第6話「水曜日の朝、俺は日曜日の夜を誰にも言えなかった」
月曜日、火曜日と、普通に過ぎた。
日曜日の夜、ルシアが何かを言った。俺は聞いた。覚えた。でも感情はまだ来ていなかった。言葉として頭の中にある。重さはまだない。そういう状態で、月曜日と火曜日が過ぎた。
ルシアはいつも通りだった。卵焼きを作って、プリンを食べて、配信をして倒れた。月曜日の朝、俺が起きたら台所にいた。火曜日の朝も、同じだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけだった。日曜日の夜のことは、どちらも口にしなかった。
月曜日の夜、電気を消す前にルシアが言った。
「明後日、来ますね」
「来ます」
「大きいですか」
俺は少し考えた。
「わからないです。でも、たぶん」
ルシアは黙った。毛布を体に巻きつけながら、天井を見た。
「……そうですか」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消した。暗闇の中で、日曜日の夜の言葉が、言葉として静かにあった。重さはまだなかった。
火曜日も同じだった。朝ごはんを食べて、ルシアは配信の準備をして、俺は本を読んだ。夜、電気を消す前にルシアが「明日ですね」と言った。「明日です」と俺は答えた。それだけだった。
ルシアは何も聞かなかった。俺も何も言わなかった。
でも火曜日の夜、眠る前に、ルシアが一度だけ言った。
「怖いですか」
俺は少し考えた。
「怖くないです。今は」
「今は」
「三日後のことは、三日後にならないとわかりません」
ルシアは黙った。しばらくして、「そうですね」と言った。それから眠った。
眠れなかった。
暗闇の中で、日曜日の夜の言葉が、言葉として静かにあった。言葉はわかる。重さはまだない。でも、明日には来る。そのことはわかっていた。
これまで三日後が来るのを怖いと思ったことはなかった。感情が遅れて届くのは、ずっとそうだった。慣れていた。でも今夜は、少し違った。怖い、というのとも違う。ただ、明日がどんな朝になるのか、今の俺にはわからなかった。
そのまま、眠った。
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水曜日の朝、来た。
目が覚める前に、来ていた。眠っている間に来たのか、目が覚めた瞬間に来たのか、わからなかった。気づいた時には、もう来ていた。
日曜日の夜のルシアの声が、今朝の俺の中にあった。
何を言ったか、ここには書かない。
ただ、来た。
今まで来た中で一番大きかった。月曜日の朝に来た「ありがとうございます」より大きかった。木曜日の夜の「あなたといると自分の感情がわかります」より大きかった。今まで来た全部の中で、一番大きかった。
布団の中で、動けなかった。
天井を見ていた。感情が来ている時、体が重くなる。今朝は今まで一番重かった。でも今朝の重さは、今までの重さと少し違った。
今までの重さは、下に向かっていた。押しつぶされるような重さだった。
今朝の重さは、どこかに向かっていた。どこかに向かって動いている何かが、胸の中にあった。
名前がわからなかった。
いや、正確には違う。名前がわかりそうだった。でもつけたくなかった。つけてしまったら、何かが変わる気がした。変わってしまったら、もう戻れない気がした。
だからつけなかった。名前のわからないまま、どこかに向かっている何かが、今朝の俺の胸の中にあった。
「白瀬さん」
ドアの向こうからルシアの声がした。
「起きてますか」
返事ができなかった。
「白瀬さん」
「……起きてます」
「来てますか」
間があった。
「……来てます」
「大きいですか」
答えなかった。
ドアの向こうで、少し間があった。足音がした。台所の方に移動する音がした。冷蔵庫を開ける音がした。卵を取り出す音がした。フライパンを出す音がした。
ルシアは何も言わなかった。ただ、朝ごはんを作り始めた。
俺は布団の中で、天井を見ていた。日曜日の夜の言葉が、今朝の俺の中で繰り返していた。来るたびに、胸の中の何かが動いた。どこかに向かっていた。向かっている先が、わかっていた。
だから名前をつけなかった。
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四十分くらいして、起き上がった。
台所に行ったら、卵焼きと味噌汁が用意されていた。今日はプリンもあった。
「デザートですか」と俺は言った。
「今日も特別なので」
「毎回特別ですね」
「毎回特別です」とルシアは言った。真顔だった。
座って食べ始めた。ルシアも向かいに座って食べ始めた。
今日、ルシアは俺を見なかった。窓の外を見て、卵焼きを食べていた。俺も窓の外を見た。曇っていた。雨が降りそうだった。
しばらく黙って食べた。卵焼きは今日も綺麗に巻けていた。味噌汁はインスタントだった。プリンは最後に食べた。
「来てますか、まだ」とルシアが聞いた。窓の外を見たまま言った。
「来てます」
「どうですか」
俺は少し間を置いた。
「今回は言いたくないです」
ルシアの箸が止まった。窓の外を見たまま、動かなかった。
「……そうですか」
いつもと違う声だった。「そうですか」はルシアがよく言う言葉だった。でも今日の「そうですか」は、今までと少し違った。何が違うのか、今の俺にはわからなかった。
「すみません」と俺は言った。
「謝らなくていいです」と彼女は言った。「言いたくない時もあります。聞きません」
窓の外を見たまま、卵焼きを食べた。俺も窓の外を見た。雲が動いていた。
二人とも、それ以上何も言わなかった。
雨が降り始めたのは、食べ終わった頃だった。
