第36話「火曜日の朝、彼女は『Lucia』と書いた」
火曜日の朝、目が覚めた。
目が覚めた瞬間に、来ていた。
土曜日の夜。ノートに、最初の一行を、書いた瞬間。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」
書いた時の、ペンが、紙につく感覚。書いた直後の、しばらく動けなかった時間。書いた文字を、何度も、読み返した時間。
全部、今朝、感情として、届いた。
布団の中で、しばらく、それを受け取っていた。
書いた、あの瞬間に、リアルタイムで感じていたのは、「不思議だな」だった。
今朝、届いたのは、もう少し、はっきりした感覚。
「これは、新しい人生の、たぶん、始まりだった。」
そう、思った。
半年前の俺なら、絶対に、書いていなかった。
半年前の俺は、自分の体質を、誰にも、話したことがなかった。「俺、感情が遅れて来る体質で」なんて、口にしたら、変な人だと思われる。だから、ずっと、黙っていた。
書く、というのは、口に出すよりも、たぶん、もっと、勇気が、いる。
話したことは、その場で消える。書いたことは、ずっと、残る。
残るものに、自分の中の何かを、置く。
それは、半年前の俺には、想像もできない、行動だった。
人生で初めて、自分の中の何かを、外に出した。たった一行。でも、それは、人生で、初めての、外への発信だった。
その重さが、今朝、ちゃんと、来ていた。
不思議な感じじゃなく、ちゃんとした、「節目」として、来ていた。
三日後の俺の方が、たぶん、書いた瞬間の俺より、その意味を、ちゃんと、わかっていた。
そういう体質、だった。
急いで何かに気づかない代わりに、三日経ってから、ちゃんと、気づく。
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起き上がった。
台所に、ルシアがいた。卵焼きを作っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「来てましたか」と彼女が振り向いた。
「来てました」
「いつのですか」
「土曜日の夜。書き始めた、あの瞬間」
彼女は少し笑った。
「うん」
「不思議な感じだったのが、今朝、もう少し、別の名前になりました」
「別の名前?」
「『新しい人生の始まり』、って」
彼女は卵焼きを巻く手を、少し、止めた。
「いいですね、それ」と彼女は言った。
「うん」
「人生の、節目に、私、いたんですね」
「うん」
彼女は少し、嬉しそうな顔をした。卵焼きを、皿に盛った。
「今日も、書きますか」と彼女が聞いた。
「書きます」
「うん。私も、書きます」
俺たちは、二人で、朝食を食べた。
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朝食の後、皿を洗った。
テーブルに、二冊のノートを、置いた。
昨日の続きを、書き始めた。
俺は、昨日書いたところを、もう一度、読み返した。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」
「他の人が、リアルタイムで感じる感情を、俺は、三日後に、受け取る。」
「ずっと、欠陥だと、思っていた。」
「でも、ある日、ある人が、俺の部屋に来た。」
「俺の三日遅れと、彼女のリアルタイムの混乱は、たぶん、対になっていた。」
昨日書いた、たくさんの文章があった。
続きを、書こうとした。
ペンを、取った。
「俺たちは、二人で、自分の感情を、確かめる時間を、共有することを、始めた。彼女が、俺の三日後を、待ってくれた。俺は、彼女のリアルタイムが、整う時間を、待った。」
書いた。
書きながら、思った。
俺の文章は、説明的だ、と。「対になっていた」「共有することを、始めた」みたいな、整理する言葉。
彼女のノートを、ちらっと、見た。
彼女の文章は、もっと、感覚的だった。「流れ込んでくる」「自分の中で、止まらない」みたいな、体の中の感覚を、そのまま書いている感じ。
俺たちは、書き方が、違った。
でも、それで、いいと思った。違うから、対になる。違うから、二人で書く意味がある。
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ルシアが、何かを、書いていた。
しばらく、書いて、止まった。
また、書いた。
俺は、自分の続きを、書いていた。
「だから、俺たちは、たぶん、新しい時間の使い方を、見つけた。急がない、ということ。三日待つ、ということ。確かめる、ということ。」
書き終えて、彼女のノートを、見た。
彼女は、まだ、書いていた。
でも、いつもと、少し違った。
書いて、止まって、考えて、また書く。そういう書き方。
新しいことを、書こうとしている顔だった。
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しばらくして、彼女が、ペンを、置いた。
「ユウさん」と彼女は言った。
「はい」
「ちょっと、見てもらえますか」
「うん」
彼女は、自分のノートを、俺の方に、向けた。
俺は、読んだ。
「私は、半年前、自分のことを、壊れた人間だと、思っていた。」
「今は、違う。私は、ここで、ようやく、自分に、なった。」
「これからのことを、考え始めている。」
「夏になったら、何か、新しいことを、してみたい、と思っている。」
そこまでは、昨日のテーマの続きだった。
でも、その下に、新しい一文があった。
「私、もう一度、Luciaを、ちゃんと、やりたいかも、と思っている。」
俺は、その一文を、しばらく、見ていた。
「Lucia」と彼女は書いていた。
「Lulu=Lucia」じゃなかった。
「Lucia」だけ。
「ルシア」と俺は呼ぶ。それを、ローマ字で書いた「Lucia」。
