その8 ムスリムとの付き合い方、その叩き台にまつわる詭弁……の、前言
埼玉県の川越市で、無許可のモスクが建てられたという騒動が起きています。
ムスリムの人において、モスクに集まって祈りをささげることは大事なのだから……という、パックン氏による「一見すると」ピントの外れた擁護が漏れ聞こえてきたのですけれども。
「ああ、アメリカの人だなあ」と。
そういう断絶を感ずることが近ごろ多い気がしています。
年を取ったせいか、情報を手に入れやすくなったせいか、そのあたりはわかりませんが。
ともあれキリスト教文化圏に生まれ・育った人ならではの発想ですわね。
これ、日本でなぜキリスト教が広まらないのか、あるいはそもそも日本人はなぜ無宗教者が多い(と言われる)のか……という疑問と、軌を一にしているように思えてなりません。
戻りまして。あの衝突が示しているところとして、そもそもにおいて日本人と宗教は相性が悪いのか? と、そのあたりに関わる問題を、イスラム教との関係を通じて、私なりの「印象論」(根拠なき感懐)のかたちで語ってみたいと思いたったわけです。
で。
まずそもそも「イスラム教って何なの」というあたりが私において疑問でした。
私もね、これで一応インテリ界隈の端くれにう〇こ座りしてるぐらいの自意識だったりするもので。
聖書やキリスト教、そちら方面は粗雑なりに読んだことぐらいはあったような記憶も存在しているつもりです。
しかしイスラム教は分からない。
とりあえず、アブラハムの宗教ではありますよね。ユダヤ教やキリスト教と同じように旧約聖書は尊重している……はず。
同じ文脈において、モーセ、キリストも預言者(≒神様からのメッセンジャー・宗教指導者)として認めている(なお、モーセは認めるがキリストを預言者とは認めないユダヤ教とはここは異なる、はず)。
そのうえで、最後に現れた預言者、絶対的な預言者、一番偉い預言者としてムハンマドが現れた、と考えていく宗教なのだそうです。
だからこそ、彼の言葉(彼が受けた啓示)をまとめたコーランを聖典として尊重するというわけです。
しかしそれだけではない、いえ失礼しました。「それだけでは済まない」が、より正確な日本語だろうと思います。
日本語において、「そのようにとらえるだけでは済まない」がゆえに生まれる相互不理解が、今回の騒動の一因になっているんじゃないかなと。そんな感想を抱いたわけです。
ここまでは一般論、何も言っていないに等しいです。
本題はここから。
日本人(主語大)が宗教(より広く「外来文化」)に対するにおいて、やや意識が薄くなりがちな要素というものが存在している。
根本的な原因(あるいは少なくとも一因)はそこにあるのではないかと、個人的に考えています。
すでに誰かがどこかで文章化していることだろうとも思いますが、語義通り寡聞にして存じませぬもので、自分なりの発見として書こうと思った次第です。
書くつもりではいるのですが、ここに記すのはやめにします。
というのも、異世界王朝物語の第1236部分に記したところですが……。
もう少しはっきり申し上げますか。
「なろう」はいらすとやではないのです。
それでもパクる(踏まえる)ならせめて、こちらの脳を揺さぶるような発見を名言を、それもかなわぬならなおのことせめて「考えさせられるな」「ちょっと調べてみたくなるな」「こいつうめえこと言いやがる」と頬の筋肉動かされるぐらいのものを、こちらに返していただきたいのですよ。
なぜ小説を論説をいえ、駄文を積み上げるかと言って、私が報酬と求めているのはその経験です。
片言隻句に魂が震える。俺には書けない、いや書いてやると歯噛みする。
その経験を得たいから、私の側でも他人の頬の筋肉ぐらい動かしてみたいから。
他者の経験、その土台・叩き台ぐらいにはなると信じているから。
だから「なろう」に投稿しているのです。
土台として踏むならば、より高いところを見せてもらわないことには、ねえ?
だというのに。
なんです、「皇位継承論をめぐる詭弁」を受けての、その逃げのコメントは。いかにも〇日な手前勝手の断章取義は。
雁首揃えてそれしか返せないものですかね。
そんなことするぐらいなら「飲み込んで、表情消して、無かった体を装って」おけば良いものを。取り上げる必要などない、そういう判断下しているから知らぬ顔でパク……踏まえることができるんでしょうに。平仄ぐらいは整えて?
甲斐が無い。
いつごろ誰が言い出したものかは存じません。
それでも事象ごとにピタリとはまる表現というもの、確かに存在するのですね。
ことばの力、やはり捨てたものではありません。
……もうずいぶんと前になりますけれども。
「トンカツ定食」に、まさか目を通していただけたとは思いませんでした。
ダメ学生だった私には「再びラリーを打ち返す」こと、できそうにありません。
だったら何で書いたんだと言われてしまえば一言もないのですが。
(また別の方の)辺野古へのコメント、考えさせられるものがありました。
ああなるほど、「何かしらの立場に身を置く」あるいは「自ら何かを立てる」ということには、それに相応する困難いえ覚悟が要求されるのだなと。
そこに思いを致させる言葉というもの、確かに存在するのだなと。
わたしはそのあたり、いろいろ無遠慮だったかもしれません。
……遠慮するつもりはたぶん今後もないですが。
孟子もそう言ってるからね、仕方ないね。
(6月19日、追記)
①付き合い方と銘打ちましたが、共生の強制あるいは融和の強制というスタンスではありません。
②私の基本的スタンスは、今のところ古典的リベラルに近いのだと思います……が、近年のリベラリズムにはあまり賛成できません。
wokeismについても、5月末から6月上旬にかけて批判のエッセイをものしてあります。
二時間ほどで書き上げた。
いえ、6月18日の夜に書き始めた。
そういう文章になっております。




