36.南川虎之介 6
食べ終わった食器を片付けて、洗う。この家での僕の仕事の一つ。他にはリビングや廊下の掃除、お風呂の掃除なんかも僕の仕事だ。
悠木は朝昼晩のご飯の支度や洗濯、トイレ掃除を担当していて、家事は分担してやっている。
食器を洗いながらもソファーに座る悠木が気になってそちらを何度も見てしまう。
僕にとって、今日という日はとても大事な日になっている。今までのような恋人のふりや、こちらの一方的な恋人としての想いだけじゃなくて、やっと、本当の意味で恋人同士になった日だ。
僕にとって北条おじさんは、小さいころからずっと特別な人だった。父親になって欲しいとさえ思っていた。だけど残念なことにそれは叶わず、母は知らない男の人と再婚をしてしまった。そもそも北条おじさん自体が僕の母に対して好意はなかったようなので、それ以前の話ではあったのだけれども。
それくらい、僕はおじさんが大好きだ。だけどこの大好きという感情は、男女のそれではなく、友達と父性をかけ合わせたような好意の現れだ。
そしてその感情そのものは悠木が女の子になった今でも変わらない。姿形は変わってしまっても、おじさんは悠木の中にいると感じることができるからだ。
それに加えて、今の女の子になった悠木は、それとは違う意味で大好きだ。ちゃんと女の子として意識し、愛していると言っても過言ではない。
綺麗で長く細い黒髪に色白で端正な顔立ちは僕の心を鷲掴みにし、足が長くて胸も大きくスタイルも良く、見た目も仕草も欠点が見当たらない。それに小鳥がさえずるような声はずっと聞いていたいと思わせる。その考え方や人となりも、全てが好ましく、全てが欲しいと思うくらいには好きだ。
大好きなおじさんと、大好きな悠木。そんなの、好きになるなというほうが無理だ。
以前なら、恋人同士になった、それだけで満足していたかもしれない。
だけど今の僕は、それだけじゃ足りなくなっていた。思いが通じ合い、悠木を抱きしめてもまだ満たされていない。
もっと悠木が欲しくて堪らない。もっと先へと進みたくなっている。
だけど、一つ懸念があった。
僕のことを好きだと言ってくれた悠木は、本当に、ちゃんと女として、男の僕を好きになってくれているのだろうか。
手を繋ぐ、ハグをする、これからは、それ以上のところへ進めてもいいのだろうか。
求めてきてもいいと言っていたけど、それは、どこまで本気で言ったんだろうか。
食器を洗い終わった僕は、悠木の言葉を思い返し、不安と緊張と、わずかな期待を胸にソファーへと向かった。
◇◆◇
ソファーに腰掛ける、いつものように悠木の隣にだ。
さりげなく悠木の手を握ると、わずかにだけど、体全体でぴくんと反応したような気がした。
悠木の表情を伺おうと顔を見ると、視線はテレビへまっすぐ。こちらをあえて見ないようにしているのが丸わかりだ。
――もしかして、悠木も緊張しているのだろうか。
もしかしたら、悠木も僕と同じように先へ進みたいと思ってくれているのかもしれない。
だからあんなことを言って、僕を促した。
そしていざとなった今、悠木もまた緊張している――そんな可能性だってある。
――であれば、僕はここで、勇気を振り絞らなければ。
「ねえ、悠木――」
喉の奥から絞り出すように声を出す。
「な、なんだ」
声をかけても悠木はこちらを見ない。いや、普段の悠木ならこちらを見ているはずだ。やっぱり、あえて視線を逸らしているようにしか見えない。
僕はテレビのリモコンを手に取り、スイッチを押してテレビを消した。
「あっ」
悠木は小さな声をあげた。しかしそれでもなお、悠木は視線を何も映っていないテレビから動かさない。
「ねえ悠木、お願いがあるんだけど」
「んー?」
気のない返事。だけど視線は変わらず――。
僕はありったけの勇気を振り絞り、声を出した。
「悠木とキス――したい」
