第18話「火曜日の夜、俺たちは初めて『これから』を話した」
配信が終わった。
ルシアはイヤホンを外して、横に倒れた。
「もう、しんどいわー」と関西弁で言った。いつも通りだった。
俺は緑茶を渡した。彼女は受け取って、一口飲んだ。
「ありがとうございます」
いつもの「ありがとう」だった。
俺は深呼吸を一回した。
「ルシア」
「はい」
「話があります」
彼女は天井から視線を外して、俺を見た。
いつもと違う声で呼んだのが、伝わったらしかった。
「今日、ですか」
「今日です」
彼女は起き上がった。床に座り直して、湯呑みを両手で持った。
「聞きます」
俺は座り直した。彼女の正面に、少し距離をとって、座った。
部屋が静かだった。
時計の秒針の音が、聞こえる気がした。
彼女は俺をじっと見ていた。読もうとして読めない、いつもの顔。でも今日は、いつもより少しだけ、緊張した目をしていた。
俺がこれから何を話すか、彼女は予感していた。
たぶん、土曜日に俺がカフェに行ったことから、彼女はずっと気にかけていた。何も聞かないでくれていたけど、ずっと、気にしていた。
俺はもう一度、息を吸った。
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「最近、近所のカフェで、橘さんと会ってます」
「橘さん」
「中学の同級生です。先週、初めて会いました。一回目は道で偶然。二回目は、駅前で。三回目は今日、カフェに入って」
「店に入ったんですか」
「入りました。今日、初めて」
ルシアは少しの間、何も言わなかった。
「今日のコンビニ、混んでたっていうのは」
「嘘でした」
「カフェに行ってたんですね」
「行ってました」
彼女はうなずいた。怒っていなかった。たぶん、最初から察していた。
「続けてください」
俺はもう一回、深呼吸をした。
「橘さん、たぶん、Lulu=Luciaの大ファンです」
彼女の目が、少しだけ動いた。
「コアなファン、ですか」
「コアな方だと思います。レジ横に、引退ライブの限定キーホルダーを飾ってました。抽選で当たったやつだそうです」
「あれを当てたんですか」
「らしいです」
彼女は少しの間、湯呑みを見ていた。
「すごい倍率でしたよ、あれ」
「そうみたいですね」
「私も知らないファンに、当たった人がいたんですね」
彼女の声が、少しだけ小さくなった。
俺は続けた。話し始めたら、止めない方がいい気がした。
「橘さんが、その引退ライブのことを、嬉しそうに話してました。Lulu=Luciaのことが、本気で好きだったらしいです」
「うん」
「あと」
「あと?」
「土曜日に、別の場所で会った時、橘さんが俺に聞いたんです。『誰かと住んでる?』って。カフェからアパートが見える時があって、女の人の影が見えるって」
ルシアは、少しだけ、息を止めた気がした。
「気のせいかもしれないって、俺は答えました。でも、見えてるかもしれないです、本当に」
「そうですか」
「それと今日、橘さんが言いかけたんです。『この街に来た理由がある』って。途中で店長に呼ばれて、止まりました。続きは聞いてないです」
俺はそこまで言って、息を吐いた。
話したことは、全部話した。
ルシアは湯呑みを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
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時間がどれくらい経ったか、わからなかった。
たぶん、一分も経っていなかった。でも、長く感じた。
「ユウさん」と彼女は言った。
「はい」
「教えてくれて、ありがとうございます」
俺は少し驚いた。
「怒ってないんですか」
「怒ってないです」
「怖くないんですか」
彼女は少しの間、考えた。
「怖いです」と彼女は言った。
「うん」
「すごく怖いです」
彼女の声が、少し震えていた。
「もしその人が、私のことに気づいたら」と彼女は言った。「私、たぶん、また配信中みたいに、倒れます。前みたいに」
「うん」
「人の感情が、また流れ込んでくる。今度は、私を見つけた喜びとか、興奮とか、そういう強い感情が、一気に来る。耐えられないと思います」
「うん」
「だから、怖いです」
彼女は湯呑みを両手で握っていた。
「逃げますか」と俺は聞いた。
彼女は少しの間、黙った。
「……逃げたら」
「うん」
「逃げたら、また、自分の感情がわからない場所に戻ります」
俺は何も言わなかった。
「ここに来てから、私、少しずつ、自分の感情を確かめてきました。プリンとか、からあげ棒とか、卵焼きとか、配信のチャットとか、本を読むこととか。全部、ユウさんの隣で、確かめてきた」
「うん」
「逃げたら、それが、止まります」
「止まる」
「他の静かな場所に行っても、たぶん、自分の感情はまだわからないままです。ユウさんが、隣にいない場所だから」
俺は何も言えなかった。
「だから、ここにいたいです」と彼女は言った。「怖いけど、ここにいたいです」
「うん」
「もう一度、自分を失いたくないので」
彼女の声は震えていたけれど、目は俺を見ていた。
「ユウさん、私、配信を引退する前のこと、あんまり話したことなかったですよね」
「うん」
