表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/78

9. 新学期 ~イヤホンを片耳だけ外してみた2~

「連絡先、交換しない?」


 言ったあとで、ほんの少しだけ目線が揺れる。


 その一言で、思考が止まる。


(……連絡先?)


 一瞬、意味の処理が遅れる。


(きっと、LINEとかの話だよな)


 分かってはいるのに、現実感が薄い。


(女子と連絡先交換とか……したことないんだけど)


 心臓が、少しだけ強く鳴る。

 表には出さないようにする。


(断る理由は……ない)


 むしろ。


(学校一の美少女の連絡先がほしい)


「……おう」


 そう言いながら、ポケットに手を入れる。

 スマホを取り出す手が、ほんの少しだけぎこちない。


(……落ち着け)


 画面をつける。


(初めて連絡先もらう女の子が如月さんか…)


 指が一瞬だけ止まる。


(どうやって交換するんだっけ)


 リサがそれに気づいたのか、


「あ、えっと……QRでいい?」


 少しだけ前のめりになって、マサキのスマホを覗き込む。

 距離が、急に近くなる。


(……近い)


 さっきまで普通にしていたはずの空気が、一気に崩れる。

 石鹸みたいな、柔らかい匂いがふっと混ざる。

 それが余計に意識を奪う。


(これ、普通にやばい距離だ)


「ここ」


 リサは画面を指さしてくれる。


「……あぁ」


 そのときだった。


『むにゅっ』


 スマホを持っていない方の手に、上から柔らかい感触が沈み込んだ。


(……え)


 視線が落ちる。


 リサが身を乗り出したせいで、制服の胸元がそのままマサキの手の甲へ押し潰されていた。

 白いシャツ越しでも分かるくらい柔らかい。

 押し当てられた形のまま、ゆっくり広がっている。

 手の甲に沿って、むに……っと沈む感触。


 柔らかいだけじゃない。

 重い。

 ふわふわしてるのに、ちゃんと重さがある。


(これは……!!)


 マサキの思考が止まる。

 触れたくて、でも触れてはいけない存在。

 その感触が、逃げ場なく手に乗っている。


(や、柔らか……)


 しかもリサは気づいていない。

 QR画面を見せようとして、さらに前へ寄ってくる。


「ここ、読み取って」


 その動きに合わせて、胸がさらに押し潰された。


『むにゅうっ』


 柔らかさが横へ逃げる。

 手の甲を包み込むみたいに形が変わって、制服越しの熱まで伝わってきた。


(待て待て待て待て)


 頭の中が一気にうるさくなる。

 離したい。

 でも動いたらもっと触れる。

 しかもリサは普通に喋っている。


「松前くん、カメラぶれてるよ」


 そう言いながら、さらに体重をかけた。


『にゅううっ』


 押し潰された柔らかさが、今度は指の隙間にまで沈み込む。

 ふにっ、と形を変えながら、じわっと広がる感触。


(ーーーーっ!!!)


 マサキの喉が詰まる。

 柔らかい。

 意味が分からないくらい柔らかい。

 しかも近い。

 石鹸みたいな匂いまで混ざってきて、余計に頭がおかしくなる。


 リサはまだ気づいていない。

 読み取り画面に集中したまま、スマホを寄せる。

 そのたび胸が押し当たり、形が変わる。

 むに、ふに、っと。

 手の上で柔らかさだけが増えていく。


(これ絶対ダメだろ……)


 なのに身体が硬直して動かない。

 ピントが合うまでの数秒が、異常に長かった。


 ようやく読み取り音が鳴る。

 ぴろん。


 その瞬間。

 マサキはようやく息を吐いた。


(……助かった)


 ほんの少しだけ力が抜ける。

 けど。

 まだ乗っている。


(いや、終わってない)


 リサはそのまま画面を見ながら操作を続けていた。


「……あ、追加された」


 小さく呟く。

 その声と一緒に、胸の柔らかさがまた少しだけ沈んだ。


 マサキの思考が再び止まる。


 そして次の瞬間。


「――あ」


 リサがぴたりと固まった。


 数秒の沈黙。


 リサの視線が、ゆっくり下に落ちる。

 自分の胸。

 その下敷きになっているマサキの手。


「…………」


「…………」


(終わった…)


 マサキの思考が、完全に停止する。

 次に何が起きるか、なんとなく分かる。


(殴られるかもしれない)


 もしくは、


(普通に引かれるやつだろこれ)


