表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/48

第11話「日曜日の夜、彼女は俺を別の名前で呼んだ」



 土曜日の夜、電気を消す前に、ルシアは「ずっと、いていいですか」と聞いた。


 俺は「ずっと、いていいです」と答えた。


 それだけだった。


 電気を消して、暗闇の中で、彼女の寝息が聞こえてきた。今日は早く眠った。配信が短かったから疲れも少なかったのかもしれない。


 俺は天井を見ていた。


 来週の水曜日に、彼女は何かを言う。何を言うかは、まだわからない。


 「ずっといていい」と言ったけれど、彼女の答え次第では、何かが変わるかもしれない。「ずっといます」と答えるかもしれない。「やっぱり帰ります」と言うかもしれない。「待ってもらえますか」と言うかもしれない。


 わからなかった。


 わからないまま、水曜日を待つ。それが、待つ、ということだった。


 今までの俺は、三日後を怖がっていた。三日後に何が届くかわからない、それが怖かった。


 でも今は、水曜日を待っている。


 怖がるのと、待つのは、似ているようで違う気がした。


 とりあえず、寝ることにした。


-----


 日曜日の朝、目が覚めた瞬間に、来ていた。


 木曜日と金曜日の感情が、今朝届いていた。ルシアが窓の外を見ていた長い時間。配信前に関西弁が出た瞬間。「これ、もうちょっと甘くしたかったんやけど」と言った時の声。


 全部、今朝届いた。


 大きい感情じゃなかった。でも、確かに来ていた。


 ルシアが何かを整理していた、ということ。それを俺が見ていた、ということ。それが今朝、感情として届いていた。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 水曜日のことを考えていた。あと三日。土曜日の夜から数えると、あと四日。


