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第21話「木曜日の朝、彼女は『観察しないで』と言った」



 木曜日の朝、目が覚めた。


 窓の外は晴れていた。


 昨夜、ルシアは「私が決めます」と言った。「白瀬さんは、何もしないでください」と言った。


 俺は「うん」と答えた。


 だから今朝、俺にできることは、何もなかった。


 寝る前にずっと考えていた。「何もしない」を、明日どう実現するのか。


 何時に起きるか。卵焼きを食べるか。配信を見るか。本を読むか。彼女がそばにいる時、どう振る舞うか。


 全部、決まっていなかった。


 いつも通りに過ごせばいい、と頭ではわかっていた。でも、いつも通りが、たぶん一番難しい。


 何もしない、というのは、何をしないことなのか。


 卵焼きは食べていい。麦茶も淹れていい。本も読んでいい。コンビニにも行っていい。普通に日常を送ることは、たぶんできる。


 でも、彼女のことを、観察したり、考えを推測したり、「何を決めるんだろう」と気にしすぎたりすることは、たぶん「何もしない」に含まれていなかった。


 難しい。


 でも、約束したから、やる。


 布団から起き上がった。


-----


 台所に行ったら、ルシアがいた。


 卵焼きを作っていた。いつも通りだった。


 「おはようございます」と俺は言った。


 「おはようございます」と彼女は言った。


 振り向いた。少し首を傾けた。


 「いつもと違う顔してます」


 「そうですか」


 「私を見ないようにしてる顔」


 俺は少し驚いた。


 「気づきましたか」


 「すぐ気づきました」と彼女は言った。「私、人の顔を見るの、得意なので」


 「すみません」


 「謝らなくていいです」


 でも、彼女は少しの間、何も言わなかった。卵焼きを巻きながら、考えるような顔をしていた。


 「ユウさん」と彼女は言った。


 「はい」


 「観察、しないでください」


 俺はまた少し驚いた。


 「観察」


 「気にしてくれてるのはわかります。でも、観察されると、私、考えにくくなります」


 「うん」


 「気にしないでくれ、とは言わないです。それは無理だと思うので。でも、視線で見ないでください。普通にいてください」


 「普通に」


 「私が何を考えてるか、わからなくていいです。むしろ、わかろうとしないでください」


 俺は少しの間、彼女の顔を見た。


 真剣な顔だった。怒っているわけじゃない。でも、譲らない顔。


 「わかりました」と俺は言った。


 「ありがとうございます」


 いつもの「ありがとう」だった。


-----


 朝食を食べた。


 俺は彼女を見なかった。窓の外を見たり、卵焼きを見たり、自分の手元を見たりした。


 難しかった。


 何年も誰とも一緒に住んでいなかった俺が、急にルームメイトと暮らし始めて、しかも今日は、その人を「見ないように」する日だった。


 どこを見ていいのか、わからなかった。


 「ユウさん」


 「はい」


 「目を合わせるくらいは、いいですよ」


 「あ」


 「あんまり気にしすぎないでください」


 「すみません」


 「私が言いすぎたかも」


 彼女は少し笑った。


 俺も少し笑った。


 難しい。何が「観察」で、何が「普通」なのか、境目がよくわからなかった。


 でも、たぶん、彼女もはっきりとは決めていなかった。


 お互い、手探りで、新しい距離を試していた。


-----


 午前中、ルシアは部屋の隅で本を読んでいた。


 俺は反対側のソファで、別の本を読んでいた。


 距離があった。いつもより少しだけ、離れていた。


 でも、それでよかった。彼女が「考えやすい距離」を、自分で作っていた。俺はそれを尊重した。


 お互い、何も話さなかった。


 時々、ルシアがページをめくる音が聞こえた。俺もページをめくった。それだけだった。


 昼前、彼女が立ち上がった。


 「お昼、何にしますか」と彼女は言った。


 「なんでも」


 「禁止」


 俺は少し笑った。最初の頃、俺が彼女に言った言葉だった。「なんでもいい、は禁止」って。立場が、入れ替わっていた。


 「じゃあ、うどんで」と俺は言った。


 「うどんでいいですか」


 「いいです」


 「具は」


 「ねぎと、卵」


 「わかりました」


 彼女はうなずいた。


 昼食はうどんだった。シンプルだった。でも、彼女が作ってくれたうどんは、温かかった。


 食べながら、俺は窓の外を見ていた。


 観察しない、という約束を、必死に守っていた。


-----


 午後、ルシアは少しだけ出かけた。


 「コンビニに行ってきます」と彼女は言った。


 「一緒に行きますか」


 「一人で行きます」


 「うん」


 彼女がフードを被って、出て行った。


 俺は部屋に残された。


 十五分くらいで戻ってきた。コンビニの袋には、プリンが二個と、何かのパンが入っていた。彼女が何を考えてそれを買ったのか、俺にはわからなかった。


 「ただいま」


 「おかえりなさい」


 彼女は冷蔵庫にプリンをしまった。それから、ソファに座って、また本を読み始めた。


 俺も本を読み続けた。


-----


 夕方、ルシアが配信の準備を始めた。


 いつもより少し早かった。普段は六時くらいから始めるが、今日は四時から始めた。


 「短めにします」と彼女は言った。「夜、考えたいので」


 「うん」


 スマートフォンを立てかけて、イヤホンをつけた。姿勢が変わった。声が変わった。