 言い訳もできない。

 完全に事故だとしても、状況が状況すぎる。

 触れているのに黙っていた。


 リサが、ゆっくり顔を上げる。

 頬が、ぽうっと赤い。


「……ご、ごめん」


 先に出たのは、そっちだった。


 予想外で、思考が一瞬ズレる。


「……いや」


 マサキは、やっと声を出す。


 リサはすぐに体を離す。

 ふわっと軽くなる感覚。

 同時に、さっきまでの感触がやけに残る。


(……やめろ、考えるな)


 無理やり思考を切る。


 リサはスマホを胸元に抱え込むようにして、一歩だけ後ろに下がった。


「……ほんと、ごめん」


 小さく、もう一度謝る。

 さっきまでの明るさが、少しだけ薄い。


 マサキはすぐに首を振る。


「いや、オレは…気にしてない…んだけど」


 言葉にしてみても、うまく収まらない。


(怒ってないならただのラッキーでしかない)


 リサは視線を落としたまま、しばらく黙っていた。

 耳まで赤い。


 でも同時に、頭の奥で別の感覚が残っている。

 さっきの沈黙。

 固まったマサキの手。

 "拒否"でも"反応"でもない、ただ動けなくなっていた感じ。


 リサはこっそり息を吸う。

 心臓が落ち着かない。


「今のは、わざとじゃなくて」


 マサキは即座に答える。


「わかってる」


 短い。

 でも、それ以上追及しない。

 その一言で、空気が少しだけ戻る。


 リサはほっとするはずなのに、なぜかまだ落ち着かない。


 リサはスマホを握り直して、話題を無理やり戻すように言う。


「じゃ、じゃあさ。連絡先交換できたし……これからも話せるね」


 マサキは一瞬だけ間を置いてから、


「……ああ」


 と返す。

 それだけなのに、少しだけ安心したような響きだった。


 リサはその声を聞いて、ようやく呼吸が整う。


(……よし)


 立て直せた、と思ったその瞬間。


 マサキがふと視線を逸らしながら言う。


「オレの方こそ、ごめん…」


「松前くん、悪くないでしょ?」


 リサが聞き返す。


「オレも…黙ってた、から」


 一拍置いて、リサがふっと笑う。


「ふふ、フォローしてくれるんだ」


 その一言で、空気が少しだけ軽くなる。

 マサキは言葉に詰まってから、視線を逸らした。


「別に、フォローとかじゃ…」


 リサは少し笑いながら、まだ少し赤い耳を隠すみたいにスマホを握り直す。


「さっきのじゃ、気まずいの残っちゃってたから。助かる」


「……そうか」


 短い返事。

 それでも、さっきまでの変な緊張はもう薄れていた。


 リサは一度深呼吸してから、わざと明るい声に切り替えた。


「これでいつでも連絡取れるね」


「……ああ」


 マサキはスマホをポケットに戻す。

 動作がいつもより少しだけぎこちないのは、本人だけが気づいていた。


 教室のあちこちで、小さなざわめきが生まれていた。


「え、今の見た?」


「如月さん、普通に連絡先交換してたよな」


「相手、松前だろ?」


「マジで意外なんだけど」


 机の向こう側、廊下側、後ろの席。

 見ていた生徒たちが、それぞれ小声で言葉を交わす。


「てかさ、如月さんて誰に言われても連絡先とか交換しなかったよな」


「そうそう、絶対教えないので有名」


「松前には普通に渡してたじゃん」


 ひそひそとした声が、机の間を流れていく。

 リサはその空気に気づいていないふりをしながら、弁当箱をしまう手を止めない。


「なんで松前なんだろ」


「如月さんってああいう感じだったっけ?」


 言葉の端々に、興味と納得できなさが混ざる。


 リサはそこで初めて、軽く顔を上げた。

「……」


 一瞬だけ、視線を周囲に流す。

 すぐに何もなかったように戻すけど、その一瞬だけは確かに"気づいている顔"だった。


 マサキはそれに気づいているのかいないのか、ただ静かに席に座っている。


(……こういうの、面倒くさいよな)


 誰に向けたでもない思考が、ふっと浮かぶ。


 でも次の瞬間、リサが軽く立ち上がる。


「じゃ、あとで連絡するね」


 いつも通りの明るい声。

 ざわつきの中心にいたはずなのに、そのまま何事もなかったように歩き出す。


 マサキは少し遅れて、


「……うん」


 だけ返す。


 そのやり取りを見た周囲が、さらに小さく騒ぐ。


「やっぱりなんかあるって」


「絶対あるだろあれ」


 確信、という空気。


 リサはそれを背中で感じながら、自分の席へ座る。

 スマホを取り出して画面を開く。

 連絡先の一番上に、新しい名前があった。


「MASAKI」


(……MASAKI)


