第40話「土曜日の午後、俺たちはノートを閉じた」
土曜日の朝、目が覚めた。
今朝も、来ていた。
水曜日のこと。二人で、ノートに、未来を書いた日。「夏になったら」と、お互いのノートに、書き込み合った、あの日。ノートの境界が、消えていった、あの日。
全部、今朝、感情として、届いた。
布団の中で、しばらく、受け取っていた。
あの日、リアルタイムでは、「未来を書くのは、いいな」くらいに、思っていた。
今朝、届いたのは、もっと、はっきりした感覚だった。
俺のノートに、彼女が書き込んだ。彼女のノートに、俺が書き込んだ。境界が、消えた。
それは、たぶん、「俺のもの」と「彼女のもの」の境界が、消えた、ということでもあった。
二人の間に、共有されるものが、増えていく。
その感覚が、今朝、温かく、届いた。
そして、その温かさの後に、もうひとつ、来た。
共有するものが増えると、守りたいものも、増える。
守りたいものがある、という重さ。
それは、たぶん、いい重さだった。
半年前の俺には、守りたいもの、なんて、なかった。
だから、軽かった。何も持っていないから、何も失わない。失うものがないのは、楽だった。でも、たぶん、それは、空っぽ、ということでもあった。
今は、守りたいものがある。
ルシアがいる。二人のノートがある。二人の未来がある。
失うのが、怖い。
でも、その「怖い」は、たぶん、生きている証拠だった。
守りたいものがあるから、怖い。怖いけど、それでも、守りたい。
そういう気持ちを、三日遅れで、今朝、ちゃんと、受け取った。
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起き上がった。
ルシアは、もう、起きていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「来てましたか」
「来てました。水曜日の、ノートに未来を書き込んだ話」
彼女は少し笑った。
「あの日のですか」
「うん。境界が消えて、共有するものが増えた。だから、守りたいものも増えた、って」
「いい重さ」
「うん。守りたいものがある時の、重さ」
彼女は、少しの間、何も言わなかった。
「私も、その重さ、最近、わかるようになってきました」と彼女は言った。
「うん」
彼女は卵焼きを、皿に盛った。
「今日、ノート、整えてみますか」と彼女は言った。
「整える」
「うん。カナタさんに、見せられる形に」
「やってみますか」
「うん」
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朝食を食べて、皿を洗った。
テーブルに、二冊のノートを、置いた。
俺の黒のインクと、ルシアの青のインクが、混ざったノート。
これを、カナタに見せられる形に、整える。
でも、どうやって?
「まず、読み返してみましょう」とルシアが言った。
「うん」
二人で、最初から、読み返した。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」
最初の一行から。
読み返すと、いろんなことが、書いてあった。
俺の体質のこと。ルシアの体質のこと。二人で見つけたこと。未来のこと。お互いのノートに書き込んだ、小さな言葉。
「ありがとう」が、何回も、書いてあった。
読み返して、俺は、思った。
これは、いい文章だ、と。
いや、文章として上手いか、はわからない。でも、温かかった。読んでいて、温かかった。
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「整えるって」と俺は言った。
「うん」
「具体的に、どうしますか」
彼女は少し考えた。
「他人が読んでわかるように、説明を足す、とか」
「うん」
「あと、私的すぎる部分は、消す、とか」
「私的すぎる部分」
「『夏の夜、二人で星を見たい』とか。これ、カナタさんには、関係ないので」
「うん」
俺たちは、整え始めた。
まず、最初の部分に、説明を足した。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」の後に、「これは、感情同期デバイスが普及した世界で、まれに見られる体質である」みたいな、説明を。
書いてみた。
読み返した。
何かが、違った。
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「ユウさん」とルシアが言った。
「はい」
「なんか、変じゃないですか」
「変です」
説明を足した文章は、急に、よそよそしくなっていた。
「俺の感情は、三日遅れて届く」という、ぽつりとした一行が、持っていた温度。
そこに「これは、感情同期デバイスが普及した世界で——」と説明を足した瞬間、温度が、消えた。
教科書みたいに、なった。
不思議だった。
同じ「俺の感情は、三日遅れて届く」という言葉なのに、後ろに説明がつくと、まるで、別人が書いた文章みたいになる。
たぶん、こういうことだった。
最初の一行は、「俺が、ルシアに、伝えたい」と思って書いた。
説明を足した文章は、「知らない誰かに、わかってもらおう」と思って書いた。
向ける相手が、変わると、文章の温度も、変わる。
俺が書いた、最初のノートは、全部、「ルシアに伝えたい」という温度で、書かれていた。
だから、温かかった。
それを、「知らない誰か」向けに直すと、温度が、抜ける。
当たり前のこと、かもしれなかった。でも、やってみて、初めて、わかった。
「私的な部分を消すのも」とルシアが言った。
「うん」
「『夏の夜、星を見たい』を消したら」
「うん」
「なんか、このノートの、いちばん大事なところが、消える気がします」
俺も、同じことを、思っていた。
「夏の夜、二人で星を見たい」は、カナタには関係ない。
でも、その一文があるから、このノートは、温かい。
消したら、温度が、消える。
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俺たちは、しばらく、手を止めた。
整えようとすると、温度が消える。
でも、温度を残すと、私的すぎて、他人には見せられない。
「難しいですね」とルシアが言った。
「難しいです」
「整えると、これ、私たちのものじゃ、なくなる気がする」
「うん」
「私たちの日記やったんや、これ」と彼女は言った。関西弁が、ぽつりと、出た。「誰かに見せるもんやなかったんや」
俺は、そのノートを、見た。
黒と青のインク。混ざった文字。たくさんの「ありがとう」。
たしかに、これは、日記だった。二人の。
カナタに見せるために、書いたんじゃなかった。
いつの間にか、二人のための、記録になっていた。
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「やめましょうか」と俺は言った。
「整えるの?」
「うん。整えると、これが、壊れる気がします」
彼女は、しばらく、ノートを見ていた。
「うん」と彼女は言った。「やめましょう」
「うん」
「これは、私たちのものとして、残します」
「うん」
俺たちは、ノートを、閉じた。
整えるのを、やめた。
でも、そうすると、問題が、残った。
カナタに、何を渡すのか。
カナタは「あなたたちのこと、書きたい」と言った。同じ苦しみの人に、届けたい、と。
その気持ちに、どう応えるのか。
ノートは、渡せない。
じゃあ、何を?
