第20話「水曜日の夜、彼女は『自分で動く』と言った」
全部、話した。
ナナミがLulu=Luciaの大ファンだったこと。引退配信の「あのカフェの紅茶」の話を聞いて、この街に来たこと。三年間ずっと見てきたファンだということ。
そして、ファンの間で「Lulu=Luciaを街で見た」という目撃情報が増えていること。
最後に、ナナミは悪い人じゃないこと。彼女はルシアを「迷惑じゃないように」見たいだけ。声をかけるつもりもない。同じ空気を吸えるだけで嬉しい、と言っていたこと。
全部、話した。
ルシアは黙って聞いていた。湯呑みを両手で持って、テーブルを見たまま。途中で何度か、目を閉じた。でも、止めなかった。
話し終わった時、部屋は静かだった。
時計の秒針の音が、また聞こえた。
「全部、ですか」と彼女は聞いた。
「全部です」
「他に、隠してることないですか」
「ないです」
「そうですか」
彼女はうなずいた。
-----
しばらく、二人とも黙っていた。
「悪い人じゃない、というのが、一番きついです」と彼女は言った。
「うん」
「悪い人なら、ブロックすれば終わりです。距離を取れば、それで済みます」
「うん」
「でも、悪い人じゃない人は、止められない」
俺は何も言わなかった。
彼女が言っていることは、俺が今日カフェからの帰り道で思ったことと、同じだった。
「ナナミちゃんって、いう人ですよね」
「橘ナナミです」
「橘さん」
「うん」
「私、たぶん、橘さんの感情を、街ですれ違ったら、すぐに気づきます」
「気づく」
「ファンの強い感情は、特別だから。普通の人の感情とは、密度が違う」
「うん」
「だから、すれ違ったら、たぶん、気づきます。そして、相手も私の声を聞いたら、たぶん、気づきます」
「うん」
「それは、本当に怖いです」
彼女の声が、また少し震えた。
「でも」と彼女は続けた。「橘さんが、私を見つけたとしても、声をかけないって決めてるって、白瀬さん、言ってましたよね」
「言ってました」
「それは、たぶん本当だと思います」
「うん」
「橘さん、ちゃんと、私のことを考えてくれてた人なんだと思います。配信中に私が言ったことを、覚えてくれてる」
「うん」
「感情共有が苦手って、私、何度か配信で言ったんです。たぶん、それを聞いてくれてた」
彼女は少しの間、湯呑みを見ていた。
「悪い人じゃない、というより、いい人なんだと思います、本当は」と彼女は言った。
「いい人」
「うん」
「いい人だから、止められない」
「そうです」
俺は何も言えなかった。
彼女の言うことは、全部、正しかった。
-----
「考えましょう」と俺は言った。
「うん」
「対策を」
彼女はうなずいた。湯呑みを置いて、テーブルに両手をついた。
「思いつく案を、一つずつ、出してみますか」
「いいです」
「正解じゃなくてもいいので。とりあえず、案を出して、それから一つずつ考える」
「うん」
会議みたいだった。でも、それしか、やり方がわからなかった。話し合うしか、できなかった。
「引っ越す、というのが、まず一つです」と俺は言った。
「引っ越す」
「ナナミがこの街にいる理由は、ここの紅茶が、引退配信で言っていたカフェかもしれない、と思っているから。俺たちが他の街に行けば、ナナミはついてきません」
彼女は少し考えた。
「お金、ありますか」
「ないです」
「ですよね」
「両親に頼めば、出せるかもしれない。でも、理由を説明するのが」
「説明できないですよね」
「できないです」
彼女はうなずいた。
「次の案は」
「配信を完全にやめる、というのが、二つ目です」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
「やめると、私、たぶん、また自分を失います」と彼女は言った。
「うん」
「配信は、もう数百人しかリスナーがいないけど、私にとっては、自分を確かめる場所なので。配信中の声を作るのも、終わって倒れて関西弁が出るのも、全部、私が私であることを確認する手段なんです」
「うん」
「やめたら、その手段がなくなります」
「やめないでいいです」と俺は言った。
「いいんですか」
「ルシアが自分を失うのは、避けたいです」
彼女はうなずいた。
「次は」
「三つ目は、何もしないで、見守ること」
「何もしない」
「俺たちが動かないでいると、ナナミは『この街にLulu=Luciaがいるかもしれない』という確信を、少しずつ深めていきます。目撃情報も増える。いつか、決定的な瞬間が来る」
「来ますね」
「だから、これも、たぶん駄目です」
「駄目ですね」
彼女はうなずいた。
「最後の案は」
「四つ目」
「俺がナナミに、正面から話す」
彼女は俺を見た。
「話す?」
「全部、ではなく。でも、『この街にLulu=Luciaはいない』『探さないでほしい』みたいなことを、何かの形で伝える」
「白瀬さんが、なぜ知ってるのか、と聞かれます」
「そうですね」
「説明、できますか」
「できないです」
「だから、これも、駄目ですね」
「駄目です」
四つの案、全部、駄目だった。
部屋がまた静かになった。
俺は少しの間、自分が情けなくなった。
昨夜、「俺が考える」と言った。一日考えて、出した案が四つ。全部、駄目。
俺、何のために考えてたんだろう、と思った。
