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第47話「日曜日の昼、彼女は広い海を見た」



 日曜日の朝、目が覚めた。


 今朝は、来なかった。


 三日前は、木曜日。穏やかな一日だった。二人で、カナタの話を、少し、して、あとは、普通に、過ごした。


 最近、こういう穏やかな日が、続いていた。


 大きな出来事の後の、凪のような時間。


 今日は、その凪の中で、ひとつ、予定があった。


 夏の、外出。


 「ちょっと遠くまで、行きましょう」と、昨日、決めた。


 行き先は、海に、した。


 電車で、一時間くらいの、海。


 ルシアが「海、見たい」と言った。「半年前から、ずっと、見てへんから」と。


-----


 朝、二人で、準備をした。


 ルシアは、少し、いつもと違う格好をしていた。普段は、部屋着みたいな、楽な服。でも、今日は、ちゃんとした、外出着だった。


 白いワンピースに、薄い、カーディガン。


 「どうですか」と彼女は聞いた。


 「いいと思います」と俺は言った。


 正直、似合っていた。でも、それを、うまく、言えなかった。


 「ユウさん、語彙、少なすぎます」と彼女は笑った。


 「すみません」


 「いいです。『いい』って言うてくれたら、十分です」


 彼女は、嬉しそうだった。


 俺たちは、家を、出た。


-----


 駅まで、歩いた。


 ルシアは、少し、緊張しているようだった。


 「大丈夫ですか」と俺は聞いた。


 「うん」と彼女は言った。「でも、ちょっと、人が、多いと、まだ、緊張します」


 「うん」


 「半年前は、こういうの、無理やった」


 「うん」


 「駅に来ただけで、人の感情が、ぶわっと、流れ込んできて、倒れそうになって」


 「うん」


 「でも、今は」と彼女は言った。「ユウさんが、隣にいるから、大丈夫」


 「俺が?」


 「うん。ユウさんが、隣にいると、ノイズが、薄まる。前にも、言うたけど」


 「うん」


 「だから、外も、少しずつ、平気になってきました」


 彼女は、少し、笑った。


 電車が、来た。


 二人で、乗った。日曜の朝の電車は、そんなに、混んでいなかった。


 窓際の席に、並んで、座った。


-----


 電車が、走り出した。


 窓の外を、景色が、流れていった。


 ビルが、だんだん、減っていった。


 「景色が、変わっていきますね」とルシアが言った。


 「うん」


 「ずっと、部屋の中やったから」と彼女は言った。「景色が、流れるの、新鮮です」


 「うん」


 彼女は、窓の外を、じっと、見ていた。


 子供みたいに、目を、輝かせていた。


 半年前、倒れて、運ばれてきた人が、今、電車の窓から、流れる景色を、楽しんでいる。


 その姿を、見て、俺は、少し、嬉しくなった。


 たぶん、三日後に、もっと、嬉しくなるんだろう。


 でも、今も、少し、嬉しい。


 リアルタイムでも、ほんの少しは、感じられるように、なってきたのかもしれない。


 いや、それは、たぶん、気のせいだった。


 でも、気のせいでも、よかった。


-----


 一時間後、海の近くの駅に、着いた。


 駅から、海まで、歩いた。


 潮の匂いが、してきた。


 「海の匂い」とルシアが言った。「久しぶり」


 坂を、上った。


 坂の上に、出た瞬間、海が、見えた。


 広い、青い、海。


 水平線が、まっすぐ、伸びていた。


 ルシアが、立ち止まった。


 しばらく、海を、見ていた。


 何も、言わなかった。


 俺も、何も、言わなかった。


 ただ、二人で、海を、見ていた。


 彼女が、何を、感じているか、俺には、わからなかった。


 俺の体質は、感情同期に、反応しない。彼女の感情は、リアルタイムでは、読めない。


 でも、その横顔を、見ていると、なんとなく、わかる気がした。


 彼女は、感動していた。


 それも、深く。


 半年間、ずっと、見られなかった景色。狭い部屋に、閉じこもって、外の世界を、怖がっていた彼女が、今、広い海の前に、立っている。


 その事実が、彼女の中で、たぶん、洪水みたいに、なっている。


 いつか、彼女が言っていた、あの「洪水」。


 昔は、他人の感情の洪水だった。


 でも、今、彼女の中にあるのは、たぶん、自分の感動の、洪水だった。


 それは、いい洪水だった。


 俺には、その洪水は、見えない。


 でも、隣に、いる。


 それで、十分だった。


-----


 「広いなあ」と、ルシアが、ぽつりと、言った。


 関西弁だった。


 「広いです」と俺も言った。


 「半年前は」と彼女は言った。「こんな景色、見られへんかった」


 「うん」


 「狭い、暗い、部屋の中で、ずっと、丸くなってた」


 「うん」


 「外に出るのが、怖かった。人の感情が、怖かった」


 「うん」


 「でも、今、海を、見てる」


 彼女の目に、少し、涙が、にじんでいた。


 「ユウさんと、一緒に、海を、見てる」


 「うん」


 「半年前の私が、今の私を見たら、たぶん、信じられへん」


 俺は、うなずいた。


 「すごい、ことです」と俺は言った。


 「すごい?」


 「うん。半年で、ここまで、来た。それは、すごいことです」


 彼女は、海を見ながら、少し、笑った。


 「ユウさんのおかげです」と彼女は言った。


 「俺は、何も」


 「ううん。ユウさんが、いたから。ユウさんの部屋が、あったから。ここまで、来られた」


 「うん」


 「でも」と彼女は言った。「最後に、海まで、歩いてきたのは、私の足です」


 「うん」


 「だから、半分は、私のおかげ、ってことに、しときます」


