表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/48

第6話「水曜日の朝、俺は日曜日の夜を誰にも言えなかった」



 月曜日、火曜日と、普通に過ぎた。


 日曜日の夜、ルシアが何かを言った。俺は聞いた。覚えた。でも感情はまだ来ていなかった。言葉として頭の中にある。重さはまだない。そういう状態で、月曜日と火曜日が過ぎた。


 ルシアはいつも通りだった。卵焼きを作って、プリンを食べて、配信をして倒れた。月曜日の朝、俺が起きたら台所にいた。火曜日の朝も、同じだった。


 「おはようございます」


 「おはようございます」


 それだけだった。日曜日の夜のことは、どちらも口にしなかった。


 月曜日の夜、電気を消す前にルシアが言った。


 「明後日、来ますね」


 「来ます」


 「大きいですか」


 俺は少し考えた。


 「わからないです。でも、たぶん」


 ルシアは黙った。毛布を体に巻きつけながら、天井を見た。


 「……そうですか」


 「おやすみなさい」


 「おやすみなさい」


 電気を消した。暗闇の中で、日曜日の夜の言葉が、言葉として静かにあった。重さはまだなかった。


 火曜日も同じだった。朝ごはんを食べて、ルシアは配信の準備をして、俺は本を読んだ。夜、電気を消す前にルシアが「明日ですね」と言った。「明日です」と俺は答えた。それだけだった。


 ルシアは何も聞かなかった。俺も何も言わなかった。


 でも火曜日の夜、眠る前に、ルシアが一度だけ言った。


 「怖いですか」


 俺は少し考えた。


 「怖くないです。今は」


 「今は」


 「三日後のことは、三日後にならないとわかりません」


 ルシアは黙った。しばらくして、「そうですね」と言った。それから眠った。


 眠れなかった。


 暗闇の中で、日曜日の夜の言葉が、言葉として静かにあった。言葉はわかる。重さはまだない。でも、明日には来る。そのことはわかっていた。


 これまで三日後が来るのを怖いと思ったことはなかった。感情が遅れて届くのは、ずっとそうだった。慣れていた。でも今夜は、少し違った。怖い、というのとも違う。ただ、明日がどんな朝になるのか、今の俺にはわからなかった。


 そのまま、眠った。


-----


 水曜日の朝、来た。


 目が覚める前に、来ていた。眠っている間に来たのか、目が覚めた瞬間に来たのか、わからなかった。気づいた時には、もう来ていた。


 日曜日の夜のルシアの声が、今朝の俺の中にあった。


 何を言ったか、ここには書かない。


 ただ、来た。


 今まで来た中で一番大きかった。月曜日の朝に来た「ありがとうございます」より大きかった。木曜日の夜の「あなたといると自分の感情がわかります」より大きかった。今まで来た全部の中で、一番大きかった。


 布団の中で、動けなかった。


 天井を見ていた。感情が来ている時、体が重くなる。今朝は今まで一番重かった。でも今朝の重さは、今までの重さと少し違った。


 今までの重さは、下に向かっていた。押しつぶされるような重さだった。


 今朝の重さは、どこかに向かっていた。どこかに向かって動いている何かが、胸の中にあった。


 名前がわからなかった。


 いや、正確には違う。名前がわかりそうだった。でもつけたくなかった。つけてしまったら、何かが変わる気がした。変わってしまったら、もう戻れない気がした。


 だからつけなかった。名前のわからないまま、どこかに向かっている何かが、今朝の俺の胸の中にあった。


 「白瀬さん」


 ドアの向こうからルシアの声がした。


 「起きてますか」


 返事ができなかった。


 「白瀬さん」


 「……起きてます」


 「来てますか」


 間があった。


 「……来てます」


 「大きいですか」


 答えなかった。


 ドアの向こうで、少し間があった。足音がした。台所の方に移動する音がした。冷蔵庫を開ける音がした。卵を取り出す音がした。フライパンを出す音がした。


 ルシアは何も言わなかった。ただ、朝ごはんを作り始めた。


 俺は布団の中で、天井を見ていた。日曜日の夜の言葉が、今朝の俺の中で繰り返していた。来るたびに、胸の中の何かが動いた。どこかに向かっていた。向かっている先が、わかっていた。


