9. 新学期 ~イヤホンを片耳だけ外してみた2~
「連絡先、交換しない?」
言ったあとで、ほんの少しだけ目線が揺れる。
その一言で、思考が止まる。
(……連絡先?)
一瞬、意味の処理が遅れる。
(きっと、LINEとかの話だよな)
分かってはいるのに、現実感が薄い。
(女子と連絡先交換とか……したことないんだけど)
心臓が、少しだけ強く鳴る。
表には出さないようにする。
(断る理由は……ない)
むしろ。
(学校一の美少女の連絡先がほしい)
「……おう」
そう言いながら、ポケットに手を入れる。
スマホを取り出す手が、ほんの少しだけぎこちない。
(……落ち着け)
画面をつける。
(初めて連絡先もらう女の子が如月さんか…)
指が一瞬だけ止まる。
(どうやって交換するんだっけ)
リサがそれに気づいたのか、
「あ、えっと……QRでいい?」
少しだけ前のめりになって、マサキのスマホを覗き込む。
距離が、急に近くなる。
(……近い)
さっきまで普通にしていたはずの空気が、一気に崩れる。
石鹸みたいな、柔らかい匂いがふっと混ざる。
それが余計に意識を奪う。
(これ、普通にやばい距離だ)
「ここ」
リサは画面を指さしてくれる。
「……あぁ」
そのときだった。
『むにゅっ』
スマホを持っていない方の手に、上から柔らかい感触が沈み込んだ。
(……え)
視線が落ちる。
リサが身を乗り出したせいで、制服の胸元がそのままマサキの手の甲へ押し潰されていた。
白いシャツ越しでも分かるくらい柔らかい。
押し当てられた形のまま、ゆっくり広がっている。
手の甲に沿って、むに……っと沈む感触。
柔らかいだけじゃない。
重い。
ふわふわしてるのに、ちゃんと重さがある。
(これは……!!)
マサキの思考が止まる。
触れたくて、でも触れてはいけない存在。
その感触が、逃げ場なく手に乗っている。
(や、柔らか……)
しかもリサは気づいていない。
QR画面を見せようとして、さらに前へ寄ってくる。
「ここ、読み取って」
その動きに合わせて、胸がさらに押し潰された。
『むにゅうっ』
柔らかさが横へ逃げる。
手の甲を包み込むみたいに形が変わって、制服越しの熱まで伝わってきた。
(待て待て待て待て)
頭の中が一気にうるさくなる。
離したい。
でも動いたらもっと触れる。
しかもリサは普通に喋っている。
「松前くん、カメラぶれてるよ」
そう言いながら、さらに体重をかけた。
『にゅううっ』
押し潰された柔らかさが、今度は指の隙間にまで沈み込む。
ふにっ、と形を変えながら、じわっと広がる感触。
(ーーーーっ!!!)
