第13話「水曜日の朝、彼女は『ありがとう』を選んだ」
水曜日の朝、目が覚めた。
窓の外は晴れていた。光が横から部屋に入ってきていた。
いつもより少し早く目が覚めた気がする。スマートフォンで時間を確認したら、まだ六時前だった。普段は七時に起きる。
布団の中で、少しだけ目を閉じた。
そして、来た。
日曜日の夜の「ユウさん」が、今朝届いていた。
たった三文字の中に、たくさんのものが入っていた。ルシアが無意識に距離を縮めた瞬間。「気分で」と笑った時の顔。「両方使います」と言った時の声。
全部、今朝、感情として届いていた。
名前は、すぐにわかった。
嬉しい。
「ユウさん」と呼ばれて、嬉しかった。それが、三日遅れで、今朝、届いた。
でも、今日はそれを噛みしめている時間はなかった。
今日。
彼女が答えを言う日。
「ユウさん」の感情と、答えを聞く緊張が、両方、胸の中にあった。
不安は、昨夜のうちに整理した。彼女が何を言っても、それは彼女の選択だ。俺はそれを尊重する。「待ちたい」と言った時点で、そう決めていた。
だから今朝、特に怖くはなかった。
でも、緊張はしていた。少しだけ。
「ユウさん」の感情と、緊張と、それから、彼女がもう少し近くにいてくれることへの、たぶん「嬉しい」とは別の何か。
全部混ざっていた。
でも、整理する時間はなかった。
彼女がもう、台所で動いている音が、聞こえていた。
呼吸を一回深くして、起き上がった。
-----
台所に行ったら、ルシアがいた。
今日も卵焼きを作っていた。サラダもあった。約束通り。
「おはようございます」と俺は言った。
「おはようございます」と彼女は言った。
いつも通りの朝食の用意だった。
でも、ルシアの動きが、少しだけ違う気がした。フライパンを傾ける手が、少しだけ慎重だった。慎重、というより、丁寧、と言った方が近い。今日は何かを「ちゃんとやりたい」と思っているような動き方だった。
俺はテーブルに座って、彼女の背中を見ていた。
「先に食べますか」と彼女は背中を向けたまま言った。
「待ちます」
「すぐできるので」
「待ちます」
しばらくして、卵焼きが皿に盛られた。今日も綺麗に巻けていた。サラダも、味噌汁も、全部揃った。
二人でテーブルについて、食べ始めた。
何も言わなかった。彼女も俺も、食事に集中していた。
彼女は静かに卵焼きを食べていた。下を向いて、ゆっくり食べていた。緊張しているのが、見ていてわかった。
俺も緊張していたが、彼女ほどではなかった気がした。
食べ終わった。皿が二人とも空になった。
彼女が立ち上がろうとした。
「皿、洗いますね」
「ちょっと待って」と俺は言った。
彼女は座り直した。
「皿、洗う前ですよね」
「あ」
「昨日、決めましたよね。皿を洗う前に」
ルシアは少し笑った。「忘れてました」と言った。
「忘れてた」
「緊張して、忘れてました」
彼女は両手を膝の上で組んだ。窓の外を見て、それから俺を見た。
-----
しばらく、二人とも黙っていた。
俺は何も言わなかった。彼女が話し始めるのを待った。
待つ、というのは、今、これだった。話し始める前の時間を、急かさないこと。
彼女は深く息を吸った。一回。それからもう一回。
「白瀬さん」と彼女は言った。
「はい」
「私、答えがうまく言えないことに気づきました」
俺は何も言わなかった。
「ずっと考えたんです」と彼女は続けた。「先週の土曜日から、ずっと。手帳にも書いて、整理しようとして。何回も書いて、何回も消して」
「うん」
「でも、書けなかったです」
「書けなかった」
「自分が、何を言いたいのか、最後までわからなかったんです」
俺はまだ何も言わなかった。
彼女の話を、最後まで聞きたかった。
-----
ルシアは少しの間、黙った。
組んだ手を、何度かほぐして、また組み直した。前にも、同じ仕草を見た。何かを真剣に話そうとする時、彼女はこの仕草をするらしかった。
「たぶん、私には今、答えがないです」と彼女は言った。
「答えがない」
「『好き』も、『ずっといます』も、ちゃんと言えないです。それが本当に自分の感情かどうか、まだわからなくて」
「うん」
「他人の感情をたくさん受け取って育ったから、自分のがどれかわからないんです。今、自分の中にあるものが、本当に私のなのか、それとも誰かの感情を借りてるだけなのか、まだ判別がつかないんです」
俺はうなずいた。
「だから」と彼女は言った。「答えがないです。今は」
俺は少しの間、黙った。
彼女が言いたいことは、わかった気がした。「答えがない」というのが、答えだった。
ちゃんとした答えを返したい。でも、嘘の答えは返したくない。だから、答えがないことを、正直に答える。
それが、彼女の今の精一杯だった。
俺は、その精一杯を、ちゃんと受け取ろうと思った。
もし彼女が、嘘の「好き」を言っていたら、俺は今、騙されていたかもしれない。「好き」と言われて、嬉しいと思って、それで終わっていたかもしれない。
でも彼女は「答えがない」と言った。
それは、嘘をつかないという選択だった。
他人の感情を借りて、上手に答えることは、たぶん彼女には簡単だった。配信であの声を作れる人だ。誰かが望む言葉を返すことは、慣れている。
でも、それをしなかった。
俺の前では、しなかった。
「わかりました」と俺は言った。
ルシアは少し驚いた顔をした。
「わかったんですか」
「わかりました」
「怒らないんですか」
「怒らないです」
「がっかりしないですか」
俺は少し考えた。
「がっかりはしてないです」と俺は言った。「でも、待ちたいって言ったので。今すぐ答えを出してほしかったわけじゃないです」
ルシアは下を向いた。少しの間、何も言わなかった。
