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第46話「火曜日の夜、彼女は受け取りすぎた」



 火曜日の朝、目が覚めた。


 今朝は、来なかった。


 三日前は、土曜日。お試し配信の、二日後。あの日も、配信の余韻で、穏やかに過ぎた。特に、強い出来事は、なかった。


 だから、今朝も、静かだった。


 最近、こういう静かな朝が、増えていた。


 大きな山を、いくつか、越えたからかもしれない。お試し配信。ユウの「才能」の気づき。いろんなことが、落ち着いて、日常が、戻ってきていた。


 でも、今日は、ひとつ、予定があった。


 ルシアが、カナタと、電話をする日だった。


 昨日、約束したらしい。「ちゃんと、話を聞きたいから、電話しよう」と。


 ルシアにとって、初めての、「支える側」としての、実践だった。


-----


 朝食の時、ルシアは、少し、緊張していた。


 「今日の夜、カナタさんと、電話します」と彼女は言った。


 「うん」


 「ちゃんと、話を、聞こうと思って」


 「うん」


 「でも、ちょっと、緊張してます」


 「受け取りすぎないか、ですか」


 「うん」


 彼女は、卵焼きを、箸で、つついた。


 「同じ体質やから、電話でも、感情、流れ込んでくるかもしれへん」


 「うん」


 「気をつけます」


 「無理しないでください」と俺は言った。


 「うん」


 「やばいと思ったら、すぐ、切っていいです」


 「うん。わかってます」


 でも、彼女の顔は、まだ、少し、不安そうだった。


-----


 その日は、普通に過ぎた。


 昼、二人で、素麺を食べた。暑くなってきたので、冷たいものが、増えていた。


 「夏が、近いですね」とルシアが言った。


 「うん」


 「夏になったら、何か、新しいこと、したいって、言うてましたよね、私」


 「言ってました」


 「Luciaの配信を、本格的に始めるのも、新しいことやけど」


 「うん」


 「それ以外にも、何か、したいな」


 「たとえば?」


 「うーん」と彼女は、素麺を、すすった。「二人で、どこか、出かけるとか」


 「うん」


 「コンビニじゃなくて、ちょっと、遠くまで」


 俺は、少し、笑った。それは、前に、俺が、彼女のノートに、書いたことだった。「夏になったら、ちょっと遠くまで、散歩したい」と。


 「覚えてくれてたんですね」と俺は言った。


 「覚えてます」と彼女は言った。「ユウさんが、私のノートに、書いてくれたこと」


 「うん」


 「夏になったら、行きましょう」


 「行きます」


 午後、ルシアは、配信の準備を、少し、していた。次の配信のことを、考えているらしかった。


 夕方になった。


 「そろそろ、電話します」とルシアは言った。


 「うん」


 「自分の部屋で、しますね」


 彼女は、自分の部屋に、入った。


 俺は、リビングに、いた。


 ドア越しに、彼女の声が、少し、聞こえた。


 「もしもし、カナタさん?」


 そこから、彼女の声は、小さくなって、内容は、聞こえなくなった。


 俺は、本を読みながら、待った。


 時々、ドア越しに、彼女の声の、トーンが、聞こえた。


 最初は、明るかった。「うん、うん」「そうなんや」と、相槌を打つ声。


 でも、だんだん、声のトーンが、低くなっていった。


 相槌の「うん」が、重くなっていった。


 何かを、受け止めている声、だった。


 俺は、本のページを、めくる手を、止めて、ドアの方を、見た。


 大丈夫だろうか、と思った。


 でも、まだ、電話は、続いていた。途中で、止めるのも、難しかった。


 俺は、待つしかなかった。


-----


 三十分が、過ぎた。


 一時間が、過ぎた。


 電話は、まだ、続いていた。


 長いな、と思った。


 でも、初めての「支える」電話だから、長くなるのは、自然かもしれなかった。


 カナタも、たぶん、ずっと、誰かに、話したかったんだろう。同じ体質の人に。わかってもらえる人に。


 だから、話が、止まらない。


 でも、それを、全部、ルシアが、受け止めていたら——


 一時間半が、過ぎた。


 俺の中の、心配が、少しずつ、大きくなっていった。


 そろそろ、二時間になる頃、ドアが、開いた。


 ルシアが、出てきた。


 顔色が、少し、悪かった。


 「終わりました」と彼女は言った。


 声に、力が、なかった。


 「大丈夫ですか」と俺は聞いた。


 彼女は、ソファに、座った。というより、崩れるように、座った。


 昔、配信の後に、倒れた時みたいだった。


 「ちょっと」と彼女は言った。「受け取りすぎたかも」


-----


 俺は、緑茶を、淹れた。


 彼女に、渡した。


 彼女は、両手で、受け取った。


 「ありがとう」と彼女は言った。声が、小さかった。


 「カナタさん、どうでしたか」と俺は聞いた。


 「いろいろ、話してくれました」と彼女は言った。


 「うん」


 「配信のこと。体調のこと。将来の、不安。いっぱい、抱えてて」


 「うん」


 「それを、全部、聞いて」


 「うん」


 「聞いてるうちに、カナタさんの、不安とか、しんどさが、私の中に、流れ込んできて」


 彼女は、お茶を、一口、飲んだ。


 「気づいたら、カナタさんの感情で、私の中が、いっぱいに、なってました」


 「うん」


 「昔の、配信の時みたいに」


 彼女の声は、疲れていた。


 「あかんですね」と彼女は言った。「支えるつもりが、ゴミ箱に、なってた」


-----


 「ルシア」と俺は言った。


 「はい」


 「それ、たぶん、一人で、聞いたからです」


 「一人で?」