それを聞いた悠木は、握られた手にぎゅっと力がこもり、固まった。そして数瞬の後、深呼吸して、やっとこちらを向いた。
先程までとは違う、緊張をまるで感じない、吹っ切れたかのような表情だった。
「――いいよ。しようか」
想像していたよりもあっさりと、キスの許可が降りた。
◇◆◇
悠木の顔を正面に捉え、近づけていく。
途中で悠木は目を瞑り、顎を少しだけ上げた。
僕はというと、人生初めてのキス、口づけにすることに心臓の鼓動が鳴り止まず、緊張で頭が真っ白になっていた。
落ち着け、キスとはつまり、唇同士を重ねるだけのことだ。難しいものじゃない、はずだ。
悠木は目を瞑って僕を待っている、その可憐な唇に僕の唇をくっつけるだけ、簡単なことじゃないか。
頭ではそう思っていても、初めてのことだ、勝手がまるで分からない。近づけていくうちに唇より先に鼻同士が当たりそうになり、慌てて顔を斜めにしたり、唇を少し突き出したりして、悠木が目を開けていたら、余りの不格好っぷりに笑われていたかもしれない。
――そして、ようやく唇同士が触れ合った。
初めてのキス、悠木との口づけ。
そう思うだけで、今まで人生で一番じゃないかと思えるほどだ。
だけどそれも少しの時間だけ、すぐに問題に気づいた。
キスしている間、呼吸はどうすればいいんだ、とか、唇は動かさないほうがいいのか、とかだ。
口は閉じているから口で呼吸はできない。だけど鼻から息をするのはなんだか不格好で、せっかくのロマンチックなキスが台無しになる気がした。となれば、我慢するのが正解なのか。
唇にしてもそうだ、唇の位置が合ってるのか、正解が分からず動けなかった。
そんなことを考えていると悠木が先に唇を離した。
「トラ、キスは初めてか?」
「う、うん――」
悠木の、まるで経験者のような口ぶりに、少しだけショックを受けた。
「まあ俺も女になってからは初めてだけどな。キスの仕方、俺が手ほどきしてやるよ」
すっかり忘れていたけど、男の時の経験の話だった、それは今の悠木はノーカンだ。
心の底からホッとした。
「お、お願いします」
「よし。まずは呼吸だけど、基本的に鼻ですればいい。我慢する必要ないからな」
「そうなんだ……。てっきり我慢するのかと思ってた」
「そもそもただのキスそのものを長くやることってあんまりないからな。――後は、唇を強めに押し当てたり、鳥がついばむように口づけしたり、とかの方法もあるけど……まあ最初は唇を押し当てる程度だろうな」
悠木は言い終わると、また目をつむって顎を少しあげ僕を待った。
今のレクチャーを思い出し、頭の中にイメージして、そっと、悠木の唇に自分の唇を重ねた。
そうやって夢中になってしばらくしていると、不意に、僕の唇を悠木が舐めた。
驚きのあまり、思わず身体を離すと悠木は上気した顔で、興奮している様子だった。
「まどろっこしいな」
一言だけ言い放ったあと、僕に抱きつき唇を奪われた。
そこから先は、さっきまでの拙い口づけとはまるで違った。
悠木が導くように唇を重ね、僕は必死にそれを追いかける。そんな甘美な時間が熱を持ち、興奮が最高潮に向かっていた。
僕が悠木を求め、悠木が僕を求めた。この口づけは、このまま時間が止まればいいと、本気で思った。
――そんなふうに願った次の瞬間だった。
ジリリリリン!! ジリリリリン!! ジリリリリン!! ジリリリリン!!
けたたましい電話の音が鳴った。鳴り続けた。
最初は無視していた僕らも、それでも鳴り続ける電話に根負けした。
「――僕が出るよ」
惜しむように唇を離し、身体を離して、廊下にある電話へと向かった。
しつこく鳴り続ける電話に、負けを認めるように受話器を上げた。
「はい、もしも――」
「虎之介っ!? どうしたの!! 遅いから心配したじゃないっ!!」
――母さんだ。
面倒くさいことが起きそうな、そんな予感がした。




