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第30話「日曜日の夕方、彼女は『放っておけない』と言った」


 アパートに戻った。


 ドアを開けると、ルシアが本を読んでいた。


 「おかえりなさい」と彼女は言った。


 「ただいま」と俺は言った。


 彼女は本を閉じた。テーブルに置いた。


 俺をじっと見た。


 俺は靴を脱いで、ソファに座った。彼女の正面に。


 「届きました」と俺は言った。


 彼女は、何も言わなかった。


 でも、ゆっくり、息を吐いた。


 それから、目を閉じた。


 「ありがとうございます」と彼女は言った。


 目を、閉じたまま、言った。


 俺は、何も言わなかった。


 しばらく、彼女は目を閉じていた。


 たぶん、彼女の中で、ナナミに自分の声が届いた瞬間を、想像していた。


 昨日、ルシアが泣いた。今日、ナナミが泣いた。


 今までの俺なら、それを「見るだけ」だった。三日後に、その光景が、感情として届く。


 でも今は、見ながら、リアルタイムで、名前のつかない、温かい何かが、今、胸の中で動いていた。


-----


 しばらくして、ルシアが目を開けた。


 「橘さん、どんな感じでした?」


 「泣いてました」


 「うん」


 「ルシアと、たぶん、同じくらい」


 彼女は少し笑った。


 「同じくらい?」


 「最初の方は、もっと激しく。後半は、笑顔も少しありました」


 「うん」


 「『あなたみたいなファンがいてくれたから、三年間、続けられました』のところで、笑ってました」


 彼女は、また、少し目を伏せた。


 「よかった」と彼女は言った。


 「うん」


 「私の声、ちゃんと、届いたんですね」


 「届きました」


 「ありがとう」


 何回目の「ありがとう」だったかわからない。でも、自然に出た「ありがとう」だった。


-----


 「もう一つ」と俺は言った。


 「うん」


 「橘さんから、伝えてほしいって、言われたこと、あります」


 彼女は少し驚いた顔をした。


 「私に?」


 「うん」


 「何ですか」


 俺は、少しの間、考えた。


 「『邪魔しないで、応援してます』って」


 「邪魔しないで」


 「うん。これからも、別アカウントで、配信、見るそうです。でも、コメントしないで、ただ、見るだけ」


 彼女は、少しの間、何も言わなかった。


 それから、ゆっくり、うなずいた。


 「ありがたいですね」と彼女は言った。


 「うん」


 「そういう距離の取り方、すごく、ちゃんとしてる」


 「うん」


 彼女は、深く息を吐いた。


 「橘さんって、ほんとに、いい人ですね」


 「うん。ほんとに」


 俺たちは、しばらく、何も話さなかった。


 でも、気まずくなかった。


 彼女の中で、たぶん、何かが、ちゃんと、収まった。


-----


 月曜日、火曜日と、普通に過ぎた。


 月曜日の朝、目が覚めた瞬間に、来ていた。


 金曜日のカフェの前で、ナナミが「白瀬くん」と慎重な声で呼んだ、あの場面。今朝届いた。


 でも、もう、結果がわかっている過去だった。土曜日に託されて、日曜日に届けて、ナナミは泣いた。


 だから今朝届いたものは、不安じゃなく、終わったことの確認、みたいだった。


 月曜日の朝、ルシアは卵焼きを作った。今朝は鼻歌を歌っていた。


 火曜日の朝も、来ていた。


 土曜日のナナミとの会話。「ひとつだけ、聞いていい?」じゃなくて、もう一歩踏み込んだ、土曜日の「託す」の場面。ナナミが「重い荷物だった」と言った時の表情。それと、ルシアが録音した時の彼女の声。


