第12話「火曜日の夜、俺は名前を呼べなかった」
月曜日の朝、目が覚めて、台所に行った。
ルシアがいた。今日も卵焼きを作っていた。今朝はいつもより少し早く起きていたらしかった。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはようございます」と彼女は言った。
今日は「白瀬さん」だった。昨夜の「ユウさん」が嘘だったみたいに、いつもの呼び方に戻っていた。
俺は何も言わなかった。
彼女が無意識に呼んだとしたら、覚えていないのは当然だった。「白瀬さん」が普段の呼び方で、「ユウさん」は一瞬の事故だった。それでよかった。事故なら、覚えている必要はない。
朝食を食べた。卵焼きと、味噌汁と、今日はサラダがあった。レタスとトマト。ドレッシングがかかっていた。
「サラダ、ありがとうございます」と俺は言った。
「冷蔵庫にあったので」と彼女は言った。「使い切らないと、傷むので」
「いいですね」
「明日も作りますか」
「お願いします」
それだけだった。
でも、サラダがあるのは初めてだった。
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午前中、ルシアは少し珍しいことをしていた。
スマートフォンで、動画を見ていた。普段見ている子供向けアニメじゃなかった。配信の動画らしかった。VTuberの動画。
誰の動画かは見えなかった。彼女はイヤホンをつけて、画面を直接覗き込むように見ていた。三十分くらい見ていた。途中で何度か、止めて、少し考えて、また再生していた。
俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしながら、彼女を見ていた。
誰の動画なんだろう、と思った。
でも、聞かなかった。
動画を見終わって、彼女はスマートフォンを伏せた。少し疲れた顔をしていた。配信後ほどではなかったが、何かを消耗した顔。
「白瀬さん」と彼女は言った。
「はい」
「お茶、淹れてもらえますか」
「いいですよ」
いつもは自分で淹れる。今日は頼んだ。
俺は緑茶を淹れて、湯呑みを渡した。彼女は「ありがとうございます」と言って受け取った。両手で持って、ゆっくり飲んだ。
「何見てたんですか」と俺は聞いた。
聞かないつもりだった。でも、聞いた。
ルシアは少し間を置いた。
「昔の同業の人の動画です」と彼女は言った。
「同業」
「VTuberの。今もまだ活動してる人で、私が引退した時に、SNSで一番心配してくれた人でした」
「そうですか」
「久しぶりに見ました」
それだけだった。彼女はそれ以上説明しなかった。俺もそれ以上聞かなかった。
でも、何かを整理しているのは、わかった。
水曜日のために、過去を少し振り返っている。そういう作業をしていた。
昔の同業の人。引退の時に心配してくれた人。今もまだ活動している人。
その人と、ルシアは今、どういう関係なんだろう。今も連絡を取っているのか。それとも、もう何ヶ月も話していないのか。動画を見るのは、何かの整理のためなのか、ただ懐かしくて見ていただけなのか。
わからなかった。聞いていないから。
でも、聞かない方がよかった気がした。
ルシアにとって、その動画を見る時間は、たぶん俺がいない場所だった。配信して倒れて、関西弁で「つかれた」と言う、その普段の彼女じゃなくて、もっと別の彼女がそこにいた。
俺はその彼女を、知らない。
知らないまま、見ていた。
でも、知らないまま見ているのも、悪くないと思った。
彼女には、俺が知らない彼女がいて、知らない歴史があって、知らない人間関係があった。当然のことだった。半年探されていたとはいえ、俺と彼女が会ったのは、ほんの数週間前だ。
知らないことの方が、ずっと多い。
いつかその「知らない部分」も少しずつ知るのかもしれない。でも、急ぐ必要はなかった。
待つ、と言ったのだから。
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昼過ぎ、ルシアが配信の準備を始めた。
日曜日は休んでいた。今日はやるらしかった。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。声が変わった。
「……今日も来てくれてありがとう」
いつもの配信だった。
でも、今日は少し短かった。十五分くらいで終わった。
「今日は短くてすみません」と最後に言って、彼女は配信を閉じた。
イヤホンを外して、横に倒れた。「つかれた」と関西弁で言った。
「短かったですね」と俺は言った。
「水曜日まで、ペース落とします」
「そうですか」
「明日もたぶん、短いです」
ルシアは天井を見ていた。少しの間、何も言わなかった。
「白瀬さん」
「はい」
「明日です」
俺は何も言わなかった。
明日。明日の翌日が水曜日。あと一日と少しで、彼女は何かを言う。
「楽しみにしてます」と俺は言った。
ルシアは少し笑った。天井を見たまま。
「楽しみにしてくれるんですね」
「待ってますって言ったので」
「待つの中に、楽しみも入ってるんですね」
「入ってます」
「そうですか」
彼女は天井を見たまま、もう一度、少し笑った。
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月曜日の夜は、それで終わった。
電気を消して、寝た。彼女の寝息がすぐに聞こえた。
暗闇の中で、彼女のことを考えていた。
今日の彼女は、何かが違った。動画を見ていた。同業の人の動画。引退の時に心配してくれた人。
たぶん、その人にも、何かを伝えたいんだろう。
水曜日に俺に言うことと、その人に伝えたいことは、たぶん別のことだ。
でも、両方、彼女が抱えていることだった。
俺はそれを、想像していた。
とりあえず、寝ることにした。