 去年の夏から、ずっと声が届かなかった。

 顔も覚えてもらえていなくて。

 それがやっと、名前が入った。

 たったそれだけのことなのに。


(……嬉しいな)


 素直にそう思った。

 こんなに嬉しいと思うのが、自分でも少し驚きだった。


「くふっ」


 思わずニヤけてしまう。

 慌てて、指で軽く押さえる。


 ◇     ◇


 リサ:

 ねえミオちゃん聞いて

 今日さ、松前くんとお昼一緒だったんだけど

 連絡先交換した


 送信。


 リサはスマホを伏せて、机に頬杖をつく。

 教室のざわつきが、少しだけ遠く聞こえる。


(そーだよ、松前くんの連絡先ゲットしちゃったよー)


 スマホが震える。

 既読。

 早い。


 ミオ:

 それ、どこでやったの

 人いるとこじゃないよね


 リサは一瞬だけ目を泳がせる。


 リサ:

 うん、教室

 今しかないと思ってさ

 我ながらちょっと頑張った


 送信。


(いや実際、頑張ったでしょあれは)


 すぐに既読がつく。


 ミオ:

 ……あのね

 リサちゃん、今まで誰に聞かれても連絡先教えてなかったよね


 その一文で、指が止まる。


 リサ:

 うん

 松前くんが初めて


 送信。


 口元が少しゆるむ。


(初めて、か)


 ミオ:

 松前くんに教えたってことは

「自分もいけるかも」って思う人、確実に増えるよ


 リサの指が止まる。

 視線だけが、教室の方へ流れる。

 笑ってるグループ。

 ちらっとこっちを見る男子。


(……あ)


 リサ:

 ……考えてなかった


 送信。


 ミオ:

 今までは「絶対教えない人」で通ってたから良かったけど

 一回崩れると、一気にハードル下がったって見られるの

 実際は違ってもね


 リサはスマホを少し強く握る。


(……そっか)


 ミオ:

 リサちゃんなら、ちゃんと上手く断れると思うけど

 つらかったら言ってね


 少し間。


 リサ:

 ありがと

 頼りにしてる


 送信。


 スマホを伏せる。


 教室のざわめきはそのまま続いているのに、さっきより少しだけ遠い。


 画面には新しく追加された名前。

「MASAKI」

 リサはその表示を見て、ほんの少しだけ笑う。


(最初のひとこと、なんにしよっかな)


 思わずまたニヤけてしまう。


 ◇     ◇


 リサはスマホの画面を閉じて、机の上に伏せた。

 そのとき。


「なあ、如月さん」


 声をかけられる。

 顔を上げると、クラスの男子が一人、机の横に立っていた。


「さっきさ、松前と連絡先交換してたよな」


「……してたけど?」


 リサは軽く返す。


「じゃあさ、オレとも交換しない?」


 軽いノリ。

 でも、どこか試すような空気。


(来た…)


 ミオの言葉がよぎる。

 リサはにこっと笑って、


「ごめん、それは無理かな」


 あっさり断る。

 男子は一瞬だけ止まってから、


「え、なんで?松前には教えてたじゃん」


 少しだけ詰める。

 周りの空気も、じわっと寄ってくる。


 リサは軽く首を傾ける。


「うん、教えたよ」


「じゃあいいじゃん、別に。オレもダメな理由なくない?」


 言葉に、少しだけ強さが混じる。

 リサは少しだけ考えるふりをしてから、


「でも、全員に教えるわけにもいかないからさ」


 やんわり言った。


「……は?」


「相手はちゃんと選んでるから、ごめんね」


 柔らかく、でもはっきり。

 男子は少し顔をしかめる。


「いや、選ぶって何だよ。基準あんの?」


「松前はよくてオレはダメって、正直意味わかんねーんだけど」


 周りの視線が、じわじわ集まる。

 リサは表情を崩さないまま、


「意味わかんないかなぁ、そっか」


 ほんの少しだけ笑って、でも目は笑っていない。

 男子の顔がわずかに歪む。


「……感じ悪くね?」


 その一言で、周りのざわめきが少し強くなる。

 リサは笑顔を保ったまま、言葉を飲み込む。


(あー)