でも、考えなかったよりは、ましだった。考えたから、四つの案が「駄目」だとわかった。これが「考える」ということだったのかもしれない。
駄目だとわかることも、進歩、と言える気がした。
たぶん、そう思いたいだけかもしれなかったけど。
-----
「困りましたね」と彼女は言った。
「困りました」
「どうしたらいいですか」
「わからないです」
俺は正直に言った。
彼女はうなずいた。
しばらく、二人とも、テーブルを見ていた。湯呑みの中で、お茶が冷めていた。
「白瀬さん」
「はい」
「私、たぶん、自分で決めないといけないと思います」
俺は彼女を見た。
「自分で」
「うん」
「俺が考えると言ったけど」
「言ってくれました。嬉しかったです。でも」
彼女は深く息を吸った。
「白瀬さんに全部任せて、私が守られてるだけだと、私、また、自分がわからなくなります」
「うん」
「ここに来てから、私、少しずつ、自分の感情を取り戻してきました。プリンを選んだり、からあげ棒を三本欲しいって言ったり、関西弁を出したり。全部、私が、自分で決めてきたことです」
「うん」
「だから、橘さんのことも、私が、自分で決めたいです」
彼女の目が、俺を見ていた。震えていなかった。さっきまで震えていた声が、今は落ち着いていた。
「ユウさんは、決めないでください」と彼女は言った。
「決めない」
「うん。私が決めます」
そう言った後、彼女は少しだけ、肩の力を抜いた。
「決めるって、言うてしもうた」
関西弁が、ぽつりと、こぼれた。
「ええんですよ、関西弁」と俺は言った。
「うん」
「ルシアの素の言葉です」
「うん」
彼女は少しだけ、笑った。緊張の中の、小さな笑い。
俺は少しの間、考えた。
あの時、俺は「俺が動く」と決めた。「ルシアが安心できるように、俺が考えます」と言った。
でも、彼女は今、「自分で決める」と言っている。
俺が動くと、彼女は守られる側になる。それは、彼女がここで取り戻してきたものと、矛盾する。
彼女は、自分を取り戻すために、ここにいた。
だから、自分で決める。
俺がそれを止めるのは、たぶん、間違っていた。
「でも、ユウさんの言ったことも、間違ってないです」と彼女は言った。
「間違ってない?」
「うん。守りたい、って思ってくれたことは、本当に嬉しいです。それは、私を一人にしないって意味だから」
「うん」
「でも、守られすぎると、私は私じゃなくなる」
「うん」
「ユウさんが隣にいてくれて、でも、私が自分で決める。それが、たぶん、私が一番、私でいられる形です」
俺はうなずいた。
「わかりました」と俺は言った。
「決めていいですか」
「決めてください」
「明日、私、考えます」と彼女は言った。「白瀬さんは、何もしないでください」
「何もしない」
「お願いします」
俺はうなずいた。
「うん」
「ありがとうございます」
また、自然な「ありがとう」だった。
-----
寝る前に、彼女が言った。
「ユウさん」
「はい」
「待ってもらえますか、また」
「待ちます」
「今度は、何を待つかも、私が決めます」
俺は少し笑った。
「うん」
「私が、いつ、どう動くか、私が決める。ユウさんは、私が動くまで、待つ。それでいいですか」
「いいです」
彼女もうなずいた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消した。
彼女の寝息が、今夜は少し早く聞こえてきた。今夜は、決めたから、たぶん、眠りやすかったんだろう。
俺は天井を見ていた。
今夜、ルシアが「自分で決める」と言った。
今までの彼女は、いつも「待たれる側」「読まれる側」「受け取る側」だった。
でも今夜、彼女は「決める側」になった。
俺は、待つ側になった。
役割が、入れ替わった。
「待ちたいです」と俺は、いつだったか、言った。
今、本当に待つ時が来ていた。
何を待つのか。それも、彼女が決める。
俺にできるのは、ただ、隣にいることだけだった。
でも、それでよかった。
待つ、というのは、たぶん、こういうことだった。
彼女がここに来てから、彼女は少しずつ「自分で選ぶ」を増やしてきた。
「なんでもいいです」から、「からあげ棒」に。
「からあげ棒二本」から「三本」に。
「白瀬さん」から「ユウさん」に。
そして今夜、彼女は最大の「自分で選ぶ」を、自分で選んだ。
「私が決めます」。
俺は、それを止めなかった。止めたら、たぶん、あの時の俺の言葉が嘘になる。「あなたが、自分の感情がわかるようになるまで、待ちたい」。あれは、こういう瞬間のための約束だったんだろう。
彼女が決める。
俺は待つ。
それが、二人で歩く形だった。
とりあえず、寝ることにした。
明日、彼女が何を考えるか。
俺は知らないままで、寝る。
それでいい、と、自分に言い聞かせた。
「私が決めます」と言った時の彼女の声を、思い出した。
震えていなかった。落ち着いた声だった。
たぶん、彼女は今、強い。初めてここに来た時の、あの玄関の前で深呼吸を繰り返していた彼女より、もっと強い。
だから、たぶん、大丈夫だった。
そう信じることが、今夜の俺にできる、最大のことだった。それ以上のことは、たぶん今夜の俺には、もう、何ひとつ、残されていなかったように、思う。そういう夜だった。




