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第32話「金曜日の昼、俺はノートを買いに行った」



 木曜日の夜、家に戻った。


 二人で簡単な夕食を食べた。冷蔵庫にあった野菜で、炒め物を作った。今日は俺が作った。


 食べながら、何も話さなかった。お互いに、考えていた。


 カナタの「書きたい」の話。それと、ルシアの「相談される側」になれた手応え。両方が、まだ、頭の中で動いていた。


 食べ終わって、皿を洗った。彼女が拭いた。


 ソファに座った。二人で並んで。


 彼女が口を開いた。


 「ユウさん」


 「はい」


 「カナタさんの話、考えてました」


 「うん」


 「ユウさんも?」


 「考えてます」


 彼女は、お茶を一口飲んだ。


 「答え、なかなか、出ないですね」


 「うん」


 「カナタさんに、急がなくていい、って言いましたよね、私」


 「うん」


 「私たちも、急がない方が、いいですね」


 「そうですね」


 彼女は少し笑った。


 「自分で言ったこと、自分にも、適用するんですね」


 「そういうもんですよね、たぶん」


 「うん」


 彼女は、湯呑みを、両手で包んだ。


 「どう思いました?」と彼女は聞いた。


 俺は少し考えた。


 「複雑です」と俺は言った。


 「複雑」


 「うん。書いてほしい、と、書いてほしくない、両方ある」


 「私も、同じです」


-----


 「書いてほしい理由は?」と俺は聞いた。


 彼女は少し考えた。


 「カナタさんを、応援したいから」


 「うん」


 「カナタさんが、自分の経験を、書きたいと思った。それは、彼女が、自分で選んだことです。私たち、それを、否定したくない」


 「うん」


 「あと、同じ体質の人が、もしどこかにいて、私たちの話を読んで、少しでも楽になるなら、それは、いいことだと思う」


 「うん」


 俺はうなずいた。


 「書いてほしくない理由は?」と俺は聞いた。


 「うん。私たちの生活が、公になる」


 「うん」


 「カナタさんは『匿名で』って言ってくれると思う。でも、書かれた文章を、私たちが知ってるリスナーが見たら、たぶん『これ、Lulu=Luciaじゃない?』って気づく」