 周りの視線がまだ刺さっている。


(これが、ミオの言ってたやつ)


(……これは、思ってたよりめんどいな)


 リサが次の言葉を選びかけた、そのとき。


「……それもう答え出てるだろ」


 低い声。


 男子のすぐ後ろに、いつの間にかマサキが立っていた。


 男子が振り返る。


「……は?」


 マサキはポケットに手を入れたまま、


「断られてんじゃん」


 それだけ。何事もなかったみたいに通り過ぎる。

 視線も合わせない。

 ただ、言っただけ。


 男子が口を開きかけて、止まる。

 周りの空気も、そこで一度切れる。


(……強っ)


 リサは内心で少しだけ驚く。


 マサキはそのまま自分の席に戻って、何もなかったみたいに椅子を引いた。

 もう関係ない、みたいな顔。


 クラスのあちこちで、小さな声が弾ける。


「……さすがにあれはしつこくない?」


「ちょっとな、空気読めよって感じ」


 ひそひそと、でも少しだけリサ寄りの温度。


「如月さん可哀想」


「断ってんのに食い下がるのはキツわ」


 さっきまでの"なんでマサキ?"という空気とは、明らかに違う。


 男子生徒は耐えきれなくなったのか、黙って自分の席に戻った。

 少しだけ、流れが変わっていた。


 その中で、別の声。


「てか今さ、マサキなんか言ってなかった?」


「え?いや、通り過ぎただけだろ?」


「なんか言ったからあいつ黙ったんじゃね?」


 曖昧なままの認識。結論も、ふわっとしたまま流れる。

 当の本人は――


「……」


 もう何も関係ないみたいに、机に肘をついている。

 リサはその様子を横目でちらっと見る。


(……いや、カッコ良すぎでは?!)


 思わず、口元が緩む。

 さっきまで少しだけ張っていた空気が、嘘みたいにほどけていく。

 リサはスマホを手に取って、画面を開く。


「MASAKI」


 その表示を見て――


「くふっ」


 小さく笑ってしまう。今度は、隠さなかった。


 ◇     ◇


 リサはスマホの画面を見つめたまま、少しだけ考える。


 さっきの一言。あの空気の切り方。


(……ありがとう、は言いたいんだけどな)


 指が止まる。


 一方で、マサキは何事もなかったようにノートを開いていた。

 シャーペンの音は一定。姿勢もいつも通り。


 でも。


 ほんのわずかに、動きが固い。

 ページをめくるタイミングが一瞬遅い。

 視線が、たまにノートの同じ行で止まる。


(あれでよかったのか)


 考えるつもりはなかったのに、勝手に戻ってくる。

 ペン先が一瞬止まる。


(……いや、余計なことは言ってない)


 別に助けたとかじゃない。優しさでもない。

 ただ単に――


(あの子だけは、無視すると後味が悪い)


 放っておくと、自分に飛び火しそうな内容だったのもある。

 それを避けただけだ。


 自分に言い聞かせるようにして、また書き始める。


 そのとき。

 スマホが小さく震える。


 一瞬、反応が遅れる。


(……来た)


 視線だけ落とす。


 《さっきはありがとね》


 短い文。

 それだけなのに、少しだけ呼吸が詰まる。


(……別に)


 打つのは簡単なはずなのに、指が一瞬止まる。

 周囲の音が少し遠くなる。

 リサの視線がどこかにある気がして、無意味にページをめくる。


 《別に》


 送信。

 すぐに既読。

 間。


 返ってくる。


 《本当に助かった。あとカッコ良かった》


(カッコ良かった、って何だ)


 ほんの少しだけ、眉が動く。


 《そうか》


(深くしない方がいい)


 そう判断したはずなのに。

 すぐ返ってくる。


 《今度お礼させて》


 指が止まる。


(……お礼?)


