表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/48

第13話「水曜日の朝、彼女は『ありがとう』を選んだ」



 水曜日の朝、目が覚めた。


 窓の外は晴れていた。光が横から部屋に入ってきていた。


 いつもより少し早く目が覚めた気がする。スマートフォンで時間を確認したら、まだ六時前だった。普段は七時に起きる。


 布団の中で、少しだけ目を閉じた。


 そして、来た。


 日曜日の夜の「ユウさん」が、今朝届いていた。


 たった三文字の中に、たくさんのものが入っていた。ルシアが無意識に距離を縮めた瞬間。「気分で」と笑った時の顔。「両方使います」と言った時の声。


 全部、今朝、感情として届いていた。


 名前は、すぐにわかった。


 嬉しい。


 「ユウさん」と呼ばれて、嬉しかった。それが、三日遅れで、今朝、届いた。


 でも、今日はそれを噛みしめている時間はなかった。


 今日。


 彼女が答えを言う日。


 「ユウさん」の感情と、答えを聞く緊張が、両方、胸の中にあった。


 不安は、昨夜のうちに整理した。彼女が何を言っても、それは彼女の選択だ。俺はそれを尊重する。「待ちたい」と言った時点で、そう決めていた。


 だから今朝、特に怖くはなかった。


 でも、緊張はしていた。少しだけ。


 「ユウさん」の感情と、緊張と、それから、彼女がもう少し近くにいてくれることへの、たぶん「嬉しい」とは別の何か。


 全部混ざっていた。


 でも、整理する時間はなかった。


 彼女がもう、台所で動いている音が、聞こえていた。


 呼吸を一回深くして、起き上がった。


-----


 台所に行ったら、ルシアがいた。


 今日も卵焼きを作っていた。サラダもあった。約束通り。


 「おはようございます」と俺は言った。


 「おはようございます」と彼女は言った。


 いつも通りの朝食の用意だった。


 でも、ルシアの動きが、少しだけ違う気がした。フライパンを傾ける手が、少しだけ慎重だった。慎重、というより、丁寧、と言った方が近い。今日は何かを「ちゃんとやりたい」と思っているような動き方だった。