「最後の頃、私、自分のことが、わからなかったんです。配信中に何を話してるのか、それが私の感情なのか、リスナーから流れてきた感情を返してるだけなのか、もう区別がつかなくなって」
「うん」
「『楽しい』って言うのも、リスナーが『楽しい』って思ってるから言ってるだけかもしれない。『感謝してる』って言うのも、本当の感謝なのか、相手の期待を読み取って返してるだけなのか、わからない」
「そうだったんですね」
「自分が空っぽに感じる時期が、長くありました。配信を続ければ続けるほど、自分の中身がなくなっていく感じで」
「うん」
「だから引退したんです。倒れたのは、引退する決意のきっかけになっただけで。本当は、もう前から、限界でした」
俺は何も言えなかった。
「ここに来てから、少しずつ、戻ってきてるんです」と彼女は言った。「自分の感情が、自分のものだって、思える時間が増えてきて」
「うん」
「ここを失うのは、もう一度、自分を失うのと、たぶん同じです」
「ここにいてください」と俺は言った。
「いていいですか」
「いてください」
彼女は少し笑った。怖い顔のままで、少し笑った。
「ありがとうございます」と彼女は言った。
また、自然な「ありがとう」だった。
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しばらく、二人とも黙っていた。
「これから、どうしますか」と彼女は聞いた。
俺は少し考えた。
「考えます」
「考えます」と彼女は繰り返した。
「俺が、考えます」
「ユウさんが」
「ルシアが安心できるように、俺が、考えます」
彼女はうなずいた。
「ありがとうございます」
また、ありがとう。
俺は少し息を吐いた。
彼女の前で、いいかっこをするつもりはなかった。でも、ここで「わからない」とは言いたくなかった。彼女がここにいる、と言ってくれた。だから、俺が考える。
具体的に、何を考えるかは、まだわからなかった。
でも、考える。
そう決めた。
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夜、電気を消す前に、俺は言った。
「ルシア」
「はい」
「明日、俺、あの子に会いに行きます」
彼女は何も言わなかった。
湯呑みをテーブルに置いて、ゆっくりと俺を見た。
「何を話しますか」
「まだ決まってないです」
「決まってないのに、行くんですか」
「行きます」
「どうして」
俺は少し考えた。
「動かないと、状況がどんどん悪くなる気がして」
「そうですか」
「向こうから来られるのを待つより、こっちから動いた方がいいです」
「ユウさんが、決めたんですね」
「はい」
彼女はしばらく俺を見ていた。
「気をつけてください」と彼女は言った。
「気をつけます」
「あと」
「あと?」
「無理しないでください」
「無理しないです」
「私のために、無理しないでください」
俺は少し笑った。
「無理してないですよ。これは、自分のためでもあるので」
「自分のため?」
「ルシアと一緒にいたいんです、俺が」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「うん」
「うん」と俺も言った。
電気を消した。
彼女の寝息が、なかなか聞こえてこなかった。
たぶん、彼女もまだ起きていた。考え事をしているのかもしれない。
俺も、まだ起きていた。
今日、たくさん話した。
ルシアが、配信の前のことを話してくれた。「自分が空っぽに感じる時期」「自分の中身がなくなっていく感じ」。彼女が引退する前にずっと抱えていたもの。
それを、初めて聞いた。
彼女がここに来た理由が、もっとはっきり見えた。ただ「静かな場所」を探していたんじゃなかった。「自分を取り戻す場所」を探していた。
そして、ここに来て、少しずつ取り戻していた。
プリンを食べて「美味しい」と言える。からあげ棒を二本じゃなくて三本欲しいと言える。卵焼きのコツを教えられる。配信時間を「気分で」短くできる。「ありがとう」が自然に出る。
全部、彼女が「自分」を取り戻している証拠だった。
俺は今夜、そのことを初めて、ちゃんと理解した。
だから、守らないといけない。
ナナミが悪い人じゃなくても、彼女がもしルシアに気づいたら、ルシアはまた「自分」を失う。それは、どうしても、避けたかった。
明日、ナナミに会いに行く。
何を話すか、まだ決まっていない。
でも、行く。
行って、見極める。
彼女が、ルシアにどのくらい近づいてきているのか。
彼女に、ルシアのことを匂わせず、どこまで距離を取れるか。
たぶん難しい。でも、やる。
そう決めて、目を閉じた。
しばらくして、ルシアの寝息が、ようやく聞こえてきた。
俺もそのまま、眠った。
眠る直前、頭の中に浮かんだのは、ルシアが今夜笑った顔だった。
怖い顔のまま、それでも少し笑った時の、あの顔。
彼女は今夜、自分のことをたくさん話してくれた。
たぶん、信用してくれているんだろう、と思った。
俺も、信用に応えたい、と思った。
応えるためには、明日、ちゃんとナナミに会いに行く。話して、見極めて、彼女を、ルシアから少しでも遠ざける。
簡単にはいかないことは、わかっていた。
でも、簡単じゃないからやらない、というのは、もう違う。
そう思いながら、目を閉じた。やがて、自分の意識も、ルシアの寝息に重なるように、ゆっくりと、遠くなっていった。