 だから名前をつけなかった。


-----


 四十分くらいして、起き上がった。


 台所に行ったら、卵焼きと味噌汁が用意されていた。今日はプリンもあった。


 「デザートですか」と俺は言った。


 「今日も特別なので」


 「毎回特別ですね」


 「毎回特別です」とルシアは言った。真顔だった。


 座って食べ始めた。ルシアも向かいに座って食べ始めた。


 今日、ルシアは俺を見なかった。窓の外を見て、卵焼きを食べていた。俺も窓の外を見た。曇っていた。雨が降りそうだった。


 しばらく黙って食べた。卵焼きは今日も綺麗に巻けていた。味噌汁はインスタントだった。プリンは最後に食べた。


 「来てますか、まだ」とルシアが聞いた。窓の外を見たまま言った。


 「来てます」


 「どうですか」


 俺は少し間を置いた。


 「今回は言いたくないです」


 ルシアの箸が止まった。窓の外を見たまま、動かなかった。


 「……そうですか」


 いつもと違う声だった。「そうですか」はルシアがよく言う言葉だった。でも今日の「そうですか」は、今までと少し違った。何が違うのか、今の俺にはわからなかった。


 「すみません」と俺は言った。


 「謝らなくていいです」と彼女は言った。「言いたくない時もあります。聞きません」


 窓の外を見たまま、卵焼きを食べた。俺も窓の外を見た。雲が動いていた。


 二人とも、それ以上何も言わなかった。


 雨が降り始めたのは、食べ終わった頃だった。


 食器を洗った。ルシアが横に来て、一緒に洗った。いつもは俺か彼女のどちらかが洗う。今日は二人で洗った。理由はなかった。なんとなく、そうなった。


 「卵焼きのコツ、そろそろ教えてもらえますか」と俺は言った。


 「今ですか」


 「今じゃなくていいですけど」


 「今でもいいです」とルシアは言った。「フライパンの角度と、火加減と」


 食器を洗いながら、教えてもらった。俺は聞きながら、食器を拭いた。


 教えてもらいながら、日曜日の夜の言葉が、また繰り返した。名前をつけなかった。でも、隣にいるルシアを見て、胸の中の何かが動いた。どこかに向かっていた。


-----


 午後、雨が強くなった。


 ルシアはソファに座って、スマートフォンを見ていた。俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。頭に入らなかった。


 日曜日の夜の言葉が、まだ繰り返していた。名前をつけたくなかった。でも、どこかに向かっている何かが、ずっと胸の中にあった。向かっている先がわかっていた。だから余計につけたくなかった。


 「白瀬さん」とルシアが言った。


 「はい」


 「本、読めてますか」


 「……読めてないです」


 「そうですか」


 雨の音がした。窓が少し曇っていた。


 「あの」とルシアが言った。


 「はい」


 「言いたくないのはわかります」と彼女は言った。「聞きません。でも」


 「でも?」


 ルシアはスマートフォンをテーブルに置いた。俺を見た。


 「顔に出てます」


 「そうですか」


 「眉間に皺が、いつもと違う種類です」


 「違う種類」


 「いつもは苦しそうな皺です。今日は違います」とルシアは言った。「何となく、わかります」


 「読めないんじゃないですか、俺は」


 「読めないです」と彼女は言った。「感情が来ないから。でも顔は見えます。今日の顔は、今まで見たことない顔です」


 俺は何も言えなかった。


 ルシアはそれ以上聞かなかった。スマートフォンを手に取って、また画面を見た。


 俺も本に目を戻した。やっぱり読めなかった。


 雨の音が続いていた。窓の外が暗くなっていった。


 しばらくして、ルシアがまた言った。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「今日、言いたくないのはわかります」と彼女は繰り返した。「でも、三日後はどうですか」


 「三日後」


 「三日後にまた来ますよね、今日の分が」


 「来ます」


 「その時は」とルシアは言った。「教えてもらえますか」


 俺は少し考えた。


 「……わかりません。その時になってみないと」


 「そうですか」


 「でも」と俺は言った。


 ルシアが顔を上げた。


 「言えるかもしれないです。三日後なら」


 ルシアは少し黙った。それから、小さく頷いた。


 「待ちます」と彼女は言った。


-----


 夕方、雨が続いていた。


 ルシアが配信の準備を始めた。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。声が変わった。


 「……今日も来てくれてありがとう」


 配信が始まった。


 俺は台所でお湯を沸かした。配信の声を聞きながら、お湯が沸くのを待った。


 いつもと同じ声だった。柔らかく、丸く、何万人も包めそうな声。


 でも今日は、その声を聞きながら、別のことを考えていた。


 日曜日の夜、ルシアは言った。その言葉を、今朝受け取った。重さがあった。どこかに向かっていた。


 配信の声と、日曜日の夜の声は、同じ人間から出ている。同じ人間から出ているのに、全然違う。


 配信の声は、何万人かに向けられている。日曜日の夜の声は、三日後の俺に向けられていた。


 どちらが本物か、とは思わなかった。両方、本物だと思った。


 ただ、日曜日の夜の声は、俺だけに向けられていた。そのことが、今朝来ていた。


 三十分で配信が終わった。イヤホンを外して、横に倒れた。


 「つかれた。あー、しんどー」


 関西弁だった。いつも通りだった。最近は、配信後に倒れた時、必ず関西弁が出るようになっていた。


 緑茶を差し出したら受け取った。一口飲んで、天井を見た。


 「今日の白瀬さん、ずっと変でした」とルシアが言った。


 「そうですか」


 「ずっと考えてる顔してました」


 「考えてました」


 「言いませんよ、何を考えてたか」とルシアは言った。「聞きません」


 「……ありがとうございます」


 「でも」と彼女は続けた。天井を見たまま。「三日後、楽しみにしてます」


 小さい声だった。


 俺は何も言えなかった。


 楽しみにしてます。三日後の俺が受け取るものを、ルシアが楽しみにしている。


 今の俺には、その意味が全部はわからなかった。でも、わかる部分もあった。


-----


 電気を消した。


 暗闇の中で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。


 日曜日の夜の言葉が、まだ繰り返していた。名前はつけなかった。つけないまま、今夜は終わることにした。


 三日後にまた来る。その時も、名前をつけないかもしれない。


 でも、どこかに向かっていることは、わかっていた。向かっている先が、わかっていた。


 ルシアが「待ちます」と言った。「楽しみにしてます」と言った。


 三日後の俺が、何を言うのか。今の俺にはわからない。


 でも、怖くはなかった。


 それだけが、今夜わかったことだった。


 とりあえず、寝ることにした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。


皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