第31話「木曜日の午後、彼女は『答えを持ってない』と言った」
木曜日の朝、目が覚めた。
ルシアはまだ眠っていた。
俺は布団から起き上がって、台所に行った。今朝は俺が朝食を作ることにした。卵焼きを巻く練習は、まだ続いていた。
今朝の卵焼きは、いつもより少し綺麗に巻けた。完璧じゃないけど、前よりは。
ルシアが起きてきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「卵焼き、作りました」
「ありがとうございます」
彼女は俺の作った卵焼きを見た。少し笑った。
「巻けてますね」
「巻けてます」
「上達してます」
「うん」
俺たちは、二人でテーブルについて、食べた。
彼女は、いつもより、少し静かだった。
今日、カナタに会いに行く。
昨日の夜、寝る前に「緊張する」と言っていた。それが、今朝も続いていた。
でも、食欲はあった。卵焼きをちゃんと食べた。
「ユウさん」
「はい」
「カナタさんに、何を聞かれたら、どう答えますか」
「俺ですか」
「うん」
俺は少し考えた。
「俺、たぶん、答えを持ってないです」
「うん」
「ルシアの隣にいる、しか、できないので」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
「私も、答え、持ってないです」と彼女は言った。
「うん」
「でも、行きます」
「うん」
行く、ということしか、決まっていなかった。
でも、行く、と決めただけで、たぶん、何かが、違った。
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十一時、家を出た。
いつもの電車に乗った。窓の外を見ながら、彼女は俺の隣にいた。
「ユウさん」
「はい」
「前に来た時より、緊張、少ないです」
「そうですか」
「うん。たぶん、相談されに行く、って、決めてるから」
「うん」
「相談しに行くんじゃなくて、相談されに行く。立場が違うと、緊張の種類も、違うんですね」
「そうですね」
彼女は窓の外を見た。少しの間、何も言わなかった。
「半年前の私は、相談される側になる、なんて、想像もしてなかったです」
「うん」
「相談される側、というのは、ちゃんと、答えを持ってる側、と思ってました」
「うん」
「でも、私、答え、持ってないままで、行きます」
「うん」
「答えがなくても、行ってもいいんですよね」
「いいと思います」
彼女はうなずいた。
「行きます」と彼女は言った。
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東京駅で降りた。
前と同じカフェに、向かった。
カナタは、もう、奥の席で、待っていた。
俺たちに気づいて、立ち上がった。
「ルシア、白瀬さん」
「カナタさん」
「久しぶり。元気そうやん」とカナタが、関西弁で笑った。
「カナタさんも、元気そうで」とルシアが返した。少しだけ、彼女の関西弁も、混じっていた。
彼女は、前より、少し、痩せていた気がした。前回、二週間くらい前。それでも、人は痩せる。
俺たちは、席に着いた。コーヒーが運ばれてきた。
しばらく、何でもない話をした。電車のこと、天気のこと、コーヒーのこと。
でも、その「何でもない」が、たぶん、彼女には、必要な時間だった。
しばらくして、ルシアが言った。
「カナタさん」
「うん」
「『しんどい』って、書いてくれましたよね」
「うん」
「具体的に、どんな感じですか」
カナタは、少しの間、湯呑みを、両手で包んでいた。
「先週」と彼女は言った。「配信中に、視界が、ぼやけたんです」
俺は少し息を止めた。
ルシアも、止まった。
「リスナーが、二万人いる中で、急に、誰か一人の感情が、めちゃくちゃ強く、来て」
「うん」
「その人の悲しみが、私の中で、止まらなくなって」
「うん」
「配信、急に切ったんです」
彼女は少し笑った。「言い訳、考えるの、大変でした。『電波の調子が悪くて』って、Twitter で言ったけど、たぶん、何人か、気づいてる」
「気づいてる」
「私が、感情同期、強く受けるタイプだって、知ってるリスナーは、たぶん、わかってる」
俺はうなずいた。
「それから、毎日、配信前に、緊張するようになりました」と彼女は続けた。「『今日、また、来るかも』って」
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ルシアは、しばらく、何も言わなかった。
彼女は、たぶん、思い出していた。半年前の、自分が倒れた時のことを。
「私と、同じですね」と彼女は言った。
「うん」
「私も、倒れる前、ずっと、その感じだった。配信前に、緊張して、来るのが、怖くて」
「うん」
「でも、私は、結局、倒れた」
「うん」
「カナタさん、まだ、倒れてないですよね」
「まだ」
「だから、今、選べる場所にいる、ってことですよね」
カナタは少しの間、何も言わなかった。
「選べる」と彼女は繰り返した。
「うん」
「選んだことなかった」
「うん」
「配信を始めた時から、ずっと、求められるから続けてた。やめる、っていう選択肢を、私、今まで、ちゃんと考えたこと、なかった」
「うん」
「事務所からは、続けてほしい、って言われてる。リスナーも、辞めてほしくない、って言うと思う。家族は、私が稼いでるから、辞めるなんて言ったら、心配する」
「うん」
「だから、いつも、続ける、が前提だった」
「うん」
「でも、最近、それが、おかしい気がして」
「おかしい」
「私が、続けるか、辞めるか、なのに、決めるのが、私じゃない」
彼女は少し笑った。乾いた笑い方だった。
「ルシアが倒れたのを見て、初めて『私も、いつか、こうなる』って思った。それで初めて、未来のこと、考え始めた」
