第17話「火曜日の午後、彼女のレジに、見覚えのある形があった」
日曜日、月曜日と、普通に過ぎた。
土曜日の夕方、ナナミから「誰かと住んでる?」と聞かれた。「気のせいかもしれない」と俺は答えた。
日曜日の朝、ルシアは普段通りだった。卵焼きを作って、本を読んで、配信をして倒れた。「つかれたわー」と関西弁で言った。
俺は何も言わなかった。
ナナミのことを、ルシアに話していなかった。話そうと思って、口を開きかけて、やめる、ということを何度かやった。
話したら、彼女が不安になる。
でも、話さないままだと、もし状況が悪化した時、彼女が知らないままで困ることになる。
どっちが正しいか、わからなかった。
判断できないまま、月曜日が終わった。
月曜日の夜、ルシアが寝静まった後、俺はずっと天井を見ていた。
頭の中で、ナナミのメロディが回っていた。彼女が無意識に口ずさんでいた、あの歌。
いや、たぶん、ただの偶然だ。世の中に似たメロディはたくさんある。それに、ナナミがLulu=Luciaのファンだったとしても、彼女がここの近くに住んでいるルシアと結びつけるとは限らない。
彼女は、引退配信を見て泣いただけのファンかもしれない。それなら、ルシアと再会することなんて、本人は想像もしていないはずだ。
そう信じたかった。
でも、メロディが、消えなかった。
たぶん、明日、確かめに行く方がいい。
月曜日の夜、そう決めて、ソファに座ったまま、配信の終わりを静かに待った。
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火曜日の朝、来ていた。
木曜日のカフェでの出来事が、今朝届いていた。
ナナミが口ずさんでいたメロディ。あれがルシアの配信の鼻歌に似ていたこと。確信は持てなかったけど、おそらく同じ歌だと感じた、あの直感。
それから、土曜日に駅前で会った時の言葉。「カフェからアパートが見える」「女の人の影」。
全部、今朝届いた。
今朝の俺は、もう確信していた。
ナナミは、たぶん、ルシアのファンだった。
どの程度のファンかはわからない。気軽にXで「ありがとうルシア」とツイートしていたくらいの軽いファンか、それとも、もっと深い、配信を全部見ていたようなコアなファンか。
確かめないと、判断できなかった。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。
今日、行こう。
カフェに行って、確かめよう。
できれば、ルシアのことを匂わせず、ナナミがどの程度の人なのかを見極めたい。
そう決めて、起き上がった。
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朝食を食べた。
ルシアは普段通りだった。
「ユウさん」と彼女は言った。
「はい」
「今日、来てます?」
「来てます。木曜日のと、土曜日のと」
「両方」
「両方です」
彼女は少し首を傾けた。
「白瀬さん、最近、ずっと何か考えてますね」
「考えてます」
「言わない感じですか」
「もう少し、自分で考えたいです」
彼女はそれ以上聞かなかった。
「私、今日、配信あるので。終わったら、また話してください。話せそうなら」
「うん」
「話せなくても、いいですよ」
「わかってます」
彼女は卵焼きを食べた。俺も食べた。
いつも通りの朝食だった。
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午後、カフェに行った。
「ちょっとコンビニ」と言って出た。実際は、まずカフェに行くつもりだった。
ナナミは火曜のシフトだった。窓越しに見えた。今日は客が三人くらいいた。
俺は入った。
ナナミは俺を見て、笑った。
「来てくれた!」
「コーヒー、頼んでもいいですか」
「もちろん」
彼女は嬉しそうにカウンターの方に戻った。
俺は前と同じ窓際の席に座った。
コーヒーが運ばれてきた。
「今日は座る?」
「ちょっとだけ」
彼女は向かいに座った。
「最近どう?」と彼女は聞いた。
「特に何も」
「白瀬くん、いつもそうだよね。中学の時から」
「そうですか」
「うん。あんまり変わらない」
彼女は少し笑った。
俺はコーヒーを飲んだ。本当は紅茶を頼みたかった。でも、紅茶を頼むと「あ、紅茶が好きなんだ」と何か言われそうで、なぜか避けた。
でも、紅茶のメニューは、確認した。
アッサム、ダージリン、アールグレイ、それから店のオリジナルブレンドが二つ。普通の紅茶屋のメニューだった。特別な紅茶ではなかった。
「白瀬くん、何か気になることでもある?」と彼女は聞いた。
「え?」
「さっきからずっと、店の中見回してるから」
俺は少し焦った。
「いや、初めてちゃんと見たので、店の中を」
「あ、そうか。ごめんね、見られすぎてて」
彼女は笑った。
「居心地のいい店だね」と俺は言った。
「ありがとう。私もそう思って、ここでバイトしようって決めたんだ」
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しばらく、何でもない話をした。
大学のこと、最近の天気のこと、コンビニの新しい商品のこと。本当に何でもない話。
でも、ずっと、彼女の手元と、カウンターを見ていた。
そして、見えた。
レジの横、客からは見えにくい位置に、小さなものが立てかけられていた。
アクリルキーホルダー。
形が見覚えあった。
