第5話「日曜日の朝、俺は木曜日の夜に殺された」
金曜日、土曜日と、普通に過ぎた。
木曜日の夜にルシアが言ったことを、俺はちゃんと覚えていた。言葉として覚えていた。「今のあなたに届かないとわかって言ってます」「あなたといると、自分の感情がわかります」「三日後に届いた時、覚えてたら、でいいので」。全部、頭の中にあった。
でも感情としては、まだ来ていなかった。
言葉は知っている。でも重さがわからない。そういう状態だった。
ルシアは木曜日の夜以降、特に何も変わらなかった。いつも通り卵焼きを作って、プリンを食べて、配信をして倒れた。「今のあなたに届かないとわかって言いました」という言葉を、もう一度口にすることはなかった。
俺も何も言わなかった。
金曜日の夜、ルシアが配信を終えて倒れた後、俺は緑茶を差し出した。
「ありがとうございます」と彼女は言った。
「あの」と俺は言った。
「はい」
「木曜日の夜に言ってたこと」
ルシアは天井を見たまま、少し間を置いた。
「覚えてますか、今も」と彼女は聞いた。
「言葉としては覚えてます。感情はまだ来てないです」
「そうですか」
「三日後に来ます」
「……わかってます」とルシアは言った。「だから言いました」
それだけだった。
土曜日も、同じような一日だった。からあげ棒を食べて、プリンを食べて、夕方に少し雨が降って、夜に配信をして、倒れた。俺は本を読んだり、洗い物をしたりした。普通の土曜日だった。
夜、電気を消す前に、ルシアが言った。
「明日、何か来ますね」
「来ます」
「大きいですか」
俺は少し考えた。
「たぶん、今まで一番大きいです」
ルシアは黙った。毛布を体に巻きつけながら、黙っていた。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消した。
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日曜日の朝、来た。
目が覚めた瞬間ではなかった。
目が覚めて、天井を見て、昨日と同じ朝だと思った。その三秒後に、来た。
最初に来たのは声だった。
「今のあなたに届かないとわかって言ってます」
次に来たのは顔だった。木曜日の夜、ソファに座って俺を見ていたルシアの顔。配信の顔でも、床に転がる顔でも、プリンを食べる顔でもなかった。もっと真剣な、でも少し怖がっているような顔。
それから言葉が来た。
「あなたといると、自分の感情がわかります」
「他の人といると、その人の感情が来て、自分のがどこにあるのかわからなくなります」
「怖いです、それが」
「自分の感情だけになると、どれが本物なのかわからなくて」
全部、一度に来た。
動けなかった。
布団の中で、天井を見ていた。感情が来ている時、体が重くなることがある。今朝は今まで一番重かった。起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かなかった。重いというより、何かに押さえられているような感じだった。
木曜日の夜のルシアの声が、繰り返し来ていた。
「あなたといると、自分の感情がわかります」
この一文が、何度も来ていた。
来るたびに、胸の中で何かが動いた。名前のわからない何かが。嬉しいとも悲しいとも違う、でも確かに動いている何かが。
「白瀬さん」
声が聞こえた。
「白瀬さん、起きてますか」
ドアの向こうからルシアの声がした。今日は少し早い。いつもなら俺が先に起きる。
「……起きてます」
「また来てますか」
「来てます」
間があった。
「大きいですか」
「……今まで一番です」
もっと長い間があった。
「そうですか」とルシアは言った。声が少し変わった気がした。「朝ごはん、作ります。できたら声かけます」
足音がした。台所の方に移動する音がした。冷蔵庫を開ける音がした。
俺は布団の中で、天井を見ていた。
木曜日の夜の声が、まだ来ていた。
「三日後に届いた時、覚えてたら、でいいので」
覚えていた。言葉として、ずっと覚えていた。そして今朝、感情として届いた。
覚えていた、と言った。感じてなくても、聞こえてます、と言った。
今朝の俺には、その意味がわかった。
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四十分くらいして、ルシアが声をかけてきた。
「できました」
「……今行きます」
起き上がった。体が重かった。でも起き上がれた。台所に行ったら、卵焼きと味噌汁と、あとプリンが一個置いてあった。
「プリンは朝ごはんじゃないですよ」と俺は言った。
「デザートです」
「朝にデザートは」
「いいんです」とルシアは言った。「今日は特別なので」
特別。俺は何も言わなかった。座って食べ始めた。
卵焼きは今日も綺麗に巻けていた。味噌汁はインスタントだった。プリンは最後に食べた。
食べている間、ルシアは俺を見ていた。いつもは窓の外を見たり、自分の食事を食べたりしている。今日は俺を見ていた。
「何ですか」と俺は言った。
「届いてますか、まだ」
「来てます」