 視線がノートから外れる。

 教室の音が少しだけ戻ってくる。

 でも、思考は戻らない。


(別にそんな大したことしてない)


 送るべき答えは決まってる。


 《気にしなくていい》


 即答。


(これで終わる)


 はずだった。


 《じゃあ勝手にする》


(……勝手に)


 わずかに息が止まる。

 返す言葉はあるのに、少しだけ遅れる。

 周囲から見ればほんの一瞬。

 でも本人には長い間。


(どういう意味だ)


 結局、短く返す。


 《好きにしろ》


 送信した瞬間、指が止まる。


(……今の、言い方きつくないか)


 一拍遅れて、違和感が浮く。

 返すならもう少し言い方があった気がする。

 でも、もう戻せない。


 既読がつく前の数秒が、妙に長い。


(……会話、終わったな)


 そう思ったのに。

 さっきより少しだけ、心臓のリズムが乱れたまま戻らない。


 ペンを握り直す。

 ノートに視線を戻す。

 でも、内容はあまり入ってこない。


(……別に、普通のやり取りだろ)


 そう言い聞かせながらも。

 指先だけ、少しだけ強くペンを握っていた。


 ◇


「ねえ」


 横から軽い声。


 リサがいつもの調子で、机の横にひょこっと顔を出す。

 さっきの空気を引きずっている様子はない。

 むしろ、さっきより少しだけ距離が近い。


 肩の高さより少し下から覗き込むようにして、自然に視線を合わせてくる。

 髪が一度だけ揺れて、頬の横で止まる。

 その動きだけがやけに目に残る。


「松前くんのLINE、なんか楽だねー」


「……は?」


 マサキは顔を上げる。


(え?なに?LINE?楽?どこが?)


 頭の中で言葉が散る。


 リサはスマホを軽く振りながら続ける。

 画面の光が指先に反射して、白く抜ける。


「一言で返ってくるから。超わかりやすい。簡単」


(簡単って何だ……それ悪い意味じゃないよな?いや、雑って言われてる?)


「……褒めてる?」


 口から出た声はいつも通りを装っているけど、少しだけ遅い。


 リサはきょとんとして、それからすぐに頷く。


「褒めてる褒めてる」


 にこっと笑う。

 口元だけじゃなくて、目の形ごと柔らかくなる笑い方だった。

 笑った拍子に、まつ毛がわずかに揺れる。

 光を拾って、そこだけ少しだけ明るく見える。


 その瞬間だけ、空気が軽く変わる。


(……いや今の、可愛すぎるだろ)


 ただ笑っただけなのに、変に間が残る。

 首を少し傾けたままこちらを見ている。

 待っているわけでもなく、急かしているわけでもないのに、視線だけは逃げ道がない。

 距離が近い。

 近いというより、勝手に視界の中に入ってくる感じだった。


 マサキはわずかに視線を外す。


「というか」


 小さく息を吸って、言い直すように口を開く。


「先に一言だけ送ってきたの如月さんじゃ…」


 言ってから、少しだけ間が空く。


 リサが固まる。


(いや今それ言う必要ないよな?!いや事実だけど、でも責めてるみたいな言い方…っ)


「……あ」


 一拍。


「……それは、そう」


 あっさり認める。

 そして、すぐに笑う。


「じゃあお互い様ね」


「お互い様か?」


 マサキはぼそっと返す。


(お互い様って何だ……会話成立してるのかこれ……)


 でも、さっきまでの張りつめた感じはもうない。


 リサは楽しそうにマサキを見る。

 視線が軽いのに、やけにまっすぐで、逃げ場がない。


(……)


 マサキの視線が止まる。


 髪の流れ。

 笑ったときに少しだけ下がる目尻。

 口元の動きがやわらかくて、言葉より先に表情が動く感じ。


 あと、距離が近いせいで、瞬きのたびに視線がぶつかる。


(……普通に顔かわいいんだけど)


 鼻筋とか目の形が整ってる、というより。

 動いたときに崩れないバランスがずっと安定してる感じ。

 こっちが見てることに気づいても、変に作らないままそのままでいるのが余計に目に残る。


(いや何考えてんだ今、ちゃんと会話しろ)


「さっきの、ほんと助かったよ」


 その言葉だけ、少しだけトーンが落ちる。


 マサキは動きを止める。


(助かった…?さっきもLINEで言ってたな。あれは助けたんじゃなくて…いや、説明できない。無理だ)


「……別に」


 短く返す。

 頭の中が少しだけ忙しい。

 でも表には出さない。


 リサは、それを深くは聞いてこない。

 ただ、少しだけ嬉しそうに笑う。


「やっぱマサキくん、カッコイイよね」


 一瞬。


(……は?)


 脳が空白になる。

 意味は分かる。

 褒め言葉だというのも分かる。

 でも処理が追いつかない。


(いや今の流れでそれ出るの?なんで?え、何基準?)