マサキの喉が詰まる。
柔らかい。
意味が分からないくらい柔らかい。
しかも近い。
石鹸みたいな匂いまで混ざってきて、余計に頭がおかしくなる。
リサはまだ気づいていない。
読み取り画面に集中したまま、スマホを寄せる。
そのたび胸が押し当たり、形が変わる。
むに、ふに、っと。
手の上で柔らかさだけが増えていく。
(これ絶対ダメだろ……)
なのに身体が硬直して動かない。
ピントが合うまでの数秒が、異常に長かった。
ようやく読み取り音が鳴る。
ぴろん。
その瞬間。
マサキはようやく息を吐いた。
(……助かった)
ほんの少しだけ力が抜ける。
けど。
まだ乗っている。
(いや、終わってない)
リサはそのまま画面を見ながら操作を続けていた。
「……あ、追加された」
小さく呟く。
その声と一緒に、胸の柔らかさがまた少しだけ沈んだ。
マサキの思考が再び止まる。
そして次の瞬間。
「――あ」
リサがぴたりと固まった。
数秒の沈黙。
リサの視線が、ゆっくり下に落ちる。
自分の胸。
その下敷きになっているマサキの手。
「…………」
「…………」
(終わった…)
マサキの思考が、完全に停止する。
次に何が起きるか、なんとなく分かる。
(殴られるかもしれない)
もしくは、
(普通に引かれるやつだろこれ)
言い訳もできない。
完全に事故だとしても、状況が状況すぎる。
触れているのに黙っていた。
リサが、ゆっくり顔を上げる。
頬が、ぽうっと赤い。
「……ご、ごめん」
先に出たのは、そっちだった。
予想外で、思考が一瞬ズレる。
「……いや」
マサキは、やっと声を出す。
リサはすぐに体を離す。
ふわっと軽くなる感覚。
同時に、さっきまでの感触がやけに残る。
(……やめろ、考えるな)
無理やり思考を切る。
リサはスマホを胸元に抱え込むようにして、一歩だけ後ろに下がった。
「……ほんと、ごめん」
小さく、もう一度謝る。
さっきまでの明るさが、少しだけ薄い。
マサキはすぐに首を振る。
「いや、オレは…気にしてない…んだけど」
言葉にしてみても、うまく収まらない。
(怒ってないならただのラッキーでしかない)
リサは視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
耳まで赤い。
でも同時に、頭の奥で別の感覚が残っている。
さっきの沈黙。
固まったマサキの手。
"拒否"でも"反応"でもない、ただ動けなくなっていた感じ。
リサはこっそり息を吸う。
心臓が落ち着かない。
「今のは、わざとじゃなくて」
マサキは即座に答える。
「わかってる」
短い。
でも、それ以上追及しない。
その一言で、空気が少しだけ戻る。
リサはほっとするはずなのに、なぜかまだ落ち着かない。
リサはスマホを握り直して、話題を無理やり戻すように言う。
「じゃ、じゃあさ。連絡先交換できたし……これからも話せるね」
マサキは一瞬だけ間を置いてから、
「……ああ」
と返す。
それだけなのに、少しだけ安心したような響きだった。
リサはその声を聞いて、ようやく呼吸が整う。
(……よし)
立て直せた、と思ったその瞬間。
マサキがふと視線を逸らしながら言う。
「オレの方こそ、ごめん…」
「松前くん、悪くないでしょ?」
リサが聞き返す。
「オレも…黙ってた、から」
一拍置いて、リサがふっと笑う。
「ふふ、フォローしてくれるんだ」
その一言で、空気が少しだけ軽くなる。
マサキは言葉に詰まってから、視線を逸らした。
「別に、フォローとかじゃ…」
リサは少し笑いながら、まだ少し赤い耳を隠すみたいにスマホを握り直す。
「さっきのじゃ、気まずいの残っちゃってたから。助かる」
「……そうか」
短い返事。
それでも、さっきまでの変な緊張はもう薄れていた。
リサは一度深呼吸してから、わざと明るい声に切り替えた。
「これでいつでも連絡取れるね」
「……ああ」
マサキはスマホをポケットに戻す。
動作がいつもより少しだけぎこちないのは、本人だけが気づいていた。