「顔に出てますよ」
「そうですか」
「眉間に皺が」とルシアは言った。「いつもより深いです」
俺は卵焼きを食べながら、少し考えた。
「木曜日の夜に言ったこと」と俺は言った。
ルシアの箸が止まった。
「届きましたか、と聞いてもいいですか」
間があった。ルシアは俺を見たまま、動かなかった。
「……届きました」と俺は言った。「今朝、全部来ました」
ルシアはまだ動かなかった。何かを読もうとしている顔だった。でも読めていない顔だった。
「どうでしたか」と彼女は聞いた。小さい声だった。
俺は少し考えた。正直に言うことにした。
「重かったです」
「重い」
「悲しいとか嬉しいとか、そういうのじゃなくて。ただ重かったです。名前がわからないです、まだ」
ルシアは黙った。視線を卵焼きに落とした。
「そうですか」
「でも」と俺は言った。「ちゃんと届きました」
ルシアは顔を上げた。
「……そうですか」
今度の「そうですか」は、また違った。さっきより少し、柔らかかった。
しばらく二人とも黙って食べた。外から鳥の声がした。日曜日の朝だった。
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午後、ルシアがソファに座って、スマートフォンを見ていた。
俺は本を読んでいた。木曜日の夜の感情は、まだ少し残っていた。重い何かが、胸の中にまだあった。名前はまだわからなかった。
「あの」とルシアが言った。
「はい」
「今日の白瀬さん、いつもと違います」
「来てるので」
「それだけじゃなくて」と彼女は言った。「なんか、ずっと考えてる顔してます」
「考えてます」
「何を」
俺は正直に言うことにした。
「名前がわからないので、何を感じてるのか、考えてます」
ルシアは少し首を傾けた。
「名前がわからない感情」
「来てるのはわかります。でも何なのかわからないです。嬉しいとも悲しいとも違う。でも確かに来てます」
ルシアは黙った。スマートフォンをテーブルに置いて、少し考えるような顔をした。
「私も」と彼女は言った。「よくあります、それ」
「名前がわからない感情」
「はい。他人の感情が混ざると、余計わからなくなります。でもあなたの部屋にいると、他人のが来ないから、自分のだけになって、それでも名前がわからなくて」
「それが怖いと言ってましたね」
「……覚えてたんですね、言葉として」
「覚えてました」
ルシアは少し笑った。小さい笑いだった。
「変ですね、この会話」と彼女は言った。
「何が」
「三日前に私が言ったことを、今日あなたが覚えてる。でも感情は今日届いた。だから今日が、私にとっては三日前で、あなたにとっては今日で」
「ずれてます」
「ずれてます」とルシアは繰り返した。「でも」
そこで止まった。
「でも?」と俺は聞いた。
ルシアは少し間を置いた。
「届いてるので、いいかと思って」
俺は何も言わなかった。
胸の中の重い何かが、少しだけ動いた。名前はまだわからなかった。でも、さっきより少しだけ、軽くなった気がした。
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夜、ルシアが配信の準備を始めた。
スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。
配信が終わって、イヤホンを外して、横に倒れた。
「つかれた」
関西弁だった。いつも通りだった。
「あー、ほんまに、疲れたわ」
また、関西弁が出た。少し前より、謝らなくなってきていた。今日は「すみません」を言わなかった。
俺はそれに、気づいた。でも、何も言わなかった。
緑茶を差し出したら受け取った。一口飲んで、天井を見た。
しばらくして、ルシアが言った。
「白瀬さん」
「はい」
「今日、木曜日の夜のが届いたんですよね」
「届きました」
「じゃあ」とルシアは言った。天井を見たまま言った。
「じゃあ、今日また言います」
俺は何も言えなかった。
「今のあなたには届かないのはわかってます」とルシアは続けた。「三日後に届きます。それでいいので」
部屋が静かだった。
ルシアは天井を見たまま、一度深く息を吸った。
そして、言った。
俺は聞いた。
今の俺には、その言葉の重さがわからなかった。
三日後に届く。
三日後の俺が、今夜の俺の代わりに、全部受け取る。
「……おやすみなさい」とルシアは言った。
「おやすみなさい」
電気を消した。
暗闇の中で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。今夜はすぐ眠れたようだった。
今夜ルシアが言った言葉が、暗闇の中にあった。聞こえた。覚えた。でも重さはまだ来ていない。
三日後に来る。
三日後の俺は、今夜の言葉を受け取って、どうなるんだろう。
今夜の俺には、まだわからない。
でも。
怖くはなかった。
三日後が来るのが、今夜初めて、怖くなかった。
それだけが、今夜わかったことだった。
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