 「うん」


 「気づかれたら、終わり、です。ノイズが、また、来る」


 俺はうなずいた。


 彼女が言ったことは、たぶん、全部、正しかった。


-----


 「俺の方の理由も、似てます」と俺は言った。


 「うん」


 「書いてほしい理由は、ルシアと同じ。カナタさんを応援したい。同じ苦しみの人を、助けたい」


 「うん」


 「書いてほしくない理由は、ちょっと違う」


 「違う?」


 「俺、自分のこと、誰かに書かれるの、怖いです」


 「怖い」


 「うん。俺の体質、ずっと自分の中だけのものだった。今までは、誰にも、ちゃんと話したことなかった」


 「うん」


 「ルシアには、話せるようになった。少しずつ、言葉にできるようになった。でも、それは、ルシアだから、できたことです」


 「うん」


 「他人に書かれるのは、まだ、たぶん、無理です」


 彼女はうなずいた。


 「私も、同じです」と彼女は言った。


 「カナタさんに書かれるのは、嬉しい。でも、知らない人に読まれるのは、怖い」


-----


 しばらく、二人とも、黙っていた。


 「断りますか」と彼女は聞いた。


 「うん。断るしか、ないですか」


 「もしくは、条件をつけるか」


 「条件」


 「匿名にしてもらう、書く前に確認させてもらう、特定の場面だけ書かないでもらう、とか」


 「うん」


 俺は少し考えた。


 「それでも、たぶん、気づく人は、気づきます」と俺は言った。


 「うん」


 「書く側の意図と、読む側の解釈は、別なので」


 彼女はうなずいた。


 「カナタさんの目的は、何でしたっけ」と彼女は聞いた。


 「同じ苦しみの人に、届けたい、って」


 「うん」


 「私たちの『二人で乗り越えた』物語が、必要だ、って」


 「うん」


 彼女は、しばらく、考えた。


-----


 「ユウさん」と彼女は言った。


 「はい」


 「私たちの話、なんですよね」


 「うん」


 「だったら、私たちが、何かするのも、ありかもしれない」


 俺は少し驚いた。


 「私たちが、何かする」


 「うん。カナタさんに任せるんじゃなくて」


 「具体的に、何を?」


 彼女は少し迷ったような顔をした。


 「まだ、わかんないです」


 「うん」


 「でも、ヒントが、見えてきた気がする」


 彼女は、湯呑みを、両手で包んだ。


 俺は、彼女を見ていた。


 彼女が、何かを考えていた。たぶん、新しい何かを。


 俺も、少しずつ、何かを考え始めた。


 「カナタさんは、書きたい、と言った」


 「うん」


 「でも、私たちが書かれる側に回るのは、怖い」


 「うん」


 「だったら」


 「だったら?」


 「書かれる側じゃなくて、別の立場に、回るのは、どうだろう」


 俺は何も言わなかった。


 彼女の言いたいことは、まだ、はっきりしなかった。でも、輪郭は、見えてきた。


 「書く側、観察する側、別の角度で参加する側。いろんな立ち位置がある気がして」


 「うん」


 「全部、思いつかないけど、書かれる側以外の何か、ができないかな、って」


 彼女はそう言って、湯呑みを置いた。


 俺は少しの間、考えた。


-----


 しばらくして、俺の頭の中に、何かが、浮かんだ。


 「ルシア」


 「はい」


 「俺が、書いてみるのは、どうですか」


 彼女は少し驚いた顔をした。


 「ユウさんが?」


 「うん」


 「何を?」


 「俺の体質のこと。ルシアと暮らすようになってから、感じたこと。整理したこと。そういうの」


 「うん」


 「カナタさんに渡す、材料として」


 彼女はしばらく、何も言わなかった。


 俺も、何も言わなかった。


 でも、自分で言いながら、これは、いい考えかもしれない、と思った。


 俺が書く。


 カナタは、それを参考にするか、しないか、選べる。


 そして、俺が書いたものは、最終的に、俺の所有物だ。


 出すか、出さないか、出すならどう出すか、全部、俺が決められる。


 彼女が、しばらくして、口を開いた。


 「いい気がします」


 「ほんとに?」


 「うん。ユウさんが書いて、私たちが、見届ける。それなら、コントロールできます」


 「うん」


 「カナタさんも、たぶん、それで、納得してくれる」


 俺はうなずいた。


-----


 「でも」と俺は言った。


 「うん」


 「俺、文章、書いたこと、ないです」


 彼女は少し笑った。


 「私もないです」


 「うん」


 「でも、配信は、毎日してました」


 「うん」


 「言葉で、何かを伝える、ということ自体は、私、慣れてます」


 「うん」


 「だから、ユウさんが書いて、私が、見ます。アドバイスとか、できるかも」


 彼女は少し、嬉しそうな顔をした。


 「協力しますね」と彼女は言った。


 「お願いします」


 俺は、頭の中で、もう、書き始めていた。


 「水曜日の夜、俺は日曜日に泣いた」みたいな、感情の遅延の話を、誰かに伝える文章。


 どんな書き方になるか、まだわからない。日記みたいになるか、エッセイみたいになるか、もっと別の何かになるか。


 でも、書きたいと、思った。


 初めて、自分の中の何かを、外に出してみたい、と思った。


 ルシアと暮らすようになってから、俺は、変わっていた。


 人生で初めて、外への発信を、しようとしている自分が、いた。


-----


 夜、寝る前に、彼女が言った。


 「ユウさん」


 「はい」


 「明日、ノート、買いに行きませんか」


 「ノート?」


 「うん。書くなら、ノートに書くのが、いい気がして」


 「パソコンじゃなくて?」


 「最初は、手書きの方が、自分の文章っぽくなる気がします」


 「うん」


 「明日、文房具屋さんに行きましょう」


 「行きます」


 彼女はうなずいた。


 「楽しみです」と彼女は言った。


 「楽しみ」


 「うん。ユウさんが書く文章、読みたい」


 俺は少し笑った。


 「上手く書けるか、わからないですよ」


 「上手く書けなくていいです」


 「うん」


 「ユウさんの言葉で、書いてください」


 俺はうなずいた。


 電気を消した。


 彼女の寝息が、すぐに聞こえてきた。


 俺は、天井を見ていた。


 書く。


 俺が、書く。


 人生で、誰にも、ちゃんと話したことのなかった、俺の体質と、ルシアと暮らすようになってからのことを、文章にする。


 たぶん、難しい。


 でも、難しいことを、やりたい、と思っていた。


 難しいから、価値がある。


 それは、待つ、ということを、ルシアと一緒に体験して、知ったことだった。


 明日、ノートを買う。


 そう決めて、目を閉じた。


-----


 金曜日の昼、二人で文房具屋さんに行った。


 近所の、小さな店。普段はあまり入らない店だった。


 ノートが、たくさん並んでいた。大学ノート、無地のノート、罫線のノート、いろんな種類。


 俺は、無地の、A5サイズのノートを選んだ。


 罫線があると、たぶん、書き方が、決まってくる気がした。


 俺の体質のことを書くなら、形式は、たぶん、自由な方がいい。詩みたいになるかも、エッセイみたいになるかも、日記みたいになるかも。形が決まってない方が、書きやすそうだった。


 「これにします」


 「いいですね」


 「うん」


 「私、ペンも、選びたい」と彼女は言った。


 「ペン?」


 「うん。ユウさんに、合うペン」


 彼女は少しずつ、ペンを選び始めた。書き心地、色、太さ。


 何本か、試し書きして、最終的に、一本を選んだ。


 黒のジェルインク。中字。書き味が、すっと、紙に乗る感じのペンだった。


 「これにします」と彼女は言った。


 「いいですね」と俺は言った。


 彼女が選んでくれたペンを、俺は受け取った。


 会計を済ませて、店を出た。


 「明日から、書きますか」と彼女は聞いた。


 「うん」


 「夜にしますか、朝にしますか」


 「夜、ですかね」


 「うん。配信が終わってから」


 「うん」


 歩きながら、俺は、ノートを、手に持っていた。


 まだ、白紙のノート。


 でも、明日から、ここに、何かが、書かれる。


 俺の、誰にも言わなかったことが、ここに、出てくる。


 たぶん、最初は、うまく書けない。書きたいこと、書けないこと、書きたくないこと、たくさんあって、整理に時間がかかる。


 でも、急がない。


 「ゆっくり書いていい」と、自分に、言い聞かせていた。


 急いで書いたら、たぶん、配信の声みたいになる。誰かが喜ぶ言葉、誰かが期待する言葉を、選んでしまう。


 俺は、それが、嫌だった。


 俺の、誰にも見せたことのなかった、本当のところを、書きたい。


 書き始めたら、変わるかもしれない。途中で、別の何かに、なるかもしれない。それは、それで、いい。


 でも、最初の一文だけは、自分の、本当の言葉から、始めたい。


 たぶん、新しい時間が、始まる。


 そんな予感がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この作品を少しでも気に入っていただけましたら、下部にある【ブックマーク】や【評価(星マーク)】にて応援をいただけますと幸いです。


皆様の一票が、物語を書き進める大きな支えになっています。次回もよろしくお願いいたします。

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