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第10話「土曜日の朝、俺は水曜日の朝をもう一度受け取った」


 木曜日、金曜日と、普通に過ぎた。


 水曜日の朝に俺は名前を口に出した。「あなたが、自分の感情がわかるようになるまで、待ちたいです」と言った。ルシアは「待ってくれますか」と言った。俺は「待ちます」と言った。


 それだけだった。


 木曜日も金曜日も、いつも通りだった。卵焼きを食べた。プリンを食べた。ルシアは配信をして倒れた。「つかれた」と関西弁で言った。普通の日が、続いていた。


 でも、少し違うこともあった。


 ルシアが、たまに窓の外を見ていた。長い時間。何を見ているわけでもなく、ただ窓の外を見ていた。木曜日の昼に一回、金曜日の朝に一回、金曜日の夕方に一回。気づいた範囲で、三回。本当はもっと見ていたかもしれない。


 そういう時のルシアは、いつもと少し違った。考え事をしている、というより、何かを整理している、という感じだった。配信の前にいつも軽く整理する仕草をしていた。あれに似ていた。でも今は、配信のためじゃない。たぶん、自分の中の何かを整理していた。


 そして、配信の前後で、関西弁の出方が変わった。


 いつもは配信が終わった後に「つかれた」と言う。それはずっと同じだった。でも木曜日の夜は、配信前に一回、関西弁が出た。「これ、もうちょっと甘くしたかったんやけど」と、夕食のオムレツについて言った。すぐに「すみません、つい」と言って、いつもの話し方に戻った。


 関西弁が、配信後だけのものじゃなくなってきていた。少しずつ、日常の中に混ざってきていた。


 俺はそれを、見ていた。でも何も言わなかった。


 話しかけなかった。考え事をしているのが、見ていてわかった。だから話しかけなかった。


 金曜日の夜、配信が終わってルシアが倒れた時、彼女は珍しく長く沈黙した。緑茶を一口飲んでから、十分くらい、天井を見ていた。


 「白瀬さん」と彼女は言った。


 「はい」


 「ちょっと、考えてます」


 「わかります」


 「急かさないでくれて、ありがとうございます」


 「待つって言ったので」


 ルシアは少し笑った。小さく笑った。


 「ちゃんと、待ってくれてますね」


 「待ってます」


 それだけだった。


-----


 土曜日の朝、来た。


 目が覚める前に、来ていた。眠っている間に来たのか、目覚めた瞬間に来たのか、わからなかった。気づいた時には、来ていた。


 水曜日の朝の感情が、今朝届いていた。


 俺が言った言葉が、今朝届いていた。


 「あなたが、自分の感情がわかるようになるまで、待ちたいです」


 自分の声で、今朝の俺の中で鳴っていた。


 不思議な感覚だった。他人の声を聞いている時の方が、まだ近い気がした。自分の声を、自分の中で、外から聞いているような違和感があった。


 でも、確かに自分の声だった。


 今までと違う体験だった。今までは、ルシアの感情が三日後に届くか、自分の中の何かが三日後に動くか、そのどちらかだった。でも今朝は違った。自分が出した言葉が、三日遅れで自分の中に戻ってきていた。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 言った時の俺の感情も、来ていた。緊張、決意、そういうものが今朝届いていた。


 そして、ルシアの反応も来ていた。


 テーブルの上で組まれた両手。少し動いた目。組み直した手。「練習ができてないので」という言葉。「私も、答えたいです」と言った時の声。「答えなくていいですか、今すぐは」と聞いた時の表情。


 全部、今朝届いていた。


 言ってよかった、と思った。


 初めて、感情が来た時に「よかった」と思った。今までは重かった。怖かった。混乱した。でも今朝は、よかった、と思った。


 それだけが、わかった。


-----


 起き上がって、台所に行った。


 ルシアがいた。卵焼きを作っていた。今日は彼女の番だった。


 「おはようございます」と俺は言った。


 「おはようございます」


 振り向いた。少し首を傾けた。


 「今日も来てますか」


 「来てます」


 「大きいですか」


 「水曜日の朝の分です」


 ルシアは少し黙った。


 「私が言ったことの分じゃなくて」


 「俺が言ったことの分です」


 「あ」


 ルシアは少し驚いた顔をした。


 「そういうこと、あるんですか」


 「あるみたいです。初めて気づきました」


 「自分の言葉が、三日後に来る」


 「来ました」


 ルシアはフライパンを傾けながら、少し考えるような顔をした。


 「どうですか、それは」


 俺は少し考えた。


 「よかったです、と思いました」


 「よかった」


 「今までは、感情が来るのは重かったです。でも今朝は、よかったと思いました」


 ルシアは何も言わなかった。卵焼きを巻き続けた。背中を向けたままだったが、肩のあたりが少しだけ緩んだのが、見ていてわかった。


 「私も」と彼女は言った。背中を向けたまま。


 「はい」


 「水曜日の朝のこと、ずっと考えてます」


 「考えてくださってるんですね」


 「考えてます」


 卵焼きが皿に盛られた。今日も綺麗に巻けていた。テーブルに二人で座って、食べた。


 何も言わなかった。でも気まずくなかった。


 窓の外で、また鳥が鳴いていた。


-----


 午後、ルシアが机に向かっていた。


 珍しいことだった。いつもはソファに座ってスマートフォンを見ているか、床に転がっているか、配信の準備をしているか、そのどれかだった。机に向かっているのは、ここに来てから初めて見た。