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しばらく、二人とも、考えていた。
お茶を飲んで、考えていた。
そして、ルシアが、ふと、顔を上げた。
「ユウさん」
「はい」
「ノートやなくて」
「うん」
「私が、声で、伝えたらええんちゃう?」
俺は、彼女を見た。
「声」
「うん。Luciaとして、配信で。私の経験を、私の言葉で、語る」
「うん」
「ノートは、私たちのもの。でも、私の経験は、私が、自分の声で、伝えられる」
俺は、少しの間、考えた。
それは、いい考えだ、と思った。
ノート(二人の私的な記録)は、二人のものとして、残す。
外に出すのは、ルシアの「声」。
カナタが望んだ「同じ苦しみの人に届ける」は、ルシアの配信で、実現できる。
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「それ、いいです」と俺は言った。
「ほんま?」
「うん。ノートを整えるより、ずっと、いい」
「うん」
「ルシアの経験は、ルシアが、いちばん、ちゃんと、伝えられる」
彼女は、少し、嬉しそうな顔をした。
「でも」と彼女は言った。
「うん」
「それって、Luciaを、再開するってことです」
「うん」
「ちゃんと、自分の名前で、配信するってこと」
「うん」
彼女は、しばらく、考えた。
「怖いです、まだ」と彼女は言った。
「うん」
「でも、やりたい、とも、思う」
「うん」
「怖いけど、やりたい。両方、あります」
俺は、うなずいた。
「急がなくて、いいです」と俺は言った。
「うん」
「準備が、できてから」
「うん」
「それに」と俺は続けた。
「うん」
「いちばん最初のリスナーは、俺です」
彼女は、少し笑った。
「覚えてくれてたんですね」
「覚えてます。約束したので」
「うん」
「だから、怖かったら、まず、俺だけに、聞かせてください」
「うん」
「俺が、三日後に、感想を返します」
彼女は、笑った。今日、いちばん、いい笑顔だった。
「ありがとうございます」
また、自然な「ありがとう」だった。
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夕方、ノートを、本棚に、しまった。
整えなかったノート。二人のままの、ノート。
これは、これで、いい。
カナタには、別の形で、応える。ルシアの声で。
本棚のノートを見ながら、俺は、思った。
全部を、外に出す必要は、ない。
二人だけのものは、二人だけのものとして、残していい。
外に出すものは、別に、選べばいい。
そういう、区別が、たぶん、大事だった。
半年前の俺なら、こんなこと、考えもしなかった。
半年前の俺は、外に出すものも、出さないものも、なかった。全部、自分の中だけで、完結していた。誰にも、何も、伝えなかった。
でも、今は違う。
ルシアに伝えたいことがある。
知らない誰かに、届けたいことも、ある。
そして、二人だけの、秘密にしておきたいことも、ある。
伝える相手によって、出すものを、選ぶ。
そういう、複雑なことが、できるようになっていた。
それも、たぶん、ルシアと暮らすようになって、身についたことだった。
人と関わると、こういう、区別が、必要になる。
面倒、かもしれない。でも、それは、人と関わっている、という証拠でもあった。
「来週、カナタさんに会ったら」とルシアが言った。
「うん」
「『ノートは渡せないけど、私が配信で語ります』って、伝えます」
「うん」
「それで、カナタさんが、納得してくれたら、いいな」
「してくれますよ」
「なんで、わかるんですか」
「カナタさんも、たぶん、わかってるので。私的なものを、外に出す難しさ」
彼女は、うなずいた。
「そうですね」
窓の外は、もう、夕方だった。
葉桜の緑が、夕日に、照らされていた。
来週、カナタに会う。
ルシアが、Luciaとして、語る決意を、固めつつあった。
ゆっくり、でも、確実に、何かが、前に進んでいた。
俺は、ノートの背表紙を、もう一度、見た。
整えなかった、二人のノート。
これは、ずっと、本棚にある。
そして、その隣に、これから、たくさんの新しいことが、増えていく。
ルシアの配信。俺の感想。二人の、新しい時間。
急がない。
でも、止まらない。
そういう速さで、進んでいけたら、いい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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