第11話「日曜日の夜、彼女は俺を別の名前で呼んだ」
土曜日の夜、電気を消す前に、ルシアは「ずっと、いていいですか」と聞いた。
俺は「ずっと、いていいです」と答えた。
それだけだった。
電気を消して、暗闇の中で、彼女の寝息が聞こえてきた。今日は早く眠った。配信が短かったから疲れも少なかったのかもしれない。
俺は天井を見ていた。
来週の水曜日に、彼女は何かを言う。何を言うかは、まだわからない。
「ずっといていい」と言ったけれど、彼女の答え次第では、何かが変わるかもしれない。「ずっといます」と答えるかもしれない。「やっぱり帰ります」と言うかもしれない。「待ってもらえますか」と言うかもしれない。
わからなかった。
わからないまま、水曜日を待つ。それが、待つ、ということだった。
今までの俺は、三日後を怖がっていた。三日後に何が届くかわからない、それが怖かった。
でも今は、水曜日を待っている。
怖がるのと、待つのは、似ているようで違う気がした。
とりあえず、寝ることにした。
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日曜日の朝、目が覚めた瞬間に、来ていた。
木曜日と金曜日の感情が、今朝届いていた。ルシアが窓の外を見ていた長い時間。配信前に関西弁が出た瞬間。「これ、もうちょっと甘くしたかったんやけど」と言った時の声。
全部、今朝届いた。
大きい感情じゃなかった。でも、確かに来ていた。
ルシアが何かを整理していた、ということ。それを俺が見ていた、ということ。それが今朝、感情として届いていた。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。
水曜日のことを考えていた。あと三日。土曜日の夜から数えると、あと四日。
起き上がって、台所に行った。
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ルシアがいた。
今日は彼女が朝ごはんを作っていた。卵焼きと、味噌汁。いつも通りだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺は冷蔵庫の上のカレンダーを見た。
カレンダーは、ルシアが来た頃から一度も見ていなかった気がする。普段使わない。日付はスマートフォンで見れば足りる。
でも今朝は見た。
今日が日曜日。来週の水曜日は四日後。四日。
「白瀬さん」とルシアが言った。
「はい」
「カレンダー、見てましたね」
「見てました」
「水曜日ですか」
「水曜日です」
ルシアは少し笑った。フライパンを傾けながら。
「四日後ですよ」
「知ってます」
「四日って、長いですか」
俺は少し考えた。
「長くないです」と俺は言った。「待つって決めたので」
ルシアは何も言わなかった。卵焼きを巻き続けた。
でも、肩のあたりが少しだけ緩んだ。
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朝食を食べた。卵焼きは綺麗に巻けていた。味噌汁はインスタントだった。窓の外は晴れていた。
食べながら、俺はルシアを見ていた。
いつも通りの朝だった。卵焼きを食べるルシア。味噌汁をすするルシア。窓の外を見るルシア。
でも、今朝はそれを「いつも通り」じゃなくて、もう少し意識して見ていた。
なぜなら、水曜日が来たら、何かが変わるかもしれないから。
「ずっといていい」と俺は言った。彼女は「ずっといていいですか」と聞いた。だから、たぶん、変わらない。
でも、わからなかった。彼女は何かを決めた。何を決めたかは、まだわからない。
だから、念のため、覚えておこうと思った。
今のこのルシアの顔。卵焼きを食べる時に少し下を向く癖。味噌汁を飲むときに口を少し尖らせる仕草。窓の外を見て、少し目を細める瞬間。
全部、覚えておこうと思った。
水曜日になって、もし何かが変わったら、この朝のことを覚えていたい。
そう思いながら、卵焼きを食べた。
考えてみたら、不思議だった。
俺は感情が三日遅れる。だから、いつもなら「今このルシアを覚えておきたい」とは思わない。今この瞬間の感情が動かないから、覚えておく動機が来ない。
でも今朝は、覚えておきたいと思っている。
どうしてだろう、と少し考えた。
答えは、すぐにわかった気がした。
水曜日のことを、待っているからだった。
待つ、という気持ちを持っていると、今この瞬間が少しだけ大切に見える。今この瞬間の風景が、水曜日の前の風景になる。だから、覚えておきたい。
たぶん三日後の俺なら、もっとはっきりわかるんだろう。
でも今朝の俺にも、その輪郭は見えていた。
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午後、ルシアは机に向かっていた。
昨日と同じだった。手帳を開いて、ペンを持っていた。書いては止まり、止まっては書いた。たまに目を閉じて、何かを考えていた。
俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。彼女の様子が気になっていた。
何を書いているのか、聞かなかった。
「水曜日に言うこと」を整理しているのは、なんとなくわかった。だから聞かなかった。聞いたら、水曜日に聞く意味がなくなる。
夕方になって、ルシアが手帳を閉じた。閉じる時、少し笑っていた。たぶん、書きたいことが書けたんだろう。
「コンビニ、行きますか」と彼女は言った。
「行きますよ」
二人で出た。フードを被って。土曜日と同じだった。