 全部、今朝、感情として、もう一度、届いた。


 布団の中で、しばらく、それを受け取っていた。


 火曜日の朝、彼女が冷蔵庫を開けて、何かを取り出した。


 「これ、何ですか」と俺は聞いた。


 「アボカドと、卵」


 「うん」


 「アボカドエッグサラダ、作ってみたくて。ネットで、レシピ見ました」


 半年前、ここに来た時の彼女は、ネットを見るのも、たぶん、しんどかった。情報量が多すぎると、その背後にある誰かの感情まで、受け取ってしまうから。


 でも今は、レシピを検索できる。気分で、料理を選べる。


 彼女は嬉しそうに料理を始めた。


 新しい料理を、彼女が試すようになっていた。彼女の中の「気分」が、料理にまで、広がっていた。


 昼食はアボカドエッグサラダだった。「美味しい」と俺は言った。「うん」と彼女は答えた。


 夜、配信。三十分。終わって倒れて「つかれたわー」。


 いつも通りだった。


 でも、いつも通りが、たぶん、いちばん、贅沢な時間だった。


-----


 水曜日の朝、また、来ていた。


 日曜日の、ナナミにルシアの声を届けた瞬間。「あなたが、その場所です」と言った時の彼女の目。


 全部、今朝、感情として、届いた。


 たぶん、嬉しい、と少し違う何かだった。「責任」と「嬉しさ」が混ざったような、重くて温かい、何か。


 名前は、まだ、つけなかった。


 水曜日の昼、ルシアが、ベランダで桜を見ていた。


 アパートの三階の小さなベランダ。下の道に、桜の木が植えられていた。今は、満開だった。


 「綺麗ですね」と俺は言った。


 「うん」


 「散る前に、もう一度、公園、行きませんか」


 「行きます」


 「来週とか」


 「うん」


 彼女は、ベランダの手すりに、両肘をついていた。


 「ユウさん」


 「はい」


 「夏になったら、何か、新しいこと、してみたいです」


 「新しいこと」


 「うん。今までやってないこと。配信じゃない、何か」


 「うん」


 「考え中なんですけど」


 俺は少し驚いた。


 彼女が「夏になったら」と言った。


 それは、たぶん、彼女の中で、「夏まで、ここにいる」が前提になっていた。


 「未来」の話を、しれっと、するようになっていた。


 そのことが、今日、少しだけ、嬉しかった。


 「考えたら、教えてください」と俺は言った。


 「教えます」


 彼女は少し笑った。


 「ユウさんも、何か、やりたいこと、ありますか」


 俺は少し考えた。


 「今までは、なかったです」


 「今までは?」


 「うん。でも、ここ最近、少しずつ、ある気がします」


 「どんな?」


 「まだ、整理できてないです」


 「じゃあ、整理してから、教えてください」


 「うん」


 彼女は少し笑った。


 「待ちます」と彼女は言った。


 「待ちます」が、今日もまた、出た。


 「待つの、もう、ええ感じに、慣れたわ」


 彼女は関西弁で、少し笑いながら言った。


 最近、二人だけの時、彼女の関西弁は、もっと自然に、出るようになっていた。


 お互いに、待ち合っている関係が、もう、自然な日常になっていた。


-----


 水曜日の夕方、ルシアが、スマートフォンを手に取った。


 しばらく、画面を見ていた。


 「ユウさん」


 「はい」


 「カナタさんから、メッセージが来てて」


 俺は本を置いた。


 「うん」


 「『最近、配信、しんどいかも』って」


 「しんどい」


 「うん。詳しくは書いてないけど、ただ、それだけ」


 俺は何も言わなかった。


 カナタが「しんどい」と言うのは、たぶん、ただの愚痴じゃなかった。彼女は「私もいつか壊れる」と言っていた人だった。


 「いつ届いたんですか、これ」


 「今朝、らしいです」


 「今朝」


 「うん。気づいたの、さっきだけど」


 俺は少し考えた。


 「返信、しますか」


 「したいです」


 「うん」


 「でも、何て返したらいいか、わからなくて」


 「うん」


 彼女は、スマートフォンを置いた。