教室のあちこちで、小さなざわめきが生まれていた。
「え、今の見た?」
「如月さん、普通に連絡先交換してたよな」
「相手、松前だろ?」
「マジで意外なんだけど」
机の向こう側、廊下側、後ろの席。
見ていた生徒たちが、それぞれ小声で言葉を交わす。
「てかさ、如月さんて誰に言われても連絡先とか交換しなかったよな」
「そうそう、絶対教えないので有名」
「松前には普通に渡してたじゃん」
ひそひそとした声が、机の間を流れていく。
リサはその空気に気づいていないふりをしながら、弁当箱をしまう手を止めない。
「なんで松前なんだろ」
「如月さんってああいう感じだったっけ?」
言葉の端々に、興味と納得できなさが混ざる。
リサはそこで初めて、軽く顔を上げた。
「……」
一瞬だけ、視線を周囲に流す。
すぐに何もなかったように戻すけど、その一瞬だけは確かに"気づいている顔"だった。
マサキはそれに気づいているのかいないのか、ただ静かに席に座っている。
(……こういうの、面倒くさいよな)
誰に向けたでもない思考が、ふっと浮かぶ。
でも次の瞬間、リサが軽く立ち上がる。
「じゃ、あとで連絡するね」
いつも通りの明るい声。
ざわつきの中心にいたはずなのに、そのまま何事もなかったように歩き出す。
マサキは少し遅れて、
「……うん」
だけ返す。
そのやり取りを見た周囲が、さらに小さく騒ぐ。
「やっぱりなんかあるって」
「絶対あるだろあれ」
確信、という空気。
リサはそれを背中で感じながら、自分の席へ座る。
スマホを取り出して画面を開く。
連絡先の一番上に、新しい名前があった。
「MASAKI」
(……MASAKI)
去年の夏から、ずっと声が届かなかった。
顔も覚えてもらえていなくて。
それがやっと、名前が入った。
たったそれだけのことなのに。
(……嬉しいな)
素直にそう思った。
こんなに嬉しいと思うのが、自分でも少し驚きだった。
「くふっ」
思わずニヤけてしまう。
慌てて、指で軽く押さえる。
◇ ◇
リサ:
ねえミオちゃん聞いて
今日さ、松前くんとお昼一緒だったんだけど
連絡先交換した
送信。
リサはスマホを伏せて、机に頬杖をつく。
教室のざわつきが、少しだけ遠く聞こえる。
(そーだよ、松前くんの連絡先ゲットしちゃったよー)
スマホが震える。
既読。
早い。
ミオ:
それ、どこでやったの
人いるとこじゃないよね
リサは一瞬だけ目を泳がせる。
リサ:
うん、教室
今しかないと思ってさ
我ながらちょっと頑張った
送信。
(いや実際、頑張ったでしょあれは)
すぐに既読がつく。
ミオ:
……あのね
リサちゃん、今まで誰に聞かれても連絡先教えてなかったよね
その一文で、指が止まる。
リサ:
うん
松前くんが初めて
送信。
口元が少しゆるむ。
(初めて、か)
ミオ:
松前くんに教えたってことは
「自分もいけるかも」って思う人、確実に増えるよ
リサの指が止まる。
視線だけが、教室の方へ流れる。
笑ってるグループ。
ちらっとこっちを見る男子。
(……あ)
リサ:
……考えてなかった
送信。
ミオ:
今までは「絶対教えない人」で通ってたから良かったけど
一回崩れると、一気にハードル下がったって見られるの
実際は違ってもね
リサはスマホを少し強く握る。
(……そっか)
ミオ:
リサちゃんなら、ちゃんと上手く断れると思うけど
つらかったら言ってね
少し間。
リサ:
ありがと
頼りにしてる
送信。
スマホを伏せる。
教室のざわめきはそのまま続いているのに、さっきより少しだけ遠い。
画面には新しく追加された名前。
「MASAKI」
リサはその表示を見て、ほんの少しだけ笑う。
(最初のひとこと、なんにしよっかな)
思わずまたニヤけてしまう。
◇ ◇
リサはスマホの画面を閉じて、机の上に伏せた。
そのとき。
「なあ、如月さん」
声をかけられる。
顔を上げると、クラスの男子が一人、机の横に立っていた。
「さっきさ、松前と連絡先交換してたよな」
「……してたけど?」