彼女が、自分の名前を、自分で、書いた。
たぶん、半年ぶり、だった。
半年前、彼女は「ルシア」と名乗っていた。配信のキャラとして。何十万人のリスナーに、向けて。
でも、その時の「Lucia」は、たぶん、彼女のものじゃなかった。事務所が作った、商業的なキャラクター。
今朝、彼女が書いた「Lucia」は、違った。
自分の名前として、自分の手で、書いた「Lucia」。
一文字ずつ、自分の意思で、書いた。
そういう「Lucia」を、彼女が、ノートに、残していた。
俺は顔を、上げた。
彼女は、俺を、見ていた。
少し、緊張した顔をしていた。
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「これ」と俺は言った。
「うん」
「Lulu=Luciaじゃないんですね」
「うん」
「Luciaだけ」
「うん」
「これは、どういう意味ですか」
彼女は、少しの間、考えた。
「Lulu=Luciaは、配信のキャラクターでした」と彼女は言った。
「うん」
「『みんなのLulu=Lucia』だった。リスナーが好きな、Lulu=Lucia。事務所が作った、Lulu=Lucia」
「うん」
「私のものじゃ、なかった」
「うん」
「でも、Lucia、は、私の名前です」
俺は何も言わなかった。
「私の」と彼女は続けた。「自分の名前で、配信を、もう一度、やってみたい。たぶん。まだ、確信はないけど」
「うん」
「今やってる、別アカウントの小規模配信、じゃなくて」
「うん」
「もっと、ちゃんと、自分の名前で、自分の言葉で、配信したい」
彼女の声は、震えていなかった。決意の声、というほどでもない。でも、何かに、たどり着いた、声だった。
彼女は少し、息を吐いた。
「自分の言葉、って言うけど」と彼女は続けた。「私の本当の言葉、たぶん、こっちなんやと思う」
関西弁だった。
「うん」
「配信の時、ずっと標準語やってた。でも、それも、たぶん、事務所が作った『Lulu=Lucia』の一部やった」
「うん」
「Luciaとしてやるなら、関西弁、隠さんでも、ええかな、って」
「ええと思います」と俺は言った。
彼女は少し笑った。
俺は少しの間、何も言わなかった。
「いつ、ですか」と俺は聞いた。
「まだ、わからない」
「うん」
「夏か、秋か、もっと先か」
「うん」
「ゆっくり、考えます」
彼女は少し笑った。
「『ゆっくり』、最近、私の口癖です」
俺も少し笑った。
「いいことですよ」と俺は言った。
「うん」
「俺も、ゆっくり、ですから」
彼女はうなずいた。
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「ユウさん」
「はい」
「もし、私が、もう一度、配信するなら」
「うん」
「ユウさんは、どう思いますか」
俺は少しの間、考えた。
「俺は」と俺は言った。
「うん」
「ルシアが、決めることだと、思います」
「私が、決めること」
「うん。あの時と、同じです」
彼女は少し驚いた顔をした。
「同じ?」
「ナナミの時、ルシアが『私が決めます』って言いました。あれと、同じです」
「うん」
「ルシアが決めた道なら、俺は、隣にいます」
彼女は、少しの間、俺を、見ていた。
「ありがとうございます」と彼女は言った。
また、自然な「ありがとう」だった。
「でも」と俺は続けた。
「うん」
「ルシアが配信中に、感情過負荷で倒れた、あの時のこと、忘れてないですよね」
「忘れてないです」
「うん」
「だから、急がない、というのは、本当に、急がない方が、いいです」
「うん」
「焦って戻ると、また、同じことが、起きるかもしれない」
「うん」
「ゆっくり、確かめながら、進む」
彼女はうなずいた。
「わかってます」と彼女は言った。「だから、まだ、確信は、ない、って言いました」
「うん」
「ノートに書きながら、整理します。書いてみて、これが、自分の中で、ちゃんとした答えになるかどうか、確かめます」
「うん」
「答えになったら、その時、改めて、相談します」
「待ちます」と俺は言った。
彼女は少し笑った。
「ありがとうございます」
また、自然な「ありがとう」だった。
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午後、二人で、ベランダに出た。
桜は、もう、ほとんど散っていた。少しだけ、葉桜の緑が、見え始めていた。
「春、終わりですね」と彼女は言った。
「うん」
「次は、夏」
「うん」
「夏になったら、何か、新しいことが、できるかな」
「できますよ」
「ユウさんが、隣にいるから?」
「俺も、ルシアが、隣にいるから」
彼女は少し笑った。
お互いに、お互いの隣にいる。
それが、もう、当たり前のことに、なっていた。
半年前は、二人とも、別々の場所で、別々に、苦しんでいた。
今、同じ場所で、お互いの「ゆっくり」を、許し合っていた。
俺は、彼女の隣で、桜の散る最後を、見ていた。
花びらが、風に乗って、ベランダの下を、流れていった。
「来年も、見ますね」と彼女が言った。
「うん」
「来年は、たぶん、もう少し、私、違う場所にいるかも」
「違う場所?」
「『Lucia』として、自分の言葉で、何かを、している場所」
「うん」
「でも、家は、ここです」
「うん」
彼女は少し笑った。
俺は、頷いた。
新しい季節が、たぶん、もう少しで、来る。
その時、彼女が、何を選ぶか。
俺は、それを、隣で、見届ける。
急がない。
ゆっくり、待つ。
それが、たぶん、これからも、それが、これからもずっと、二人で、ゆっくり、続けていく、新しい時間の、形なのだろう、と思った。今のところは、たぶん、それで、充分、いいんだと思う。
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