 起き上がって、台所に行った。


-----


 ルシアがいた。


 今日は彼女が朝ごはんを作っていた。卵焼きと、味噌汁。いつも通りだった。


 「おはようございます」


 「おはようございます」


 俺は冷蔵庫の上のカレンダーを見た。


 カレンダーは、ルシアが来た頃から一度も見ていなかった気がする。普段使わない。日付はスマートフォンで見れば足りる。


 でも今朝は見た。


 今日が日曜日。来週の水曜日は四日後。四日。


 「白瀬さん」とルシアが言った。


 「はい」


 「カレンダー、見てましたね」


 「見てました」


 「水曜日ですか」


 「水曜日です」


 ルシアは少し笑った。フライパンを傾けながら。


 「四日後ですよ」


 「知ってます」


 「四日って、長いですか」


 俺は少し考えた。


 「長くないです」と俺は言った。「待つって決めたので」


 ルシアは何も言わなかった。卵焼きを巻き続けた。


 でも、肩のあたりが少しだけ緩んだ。


-----


 朝食を食べた。卵焼きは綺麗に巻けていた。味噌汁はインスタントだった。窓の外は晴れていた。


 食べながら、俺はルシアを見ていた。


 いつも通りの朝だった。卵焼きを食べるルシア。味噌汁をすするルシア。窓の外を見るルシア。


 でも、今朝はそれを「いつも通り」じゃなくて、もう少し意識して見ていた。


 なぜなら、水曜日が来たら、何かが変わるかもしれないから。


 「ずっといていい」と俺は言った。彼女は「ずっといていいですか」と聞いた。だから、たぶん、変わらない。


 でも、わからなかった。彼女は何かを決めた。何を決めたかは、まだわからない。


 だから、念のため、覚えておこうと思った。


 今のこのルシアの顔。卵焼きを食べる時に少し下を向く癖。味噌汁を飲むときに口を少し尖らせる仕草。窓の外を見て、少し目を細める瞬間。


 全部、覚えておこうと思った。


 水曜日になって、もし何かが変わったら、この朝のことを覚えていたい。


 そう思いながら、卵焼きを食べた。


 考えてみたら、不思議だった。


 俺は感情が三日遅れる。だから、いつもなら「今このルシアを覚えておきたい」とは思わない。今この瞬間の感情が動かないから、覚えておく動機が来ない。


 でも今朝は、覚えておきたいと思っている。


 どうしてだろう、と少し考えた。


 答えは、すぐにわかった気がした。


 水曜日のことを、待っているからだった。


 待つ、という気持ちを持っていると、今この瞬間が少しだけ大切に見える。今この瞬間の風景が、水曜日の前の風景になる。だから、覚えておきたい。


 たぶん三日後の俺なら、もっとはっきりわかるんだろう。


 でも今朝の俺にも、その輪郭は見えていた。


-----


 午後、ルシアは机に向かっていた。


 昨日と同じだった。手帳を開いて、ペンを持っていた。書いては止まり、止まっては書いた。たまに目を閉じて、何かを考えていた。


 俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。彼女の様子が気になっていた。


 何を書いているのか、聞かなかった。


 「水曜日に言うこと」を整理しているのは、なんとなくわかった。だから聞かなかった。聞いたら、水曜日に聞く意味がなくなる。


 夕方になって、ルシアが手帳を閉じた。閉じる時、少し笑っていた。たぶん、書きたいことが書けたんだろう。


 「コンビニ、行きますか」と彼女は言った。


 「行きますよ」


 二人で出た。フードを被って。土曜日と同じだった。


 コンビニまでの道で、ルシアは前より少し肩の力が抜けていた。慣れたのか、何かを決めたからか、わからなかった。


 「最近、楽になりました」と彼女は言った。


 「ノイズが?」


 「ノイズもですけど」彼女は少し考えた。「全体が、少し楽になりました」


 「全体」


 「うまく言えないですけど」


 俺は何も言わなかった。


 でも、それが何かは、なんとなくわかる気がした。


-----


 コンビニで、ルシアはプリンを二個買った。からあげ棒は買わなかった。


 「今日はからあげ棒、なしですか」と俺は聞いた。


 「今日はプリンの気分です」


 「気分」


 「そうです」


 彼女は少し笑った。


 「最近、こういうの、楽しいわ」


 関西弁が、また、出た。彼女は気づいて、口に手を当てた。


 「あ」


 「いいですよ」


 「最近、出やすくて」


 「うん」


 彼女は少し笑った。


 気分。


 ルシアが「気分」という言葉を使ったのは、たぶん初めてだった。


 今までは「なんでもいいです」だった。それが「からあげ棒」になって、「プリン」になって、「キャラメル味」になって。今日は「気分」になった。


 自分の感情の輪郭が、少しずつ太くなっている。


 俺はそれを、隣で歩きながら見ていた。


 半年探されていた人間が、今、隣でプリンを抱えて歩いている。それも不思議だった。


 半年前の俺は、誰かに探されているなんて知らなかった。普通に学校に行って、感情遅延に悩みながら、一人で泣いたり笑ったりしていた。


 その時、たぶん俺は誰かに「気分」を聞かれることもなかった。「なんでもいい」と答えることすらなかった。誰も俺の「気分」に興味がなかった。


 でも今は、隣にいる人がプリンを選んだ。「気分」と言って。


 それは、俺にとっても、たぶん何かが変わってきている、ということだった。


 歩きながら、それを少しだけ感じていた。


-----


 帰ってから、ルシアは配信の準備をしなかった。


 「今日はやらないんですか」と俺は聞いた。


 「今日は休みます」


 「珍しいですね」


 「水曜日まで、少し体力を残しておきたいので」


 俺は何も言わなかった。


 水曜日のために、休む。


 たぶん、長く話すつもりなんだろう。短く済むなら、休む必要はない。長く話すから、体力がいる。


 何を話すんだろう、と思った。


 でも、聞かなかった。


 夜、二人でテレビをつけた。バラエティ番組がやっていた。ルシアが少し笑った。俺も少し笑った。


 いつも通りの夜だった。


 でも、ふと、これも「いつも通り」になってきたんだな、と思った。


 最初の頃、テレビをつけなかった。なんとなく、つけてはいけない気がした。それが今は、自然につける。隣に誰かがいて、一緒に笑える。


 半年前の俺の部屋には、こんな夜はなかった。


 二週間前の俺の部屋にも、こんな夜はなかった。


 今は、ある。


 それだけだった。


-----


 寝る前に、ルシアが言った。


 「白瀬さん」


 「はい」


 いつもの「白瀬さん」だった。


 でも、その直後、彼女は少し首を傾けた。


 「……ユウさん」


 俺は少し驚いた。


 「ユウ、って呼ばれるの、久しぶりです」


 「あ」とルシアは言った。少し慌てた顔をした。「すみません、勝手に」


 「いいですよ」


 「白瀬さん、の方がいいですか」


 俺は少し考えた。


 「どっちでもいいです」


 「どっちでも」


 「両方、俺の名前なので」


 ルシアは少し笑った。


 「じゃあ、両方使います」


 「いいですよ」


 「気分で」


 彼女は「気分」という言葉を、今日二回目に使った。


 俺は何も言わなかった。


 でも、何かが、また少し変わった気がした。「ユウさん」と呼ばれた。たった三文字。でも、その三文字の中に、何かが入っていた。


 今までの「白瀬さん」には、距離があった。礼儀正しい距離。よく知らない人を呼ぶ時の、ちょうど良い距離。


 「ユウさん」には、距離がなかった。いや、ある。でも、違う種類の距離だった。


 ルシアは気づいているのか、気づいていないのか、わからない。たぶん、気づいていない。「気分で」と言ったから。意識的に呼んだら、「気分で」という言葉は出てこない。


 無意識に出た。


 それが、いい意味で怖かった。


 電気を消した。


 暗闇の中で、彼女の寝息がすぐに聞こえてきた。


 「ユウさん」と呼ばれたのを、思い出した。


 彼女が、それを意識して呼んだのか、自然に出たのか、わからなかった。


 でも、自然に出たんだとしたら——


 彼女の中で、俺の名前の呼び方が、少し変わったということだった。


 名前というのは、相手との距離を測る道具だ。「白瀬さん」と「ユウさん」では、距離が違う。


 彼女が、勝手にその距離を縮めた。


 俺は何も言わなかった。


 「ユウさん」という呼び方が、まだ耳の中にあった。


 たぶん三日後の俺は、この呼び方を思い出して、布団の中で少し動けなくなる。


 今夜の俺には、まだその重さの全部は来ていない。


 でも、悪くなかった。


 悪くないどころか、今夜の俺にも、少しだけ何かが来ていた。三日後を待たなくても、今夜のうちに来た何か。たぶん、嬉しい、という感情に近いものだった。


 名前は、今はつけない。


 水曜日まで、もう一個名前をつけずに持っていることにした。


 水曜日に、彼女が何かを言う。その言葉を聞いてから、今夜の感情の名前を決めても、たぶん遅くない。


 水曜日まで、あと三日。


 長くも、短くも、ないと思った。ちょうどいい感じがした。


 とりあえず、寝ることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