表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/48

第18話「火曜日の夜、俺たちは初めて『これから』を話した」


 配信が終わった。


 ルシアはイヤホンを外して、横に倒れた。


 「もう、しんどいわー」と関西弁で言った。いつも通りだった。


 俺は緑茶を渡した。彼女は受け取って、一口飲んだ。


 「ありがとうございます」


 いつもの「ありがとう」だった。


 俺は深呼吸を一回した。


 「ルシア」


 「はい」


 「話があります」


 彼女は天井から視線を外して、俺を見た。


 いつもと違う声で呼んだのが、伝わったらしかった。


 「今日、ですか」


 「今日です」


 彼女は起き上がった。床に座り直して、湯呑みを両手で持った。


 「聞きます」


 俺は座り直した。彼女の正面に、少し距離をとって、座った。


 部屋が静かだった。


 時計の秒針の音が、聞こえる気がした。


 彼女は俺をじっと見ていた。読もうとして読めない、いつもの顔。でも今日は、いつもより少しだけ、緊張した目をしていた。


 俺がこれから何を話すか、彼女は予感していた。


 たぶん、土曜日に俺がカフェに行ったことから、彼女はずっと気にかけていた。何も聞かないでくれていたけど、ずっと、気にしていた。


 俺はもう一度、息を吸った。


-----


 「最近、近所のカフェで、橘さんと会ってます」


 「橘さん」


 「中学の同級生です。先週、初めて会いました。一回目は道で偶然。二回目は、駅前で。三回目は今日、カフェに入って」


 「店に入ったんですか」


 「入りました。今日、初めて」


 ルシアは少しの間、何も言わなかった。


 「今日のコンビニ、混んでたっていうのは」


 「嘘でした」


 「カフェに行ってたんですね」


 「行ってました」


 彼女はうなずいた。怒っていなかった。たぶん、最初から察していた。


 「続けてください」


 俺はもう一回、深呼吸をした。


 「橘さん、たぶん、Lulu=Luciaの大ファンです」


 彼女の目が、少しだけ動いた。


 「コアなファン、ですか」


 「コアな方だと思います。レジ横に、引退ライブの限定キーホルダーを飾ってました。抽選で当たったやつだそうです」


 「あれを当てたんですか」


 「らしいです」


 彼女は少しの間、湯呑みを見ていた。


 「すごい倍率でしたよ、あれ」


 「そうみたいですね」


 「私も知らないファンに、当たった人がいたんですね」


 彼女の声が、少しだけ小さくなった。


 俺は続けた。話し始めたら、止めない方がいい気がした。


 「橘さんが、その引退ライブのことを、嬉しそうに話してました。Lulu=Luciaのことが、本気で好きだったらしいです」


 「うん」


 「あと」


 「あと?」


 「土曜日に、別の場所で会った時、橘さんが俺に聞いたんです。『誰かと住んでる?』って。カフェからアパートが見える時があって、女の人の影が見えるって」


 ルシアは、少しだけ、息を止めた気がした。


 「気のせいかもしれないって、俺は答えました。でも、見えてるかもしれないです、本当に」


 「そうですか」


 「それと今日、橘さんが言いかけたんです。『この街に来た理由がある』って。途中で店長に呼ばれて、止まりました。続きは聞いてないです」


 俺はそこまで言って、息を吐いた。


 話したことは、全部話した。


 ルシアは湯呑みを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。


-----


 時間がどれくらい経ったか、わからなかった。


 たぶん、一分も経っていなかった。でも、長く感じた。


 「ユウさん」と彼女は言った。


 「はい」


 「教えてくれて、ありがとうございます」


 俺は少し驚いた。


 「怒ってないんですか」


 「怒ってないです」


 「怖くないんですか」


 彼女は少しの間、考えた。


 「怖いです」と彼女は言った。


 「うん」


 「すごく怖いです」


 彼女の声が、少し震えていた。


 「もしその人が、私のことに気づいたら」と彼女は言った。「私、たぶん、また配信中みたいに、倒れます。前みたいに」


 「うん」


 「人の感情が、また流れ込んでくる。今度は、私を見つけた喜びとか、興奮とか、そういう強い感情が、一気に来る。耐えられないと思います」


 「うん」


 「だから、怖いです」


 彼女は湯呑みを両手で握っていた。


 「逃げますか」と俺は聞いた。


 彼女は少しの間、黙った。


 「……逃げたら」


 「うん」


 「逃げたら、また、自分の感情がわからない場所に戻ります」


 俺は何も言わなかった。


 「ここに来てから、私、少しずつ、自分の感情を確かめてきました。プリンとか、からあげ棒とか、卵焼きとか、配信のチャットとか、本を読むこととか。全部、ユウさんの隣で、確かめてきた」


 「うん」


 「逃げたら、それが、止まります」


 「止まる」


 「他の静かな場所に行っても、たぶん、自分の感情はまだわからないままです。ユウさんが、隣にいない場所だから」


 俺は何も言えなかった。


 「だから、ここにいたいです」と彼女は言った。「怖いけど、ここにいたいです」


 「うん」


 「もう一度、自分を失いたくないので」


 彼女の声は震えていたけれど、目は俺を見ていた。


 「ユウさん、私、配信を引退する前のこと、あんまり話したことなかったですよね」


 「うん」


 「最後の頃、私、自分のことが、わからなかったんです。配信中に何を話してるのか、それが私の感情なのか、リスナーから流れてきた感情を返してるだけなのか、もう区別がつかなくなって」


