第39話「金曜日の夜、彼女から、たまたま、連絡が来た」
金曜日の朝、目が覚めた。
今朝も、来ていた。
火曜日のこと。ルシアが、ノートに「Lucia」と書いた、あの日。「もう一度、Luciaを、ちゃんと、やりたい」と、彼女が言った、あの瞬間。
全部、今朝、感情として、届いた。
布団の中で、しばらく、受け取っていた。
火曜の朝、リアルタイムで感じていたのは、「いい兆しだな」くらいの、ぼんやりした感覚だった。
今朝、届いたのは、もう少し、はっきりした言葉だった。
「希望」
その言葉が、頭の中で、浮かんだ。
ルシアが「もう一度、Luciaをやりたい」と書いた、あの瞬間。あれは、彼女が、未来に向かって、手を伸ばした瞬間だった。
その姿を見て、俺の中にも、何かが、生まれていた。
彼女が、未来を、描こうとしている。だったら、俺も、その未来の中に、いたい。
そういう気持ちが、火曜日に、生まれて、今朝、「希望」という名前になって、届いた。
希望、というのは、たぶん、未来を想像できる人の言葉だった。
俺は、ずっと、未来を、ちゃんと想像できなかった。三日後の感情しか、受け取れない体質だった。三日後の自分は、想像できる。でも、三ヶ月後の自分は、ぼんやりしている。一年後の自分は、考えたこともなかった。
そんな俺が、彼女の「Lucia」を見て、初めて、その先の季節を、想像した。
夏。彼女が、Luciaとして、配信している。俺は、その隣にいる。
そういう未来を、想像した瞬間、それが、俺の中で、形を持った。
「形のある未来」を、たぶん、人は、「希望」と呼ぶんだろう。
俺は、人生で、初めて、希望を、持った。
そう、思った。
半年前の俺なら、絶対に、希望、なんて言葉、使わなかった。
希望、というのは、たぶん、明るくて、前向きで、ちょっと、軽い感じの、言葉だった。三日後の感情しか受け取れない、ぼんやりした俺には、似合わない言葉、だった。
でも、彼女が「Lucia」と書いた、あの瞬間に、俺は、それを、持った。
彼女が描く未来に、俺も、いたい。
そういう気持ちが、たぶん、希望、だった。
具体的な未来を、迎えたい、と思う気持ち。
そう、整理した。
-----
起き上がった。
ルシアは、台所にいた。卵焼きを作っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「来てましたか」
「来てました」
「いつのですか」
「火曜日。ルシアが、ノートに『Lucia』って書いた、あの瞬間」
彼女は、少し笑った。
「あの時のが、届いたんですね」
「うん」
「今朝、どんな感じで、届きました?」
「『希望』、って言葉が、浮かびました」
彼女は、卵焼きを巻く手を、止めた。
「希望」
「うん」
「ユウさん、希望、持ってなかったんですか、今まで」
俺は、少し考えた。
「持ってなかった、というか」と俺は言った。
「うん」
「未来を、ちゃんと、想像できなかったので、希望、というものが、何なのか、わからなかったんです」
「うん」
「でも、ルシアが『Lucia』って書いて、未来に手を伸ばすのを見て」と俺は言った。「俺も、その未来に、いたいって、思った。それで、初めて、希望、って何かが、わかった気がする」
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
卵焼きを、皿に盛った。
「ユウさん」と彼女は言った。
「はい」
「私も、希望、最近、初めて、持ったかも」
「初めて?」
「うん。半年前は、未来を、考える余裕、なかったから」
「うん」
「ここに来て、少しずつ、明日のこと、考えるようになって。今は、夏のこと、考えてる」
「うん」
「これも、希望、って言うんですね」
俺はうなずいた。
「持ったの、初めてやから、なんか、戸惑うわ」
彼女は関西弁で、少し笑いながら言った。
「俺もです」と俺は言った。
「初めての気持ち、二人で同時にやな」
「うん」
お互いに、似たような場所に、たどり着いていた。
希望、という言葉を、お互いに、人生で初めて、持っていた。
-----
朝食を食べて、皿を洗った。
テーブルに、二冊のノートを、置いた。
今日も、書いた。
俺は、書きながら、ふと、思った。
そもそも、なぜ、書き始めたんだっけ。
最初は、カナタの「あなたたちのこと、書きたい」という提案、だった。
俺たちが書かれる側になるのは、怖い。だから、ユウが書く。書いたものを、カナタに渡す。
そういう、約束だった。
でも、ノートに書いてきた文章は、もう、ずいぶん、増えていた。
書き始めた、最初の一行から、もう、二週間近く、書いている。
毎日、少しずつ、書いて、ノートには、たくさんの文字が、増えていた。
俺の黒のインクと、ルシアの青のインクが、混ざっていた。
「俺たち」の物語が、書かれていた。
これを、カナタに、渡すんだろうか。
-----
ペンを、置いた。
俺は、ルシアに、話しかけた。
「ルシア」
「はい」
「ふと、思ったんですけど」
「うん」
「俺たち、これ、最初は、カナタさんに渡すために、書いてましたよね」
彼女は、書く手を、止めた。
「あ」
「忘れてました?」
「忘れてました」
彼女は、少し笑った。
「いつの間にか、私たちの、ためのノートに、なってました」
「うん」
「カナタさんのこと、忘れてた」
「俺もです」
俺たちは、しばらく、お互いを、見ていた。
そして、ノートを、見ていた。
書きためた、たくさんの文字。
「これ、どうしますか」と俺は聞いた。
「うん」
「渡しますか、カナタさんに」
彼女は、しばらく、考えた。
「ちょっと、整理が、いる気がします」と彼女は言った。