 「今夜、配信は、休みます」と彼女は言った。


 「うん」


 「カナタさんのこと、考えたいので」


-----


 配信を休んだルシアは、ソファに座って、長い間、考えていた。


 俺は何も聞かなかった。


 彼女が話したくなった時に、話してくれる。それを、待った。


 夕方、彼女が口を開いた。


 「ユウさん」


 「はい」


 「カナタさんが、私の引退の時に、いちばん心配してくれた人だって、話、しましたよね」


 「うん」


 「カナタさんは、私と同じ体質で、いつか自分も壊れるって、知ってる」


 「うん」


 「『しんどい』っていうのは、たぶん、その『壊れる』に、近づいてる、っていう意味だと思います」


 俺はうなずいた。


 「私、なんか、放っておけない気がして」と彼女は言った。


 「うん」


 「カナタさんに、引退の時、私は、何もできなかったから」


 「うん」


 「いえ、できなかった、というか、私が倒れて、迷惑かけた側で」


 「うん」


 「だから、今度は、私が、何か、したい」


 俺は何も言わなかった。


 彼女が言った言葉が、今、俺の中で、動いていた。


 彼女が、初めて「誰かのために、何かしたい」と言った。


 半年前、ここに来た時の彼女は、自分が壊れていて、誰かに支えられる側だった。


 でも今、彼女は、誰かを支えたい、と言っている。


 彼女が、変わっていた。


 そして、その変化を、俺は、今、目の前で、見ていた。


-----


 「カナタさんに、会いに行きますか」と俺は聞いた。


 「行きたいです」


 「いつ」


 「できれば、明日」


 「明日」


 「うん。早い方が、いい気がして」


 俺は少し考えた。


 「俺も、行きます」と俺は言った。


 「一緒に?」


 「うん。前と、同じです」


 彼女は少し笑った。


 「ありがとうございます」


 「うん」


 「明日、行きます」


 「うん」


 彼女はスマートフォンを手に取って、カナタにメッセージを返した。


 何を書いたかは、見せてくれなかった。でも、しばらくして、彼女が小さく笑った。


 「返事、来ました」と彼女は言った。


 「うん」


 「『来てくれるなら、嬉しい』って」


 「うん」


 「明日、行きます」


 「うん」


 俺はうなずいた。


 彼女が、能動的に、誰かのために動こうとしていた。


 俺は、その隣で、一緒に行く。


 たぶん、それが、今の俺たちの、新しい関係の形だった。


-----


 夜、寝る前に、彼女が言った。


 「ユウさん」


 「はい」


 「明日、緊張します」


 「うん」


 「カナタさんに、会うの、二回目だから、もっとリラックスできるかと思ったけど、違いますね」


 「内容が、違うから」


 「うん。今度は、相談に行くんじゃなくて、相談される側」


 「うん」


 「私、ちゃんと、相談される側、になれるかな」


 俺は少し考えた。


 「たぶん、なれます」と俺は言った。


 「ほんとに?」


 「うん。今のルシア、半年前のルシアと、違うので」


 「違う、って」


 「自分のために動くだけじゃなくて、誰かのためにも、動こうとしてる」


 彼女は少しの間、何も言わなかった。


 「そうですか」と彼女は言った。


 「そうです」


 彼女は少し笑った。


 「ありがとうございます」


 また、自然な「ありがとう」だった。


 電気を消した。


 彼女の寝息が、今夜は、すぐには聞こえなかった。たぶん、彼女もまだ起きていた。


 明日のことを、考えているんだろう。


 俺も、考えていた。


 明日、カナタに会いに行く。


 半年前は、俺が、彼女の隣にいて、彼女が、何かに耐えていた。


 今は、彼女の隣にいて、彼女が、誰かのために、動こうとしている。


 とりあえず、明日のために、寝ることにした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。

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