 彼女は、笑った。


 「いいと思います」と俺は言った。「半分は、ルシアの、おかげです」


-----


 二人で、海岸を、歩いた。


 砂浜を、歩いた。


 波が、寄せては、引いていた。


 ルシアは、靴を脱いで、波打ち際を、歩いた。


 「冷たい」と彼女は言った。「気持ちいい」


 俺は、靴を履いたまま、彼女の隣を、歩いた。


 「ユウさんも、脱いだら?」


 「いいです。俺は、見てます」


 「もったいない」


 彼女は、波を、蹴って、遊んでいた。


 子供みたいだった。


 でも、その姿が、よかった。


 半年前、感情を失って、空っぽだった人が、今、波打ち際で、無邪気に、遊んでいる。


 感情が、戻ってきた、証拠だった。


 「楽しい」が、わかるように、なった。


 「気持ちいい」が、わかるように、なった。


 それは、たぶん、いちばん、大事なことだった。


-----


 昼に、海の近くの、小さな食堂で、ご飯を食べた。


 海鮮丼を、頼んだ。


 「美味しい」とルシアが言った。「ほんま、美味しいわ」


 関西弁が、自然に、出ていた。今日の彼女は、ずっと、調子が、よかった。


 「今日、関西弁、たくさん出てますね」と俺は言った。


 彼女は、少し、驚いた顔をした。


 「ほんまや」と彼女は言った。「気づいてなかった」


 「調子が、いいんですね」


 「うん。たぶん、すごく、いい」


 彼女は、笑った。


 「ユウさんの、バロメーター、当たってますね」


 「当たってます」


 「今日の私、関西弁、出っぱなしや」


 「うん」


 「それだけ、楽しいってことです」


 彼女は、海鮮丼を、食べながら、笑った。


 俺も、少し、笑った。


 彼女が、楽しそうにしているのを、見るのが、好きだった。


 たぶん、それも、俺の「好き」の、形だった。


-----


 午後、また、海岸を、歩いた。


 高台に、上った。


 高台から、海が、もっと広く、見えた。


 「ここから見ると、もっと広いですね」とルシアが言った。


 「うん」


 二人で、ベンチに、座った。


 海を、見ていた。


 「ユウさん」とルシアが言った。


 「はい」


 「今日、来てよかったです」


 「うん」


 「外の世界、こんなに、広いんやって、思い出しました」


 「うん」


 「部屋の中も、好きやけど」


 「うん」


 「たまには、外に出るのも、いいですね」


 「うん」


 「ユウさんと、一緒なら」


 彼女は、海を見ながら、言った。


 「ユウさんと、一緒なら、外の世界も、怖くない」


 俺は、少し、考えた。


 「俺も」と俺は言った。


 「うん?」


 「俺も、ルシアと、一緒なら」


 「うん」


 「外に出るのが、楽しいです」


 彼女は、こっちを、見た。


 「ユウさん、一人やと、外、出ぃひんでしょ」


 「出ないです」


 「やっぱり」


 「ルシアが、いるから、出ようと思う」


 「うん」


 「一人だと、外に出る理由が、なかったです」と俺は言った。「でも、ルシアが『海、見たい』って言うと、俺も、見たくなる」


 「ほんま?」


 「うん。ルシアが、世界を、広げてくれる」


 彼女は、少し、驚いた顔をした。


 「私が?」


 「うん。俺、ずっと、狭い世界で、生きてました。部屋と、学校と、コンビニ。それだけ」


 「うん」


 「でも、ルシアが来て、世界が、広がった。海まで、来た」


 「うん」


 「ルシアは、俺を、ノイズから守ってもらってる、って思ってるかもしれないけど」


 「うん」


 「俺も、ルシアに、世界を、広げてもらってます」


 彼女は、しばらく、何も言わなかった。


 それから、少し、笑った。


 「お互いさま、ですね」と彼女は言った。


 「お互いさまです」


 彼女は、少し、笑った。


 「私たち、やっぱり、コンビですね」


 「コンビです」


 二人で、海を、見ていた。


 波の音が、ずっと、聞こえていた。


-----


 夕方、帰りの電車に、乗った。


 ルシアは、少し、疲れたみたいで、俺の肩に、もたれて、眠っていた。


 たくさん、歩いて、たくさん、遊んだから。


 いい疲れ、だった。


 俺は、彼女が、起きないように、じっと、していた。


 窓の外を、夕日が、流れていった。


 いい一日だった、と思った。


 たぶん、三日後に、もっと、いい一日だった、と思うんだろう。


 今日の、海。ルシアの、笑顔。波打ち際の、無邪気な姿。「ユウさんと一緒なら、外も怖くない」という、言葉。


 全部、三日後に、感情として、届く。


 どんな感動が、届くんだろう。


 楽しみだ、と思った。


 でも、今も、少し、幸せだった。


 眠っているルシアの、寝顔を、見ながら、俺は、思った。


 こういう日が、これからも、続いたら、いい。


 彼女の髪が、少し、俺の腕に、かかっていた。


 規則正しい、寝息。


 半年前、この人は、感情の洪水に、溺れていた。


 今、こうして、俺の肩で、安心して、眠っている。


 安心して、眠れる場所が、できた、ということ。


 それは、たぶん、彼女にとって、すごく、大きなことだった。


 俺は、その場所に、なれた。


 部屋だけじゃなく、俺の、肩も。


 電車が、揺れた。


 彼女は、起きなかった。


 俺は、動かないように、じっと、していた。


 夏が、始まろうとしていた。


 二人で過ごす、初めての、夏が、もう、すぐそこまで、来ていた。きっと、いい夏に、なる。そんな予感が、たしかに、した。

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