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火曜日の朝、目が覚めた。
今朝は何も来ていなかった。
いつもなら、何かしら届く日が多い。三日前のものが、起きた瞬間に来ている。でも今朝は、来ていなかった。
日曜の夜のことを、まだ感情としては受け取っていなかった。「ユウさん」と呼ばれた、あの三文字。それが頭の中に、まだ言葉のままで残っていた。意味は理解している。重さは、まだない。
来るのは、たぶん明日。
日(0)、月(1)、火(2)、水(3)。
彼女が答えを言うと言った、その水曜日に、彼女が無意識に呼んだ「ユウさん」が届く。
同じ日に重なるのが、いいことなのか悪いことなのか、わからなかった。
でも、たぶん、重なる。
起き上がるまで、少し時間がかかった。
今朝の俺は、感情が来ていないのに、緊張していた。
明日が来る、それだけで、緊張していた。
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台所に行ったら、ルシアがいた。
今日も卵焼きを作っていた。サラダも作っていた。約束通り。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはようございます」
今日も「白瀬さん」だった。日曜日の夜のは、やっぱり事故だった。
でも、今朝の俺には、まだその「ユウさん」の感情自体は届いていなかった。届くのは明日。
ただ、頭の中には残っていた。三文字。「ユウさん」。事故で出た呼び方。
呼び方が戻っても、構わなかった。
俺は座って、卵焼きを食べた。
食べながら、彼女を見ていた。
呼び返したくなった。
「ルシア」と。
「ルシアさん」じゃなくて、「ルシア」と。
感情はまだ来ていない。でも、たぶん明日には来る。明日来る前から、すでに、彼女を「ルシア」と呼びたい気持ちが、頭の中で動いていた。
でも、呼べなかった。
呼んでいいか、わからなかった。彼女が無意識に「ユウさん」と呼んだのは事故だった。今朝の俺が意識的に「ルシア」と呼ぶのは、事故じゃない。
呼んだら、距離が一気に縮まる。
彼女がそれを望んでいるかどうか、まだわからない。水曜日に答えを聞いてからじゃないと、わからない。
だから、呼ばなかった。
呼びたいという気持ちは、まだ感情として届いていなかった。でも、頭の中の「ユウさん」という三文字に押されて、出てきていた。
明日になれば、もっと強くなるかもしれない。
でも、明日は、彼女が答えを言う日でもあった。
そして、明日、「ユウさん」が三日後の感情として届く日でもあった。
全部が、明日に重なっていた。
「ルシアさん」と俺は呼んだ。いつも通り。
「はい」
「明日ですね」
「明日ですね」
それだけだった。
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火曜日も、配信は短かった。十五分くらい。終わってルシアは「つかれた」と言って倒れた。
緑茶を渡した。受け取った。一口飲んだ。
「ありがとう。生き返るわ」
関西弁が出た。
俺が見ていると、彼女は気づいた。
「あ、また出ました」
「最近、よく出ますね」
「うん」
「いいことだと思います」
「いいことなんですかね」
「うん」
彼女は少し笑った。
「明日、何時くらいに話しますか」とルシアが聞いた。
「いつでもいいですよ」
「朝にしてもいいですか」
「朝で」
「朝食の後で。皿を洗う前に」
「いいですよ」
時間も場所も決まった。
細かいことに思えるかもしれないが、彼女にとっては大事なことだった。きちんと決めて、その通りに話す。それが、たぶん彼女の準備の仕方だった。
「楽しみにしてます」と俺はもう一度言った。
「ありがとうございます」
彼女は天井を見たまま、また少し笑った。
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電気を消した。
暗闇の中で、彼女の寝息が聞こえた。
明日の朝食の後、彼女は何かを言う。
俺は今、何を期待しているんだろう、と少し考えた。
「ずっといます」と言ってほしいんだろうか。たぶん、そうだ。でも、それだけじゃない気がした。
彼女が、自分の感情の名前を、ちゃんと言えるようになってほしい。
俺が、彼女のことを呼べるようになってほしい。
「ルシア」と呼べるようになってほしい。
そういうことの全部を、含めて、明日を待っている気がした。
明日、「ユウさん」が三日後の感情として届く。
たぶん、それには名前がつく。「嬉しい」か、もっと別の名前か。
そして同じ日に、彼女が答えを言う。
全部、明日に、重なる。
ただ一つ、不安なこともあった。
彼女が今日、昔の同業の人の動画を見ていた。あれは、彼女の過去の世界だった。Lulu=Luciaとして生きていた時の世界。
彼女がもし、その世界に戻りたいと思っていたとしたら。
その世界に戻るために、今、何かを整理しているとしたら。
明日の答えは、俺が期待しているものと、違うかもしれなかった。
「ありがとうございました。でも、私は戻ります」
そう言われる可能性も、ゼロじゃなかった。
俺は何も言えない。「待ちたい」と言ったから、彼女が戻ると決めたなら、それを尊重するしかない。
そう考えると、少しだけ、怖くなった。
でも、すぐに、それも違うな、と思った。
彼女が戻りたいなら、戻ればいい。それも彼女の選択だった。俺は、彼女が自分で何かを選べるようになるまで、待ちたかった。だから、選んだ結果が「戻る」でも、それは彼女が自分で選んだということだった。
待つ、というのは、そういうことだった。
とりあえず、寝ることにした。
まだ届いていない感情も、明日届くであろう感情も、不安も、全部、抱えたまま、寝た。




