表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/48

第17話「火曜日の午後、彼女のレジに、見覚えのある形があった」


 日曜日、月曜日と、普通に過ぎた。


 土曜日の夕方、ナナミから「誰かと住んでる?」と聞かれた。「気のせいかもしれない」と俺は答えた。


 日曜日の朝、ルシアは普段通りだった。卵焼きを作って、本を読んで、配信をして倒れた。「つかれたわー」と関西弁で言った。


 俺は何も言わなかった。


 ナナミのことを、ルシアに話していなかった。話そうと思って、口を開きかけて、やめる、ということを何度かやった。


 話したら、彼女が不安になる。


 でも、話さないままだと、もし状況が悪化した時、彼女が知らないままで困ることになる。


 どっちが正しいか、わからなかった。


 判断できないまま、月曜日が終わった。


 月曜日の夜、ルシアが寝静まった後、俺はずっと天井を見ていた。


 頭の中で、ナナミのメロディが回っていた。彼女が無意識に口ずさんでいた、あの歌。


 いや、たぶん、ただの偶然だ。世の中に似たメロディはたくさんある。それに、ナナミがLulu=Luciaのファンだったとしても、彼女がここの近くに住んでいるルシアと結びつけるとは限らない。


 彼女は、引退配信を見て泣いただけのファンかもしれない。それなら、ルシアと再会することなんて、本人は想像もしていないはずだ。


 そう信じたかった。


 でも、メロディが、消えなかった。


 たぶん、明日、確かめに行く方がいい。


 月曜日の夜、そう決めて、ソファに座ったまま、配信の終わりを静かに待った。


-----


 火曜日の朝、来ていた。


 木曜日のカフェでの出来事が、今朝届いていた。


 ナナミが口ずさんでいたメロディ。あれがルシアの配信の鼻歌に似ていたこと。確信は持てなかったけど、おそらく同じ歌だと感じた、あの直感。


 それから、土曜日に駅前で会った時の言葉。「カフェからアパートが見える」「女の人の影」。


 全部、今朝届いた。


 今朝の俺は、もう確信していた。


 ナナミは、たぶん、ルシアのファンだった。


 どの程度のファンかはわからない。気軽にXで「ありがとうルシア」とツイートしていたくらいの軽いファンか、それとも、もっと深い、配信を全部見ていたようなコアなファンか。


 確かめないと、判断できなかった。


 布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 今日、行こう。


 カフェに行って、確かめよう。


 できれば、ルシアのことを匂わせず、ナナミがどの程度の人なのかを見極めたい。


 そう決めて、起き上がった。


-----


 朝食を食べた。


 ルシアは普段通りだった。


 「ユウさん」と彼女は言った。


 「はい」


 「今日、来てます?」


 「来てます。木曜日のと、土曜日のと」


 「両方」


 「両方です」


 彼女は少し首を傾けた。


 「白瀬さん、最近、ずっと何か考えてますね」


 「考えてます」


 「言わない感じですか」


 「もう少し、自分で考えたいです」


 彼女はそれ以上聞かなかった。


 「私、今日、配信あるので。終わったら、また話してください。話せそうなら」


 「うん」


 「話せなくても、いいですよ」


 「わかってます」


 彼女は卵焼きを食べた。俺も食べた。


 いつも通りの朝食だった。


-----


 午後、カフェに行った。


 「ちょっとコンビニ」と言って出た。実際は、まずカフェに行くつもりだった。


 ナナミは火曜のシフトだった。窓越しに見えた。今日は客が三人くらいいた。


 俺は入った。


 ナナミは俺を見て、笑った。


 「来てくれた!」


 「コーヒー、頼んでもいいですか」


 「もちろん」


 彼女は嬉しそうにカウンターの方に戻った。


 俺は前と同じ窓際の席に座った。


 コーヒーが運ばれてきた。


 「今日は座る?」


 「ちょっとだけ」


 彼女は向かいに座った。


 「最近どう?」と彼女は聞いた。


 「特に何も」


 「白瀬くん、いつもそうだよね。中学の時から」


 「そうですか」


 「うん。あんまり変わらない」


 彼女は少し笑った。


 俺はコーヒーを飲んだ。本当は紅茶を頼みたかった。でも、紅茶を頼むと「あ、紅茶が好きなんだ」と何か言われそうで、なぜか避けた。


 でも、紅茶のメニューは、確認した。


 アッサム、ダージリン、アールグレイ、それから店のオリジナルブレンドが二つ。普通の紅茶屋のメニューだった。特別な紅茶ではなかった。


 「白瀬くん、何か気になることでもある?」と彼女は聞いた。


 「え?」


 「さっきからずっと、店の中見回してるから」


 俺は少し焦った。


 「いや、初めてちゃんと見たので、店の中を」


 「あ、そうか。ごめんね、見られすぎてて」


 彼女は笑った。


 「居心地のいい店だね」と俺は言った。


 「ありがとう。私もそう思って、ここでバイトしようって決めたんだ」


-----


 しばらく、何でもない話をした。


 大学のこと、最近の天気のこと、コンビニの新しい商品のこと。本当に何でもない話。


 でも、ずっと、彼女の手元と、カウンターを見ていた。


 そして、見えた。


 レジの横、客からは見えにくい位置に、小さなものが立てかけられていた。


 アクリルキーホルダー。


 形が見覚えあった。


 俺は知っていた。ルシアの引退配信の時に、限定で配られた——いや、配られたんじゃなくて、抽選で当たった人だけが手に入れたやつ。引退記念の限定品。倍率がすごく高かった、と当時のSNSで話題になっていた。