「……そういうの、いいから」


 ぼそっと返す。

 いつも通りのトーンに戻そうとした声。


(最悪だな今の。何が「いいから」だよ、感じ悪すぎだろ。本当にそういうつもりじゃない。どう返せばいいのか分からなかっただけだ。こういうの言われ慣れてないのに、さらっと返せるわけないだろ……っ)


 リサは、きょとんとする。


「やだな、お世辞とかじゃないよ」


 悪気がないのは分かる。

 むしろ本当に、ただそう思っただけの顔だ。

 それが逆に厄介だった。


(いやだから困るんだってこういうの。否定したら角が立つし、肯定したら微妙な空気になるし、流したら今みたいになる。どうすれば正解なんだこれ。こういうときに、ちゃんと返せない自分が一番ダメだ)


 思考だけが一瞬だけ爆速になる。


(この子はただ褒めてくれただけなのに、それに対してまともな返し一つできない。でもこれ以上は無理だ)


 そこまで考えてポロッと出てしまう。


「ごめん」


 その一言が、少しだけ宙に浮く。


 リサは目を瞬かせる。


「え、なにが?」


 軽い声。


(違う、今のはそういう意味じゃない、感じ悪くしたかったわけでもないし謝る場面でもないのに、でもどう言えばいいのか分からなくて、結局一番無難そうな言葉がそれしか出なかっただけで、でも今それ言うのは余計変だし)


 口を開きかけて、やめる。


 沈黙が一拍だけ落ちる。


 その間に、リサは特に急かすこともなく、ただマサキを見ていた。

 不思議そうでもなく、評価するようでもなく、ただ待っているだけの視線。


(いや違う、これ以上考えるな、説明しようとすると全部ズレるやつだ、余計なことを足した瞬間に終わるタイプのやつだこれ)


 マサキは短く息を吐く。


「さっきの……」


 言いかけて、また止まる。


(何を言うんだ、感じ悪かったとか説明するのも違うし、今さらフォローするのも変だし、そもそも何をフォローしてるんだこれ)


 結局、言葉を削っていくしかない。


「別に……深い意味はない」


 ようやく、それだけ出す。


 リサは少しだけ目を細める。


「ふーん」


 納得したのかしてないのか分からない声。

 でも、それ以上は踏み込んでこない。


 その代わり、ふっと笑う。


「じゃあ気にしないでおく」


 その軽さに、マサキはほんの少しだけ肩の力を抜く。


(……助かる、これ以上掘られたら確実に変な方向行ってたし、正直ここで引いてくれるのはありがたい)


 リサは一度スマホを机に置いて、少しだけ首を傾ける。


「マサキくんて、ほんとに喋るの苦手なんだね」


(……今さらそれ言う?というか、それは事実だけど、わざわざ言語化されると普通に恥ずかしいんだが)


 マサキは間を置いて、視線を上げる。


「それは、褒めてないよな」


 声はいつも通りのつもりなのに、ほんの少しだけ硬い。


 リサはきょとんとして、それからすぐに笑う。


「ううん、頑張って返事してくれてるの偉いよー」


(偉いってなん……)


 意味の整理が終わる前に、リサの手が伸びる。

 何の前触れもなく、ほんとに自然に。


 ぽん、と。


 マサキの頭に触れる。

 そのまま優しく、軽く、髪の流れを整えるみたいに撫でる。


(――え)


 思考が一瞬で止まる。

 音が遠くなるみたいに、教室の気配だけが残って、自分の頭の上だけがやけに現実的になる。


(いや待て、今これ何だ。撫でられてる?頭?え?なんで?)


 動こうとすると全部おかしくなる気がして、身体が固まったまま動かない。


 リサはそのままの距離でそっと続ける。


(こういうのって、もっと特別な時のやつじゃないのか……?いや、特別って何だ……)


 頭の上だけがやけに熱を持って残る感覚に、思考がさらにぐちゃっとなる。


(いや待て、これ普通に無理だろ……何してんだこの人……距離感がバグってるだろ……)


 リサは特に気にした様子もなく、ほんの軽い仕草のまま、数秒だけ撫でて、すっと手を離す。

 あくまで"さっきの続き"みたいな自然さで終わる。


 その瞬間、逆に余韻だけが残る。


(いやほんと、こういうとき何か言えよ…オレ)


 手を離したあと、リサは何事もなかったように視線を外す。

 でも、口元がほんの少しだけゆるんでいるのは、自分でも隠せていない。

 何かを伝えようとしているみたいに、その目だけがやわらかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on ロゴ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