第37話「水曜日の昼、彼女は俺のノートに書き込んだ」
水曜日の朝、目が覚めた。
今朝も、来ていた。
日曜日のこと。書きながら、「俺」の話が「俺たち」の話になっている、と気づいた瞬間。それを、ルシアに伝えて、「一緒に書きませんか」と、提案した時間。
全部、今朝、感情として、届いた。
布団の中で、しばらく、受け取っていた。
あの時、リアルタイムでは、「難しいな」と思っていた。彼女が、どう答えるか、わからなかった。
今朝、届いたのは、もう少し、はっきりした感覚。
「あれは、たぶん、人生で、いちばん勇気のいる提案だった。」
そう、思った。
でも、提案してよかった。彼女が、「いい気がする」と、答えてくれた。
今、二人で、書いている。それは、たぶん、月曜のあの提案から、生まれた時間だった。
三日後の俺は、月曜の自分に、感謝していた。
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起き上がった。
ルシアは、もう、起きていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「来てましたか」
「来てました」
「今朝のは、いつのですか」
「日曜日。書きながら、『俺たち』の話だ、って気づいた瞬間と、『一緒に書きませんか』を、提案した瞬間」
彼女は、少し笑った。
「あの時、嬉しかったです、私」
「うん」
「ユウさんが、独占しないで、私を、入れてくれた」
「うん」
「あれが、なかったら、私、たぶん、今、こんなに、楽しくなかった」
俺はうなずいた。
彼女は、卵焼きを、皿に盛った。
何気ない朝の風景。でも、いつもより、ほんの少し、温かい感じがした。
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朝食を食べて、皿を洗った。
テーブルに、二冊のノートを、置いた。
今日も、書く。
俺は、自分のノートを開いた。
昨日まで、書いてきた文章を、もう一度、読み返した。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」
「ずっと、欠陥だと、思っていた。」
「でも、ある日、ある人が、俺の部屋に来た。」
「俺たちは、お互いの『時間』を、調整しあった。」
昨日まで、ずっと、過去の話を、書いていた。
俺の体質のこと。彼女が来たこと。二人で、何を、見つけてきたか。
全部、過去だった。
今日も、過去の続きを、書こうとした。
でも、ペンを取った時、ふと、思った。
未来のことも、書けるかもしれない、と。
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俺は、ペンを、持ったまま、しばらく、考えた。
俺の感情は、三日遅れる。
だから、俺は、過去のこと、しか、ちゃんと感じられない。今、何が起きてるか、その意味は、三日後にしか、わからない。
未来のことは、想像しても、たぶん、感情として、届かない。
でも、書く、というのは、違うかもしれなかった。
書く、というのは、頭の中で、まだ起きていないことを、想像して、文字にする、ということだった。
未来を、書ける。
未来を、書いた瞬間、それは、まだ感情としては来ていない。でも、紙の上に、形として、存在する。
不思議だった。
俺の頭の中では、未来は、いつも、ぼんやりしていた。「夏になったら、どうなってるんだろう」と、なんとなく、考えるくらい。具体的に、想像することは、苦手だった。
未来に対する感情も、たぶん、ぼんやりしていた。「楽しみ」とも違うし、「不安」とも違う。何かが、来るんだろう、という、ただの予感。
でも、書く、という行為は、その、ぼんやりした未来を、強制的に、具体化する作業だった。
「夏になったら、何か、新しいことが、したい。」
たとえば、これを、書ける。
書いた瞬間、その「夏」は、まだ来てない。でも、書かれた瞬間に、その「夏」は、俺の中で、形を持つ。
俺の体質は、過去の感情を、三日後に、受け取る体質、だった。
でも、書くことは、未来を、先に、形にする、ことができた。
新しい時間軸が、たぶん、増えた。
俺は、新しいページを、開いた。
書いた。
「夏になったら、俺は、たぶん、まだ、彼女と暮らしている。」
書いた瞬間、不思議な感じがした。
書く前は、ぼんやりとしか、思っていなかった。「夏になったら、まだ、彼女と暮らしてる、かな」みたいな、漠然とした感覚。
でも、書いた瞬間、それは、はっきりした、形を持った。
紙の上に、夏の俺たちが、いた。
書いた紙を、見ていた。
彼女が、隣で、何かを、書いていた。
俺は、続きを、書いた。
「彼女は、もしかしたら、配信を、再開しているかもしれない。『Lucia』として。」
書いた。
書きながら、自分でも、驚いた。
未来のことを、こんなに、はっきり、想像できる、と、思っていなかった。
書く、というのは、未来を、先取りする、行為でもあるのかもしれなかった。
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しばらくして、彼女が、ペンを、置いた。
「ユウさん」
「はい」
「今日のユウさん、いつもと違う書き方してます」
「そうですか」
「うん。書きながら、何か、新しいことに、気づいてる顔」
俺は少し、笑った。
彼女は、いつも、俺の顔を、よく見ている。
「気づいたこと、話していいですか」と俺は言った。
「うん」
「俺の体質、過去の感情しか、ちゃんと受け取れない、と思ってました」
