。


-----


 電気を消した。


 暗闇の中で、ルシアの寝息が聞こえてきた。


 今朝つけた名前が、まだそこにあった。頭の中に、静かにあった。


 言えるかもしれない。ルシアは待つと言った。急かさなかった。


 言いたくなった時でいいと言った。


 今夜の俺には、まだその時じゃなかった。


 でも、遠くない気がした。


 今朝コンビニに一緒に行った。帰り道、ルシアが「隣にいてくれたので、もう少し歩けました」と言った。その言葉が、まだ残っていた。


 三日後にまた来る。その時、もう少し近づくかもしれない。


 とりあえず、寝ることにした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。


皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。

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