 俺はテーブルに座って、彼女の背中を見ていた。


 「先に食べますか」と彼女は背中を向けたまま言った。


 「待ちます」


 「すぐできるので」


 「待ちます」


 しばらくして、卵焼きが皿に盛られた。今日も綺麗に巻けていた。サラダも、味噌汁も、全部揃った。


 二人でテーブルについて、食べ始めた。


 何も言わなかった。彼女も俺も、食事に集中していた。


 彼女は静かに卵焼きを食べていた。下を向いて、ゆっくり食べていた。緊張しているのが、見ていてわかった。


 俺も緊張していたが、彼女ほどではなかった気がした。


 食べ終わった。皿が二人とも空になった。


 彼女が立ち上がろうとした。


 「皿、洗いますね」


 「ちょっと待って」と俺は言った。


 彼女は座り直した。


 「皿、洗う前ですよね」


 「あ」


 「昨日、決めましたよね。皿を洗う前に」


 ルシアは少し笑った。「忘れてました」と言った。


 「忘れてた」


 「緊張して、忘れてました」


 彼女は両手を膝の上で組んだ。窓の外を見て、それから俺を見た。


-----


 しばらく、二人とも黙っていた。


 俺は何も言わなかった。彼女が話し始めるのを待った。


 待つ、というのは、今、これだった。話し始める前の時間を、急かさないこと。


 彼女は深く息を吸った。一回。それからもう一回。


 「白瀬さん」と彼女は言った。


 「はい」


 「私、答えがうまく言えないことに気づきました」


 俺は何も言わなかった。


 「ずっと考えたんです」と彼女は続けた。「先週の土曜日から、ずっと。手帳にも書いて、整理しようとして。何回も書いて、何回も消して」


 「うん」


 「でも、書けなかったです」


 「書けなかった」


 「自分が、何を言いたいのか、最後までわからなかったんです」


 俺はまだ何も言わなかった。


 彼女の話を、最後まで聞きたかった。


-----


 ルシアは少しの間、黙った。


 組んだ手を、何度かほぐして、また組み直した。前にも、同じ仕草を見た。何かを真剣に話そうとする時、彼女はこの仕草をするらしかった。


 「たぶん、私には今、答えがないです」と彼女は言った。


 「答えがない」


 「『好き』も、『ずっといます』も、ちゃんと言えないです。それが本当に自分の感情かどうか、まだわからなくて」


 「うん」


 「他人の感情をたくさん受け取って育ったから、自分のがどれかわからないんです。今、自分の中にあるものが、本当に私のなのか、それとも誰かの感情を借りてるだけなのか、まだ判別がつかないんです」


 俺はうなずいた。


 「だから」と彼女は言った。「答えがないです。今は」


 俺は少しの間、黙った。


 彼女が言いたいことは、わかった気がした。「答えがない」というのが、答えだった。


 ちゃんとした答えを返したい。でも、嘘の答えは返したくない。だから、答えがないことを、正直に答える。


 それが、彼女の今の精一杯だった。


 俺は、その精一杯を、ちゃんと受け取ろうと思った。


 もし彼女が、嘘の「好き」を言っていたら、俺は今、騙されていたかもしれない。「好き」と言われて、嬉しいと思って、それで終わっていたかもしれない。


 でも彼女は「答えがない」と言った。


 それは、嘘をつかないという選択だった。


 他人の感情を借りて、上手に答えることは、たぶん彼女には簡単だった。配信であの声を作れる人だ。誰かが望む言葉を返すことは、慣れている。


 でも、それをしなかった。


 俺の前では、しなかった。


 「わかりました」と俺は言った。


 ルシアは少し驚いた顔をした。


 「わかったんですか」


 「わかりました」


 「怒らないんですか」


 「怒らないです」


 「がっかりしないですか」


 俺は少し考えた。


 「がっかりはしてないです」と俺は言った。「でも、待ちたいって言ったので。今すぐ答えを出してほしかったわけじゃないです」


 ルシアは下を向いた。少しの間、何も言わなかった。


 組んでいた手の指が、少しだけ震えていた。


-----


 しばらくして、彼女が顔を上げた。


 「でも」と彼女は言った。


 「はい」


 「一つだけ、わかったことがあります」


 「一つだけ」


 「『ありがとう』が、自然に言えるようになりました」


 俺は少し驚いた。


 「ありがとう?」


 「最初、ここに来た日。麦茶をもらった時、『ありがとう』を言うのに、一拍遅れたんです。私、覚えてます」


 「一拍」


 「他の人と話す時は、相手の『どういたしまして』を先に受信してしまうから、こっちの『ありがとう』がいつも遅れます。会話が、相手の中で先に終わってる感じになるから」


 「うん」


 「でも、白瀬さんの前では、それがないんです。最初の麦茶の時から、少しずつ、『ありがとう』が早く出るようになりました。一拍が、半拍になって、それから、もう拍がなくなって、自然に出るようになって」