 「うん。カナタさんの感情を、ルシアが、一人で、全部、受け止めようとした」


 「うん」


 「だから、溜まった」


 彼女は、うなずいた。


 「どうしたら、いいんやろ」と彼女は言った。


 俺は、少し、考えた。


 「次は」と俺は言った。


 「うん」


 「俺も、一緒に、聞きませんか」


 彼女は、顔を上げた。


 「ユウさんも?」


 「うん。スピーカーにして、二人で、聞く」


 「うん」


 「俺がいたら、たぶん、ブレーキになります」


 「ブレーキ?」


 「うん。ルシアが、カナタさんの感情を、受け取りすぎても、俺は、感情同期に反応しない。俺が、隣にいたら、その場の感情が、少し、薄まるかも」


 彼女は、少し、考えた。


 「たしかに」と彼女は言った。「ユウさんがいると、感情のノイズが、薄まる」


 「うん」


 「ユウさんの部屋に、ノイズが来ないのと、同じ原理ですね」


 「たぶん」


 俺の体質は、感情同期に、反応しない。


 それだけじゃない。俺が、その場にいると、なぜか、周りの感情のノイズも、薄まるらしい。


 ルシアが、最初に、この部屋を「ノイズが来ない場所」だと言ったのも、たぶん、俺が、いたからだった。


 部屋そのものじゃなく、俺が、いること。


 それが、ノイズを、薄める。


 なぜそうなるのか、理屈は、わからない。


 でも、ルシアは、それで、楽になると言った。半年探して、たどり着いたのが、ここだった。


 だったら、カナタの電話の時も、俺が、隣にいれば。


 ルシアが、カナタの感情を、受け取りすぎても、俺の存在が、それを、薄める。


 完全には、防げないかもしれない。でも、二時間も、受け止め続けて、ぐったりする、みたいなことは、減るはずだった。


-----


 「でも」とルシアは言った。


 「うん」


 「カナタさんの、プライベートな話を、ユウさんが、聞いてもいいんかな」


 「それは、カナタさんに、聞いてみましょう」と俺は言った。


 「うん」


 「『ユウさんも一緒に聞いていい?』って」


 「うん」


 「カナタさんが、嫌がったら、別の方法を、考えます」


 彼女は、うなずいた。


 「聞いてみます」


 彼女は、スマートフォンを、手に取った。


 メッセージを、打った。


 しばらくして、返事が、来た。


 彼女は、それを、読んだ。


 「『白瀬さんになら、聞かれてもいい』って」と彼女は言った。


 「うん」


 「『白瀬さんは、私の中身を読んでも、顔に出さへんかった人やから、信用できる』って」


 俺は、少し、笑った。


 いつかの、あのことを、言っているらしかった。カナタが、俺の中身を、読もうとした、あの時のこと。


 「『むしろ、白瀬さんがいてくれたら、安心する』って」


 「よかったですね」と俺は言った。


 「うん」


-----


 「じゃあ、次からは」とルシアは言った。


 「うん」


 「ユウさんも、一緒に、カナタさんの話を、聞く」


 「うん」


 「二人で、支える」


 「うん」


 彼女は、少し、ほっとした顔をした。


 「一人やと、抱え込んでしまう」と彼女は言った。


 「うん」


 「でも、二人やったら」


 「うん」


 「ユウさんが、ブレーキになってくれる」


 「なります」


 彼女は、緑茶を、もう一口、飲んだ。


 さっきより、顔色が、少し、戻っていた。


 「今日は、勉強に、なりました」と彼女は言った。


 「勉強?」


 「うん。一人で、抱え込んだら、あかん、って。身をもって、わかりました」


 「うん」


 「頭で、わかってたつもりでも、実際に、やってみると、難しいですね」


 「難しいです」


 「でも、失敗して、わかった。次は、二人で、やる」


 彼女は、少し、笑った。


 さっきより、元気な、笑顔だった。


-----


 夜、寝る前に、彼女が言った。


 「ユウさん」


 「はい」


 「今日、ありがとうございました」


 「俺は、何も」


 「ううん。受け取りすぎた私に、『二人で聞こう』って、言うてくれた」


 「うん」


 「一人で、頑張らなあかん、と思ってたから」


 「うん」


 「二人で、いいんや、って、わかって、楽になりました」


 俺は、うなずいた。


 「カナタさんを、支えるのは、ルシア一人の、仕事じゃないです」と俺は言った。


 「うん」


 「俺も、一緒に、やります」


 「うん」


 「二人で、できることは、二人で」


 彼女は、うなずいた。


 「ユウさんと、二人やと、たいていのことは、なんとかなる気がします」と彼女は言った。


 「そうですか」


 「うん。一人やと、無理なことも、二人やと、できる」


 「うん」


 「私たち、そういう、コンビですね」


 彼女は、少し、笑った。


 「コンビ」と俺は、繰り返した。


 「うん。感情が遅すぎる人と、感情が多すぎる人の、コンビ」


 「変なコンビですね」


 「変やけど、いいコンビです」


 彼女は、そう言って、目を、閉じた。


 すぐに、寝息が、聞こえてきた。


 俺は、天井を見ていた。


 コンビ、か、と思った。


 たしかに、俺たちは、二人で、ひとつ、みたいなところが、あった。


 俺の足りないところを、ルシアが。


 ルシアの足りないところを、俺が。


 お互いに、補い合っている。


 カナタを支えるのも、たぶん、二人だから、できる。


 一人ずつだったら、できないことが、二人だと、できる。


 それは、たぶん、いいことだった。


 明日からも、二人で、いろんなことを、やっていく。


 そう思いながら、目を閉じた。

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