俺はうなずいた。
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「私、選びたいんです」とカナタは言った。
「うん」
「壊れる前に、自分で、選びたい」
彼女の声は、震えていなかった。決意の声、だった。
「ルシアは、どうやって辞めたの?」と彼女は聞いた。
ルシアは少しの間、考えた。
「私は、選ばされた、と思います」と彼女は言った。
「選ばされた」
「倒れて、続けられなくなって、結果的に辞めた。選んだんじゃない」
「そうか」
「だから、選ぶことの難しさが、私には、わからないです」
カナタはうなずいた。
「うん」
「カナタさんが、これから、選ぶ。それは、私が体験してないことです」
「うん」
「私、答え、持ってないです」
俺はルシアを見た。彼女は、まっすぐ、カナタを見ていた。怖がっていなかった。「持ってない」と、はっきり言えていた。
「答えがない、っていうのが、答えなんですね」とカナタは言った。
彼女も少し笑った。
「ルシアらしい」と彼女は言った。
「らしい?」
「うん。前から、ルシア、そういう人だった。簡単な答えを言わない人」
俺は少し驚いた。
彼女が、配信をしていた頃の彼女と、今の彼女を、繋いで見ていた。
たぶん、ずっと、同じ人なんだろう、と俺は思った。配信の前の彼女も、今の彼女も。
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「でも」とルシアは続けた。
「うん」
「ひとつだけ、伝えたいこと、あります」
「うん」
「カナタさん、急がなくていいです」
「急がなくていい」
「私、答えを出すまで、何ヶ月もかかりました。今でも、全部の答えが出てるわけじゃないです」
「うん」
「カナタさんも、ゆっくり、自分の答えを、探していいんです」
「うん」
「その間、私たちは、隣にいます」
俺は、少しだけ、息を止めた。
彼女が「私たち」と言った。俺と彼女を、まとめて、「私たち」と。
カナタも、それに気づいたらしかった。
「私たち、ね」と彼女は言った。
「うん」
「いいですね、それ」
彼女は少し笑った。本当に、嬉しそうに、笑った。
「ありがとう」と彼女は言った。
「ううん」
「私、たぶん、ひとりで考えたら、急いで答えを出してた。続けるか、辞めるか、二択で、すぐに決めようとしてた」
「うん」
「でも、急がなくていい、って言われると、考える時間が、できる」
「うん」
「ゆっくり、選びます」
彼女は、もう一度、うなずいた。
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しばらく、三人で、コーヒーを飲んだ。
何も話さなかった。でも、気まずくなかった。
お互いに、何かを、整理する時間、だった。
しばらくして、カナタが、口を開いた。
「実は、もうひとつ、相談してもいい?」と彼女は言った。
「うん」
彼女は少し迷ったような顔をした。
それから、ゆっくり、言った。
「あなたたちのこと、書きたい」
「書きたい?」
「文章にして、誰かに、伝えたい。私の経験と、あなたたちの経験を」
俺とルシアは、お互いを見た。
「同じように、苦しんでる人が、いるはずだから」とカナタは続けた。「感情同期、強く受けるタイプの人。配信者だけじゃない。一般の人にも、いるはずです」
「うん」
「私一人の経験じゃ、足りない。あなたたちの『二人で乗り越えた』物語が、私には、必要かもしれない」
彼女は俺たちを、じっと見た。
「許可、してもらえますか」
ルシアは、しばらく、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
でも、たぶん、これも、急いで答えを出すべき話じゃなかった。
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「考えさせてください」とルシアは言った。
「うん」
「私たちも、ゆっくり、答えを、探します」
カナタは少し笑った。
「同じ言葉、返してくれた」と彼女は言った。
「うん」
「うれしい」
彼女はそう言って、コーヒーを、一口、飲んだ。
俺もコーヒーを飲んだ。
湯気が、テーブルの上で、ゆっくりと、消えていった。
たぶん、これからの選択が、いくつか、待っていた。
カナタの選択。
ルシアと俺の選択。
全部、急がない。
ゆっくり、選ぶ。
たぶん、それが、今の俺たちの、共通言語だった。
帰りの電車で、ルシアの隣に座った。
彼女は、窓の外を見ていた。少し、疲れた顔をしていた。
でも、来た時より、肩の力が、少し抜けていた。
「ユウさん」
「はい」
「相談される側、できましたか、私」
俺は少し考えた。
「できてました」
「ほんと?」
「『私たち』って言った時、カナタさん、ほんとに、嬉しそうだった」
彼女は少し笑った。
「『私たち』って、自然に出ました」
「うん」
「ユウさんと一緒だから、出たんだと思う」
「うん」
「ありがとうございます」
また自然な「ありがとう」だった。
俺も、少し笑った。
電車が、走っていた。窓の外は、もう、夕方だった。
「ユウさん、カナタさんの『書きたい』って話、どう思いました?」と彼女が聞いた。
俺は少し考えた。
「正直、まだ、わからないです」
「私もです」
「でも、急がなくていい、ってさっき言ったので」
「うん」
「俺たちも、急がないで、考えます」
彼女はうなずいた。
「家に帰ったら、一緒に、考えましょう」と彼女は言った。
「うん」
家、と彼女は言った。今日も、自然に。
俺は、それを聞きながら、窓の外を、ずっと見ていた。
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