 そのキーホルダーが、ナナミのレジ横にあった。


 俺は何も言わなかった。


 でも、見た。


 見たことを、彼女は気づいただろうか。


 たぶん、気づいた。彼女は俺の視線を追って、レジの方を見た。


 そして、少し笑った。


 「あれ、見えちゃった?」


 俺は何も言えなかった。


 「私の宝物なんだ」と彼女は言った。


 「宝物」


 「うん。引退するVTuberのファンだったの。引退ライブで、抽選で当たったやつ。すごく嬉しかった」


 彼女の声に、嘘がなかった。


 本気で、嬉しそうに、語っていた。


 「そうですか」と俺は言った。


 「白瀬くん、VTuberって、興味ない?」


 「あまり知らないです」


 「そっか」と彼女は少し残念そうにした。「私は、結構好きで。特にその人」


 彼女はレジ横を指さした。


 「Lulu=Luciaって人。引退しちゃったんだけど、本当に大ファンだったんだ」


 俺は黙って、コーヒーを飲んだ。


 喉を通る感覚が、いつもより重かった。


 コアなファンだった。


 抽選で限定品を当てるレベルの、コアなファン。


 俺は、最悪の方の可能性が、当たっていたんだと、確信した。


 でも、最悪の方、と思うのは、変だった。


 ナナミは悪い人じゃない。ただのファンだ。むしろ、好きだったVTuberに本気で思いを寄せていた人だった。引退記念のグッズを抽選で当てて、それを大事に飾っている。そういう人だった。


 そういう人が、悪い人のはずがない。


 でも、悪い人じゃないからこそ、怖かった。


 悪意のある人なら、対処できる。話し合うとか、距離を取るとか、いろいろ方法がある。


 でもナナミは、ただ無邪気に、好きだった人のことを話したいだけだった。彼女がもしルシアの正体に気づいたら、たぶん「会いたい!」「お話ししたい!」と心から思うだろう。


 悪意がない好意は、止められない。


 そして、彼女がもしルシアに会ったら、ルシアは——


 たぶん、また倒れる。


-----


 「あの」とナナミは言った。


 「はい」


 「白瀬くん、変な聞き方になるかもしれないけど」


 俺は身構えた。


 「実は、私、この街に来た理由があるんだ」


 心臓が、少し早く打った。


 「理由」


 「白瀬くんに話したいかも、と思って。今日、店に来てくれたから、ちょうどよかった」


 彼女は少し前のめりになった。


 俺は息を一回、止めた気がする。


 「ねえ、ナナミちゃん」と店の奥から声が聞こえた。「ちょっと来てくれる?」


 店長の声だった。


 ナナミは振り返った。


 「あ、はい。今行きます」


 彼女は俺を見た。


 「ごめん、また今度話すね」


 「うん」


 彼女は立ち上がった。テーブルから離れて、奥に行った。


 俺はコーヒーを飲み切らないまま、しばらく座っていた。


 心臓が、まだ早く打っていた。


 「この街に来た理由」


 彼女が、何を言おうとしたのか。


 たぶん、ルシアと関係のあることだった。


 たぶん、ルシアの引退、または引退配信、または、彼女が引退する前に何か言っていたこと、と関係していた。


 俺は伝票を持ってレジに行った。会計をした。レジの女性店員(ナナミとは別の人)がやってくれた。


 レジ横のアクリルキーホルダーを、もう一度見た。


 「Lulu=Lucia」と、刻印されていた。


 俺は何も言わずに、店を出た。


-----


 アパートに戻った。


 ルシアは配信の準備をしていた。


 「ただいま」


 「おかえりなさい」


 彼女は振り向いて、少し笑った。


 俺は何も言わなかった。


 コンビニで何も買っていなかった。手ぶらだった。彼女はそれに気づいて、少し首を傾けた。


 「コンビニ、混んでました」と俺は嘘をついた。


 「そうですか」


 彼女はそれ以上聞かなかった。


 でも、嘘をついた、ということは、たぶんわかっていた。


 俺は何も言わずに、ソファに座った。


 彼女は配信の準備を続けた。


 いつもと同じ手順。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけて、姿勢が変わって、声が変わって。


 「……今日も来てくれてありがとう」


 柔らかい、丸い声。


 俺はそれを聞きながら、レジ横のアクリルキーホルダーを思い出していた。


 「Lulu=Lucia」と刻まれた、小さな形を。


 たぶん三日後の俺は、今日のことを思い出して、もっとはっきり何かを受け取る。


 でも、今夜の俺にも、もう来ていた。


 話さないといけない、と思った。


 ルシアに。


 今夜、配信が終わったら、話そう。


 全部、話そう。


 ナナミが昔の同級生だったこと。カフェでバイトしていること。レジ横のキーホルダーのこと。「この街に来た理由」を言いかけたこと。


 全部、話す。


 話したら、彼女は不安になる。たぶん、傷つく。逃げないといけない、と思うかもしれない。


 でも、隠したままだと、もっと悪いことになる。


 彼女が、知らないうちに、ナナミと出会ってしまうかもしれない。コンビニで、駅前で、街のどこかで。フードを被っていても、声を聞かれたら気づかれる可能性はあった。それが、何の準備もない瞬間に起きるのが、一番怖かった。


 だから、話す。


 そう決めて、ソファに座ったまま、配信の終わりを静かに待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