 何かを書いているようだった。手帳らしきものを開いて、ペンを持っていた。でも書いては止まり、止まっては書く、という感じだった。たくさんは書けていないようだった。


 俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。彼女の様子が気になっていた。でも、聞かなかった。


 夕方になって、彼女は手帳を閉じた。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「コンビニ、行きますか」


 「行きますよ」


 「一緒に行ってもいいですか」


 「いいですよ」


 二人でフードを被って出た。


 コンビニまでの道で、ルシアは少し肩を縮めていた。いつもの感情同期のノイズだった。でも、前ほど辛そうじゃなかった気がした。


 「慣れましたか」と俺は聞いた。


 「慣れてないです」と彼女は言った。「でも、隣にあなたがいると、楽です」


 「そうですか」


 「あなたの『静かさ』が、少しずつ私の方にも染みてきてる気がします」


 「染みる」


 「ノイズが来ても、前よりは耐えられます。なんでですかね」


 俺は少し考えた。


 「わからないです」


 「私も」と彼女は言った。「でも、変わってきてる気がします」


 コンビニで、プリンを買った。今日は二個。からあげ棒も買った。今日は俺が二本、ルシアが二本。三本にしなかった。「今日は二本でいいです」と彼女は言った。


 帰り道、ルシアが言った。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「私、答え、決まりました」


 俺は少し驚いた。


 「決まったんですか」


 「決まりました」


 俺は何を言ったらいいかわからなかった。決まったんだ、と思った。これだけ言えば、もう十分だった。


 でも、聞かずにはいられなかった。


 「言いますか、今」


 ルシアは少し考えた。それから、首を横に振った。


 「今日は、言わないです」


 「そうですか」


 「明日でもないです」


 「いつ言いますか」


 ルシアは少し笑った。


 「来週の水曜日に、言います」


 「水曜日」


 「今日から三日後じゃなくて、もっと先の水曜日。あなたが言ってくれた水曜日と、同じ曜日です」


 「同じ曜日」


 「そうしたかったので」


 彼女は少しだけ、ふっと息を抜くように笑った。


 「自分でルール、作っちゃったわ」


 関西弁が、自然に出ていた。彼女は気づいて、口元を押さえた。


 「すみません」


 「いえ」


 「最近、出やすくて」


 「うん」


 俺は何も言わなかった。


 待ちます、と言った。だから、待つ。


 でも、心の中で何かが少し動いた。「答え、決まりました」と彼女は言った。決めた、ということだった。


 何を決めたのか、まだわからなかった。


 でも、決めた、ということだった。


 アパートに戻る間、ルシアは少し早歩きだった。いつもより速かった気がする。俺は後ろから少し追いつくように歩いた。


 帰ってからも、ルシアは少し落ち着かない様子だった。プリンを食べ終わって、皿を洗いながら、何度か手を止めた。何かを言いかけて、やめた。それを二回くらい繰り返した。


 「言いたいですか、今」と俺は聞いた。


 「言いたくはないです」と彼女は言った。「ちゃんと、来週まで待ちたいです」


 「そうですか」


 「自分で決めたので、ちゃんと守りたいです」


 俺は何も言わなかった。


 彼女は何かを決めた。そしてそれを、ちゃんと言うために、自分でルールを作った。来週の水曜日。それまで言わない。


 待つ、というのは、ルシアにとっても初めての経験なのかもしれなかった。


-----


 夜、ルシアが配信をした。


 今日は三十分だった。いつも通りの長さだった。終わって倒れて「つかれたわー」と言った。緑茶を渡した。受け取った。


 「白瀬さん」と彼女は言った。天井を見たまま。


 「はい」


 「水曜日まで、普通に過ごしていいですか」


 「いいですよ」


 「来週の水曜日まで、私、いつも通りにします」


 「いつも通りで」


 「そうです。卵焼きを作って、プリンを食べて、配信して倒れて、つかれたって言って」


 「いいですよ」


 ルシアは少し笑った。


 「ありがとうございます」


 電気を消した。


 暗闇の中で、ルシアの寝息がすぐに聞こえてきた。


 今朝、自分の言葉が三日後に届いた。よかった、と思った。


 午後、ルシアが手帳に何かを書いていた。


 夕方、「答え、決まりました」と言った。


 来週の水曜日に、言ってくれる。


 俺は待つ。


 待つ、というのは、こういうことなのかもしれない、と思った。何もしないわけじゃない。卵焼きを食べたり、本を読んだり、コンビニに行ったりする。普通の日が続く。


 でもその普通の中に、来週の水曜日が、ちゃんとある。


 今までの俺は、三日後を怖がっていた。三日後の自分が、何を受け取って、どんな顔をして、布団の中で動けなくなるのか。それがずっと怖かった。


 今は違う。


 来週の水曜日が、ある。


 彼女が答えを言う日が、ある。


 それまで、いつも通り過ごす。卵焼きを食べて、プリンを食べて、ルシアが倒れた時に緑茶を渡す。普通の日を過ごす。


 その普通の日々の先に、水曜日がある。


 悪くなかった。久しぶりに、三日後のことを怖がらないで眠れそうだった。来週の水曜日まで、こんな夜がもう何回か続くのかもしれない。それも、悪くなかった。


 とりあえず、寝ることにした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。


皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。

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