「うん」
「でも、書くことは、未来を、先に作ることができる」
「未来を、先に」
「うん。書く前は、未来は、ぼんやりしてる。でも、書いた瞬間、未来が、形を持つ」
彼女は、少し、考えた。
「面白いですね」と彼女は言った。
「うん」
「私、逆かも」
「逆?」
「私は、リアルタイムで、人の感情を、受信しすぎる体質。だから、今、目の前のことで、頭がいっぱいで、未来を、想像する余裕が、なかったんです」
「うん」
「ここに来てから、その感情のノイズが、減って、ようやく、未来を、考えられるようになった」
「うん」
「私たち、ほんとに、対になってますね」
俺は、頷いた。
彼女の体質と、俺の体質。違う方向に、ずれていた。でも、ここに来て、お互いに、もう片方の方向に、進んでいた。
彼女は、リアルタイムに、押しつぶされて、未来を見られなかった。今、未来を見られるようになってきた。
俺は、過去にしか、ちゃんと触れられなかった。今、未来を、先に書けるようになってきた。
違う方向から、お互いに、未来へ、進んでいた。
たぶん、お互いに、相手の「ない時間軸」を、少しずつ、補い合っていた。
彼女は、俺の「過去にしか触れられない」を、リアルタイムの実感で、補ってくれていた。
俺は、彼女の「未来を見られない」を、書くことで、補い始めていた。
お互いに、不完全だった。
でも、二人で、たぶん、ひとつの完全に近いものに、なっていた。
そう、気づいた。
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「ユウさんが書いた未来、見ていいですか」と彼女は言った。
「うん」
俺は、ノートを、彼女の方に、向けた。
彼女は、読んだ。
「夏になったら、俺は、たぶん、まだ、彼女と暮らしている。」
「彼女は、もしかしたら、配信を、再開しているかもしれない。『Lucia』として。」
彼女は、しばらく、その文章を、見ていた。
そして、少し、笑った。
「ええなあ、その未来」
関西弁が、自然に、出ていた。
「いいですね、その未来」と、もう一度、彼女は言い直した。「ええなあ、って、出てしもた」
「うん」
「私も、その未来、見たいです」
彼女は、自分のペンを、手に取った。
そして、俺のノートに、何かを、書き込んだ。
俺は、少し、驚いた。
俺のノートに、青のインクで、文字が、増えていた。
「夏の夜、二人で、ベランダで、星を見たい。」
彼女が書いた。
俺のノートに。
彼女は、少し、悪戯っぽく、笑った。
「いいですか、書き込んで」
俺は、少し、考えた。
最初、これは「俺のノート」のはずだった。彼女のノートと、俺のノートを、分けて、書いていた。
でも、彼女が、俺のノートに、書き込んだ。
そして、書き込まれた文章は、悪くなかった。
「夏の夜、二人で、ベランダで、星を見たい。」
俺の未来の中に、彼女が、入ってきた。
「いいです」と俺は言った。
「ほんとに?」
「うん。俺のノートも、ルシアのノートも、たぶん、もう、境界、なくしていいです」
「うん」
彼女はうなずいた。
「じゃあ、私のノートにも、ユウさん、書き込んでください」と彼女は言った。
「うん。書き込みます」
彼女は、自分のノートを、俺の方に、向けた。
俺は、黒のペンで、彼女のノートに、書いた。
「夏になったら、ルシアと、コンビニじゃなくて、ちょっと遠くまで、散歩したい。」
書いた。
彼女は、それを、読んで、少し、笑った。
「うん。行きたいです」
「うん」
俺たちは、もう一度、ノートを、テーブルに、置いた。
二冊のノートに、黒と青のインクが、混ざっていた。
どっちが、誰のノートか、わからなくなり始めていた。
たぶん、それで、よかった。
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午後、ベランダに出た。
桜は、もう、完全に、葉桜になっていた。緑が、深くなっていた。
「桜、終わりましたね」と彼女が言った。
「うん」
「来年まで、また、待ちます」
「待ちます」
「待ちます」が、今日もまた、出た。
お互いに、何かを、待っていた。
桜を、待つ。
夏を、待つ。
彼女の「Lucia」の決断を、待つ。
俺の文章の続きを、待つ。
たくさんの「待つ」が、二人の間に、流れていた。
待つ、というのは、何もしないこと、じゃなかった。
何かが起きるための、時間を、共有することだった。
そして、その時間を、二人で、過ごすことだった。
たぶん、これからも、たくさん、待つ。
待つたびに、何かが、二人の間で、ちゃんと、育っていく。
そう、信じることに、した。
夕方、彼女が、お茶を、淹れてくれた。
いつもの緑茶。いつもの湯呑み。
でも、今日のお茶は、いつもより、温かい気がした。
俺たちは、ベランダで、お茶を、飲んだ。
遠くで、子供の声がした。誰かが、笑っていた。
夏が、もうすぐ、来る。
新しい季節が、もうすぐ、来る。
その季節で、何が起きるか、まだ、わからない。
でも、二人で、ここにいる。
俺は、隣で、書く。
彼女は、隣で、書く。
それぞれの未来を、それぞれのペンで、書きながら、たまに、相手のノートにも、書き込む。
そういう日々が、これから、しばらく、ゆっくりと、続いていく。
だから、たぶん、これからもしばらくは、たぶん、ちゃんと、二人で、ゆっくり、隣で歩いていけば、たぶん、ちゃんと、これからも、ちゃんと、大丈夫なんだろうな、と思った。
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