 俺は何も言わなかった。


 彼女は続けた。


 「自然に『ありがとう』が言えるって、すごく不思議でした。今までの私には、なかったことなので」


 「うん」


 「だから、ここにいたいです」と彼女は言った。「『好き』とか『ずっといます』はまだ言えないけど、ここにいると、『ありがとう』が自然に言えるから」


 「うん」


 彼女は少し言葉を切った。それから、ふっと、息を抜いた。


 「ここ、ええんです」


 関西弁が、出た。


 彼女自身、たぶん意識して出した。今日のは、事故じゃない。


 「ええ、んです」と彼女はもう一度、言った。「ここが、私には、ええんです」


 「白瀬さん」


 「はい」


 「待ってもらえますか」と彼女は言った。「私が、もっと自分の感情を、言葉にできるようになるまで」


-----


 俺は何も言えなかった。


 しばらく、何も言えなかった。


 彼女が「待ってもらえますか」と言った。


 俺が先週言ったのと、同じ言葉。違うのは、主語と目的語が入れ替わったこと。


 「あなたが自分の感情がわかるようになるまで、待ちたい」と俺は言った。


 「私が自分の感情を言葉にできるようになるまで、待ってほしい」と彼女は言った。


 方向が同じだった。


 俺は彼女のために待ちたかった。彼女は自分のために待ってほしかった。でも、待っている時間は同じ時間だった。並んで歩く時間だった。


 「待ちます」と俺は言った。


 ルシアは少しだけ目を伏せた。


 「ありがとうございます」と彼女は言った。


 自然に出た「ありがとう」だった。


 たぶん。


-----


 しばらく、二人とも黙っていた。


 光が、テーブルの上に少しずつ広がっていた。朝の光だった。


 「あの」と俺は言った。


 「はい」


 「呼んでもいいですか」


 「呼ぶ?」


 「ルシア、って」


 ルシアは少し目を見開いた。


 それから、ゆっくり笑った。さっきの「ありがとう」よりも、もっと自然な笑い方だった。


 「呼んでいいです」


 俺は少し息を吸った。


 「ルシア」


 呼んだ。


 初めて呼んだ。


 呼んでから、思ったより違和感がなかったことに、自分で少し驚いた。今までずっと「ルシアさん」と呼んでいた。「さん」をつけないと変な感じがするんじゃないかと、ずっと思っていた。


 でも、自然に呼べた。


 たぶん、彼女の中の「白瀬さん」が「ユウさん」になった瞬間と、同じだった。距離が縮まったから、呼べた。距離が縮まることが、まず先にあった。呼び方は、後からついてきた。


 「はい」と彼女は言った。


 いつもの返事と、少し違った気がした。「白瀬さん」と呼ばれた時の「はい」より、もっと柔らかい返事だった。


 「俺も、たぶん『好き』とか、まだうまく言えないです」


 「そうですか」


 「でも、ルシアのこと、呼びたかったので」


 「呼んでくれて、ありがとうございます」


 また「ありがとう」だった。さっきよりも、もっと自然だった。


 俺たちは、まだ何も決めていなかった。


 「ずっと一緒にいます」とも、「好きです」とも、何も言っていない。ただ「待つ」と「待ってもらう」を約束しただけだった。


 でも、それでよかった。


 彼女が「ありがとう」を自然に言える場所が、ここだった。


 俺が「ルシア」と呼べる場所が、ここだった。


 それが、今日の答えだった。


-----


 皿を洗った。


 いつも片方が洗っていたが、今日は二人で洗った。俺が洗って、ルシアが拭いた。何も話さなかった。でも、気まずくなかった。


 午後、ルシアは配信をしなかった。


 「今日は休みます」と言って、ソファに座って本を読んでいた。彼女が本を読むのを見たのは、初めてだった。


 俺も本を読んでいた。


 時々、目が合った。彼女は少し笑った。俺も少し笑った。


 穏やかな水曜日の午後だった。


 とりあえず、今日はそういう日になった。


 夕方、ルシアは少し短い配信をした。十分くらい。今日は元気そうに見えた。終わって倒れた時の「つかれた」も、いつもより力が抜けた感じがした。


 夜、二人で簡単な夕食を食べた。


 寝る前に、彼女が言った。


 「ユウさん」


 昨日は事故だったかもしれない呼び方が、今夜は事故じゃなかった。


 「はい」と俺は答えた。


 「今日、話せてよかったです」


 「俺もです」


 「答えがないままで、ごめんなさい」


 「謝らなくていいです」


 「ありがとうございます」


 また「ありがとう」だった。


 電気を消した。


 彼女の寝息がすぐに聞こえてきた。


 今日のことが、まだ胸の中にあった。たぶん三日後、もっとはっきり届くんだろう。今夜の俺には、まだ全部は来ていない。


 でも、悪くなかった。


 とりあえず、それでよかった。明日の朝も、彼女はたぶんいつも通り卵焼きを作るんだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