コンビニまでの道で、ルシアは前より少し肩の力が抜けていた。慣れたのか、何かを決めたからか、わからなかった。
「最近、楽になりました」と彼女は言った。
「ノイズが?」
「ノイズもですけど」彼女は少し考えた。「全体が、少し楽になりました」
「全体」
「うまく言えないですけど」
俺は何も言わなかった。
でも、それが何かは、なんとなくわかる気がした。
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コンビニで、ルシアはプリンを二個買った。からあげ棒は買わなかった。
「今日はからあげ棒、なしですか」と俺は聞いた。
「今日はプリンの気分です」
「気分」
「そうです」
彼女は少し笑った。
「最近、こういうの、楽しいわ」
関西弁が、また、出た。彼女は気づいて、口に手を当てた。
「あ」
「いいですよ」
「最近、出やすくて」
「うん」
彼女は少し笑った。
気分。
ルシアが「気分」という言葉を使ったのは、たぶん初めてだった。
今までは「なんでもいいです」だった。それが「からあげ棒」になって、「プリン」になって、「キャラメル味」になって。今日は「気分」になった。
自分の感情の輪郭が、少しずつ太くなっている。
俺はそれを、隣で歩きながら見ていた。
半年探されていた人間が、今、隣でプリンを抱えて歩いている。それも不思議だった。
半年前の俺は、誰かに探されているなんて知らなかった。普通に学校に行って、感情遅延に悩みながら、一人で泣いたり笑ったりしていた。
その時、たぶん俺は誰かに「気分」を聞かれることもなかった。「なんでもいい」と答えることすらなかった。誰も俺の「気分」に興味がなかった。
でも今は、隣にいる人がプリンを選んだ。「気分」と言って。
それは、俺にとっても、たぶん何かが変わってきている、ということだった。
歩きながら、それを少しだけ感じていた。
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帰ってから、ルシアは配信の準備をしなかった。
「今日はやらないんですか」と俺は聞いた。
「今日は休みます」
「珍しいですね」
「水曜日まで、少し体力を残しておきたいので」
俺は何も言わなかった。
水曜日のために、休む。
たぶん、長く話すつもりなんだろう。短く済むなら、休む必要はない。長く話すから、体力がいる。
何を話すんだろう、と思った。
でも、聞かなかった。
夜、二人でテレビをつけた。バラエティ番組がやっていた。ルシアが少し笑った。俺も少し笑った。
いつも通りの夜だった。
でも、ふと、これも「いつも通り」になってきたんだな、と思った。
最初の頃、テレビをつけなかった。なんとなく、つけてはいけない気がした。それが今は、自然につける。隣に誰かがいて、一緒に笑える。
半年前の俺の部屋には、こんな夜はなかった。
二週間前の俺の部屋にも、こんな夜はなかった。
今は、ある。
それだけだった。
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寝る前に、ルシアが言った。
「白瀬さん」
「はい」
いつもの「白瀬さん」だった。
でも、その直後、彼女は少し首を傾けた。
「……ユウさん」
俺は少し驚いた。
「ユウ、って呼ばれるの、久しぶりです」
「あ」とルシアは言った。少し慌てた顔をした。「すみません、勝手に」
「いいですよ」
「白瀬さん、の方がいいですか」
俺は少し考えた。
「どっちでもいいです」
「どっちでも」
「両方、俺の名前なので」
ルシアは少し笑った。
「じゃあ、両方使います」
「いいですよ」
「気分で」
彼女は「気分」という言葉を、今日二回目に使った。
俺は何も言わなかった。
でも、何かが、また少し変わった気がした。「ユウさん」と呼ばれた。たった三文字。でも、その三文字の中に、何かが入っていた。
今までの「白瀬さん」には、距離があった。礼儀正しい距離。よく知らない人を呼ぶ時の、ちょうど良い距離。
「ユウさん」には、距離がなかった。いや、ある。でも、違う種類の距離だった。
ルシアは気づいているのか、気づいていないのか、わからない。たぶん、気づいていない。「気分で」と言ったから。意識的に呼んだら、「気分で」という言葉は出てこない。
無意識に出た。
それが、いい意味で怖かった。
電気を消した。
暗闇の中で、彼女の寝息がすぐに聞こえてきた。
「ユウさん」と呼ばれたのを、思い出した。
彼女が、それを意識して呼んだのか、自然に出たのか、わからなかった。
でも、自然に出たんだとしたら——
彼女の中で、俺の名前の呼び方が、少し変わったということだった。
名前というのは、相手との距離を測る道具だ。「白瀬さん」と「ユウさん」では、距離が違う。
彼女が、勝手にその距離を縮めた。
俺は何も言わなかった。
「ユウさん」という呼び方が、まだ耳の中にあった。
たぶん三日後の俺は、この呼び方を思い出して、布団の中で少し動けなくなる。
今夜の俺には、まだその重さの全部は来ていない。
でも、悪くなかった。
悪くないどころか、今夜の俺にも、少しだけ何かが来ていた。三日後を待たなくても、今夜のうちに来た何か。たぶん、嬉しい、という感情に近いものだった。
名前は、今はつけない。
水曜日まで、もう一個名前をつけずに持っていることにした。
水曜日に、彼女が何かを言う。その言葉を聞いてから、今夜の感情の名前を決めても、たぶん遅くない。
水曜日まで、あと三日。
長くも、短くも、ないと思った。ちょうどいい感じがした。
とりあえず、寝ることにした。