俺は知っていた。ルシアの引退配信の時に、限定で配られた——いや、配られたんじゃなくて、抽選で当たった人だけが手に入れたやつ。引退記念の限定品。倍率がすごく高かった、と当時のSNSで話題になっていた。
そのキーホルダーが、ナナミのレジ横にあった。
俺は何も言わなかった。
でも、見た。
見たことを、彼女は気づいただろうか。
たぶん、気づいた。彼女は俺の視線を追って、レジの方を見た。
そして、少し笑った。
「あれ、見えちゃった?」
俺は何も言えなかった。
「私の宝物なんだ」と彼女は言った。
「宝物」
「うん。引退するVTuberのファンだったの。引退ライブで、抽選で当たったやつ。すごく嬉しかった」
彼女の声に、嘘がなかった。
本気で、嬉しそうに、語っていた。
「そうですか」と俺は言った。
「白瀬くん、VTuberって、興味ない?」
「あまり知らないです」
「そっか」と彼女は少し残念そうにした。「私は、結構好きで。特にその人」
彼女はレジ横を指さした。
「Lulu=Luciaって人。引退しちゃったんだけど、本当に大ファンだったんだ」
俺は黙って、コーヒーを飲んだ。
喉を通る感覚が、いつもより重かった。
コアなファンだった。
抽選で限定品を当てるレベルの、コアなファン。
俺は、最悪の方の可能性が、当たっていたんだと、確信した。
でも、最悪の方、と思うのは、変だった。
ナナミは悪い人じゃない。ただのファンだ。むしろ、好きだったVTuberに本気で思いを寄せていた人だった。引退記念のグッズを抽選で当てて、それを大事に飾っている。そういう人だった。
そういう人が、悪い人のはずがない。
でも、悪い人じゃないからこそ、怖かった。
悪意のある人なら、対処できる。話し合うとか、距離を取るとか、いろいろ方法がある。
でもナナミは、ただ無邪気に、好きだった人のことを話したいだけだった。彼女がもしルシアの正体に気づいたら、たぶん「会いたい!」「お話ししたい!」と心から思うだろう。
悪意がない好意は、止められない。
そして、彼女がもしルシアに会ったら、ルシアは——
たぶん、また倒れる。
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「あの」とナナミは言った。
「はい」
「白瀬くん、変な聞き方になるかもしれないけど」
俺は身構えた。
「実は、私、この街に来た理由があるんだ」
心臓が、少し早く打った。
「理由」
「白瀬くんに話したいかも、と思って。今日、店に来てくれたから、ちょうどよかった」
彼女は少し前のめりになった。
俺は息を一回、止めた気がする。
「ねえ、ナナミちゃん」と店の奥から声が聞こえた。「ちょっと来てくれる?」
店長の声だった。
ナナミは振り返った。
「あ、はい。今行きます」
彼女は俺を見た。
「ごめん、また今度話すね」
「うん」
彼女は立ち上がった。テーブルから離れて、奥に行った。
俺はコーヒーを飲み切らないまま、しばらく座っていた。
心臓が、まだ早く打っていた。
「この街に来た理由」
彼女が、何を言おうとしたのか。
たぶん、ルシアと関係のあることだった。
たぶん、ルシアの引退、または引退配信、または、彼女が引退する前に何か言っていたこと、と関係していた。
俺は伝票を持ってレジに行った。会計をした。レジの女性店員(ナナミとは別の人)がやってくれた。
レジ横のアクリルキーホルダーを、もう一度見た。
「Lulu=Lucia」と、刻印されていた。
俺は何も言わずに、店を出た。
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アパートに戻った。
ルシアは配信の準備をしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
彼女は振り向いて、少し笑った。
俺は何も言わなかった。
コンビニで何も買っていなかった。手ぶらだった。彼女はそれに気づいて、少し首を傾けた。
「コンビニ、混んでました」と俺は嘘をついた。
「そうですか」
彼女はそれ以上聞かなかった。
でも、嘘をついた、ということは、たぶんわかっていた。
俺は何も言わずに、ソファに座った。
彼女は配信の準備を続けた。
いつもと同じ手順。スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけて、姿勢が変わって、声が変わって。
「……今日も来てくれてありがとう」
柔らかい、丸い声。
俺はそれを聞きながら、レジ横のアクリルキーホルダーを思い出していた。
「Lulu=Lucia」と刻まれた、小さな形を。
たぶん三日後の俺は、今日のことを思い出して、もっとはっきり何かを受け取る。
でも、今夜の俺にも、もう来ていた。
話さないといけない、と思った。
ルシアに。
今夜、配信が終わったら、話そう。
全部、話そう。
ナナミが昔の同級生だったこと。カフェでバイトしていること。レジ横のキーホルダーのこと。「この街に来た理由」を言いかけたこと。
全部、話す。
話したら、彼女は不安になる。たぶん、傷つく。逃げないといけない、と思うかもしれない。
でも、隠したままだと、もっと悪いことになる。
彼女が、知らないうちに、ナナミと出会ってしまうかもしれない。コンビニで、駅前で、街のどこかで。フードを被っていても、声を聞かれたら気づかれる可能性はあった。それが、何の準備もない瞬間に起きるのが、一番怖かった。
だから、話す。
そう決めて、ソファに座ったまま、配信の終わりを静かに待った。




