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第19話「水曜日の午後、彼女は『あの子に会いたい』と笑った」


 水曜日の朝、目が覚めた。


 ルシアは既に起きていた。台所で卵焼きを作っていた。いつも通りだった。


 「おはようございます」


 「おはようございます」


 いつも通りの挨拶だった。でも、いつも通りじゃなかった。


 彼女は俺の方を一度、ちらっと見た。「気をつけてくださいね」とは言わなかった。「無理しないで」とも言わなかった。昨夜、もう言ったから。今朝は何も言わなかった。


 でも、見た。


 卵焼きを食べた。サラダを食べた。味噌汁を飲んだ。今朝はいつもより少し、味が濃い気がした。彼女が緊張してるのかもしれないし、俺が緊張してるのかもしれなかった。


 「今日、何時頃行きますか」と彼女は聞いた。


 「午後です」


 「カフェに、ですよね」


 「はい」


 「うん」


 「夕方には戻ります」


 「うん」


 それだけだった。


 彼女は何も聞かない。俺も何も言わない。


 でも、お互いに気にしていた。


-----


 午後二時、家を出た。


 いつもの道を歩いて、カフェに向かった。


 入る前に、窓越しに中を確認した。ナナミがいた。今日も水曜日のシフトじゃないはずだったが、いた。客はいなかった。


 入った。


 ドアのベルが鳴った。ナナミが顔を上げた。


 「あれ、白瀬くん」


 「今日、シフト変わったんですか」


 「そう。代わりに入ってって言われて」


 「そうですか」


 「コーヒー?」


 「お願いします」


 いつもの窓際の席に座った。彼女がコーヒーを淹れている間、店の中を見回した。客は本当にいなかった。BGMだけが流れていた。インストの、落ち着いた曲だった。


 コーヒーが運ばれてきた。


 「今日も座っていい?」


 「どうぞ」


 彼女は向かいに座った。


 「昨日、途中で止まっちゃってごめんね」と彼女は言った。「店長に呼ばれて」


 「いえ」


 「今、続き、聞いてもらえる?」


 俺はうなずいた。


 彼女は少し笑った。何かを期待しているような、嬉しそうな笑い方だった。


-----


 「私、この街に来た理由」と彼女は始めた。


 「はい」


 「実は、私、すごく好きなVTuberがいたの。さっき話したLulu=Luciaって人」


 「うん」


 「引退配信で、彼女が『あのカフェの紅茶が、最後にもう一度飲みたい』って言ったの。涙ぐみながら」


 俺の心臓が、少しだけ早く打った。


 「『あのカフェ』が、どこのカフェかは言わなかった。でも、なんとなく、彼女の話し方から、この辺の街じゃないかなって、ずっと思ってて」


 「この辺」


 「うん。彼女、配信中によくこの辺の街の話をしてたから」


 「そうですか」


 「で、私、大学が東京なんだけど、バイト探す時に、なんとなくこの辺で探したの。本当に、なんとなく」


 「うん」


 「ここのカフェ、紅茶が美味しいって評判で。もしかして、彼女が言ってたカフェ、ここかもしれないなって。確信はないけど」


 俺は何も言わなかった。


 「だから、この街に来た」と彼女は言った。


 彼女の声に、嘘がなかった。


 本気で、嬉しそうに、まるで秘密を打ち明けるみたいに話していた。


 「会いたいんですか、その人に」と俺は聞いた。


 「会いたい」と彼女は即答した。「ずっと、会いたい」


 「でも、引退してるんですよね」


 「うん。でも、この街にもしいるんだったら、すれ違ったりするかもしれないし」


 「街で見かけたら、声かけるんですか」


 彼女は少し考えた。


 「かけないかな、たぶん」


 「かけない」


 「彼女、感情共有が苦手だったの。配信でも、たまにそういう話してて。だから、急に声かけたら、絶対迷惑じゃない?」


 俺は少し驚いた。


 ナナミは、ルシアのことをよく見ていた。「感情共有が苦手」というのは、配信中に何度か触れていたらしい。それを、ナナミは覚えていた。


 だから、街で見かけても声をかけない、と決めていた。


 彼女が、ルシアのことをただ「自分の好きな人」として消費しているわけじゃないのが、わかった。彼女は、ルシアという人を、ちゃんと考えていた。


 「そうですね」と俺は言った。


 「だから、もし会えても、ただ近くで、見るだけでいいの。同じ空気を吸ってるだけで、嬉しいって、思える」


 彼女の声には、本当に、何の悪意もなかった。


 純粋な、ファンの愛情だった。


 だからこそ、怖かった。


-----


 「実は」と彼女は言った。


 「はい」


 「最近、ファンの間で、噂があって」


 「噂」


 「Lulu=Luciaを、この近くで見たって人が、何人かいるの」


 「……」


 「もちろん、見間違いかもしれない。彼女は素顔を公開してないし、声も別の声を作ってたから、街で見分けるのは難しいはず。でも、『すごく似た声を聞いた』とか、『あの口調の人を見た』とか、そういう書き込みが、最近増えてて」