 「……今日も来てくれてありがとう」


 いつもの配信だった。


 でも今日は、いつもより少し違うような気がした。声が、少し落ち着いていた。慣れた配信のテンションじゃなくて、もう少し、自分の声に近い感じがした。


 ——観察しないと約束した。


 俺は本に視線を戻した。


 でも、声は耳に入ってきた。


 「今日はみんなに、ちょっとした相談、というか、お願いがあって」と配信のルシアが言った。


 俺は少し顔を上げた。


 「最近、私の本名を、知ろうとしてくれる人が、何人かいて」


 俺は本を閉じた。


 彼女が、リスナーに向かって、その話をしていた。


 「気持ちは嬉しいです。本当に、ありがとうございます。でも、私、本名で呼ばれると、たぶん、配信ができなくなります」


 彼女は少し間を置いた。配信の声で、でも、いつもよりほんの少しだけ、関西弁が混じりかけていた。「ごめんね、ちょっと真面目な話で」と一回笑って、続けた。


 「私、感情を受信しすぎる体質で、引退の時に倒れたんです。今は、少しずつ、配信を再開してます。でも、本名で呼ばれると、感情のスイッチみたいなのが、また入っちゃう気がして」


 「だから、お願いです。本名を探さないでください。私を、ルシアとして、呼んでください」


 コメントが流れているのが、画面の向こうで見えていた。読みやすい速度の流れだった。何百人かのリスナーが、彼女の話を聞いていた。


 「ありがとうございます」と彼女は最後に言った。「これからも、ルシアとして、ここにいさせてください」


 俺は何も言わなかった。


 これが、彼女の「自分で動く」の、最初の一歩だった。


-----


 配信は二十分くらいで終わった。


 いつもより短かった。終わって、彼女はイヤホンを外して、横に倒れた。


 「ほんま、つかれたわー」と関西弁で言った。いつもより、少し疲れた声だった。


 俺は緑茶を渡した。


 「言ってましたね」と俺は言った。


 「言いました」


 「リスナーの人たちに」


 「うん」


 「効くと思いますか」


 彼女は少し考えた。


 「全員には届かないと思います。でも、優しい人には、届くと思います」


 「優しい人」


 「私のことを本当に好きでいてくれてる人は、私の願いを聞いてくれる人だと、信じます」


 彼女の声は、落ち着いていた。


 俺は少し感動した。彼女が「リスナーを信じる」と言えるようになっていた。


 昔の彼女なら、たぶん、「読まれてるかわからない」と言っていた。でも今日は「信じる」と言った。


 彼女は確かに、自分を取り戻していた。


-----


 夜、ルシアが言った。


 「ユウさん」


 「はい」


 「明日、私、出かけます」


 俺は少しの間、何も言わなかった。


 「どこに、とは聞かないでください」と彼女は続けた。


 「うん」


 「夕方には戻ります」


 「うん」


 「もし戻れなかったら」


 俺は少しだけ、息を止めた。


 「連絡します」と彼女は言った。


 「うん」


 「ユウさんは、何もしないで、待っててください」


 「うん」と俺はもう一度、言った。


 「うん」しか、言えなかった。


 彼女は俺をじっと見ていた。


 「ありがとうございます」


 また自然な「ありがとう」だった。


 でも、今日の「ありがとう」には、少しだけ、いつもと違う重さが入っていた気がした。


 何かを決めた人の「ありがとう」だった。


 「ユウさん」


 「はい」


 「あと、もうひとつだけ」


 「うん」


 「もし、明日、何があっても、ユウさんが私のことを嫌いにならないって、信じていいですか」


 俺は少しだけ、息を吸った。


 「嫌いになりません」


 「絶対」


 「絶対」


 「うん」


 彼女はうなずいた。それ以上、聞かなかった。


 「明日、何があるんですか」と俺は聞きたかった。聞いてしまいそうだった。


 でも、聞かなかった。


 彼女が「聞かないでください」と言った。だから、聞かない。


 難しかった。でも、聞かない方が、たぶん、彼女には嬉しかった。


-----


 電気を消した。


 彼女の寝息が、しばらくして聞こえてきた。


 俺は天井を見ていた。


 明日、彼女は出かける。どこに行くか、教えてもらえない。


 俺は何もしないで、待つ。


 「待つ」が、こんなに難しいことだとは思っていなかった。


 「観察しないで」と言われた時も、難しかった。「どこに行くか聞かないで」と言われた時も、難しかった。


 でも、難しいから、価値があった。


 難しいことを彼女に約束させてもらえる関係、というのが、たぶん、待つ、ということだった。


 明日が来るのを、ただ、待つ。


 何も聞かない。何もしない。


 でも、信じる。


 彼女が「夕方には戻る」と言った。だから、戻ってくる。


 彼女が「もし戻れなかったら連絡する」と言った。だから、連絡が来る。


 そして、彼女が何か決めたなら、それを彼女から聞かせてもらう。


 俺はそれを、待つ。


 待つ、というのは、信じる、ということに、たぶん近かった。


 今までは「来た感情を受け取る」が待つの意味だった。


 今は違う。


 「相手の選択を信じて、その結果が届くのを待つ」のが、今夜の待つだった。


 新しい待ち方だった。


 難しかったけど、悪くなかった。


 とりあえず、寝ることにした。


 眠るまでに、少し時間がかかった。でも、いつもより、不思議と落ち着いていた。

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