組んでいた手の指が、少しだけ震えていた。
-----
しばらくして、彼女が顔を上げた。
「でも」と彼女は言った。
「はい」
「一つだけ、わかったことがあります」
「一つだけ」
「『ありがとう』が、自然に言えるようになりました」
俺は少し驚いた。
「ありがとう?」
「最初、ここに来た日。麦茶をもらった時、『ありがとう』を言うのに、一拍遅れたんです。私、覚えてます」
「一拍」
「他の人と話す時は、相手の『どういたしまして』を先に受信してしまうから、こっちの『ありがとう』がいつも遅れます。会話が、相手の中で先に終わってる感じになるから」
「うん」
「でも、白瀬さんの前では、それがないんです。最初の麦茶の時から、少しずつ、『ありがとう』が早く出るようになりました。一拍が、半拍になって、それから、もう拍がなくなって、自然に出るようになって」
俺は何も言わなかった。
彼女は続けた。
「自然に『ありがとう』が言えるって、すごく不思議でした。今までの私には、なかったことなので」
「うん」
「だから、ここにいたいです」と彼女は言った。「『好き』とか『ずっといます』はまだ言えないけど、ここにいると、『ありがとう』が自然に言えるから」
「うん」
彼女は少し言葉を切った。それから、ふっと、息を抜いた。
「ここ、ええんです」
関西弁が、出た。
彼女自身、たぶん意識して出した。今日のは、事故じゃない。
「ええ、んです」と彼女はもう一度、言った。「ここが、私には、ええんです」
「白瀬さん」
「はい」
「待ってもらえますか」と彼女は言った。「私が、もっと自分の感情を、言葉にできるようになるまで」
-----
俺は何も言えなかった。
しばらく、何も言えなかった。
彼女が「待ってもらえますか」と言った。
俺が先週言ったのと、同じ言葉。違うのは、主語と目的語が入れ替わったこと。
「あなたが自分の感情がわかるようになるまで、待ちたい」と俺は言った。
「私が自分の感情を言葉にできるようになるまで、待ってほしい」と彼女は言った。
方向が同じだった。
俺は彼女のために待ちたかった。彼女は自分のために待ってほしかった。でも、待っている時間は同じ時間だった。並んで歩く時間だった。
「待ちます」と俺は言った。
ルシアは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」と彼女は言った。
自然に出た「ありがとう」だった。
たぶん。
-----
しばらく、二人とも黙っていた。
光が、テーブルの上に少しずつ広がっていた。朝の光だった。
「あの」と俺は言った。
「はい」
「呼んでもいいですか」
「呼ぶ?」
「ルシア、って」
ルシアは少し目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。さっきの「ありがとう」よりも、もっと自然な笑い方だった。
「呼んでいいです」
俺は少し息を吸った。
「ルシア」
呼んだ。
初めて呼んだ。
呼んでから、思ったより違和感がなかったことに、自分で少し驚いた。今までずっと「ルシアさん」と呼んでいた。「さん」をつけないと変な感じがするんじゃないかと、ずっと思っていた。
でも、自然に呼べた。
たぶん、彼女の中の「白瀬さん」が「ユウさん」になった瞬間と、同じだった。距離が縮まったから、呼べた。距離が縮まることが、まず先にあった。呼び方は、後からついてきた。
「はい」と彼女は言った。
いつもの返事と、少し違った気がした。「白瀬さん」と呼ばれた時の「はい」より、もっと柔らかい返事だった。
「俺も、たぶん『好き』とか、まだうまく言えないです」
「そうですか」
「でも、ルシアのこと、呼びたかったので」
「呼んでくれて、ありがとうございます」
また「ありがとう」だった。さっきよりも、もっと自然だった。
俺たちは、まだ何も決めていなかった。
「ずっと一緒にいます」とも、「好きです」とも、何も言っていない。ただ「待つ」と「待ってもらう」を約束しただけだった。
でも、それでよかった。
彼女が「ありがとう」を自然に言える場所が、ここだった。
俺が「ルシア」と呼べる場所が、ここだった。
それが、今日の答えだった。
-----
皿を洗った。
いつも片方が洗っていたが、今日は二人で洗った。俺が洗って、ルシアが拭いた。何も話さなかった。でも、気まずくなかった。
午後、ルシアは配信をしなかった。
「今日は休みます」と言って、ソファに座って本を読んでいた。彼女が本を読むのを見たのは、初めてだった。
俺も本を読んでいた。
時々、目が合った。彼女は少し笑った。俺も少し笑った。
穏やかな水曜日の午後だった。
とりあえず、今日はそういう日になった。
夕方、ルシアは少し短い配信をした。十分くらい。今日は元気そうに見えた。終わって倒れた時の「つかれた」も、いつもより力が抜けた感じがした。
夜、二人で簡単な夕食を食べた。
寝る前に、彼女が言った。
「ユウさん」
昨日は事故だったかもしれない呼び方が、今夜は事故じゃなかった。
「はい」と俺は答えた。
「今日、話せてよかったです」
「俺もです」
「答えがないままで、ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「ありがとうございます」
また「ありがとう」だった。
電気を消した。
彼女の寝息がすぐに聞こえてきた。
今日のことが、まだ胸の中にあった。たぶん三日後、もっとはっきり届くんだろう。今夜の俺には、まだ全部は来ていない。
でも、悪くなかった。
とりあえず、それでよかった。明日の朝も、彼女はたぶんいつも通り卵焼きを作るんだろう。