 「そうですか」


 「だから、もしかしたら、本当に、この辺にいるかもしれないって」


 俺は何も言わなかった。


 彼女は続けた。


 「だから、私、ここに来てよかったって、思ってる」


 「ここに来てよかった」


 「うん。会えなくても、可能性があるだけで、嬉しい」


 彼女は本当に嬉しそうに笑っていた。


 俺はコーヒーを飲んだ。


 喉を通る感覚が、いつもより、重かった。


-----


 「白瀬くんは、好きなVTuberとかいないの?」と彼女は聞いた。


 「いないですね」


 「そっか」


 「俺、感情同期がうまくいかない体質で。配信文化に、あんまり乗れないんです」


 「あ、そうなんだ」


 「だから、Lulu=Luciaのことも、引退する時に少し話題になってたのを聞いた程度で」


 「そうなんだ」と彼女は言った。少し残念そうだった。


 「橘さんは、ずっとファンだったんですか」


 「うん。三年くらい」


 「三年」


 「彼女が活動始めた頃から、見てた。最初、すごく小さい配信者で、リスナー十人くらいで。それがどんどん大きくなって、何十万人になって」


 「三年で何十万人」


 「すごいでしょ。でも、急に、引退するって言って」


 「驚いたんですね」


 「驚いたし、悲しかった。本当に好きだったから」


 彼女の目が、少しだけ濡れた気がした。


 でも、すぐに笑顔に戻った。


 「だから、もしどこかで会えたら、ありがとうって言いたいの」と彼女は言った。「それだけでいい」


 「それだけ」


 「うん。それだけ」


 俺はうなずいた。


 何も言えなかった。


-----


 会話が、しばらく途切れた。


 俺はコーヒーを飲み終わった。


 「白瀬くん」と彼女は言った。


 「はい」


 「変なこと聞いて、ごめんね、土曜日に」


 「土曜日」


 「アパートに女の人がいるんじゃないか、って聞いたこと」


 俺は心臓が、少し止まりかけた。


 「ああ」


 「変な詮索みたいになっちゃって、気にしてた。ごめんね」


 「いえ、全然」


 「白瀬くんも、たぶん、誰かと住んでないよね。中学の時から、わりと静かなタイプだったし」


 「ええ、まあ」


 「うん。気のせいだったよね、たぶん」


 彼女はそう言って、笑った。


 俺は何も言わなかった。


 肯定も否定もしなかった。彼女は俺の沈黙を、肯定とも否定とも取らず、ただ自分の中で「気のせいだった」と決めたようだった。


 それでよかった。


 そう思いたかった。


-----


 会計をして、店を出た。


 「また来てね」とナナミは言った。


 「気が向いたら」


 「気が向くの、待ってる」


 彼女は手を振った。


 俺は手を振り返して、アパートの方向に歩き出した。


-----


 歩きながら、頭の中で、彼女の言葉が回っていた。


 「会えなくても、可能性があるだけで、嬉しい」


 「ありがとうって、言いたいの。それだけでいい」


 悪意のかけらもなかった。


 彼女がもしルシアに会ったら、本当に、ただ「ありがとう」と言うだろう。それで満足するだろう。


 そして、もしかしたら、ナナミは本当に「声をかけずに、ただ見るだけ」を実行するかもしれない。


 でも、それも、ルシアにとっては地獄だった。


 ナナミの中の「会えた喜び」の感情が、ルシアに流れ込む。距離が近ければ近いほど、強く。


 悪意がなくても、好意の強さが、彼女を傷つける。


 悪意のある人なら、まだ対処できる。「あの人と話すな」「来るな」「ストーカーだ」と、警察にも行ける。


 でも、ナナミは違う。「好きなVTuberを街で偶然見かけた」だけのファンに、何の罪もない。


 俺が彼女を遠ざける根拠が、何もない。


 そう考えると、絶望に近かった。


 でも、ルシアは——


 会ったら、ナナミの「ありがとう」の感情を、リアルタイムで全身に受ける。三年間溜め込まれた、純粋なファンの感情を、一気に。


 たぶん、また倒れる。


 倒れたら、それで終わりじゃない。倒れた彼女を見て、ナナミはたぶん「Lulu=Luciaだ」と気づく。気づいたら、また「会いたい」「ありがとう」が増える。それが他のファンにも広がる。


 そうなったら、ルシアが今の生活を続けるのは、難しくなる。


-----


 アパートに戻った。


 ドアを開けた。


 ルシアがソファに座って、本を読んでいた。


 「おかえりなさい」


 「ただいま」


 彼女は本を閉じた。


 「どうでしたか」


 俺は何も言えなかった。


 話さないといけないことは、たくさんあった。


 でも、何から話したらいいか、わからなかった。


 「コーヒー飲んできました」と俺は言った。


 「うん」


 「色々、聞いてきました」


 「うん」


 彼女は俺をじっと見ていた。読もうとして読めない、いつもの目だった。


 俺は座って、靴を脱いだ。少し時間がかかった気がする。


 何を、どこから話せばいいのか。


 全部を話したら、彼女はたぶん、もっと不安になる。


 でも、隠したら、また嘘になる。


 決められないまま、靴を揃えて、ソファの近くに座った。


 「ルシア」と俺は呼んだ。


 「はい」


 俺は息を吸った。


 何から話せばいいか、まだ、決まっていなかった。


 でも、話さないといけない。


 全部を話したら、彼女は怖がる。逃げたいと言うかもしれない。


 でも、隠したら、信頼を裏切る。


 どちらも、できなかった。


 だから、話せる範囲で、少しずつ話すことにした。


 「ルシア」と俺はもう一度、呼んだ。


 「うん」


 「あの子、いい人でした」


 彼女は少し首を傾けた。


 「いい人」


 「悪意がない人でした」


 彼女は俺をじっと見ていた。


 続きを、待っていた。


 俺は少しの間、目を閉じた。


 そして、ゆっくり、ナナミから今日聞いてきた話を、ひとつずつ、ゆっくり、彼女に向かって、話し始めた。

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