「うん」
「今、これは、私たちのものです」
「うん」
「カナタさんに渡すなら、別の形に、しないと、いけない気がする」
「別の形」
「うん。今のままだと、私たちの、二人のための、ノート。カナタさんに見せるなら、もう少し、整えないと」
俺はうなずいた。
「でも」と俺は言った。
「うん」
「整える、って、どうするんでしょう」
「わからないです、まだ」
「うん」
俺たちは、しばらく、ノートを、見ていた。
たくさんの文字。
俺が書いたところと、ルシアが書いたところ。
相手のノートに書き込んだ、お互いの文字。
「ありがとう」と書いた、お互いの言葉。
全部が、二人の、温度を、持っていた。
これを、外の誰かに、見せる。
それは、温度を、外に、漏らす作業、かもしれなかった。
漏らしたら、温度が、下がるかもしれなかった。
でも、漏らさないと、誰にも、届かない。
難しい、と思った。
「考えます」と彼女は言った。
俺もうなずいた。
「考えます」と俺も言った。
お互いに、「考えます」と言った。
どっちも、答え、持っていなかった。
でも、考える、と決めた。
それが、今の俺たちの、いつもの形だった。
-----
午後、二人で、お茶を飲んだ。
何も話さなかった。でも、お互いに、考えていた。
「カナタさんのために、書く」というのは、たぶん、今のノートとは、別の文章になる。
今のノートは、二人で、二人のために、書いている。読者は、いない。
カナタに渡すなら、読者がいる。読者がいる文章は、書き方が、たぶん、違う。
でも、書き方を変えると、たぶん、今のノートの、温かさは、失われる。
難しい問題、だった。
急がない、と俺たちは決めていた。
だから、急がない。
お茶を飲んで、夕方まで、それぞれの本を、読んでいた。
彼女は、エッセイ集を、読んでいた。最近、こういう本を、好んで読むようになっていた。
俺は、自分の好きな小説を、読んでいた。
-----
夕方、ルシアのスマートフォンが、鳴った。
彼女は、画面を見た。
「あ」と彼女は言った。
「誰ですか」
「カナタさんから」
俺は、少し驚いた。
ちょうど、今日、カナタの話を、していた。
彼女は、画面を、しばらく見ていた。
「何て?」と俺は聞いた。
「『最近、どう?』」と彼女は読み上げた。
「それだけ?」
「それだけ」
俺たちは、お互いを、見た。
「今日、私たち、カナタさんの話、してましたよね」と彼女は言った。
「してました」
「不思議ですね、タイミングが」
「うん」
不思議だった。今日、ちょうど、「カナタさんに、どう渡すか」を、考え始めた日だった。
その日に、カナタから、連絡が来た。
偶然、かもしれない。
でも、何か、必然みたいな感じも、あった。
「返事、しますか」と俺は聞いた。
「うん。します」
彼女は、しばらく、画面を、見ていた。
「何て、返しますか」
「うん」
「『元気です』とだけ、書いてもいい?」
「いいですよ」
「うん」
「あと、もうひとつ、書いてもいいですか」
「うん」
「『近いうちに、また、会えませんか』って」
俺は、彼女を、見た。
「うん」
「会って、話したいことが、あるって」
「いいですね」
彼女は、書いて、送った。
しばらくして、返事が来た。
「『いつでも、いいよ』って」
彼女は、少し笑った。
「来週、また、会いに行きませんか」と彼女は言った。
「行きます」
俺は、うなずいた。
「俺も、一緒で、いいですか」
「もちろん」
彼女はうなずいた。
来週、また、カナタに、会いに行く。
書いたものを、どう、渡すか。
まだ、決まっていない。
でも、決めるための、時間が、また、始まろうとしていた。
-----
夜、寝る前に、彼女が言った。
「ユウさん」
「はい」
「今日、希望、って言葉、出ましたよね」
「出ました」
「私、希望、ちゃんと、保ちたいです」
「うん」
「カナタさんに、ノートを渡す、ってことが、もし、私の希望を、揺らすなら、私、たぶん、渡したくない」
「うん」
「でも、もし、渡すことで、私の希望が、もっと、形になるなら、渡したい」
「うん」
「どっちか、わからないです、まだ」
俺は、少し考えた。
「来週、会って、考えましょう」と俺は言った。
「うん」
「答えは、まだ、いいです」
「ありがとうございます」
また、自然な「ありがとう」だった。
電気を消した。
彼女の寝息が、すぐに、聞こえてきた。
俺は、天井を、見ていた。
希望、という言葉が、まだ、頭の中に、あった。
俺の希望。
彼女の希望。
お互いに、初めて、持った希望。
それを、揺らさないように、これからの道を、選ぶ。
たぶん、それが、これからの俺たちの、責任、だった。
希望を、持つ、というのは、責任、を持つ、ということでも、あった。
持たないでいた間は、何かを、守る必要も、なかった。失うものが、なかったから。
でも、持った瞬間、それを、守りたい、という気持ちが、生まれた。
「壊れたくない」じゃなく、「守りたい」。
そういう種類の気持ちは、たぶん、人生で初めて、だった。
彼女も、同じだろうか。
「希望を、保ちたい」と彼女が言った。「揺らさないように」と。
たぶん、同じだった。
お互いに、人生で初めての、責任を、持っていた。
難しい責任、だった。
でも、悪くない、責任だった。
そう思いながら、ゆっくり、目を閉じた。明日も、また、二人で、ゆっくりと、考えていく日々が、続く。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。
皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。