 「うん」


 「『楽しい』って言うのも、リスナーが『楽しい』って思ってるから言ってるだけかもしれない。『感謝してる』って言うのも、本当の感謝なのか、相手の期待を読み取って返してるだけなのか、わからない」


 「そうだったんですね」


 「自分が空っぽに感じる時期が、長くありました。配信を続ければ続けるほど、自分の中身がなくなっていく感じで」


 「うん」


 「だから引退したんです。倒れたのは、引退する決意のきっかけになっただけで。本当は、もう前から、限界でした」


 俺は何も言えなかった。


 「ここに来てから、少しずつ、戻ってきてるんです」と彼女は言った。「自分の感情が、自分のものだって、思える時間が増えてきて」


 「うん」


 「ここを失うのは、もう一度、自分を失うのと、たぶん同じです」


 「ここにいてください」と俺は言った。


 「いていいですか」


 「いてください」


 彼女は少し笑った。怖い顔のままで、少し笑った。


 「ありがとうございます」と彼女は言った。


 また、自然な「ありがとう」だった。


-----


 しばらく、二人とも黙っていた。


 「これから、どうしますか」と彼女は聞いた。


 俺は少し考えた。


 「考えます」


 「考えます」と彼女は繰り返した。


 「俺が、考えます」


 「ユウさんが」


 「ルシアが安心できるように、俺が、考えます」


 彼女はうなずいた。


 「ありがとうございます」


 また、ありがとう。


 俺は少し息を吐いた。


 彼女の前で、いいかっこをするつもりはなかった。でも、ここで「わからない」とは言いたくなかった。彼女がここにいる、と言ってくれた。だから、俺が考える。


 具体的に、何を考えるかは、まだわからなかった。


 でも、考える。


 そう決めた。


-----


 夜、電気を消す前に、俺は言った。


 「ルシア」


 「はい」


 「明日、俺、あの子に会いに行きます」


 彼女は何も言わなかった。


 湯呑みをテーブルに置いて、ゆっくりと俺を見た。


 「何を話しますか」


 「まだ決まってないです」


 「決まってないのに、行くんですか」


 「行きます」


 「どうして」


 俺は少し考えた。


 「動かないと、状況がどんどん悪くなる気がして」


 「そうですか」


 「向こうから来られるのを待つより、こっちから動いた方がいいです」


 「ユウさんが、決めたんですね」


 「はい」


 彼女はしばらく俺を見ていた。


 「気をつけてください」と彼女は言った。


 「気をつけます」


 「あと」


 「あと?」


 「無理しないでください」


 「無理しないです」


 「私のために、無理しないでください」


 俺は少し笑った。


 「無理してないですよ。これは、自分のためでもあるので」


 「自分のため?」


 「ルシアと一緒にいたいんです、俺が」


 彼女は少しの間、何も言わなかった。


 それから、ゆっくりとうなずいた。


 「うん」


 「うん」と俺も言った。


 電気を消した。


 彼女の寝息が、なかなか聞こえてこなかった。


 たぶん、彼女もまだ起きていた。考え事をしているのかもしれない。


 俺も、まだ起きていた。


 今日、たくさん話した。


 ルシアが、配信の前のことを話してくれた。「自分が空っぽに感じる時期」「自分の中身がなくなっていく感じ」。彼女が引退する前にずっと抱えていたもの。


 それを、初めて聞いた。


 彼女がここに来た理由が、もっとはっきり見えた。ただ「静かな場所」を探していたんじゃなかった。「自分を取り戻す場所」を探していた。


 そして、ここに来て、少しずつ取り戻していた。


 プリンを食べて「美味しい」と言える。からあげ棒を二本じゃなくて三本欲しいと言える。卵焼きのコツを教えられる。配信時間を「気分で」短くできる。「ありがとう」が自然に出る。


 全部、彼女が「自分」を取り戻している証拠だった。


 俺は今夜、そのことを初めて、ちゃんと理解した。


 だから、守らないといけない。


 ナナミが悪い人じゃなくても、彼女がもしルシアに気づいたら、ルシアはまた「自分」を失う。それは、どうしても、避けたかった。


 明日、ナナミに会いに行く。


 何を話すか、まだ決まっていない。


 でも、行く。


 行って、見極める。


 彼女が、ルシアにどのくらい近づいてきているのか。


 彼女に、ルシアのことを匂わせず、どこまで距離を取れるか。


 たぶん難しい。でも、やる。


 そう決めて、目を閉じた。


 しばらくして、ルシアの寝息が、ようやく聞こえてきた。


 俺もそのまま、眠った。


 眠る直前、頭の中に浮かんだのは、ルシアが今夜笑った顔だった。


 怖い顔のまま、それでも少し笑った時の、あの顔。


 彼女は今夜、自分のことをたくさん話してくれた。


 たぶん、信用してくれているんだろう、と思った。


 俺も、信用に応えたい、と思った。


 応えるためには、明日、ちゃんとナナミに会いに行く。話して、見極めて、彼女を、ルシアから少しでも遠ざける。


 簡単にはいかないことは、わかっていた。


 でも、簡単じゃないからやらない、というのは、もう違う。


 そう思いながら、目を閉じた。やがて、自分の意識も、ルシアの寝息に重なるように、ゆっくりと、遠くなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