食器を洗った。ルシアが横に来て、一緒に洗った。いつもは俺か彼女のどちらかが洗う。今日は二人で洗った。理由はなかった。なんとなく、そうなった。
「卵焼きのコツ、そろそろ教えてもらえますか」と俺は言った。
「今ですか」
「今じゃなくていいですけど」
「今でもいいです」とルシアは言った。「フライパンの角度と、火加減と」
食器を洗いながら、教えてもらった。俺は聞きながら、食器を拭いた。
教えてもらいながら、日曜日の夜の言葉が、また繰り返した。名前をつけなかった。でも、隣にいるルシアを見て、胸の中の何かが動いた。どこかに向かっていた。
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午後、雨が強くなった。
ルシアはソファに座って、スマートフォンを見ていた。俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。頭に入らなかった。
日曜日の夜の言葉が、まだ繰り返していた。名前をつけたくなかった。でも、どこかに向かっている何かが、ずっと胸の中にあった。向かっている先がわかっていた。だから余計につけたくなかった。
「白瀬さん」とルシアが言った。
「はい」
「本、読めてますか」
「……読めてないです」
「そうですか」
雨の音がした。窓が少し曇っていた。
「あの」とルシアが言った。
「はい」
「言いたくないのはわかります」と彼女は言った。「聞きません。でも」
「でも?」
ルシアはスマートフォンをテーブルに置いた。俺を見た。
「顔に出てます」
「そうですか」
「眉間に皺が、いつもと違う種類です」
「違う種類」
「いつもは苦しそうな皺です。今日は違います」とルシアは言った。「何となく、わかります」
「読めないんじゃないですか、俺は」
「読めないです」と彼女は言った。「感情が来ないから。でも顔は見えます。今日の顔は、今まで見たことない顔です」
俺は何も言えなかった。
ルシアはそれ以上聞かなかった。スマートフォンを手に取って、また画面を見た。
俺も本に目を戻した。やっぱり読めなかった。
雨の音が続いていた。窓の外が暗くなっていった。
しばらくして、ルシアがまた言った。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、言いたくないのはわかります」と彼女は繰り返した。「でも、三日後はどうですか」
「三日後」
「三日後にまた来ますよね、今日の分が」
「来ます」
「その時は」とルシアは言った。「教えてもらえますか」
俺は少し考えた。
「……わかりません。その時になってみないと」
「そうですか」
「でも」と俺は言った。
ルシアが顔を上げた。
「言えるかもしれないです。三日後なら」
ルシアは少し黙った。それから、小さく頷いた。
「待ちます」と彼女は言った。
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夕方、雨が続いていた。
ルシアが配信の準備を始めた。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。声が変わった。
「……今日も来てくれてありがとう」
配信が始まった。
俺は台所でお湯を沸かした。配信の声を聞きながら、お湯が沸くのを待った。
いつもと同じ声だった。柔らかく、丸く、何万人も包めそうな声。
でも今日は、その声を聞きながら、別のことを考えていた。
日曜日の夜、ルシアは言った。その言葉を、今朝受け取った。重さがあった。どこかに向かっていた。
配信の声と、日曜日の夜の声は、同じ人間から出ている。同じ人間から出ているのに、全然違う。
配信の声は、何万人かに向けられている。日曜日の夜の声は、三日後の俺に向けられていた。
どちらが本物か、とは思わなかった。両方、本物だと思った。
ただ、日曜日の夜の声は、俺だけに向けられていた。そのことが、今朝来ていた。
三十分で配信が終わった。イヤホンを外して、横に倒れた。
「つかれた。あー、しんどー」
関西弁だった。いつも通りだった。最近は、配信後に倒れた時、必ず関西弁が出るようになっていた。
緑茶を差し出したら受け取った。一口飲んで、天井を見た。
「今日の白瀬さん、ずっと変でした」とルシアが言った。
「そうですか」
「ずっと考えてる顔してました」
「考えてました」
「言いませんよ、何を考えてたか」とルシアは言った。「聞きません」
「……ありがとうございます」
「でも」と彼女は続けた。天井を見たまま。「三日後、楽しみにしてます」
小さい声だった。
俺は何も言えなかった。
楽しみにしてます。三日後の俺が受け取るものを、ルシアが楽しみにしている。
今の俺には、その意味が全部はわからなかった。でも、わかる部分もあった。
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電気を消した。
暗闇の中で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。
日曜日の夜の言葉が、まだ繰り返していた。名前はつけなかった。つけないまま、今夜は終わることにした。
三日後にまた来る。その時も、名前をつけないかもしれない。
でも、どこかに向かっていることは、わかっていた。向かっている先が、わかっていた。
ルシアが「待ちます」と言った。「楽しみにしてます」と言った。
三日後の俺が、何を言うのか。今の俺にはわからない。
でも、怖くはなかった。
それだけが、今夜わかったことだった。
とりあえず、寝ることにした。
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