リサは軽く返す。
「じゃあさ、オレとも交換しない?」
軽いノリ。
でも、どこか試すような空気。
(来た…)
ミオの言葉がよぎる。
リサはにこっと笑って、
「ごめん、それは無理かな」
あっさり断る。
男子は一瞬だけ止まってから、
「え、なんで?松前には教えてたじゃん」
少しだけ詰める。
周りの空気も、じわっと寄ってくる。
リサは軽く首を傾ける。
「うん、教えたよ」
「じゃあいいじゃん、別に。オレもダメな理由なくない?」
言葉に、少しだけ強さが混じる。
リサは少しだけ考えるふりをしてから、
「でも、全員に教えるわけにもいかないからさ」
やんわり言った。
「……は?」
「相手はちゃんと選んでるから、ごめんね」
柔らかく、でもはっきり。
男子は少し顔をしかめる。
「いや、選ぶって何だよ。基準あんの?」
「松前はよくてオレはダメって、正直意味わかんねーんだけど」
周りの視線が、じわじわ集まる。
リサは表情を崩さないまま、
「意味わかんないかなぁ、そっか」
ほんの少しだけ笑って、でも目は笑っていない。
男子の顔がわずかに歪む。
「……感じ悪くね?」
その一言で、周りのざわめきが少し強くなる。
リサは笑顔を保ったまま、言葉を飲み込む。
(あー)
周りの視線がまだ刺さっている。
(これが、ミオの言ってたやつ)
(……これは、思ってたよりめんどいな)
リサが次の言葉を選びかけた、そのとき。
「……それもう答え出てるだろ」
低い声。
男子のすぐ後ろに、いつの間にかマサキが立っていた。
男子が振り返る。
「……は?」
マサキはポケットに手を入れたまま、
「断られてんじゃん」
それだけ。何事もなかったみたいに通り過ぎる。
視線も合わせない。
ただ、言っただけ。
男子が口を開きかけて、止まる。
周りの空気も、そこで一度切れる。
(……強っ)
リサは内心で少しだけ驚く。
マサキはそのまま自分の席に戻って、何もなかったみたいに椅子を引いた。
もう関係ない、みたいな顔。
クラスのあちこちで、小さな声が弾ける。
「……さすがにあれはしつこくない?」
「ちょっとな、空気読めよって感じ」
ひそひそと、でも少しだけリサ寄りの温度。
「如月さん可哀想」
「断ってんのに食い下がるのはキツわ」
さっきまでの"なんでマサキ?"という空気とは、明らかに違う。
男子生徒は耐えきれなくなったのか、黙って自分の席に戻った。
少しだけ、流れが変わっていた。
その中で、別の声。
「てか今さ、マサキなんか言ってなかった?」
「え?いや、通り過ぎただけだろ?」
「なんか言ったからあいつ黙ったんじゃね?」
曖昧なままの認識。結論も、ふわっとしたまま流れる。
当の本人は――
「……」
もう何も関係ないみたいに、机に肘をついている。
リサはその様子を横目でちらっと見る。
(……いや、カッコ良すぎでは?!)
思わず、口元が緩む。
さっきまで少しだけ張っていた空気が、嘘みたいにほどけていく。
リサはスマホを手に取って、画面を開く。
「MASAKI」
その表示を見て――
「くふっ」
小さく笑ってしまう。今度は、隠さなかった。
◇ ◇
リサはスマホの画面を見つめたまま、少しだけ考える。
さっきの一言。あの空気の切り方。
(……ありがとう、は言いたいんだけどな)
指が止まる。
一方で、マサキは何事もなかったようにノートを開いていた。
シャーペンの音は一定。姿勢もいつも通り。
でも。
ほんのわずかに、動きが固い。
ページをめくるタイミングが一瞬遅い。
視線が、たまにノートの同じ行で止まる。
(あれでよかったのか)
考えるつもりはなかったのに、勝手に戻ってくる。
ペン先が一瞬止まる。
(……いや、余計なことは言ってない)
別に助けたとかじゃない。優しさでもない。
ただ単に――
(あの子だけは、無視すると後味が悪い)
放っておくと、自分に飛び火しそうな内容だったのもある。
それを避けただけだ。
自分に言い聞かせるようにして、また書き始める。
そのとき。
スマホが小さく震える。
一瞬、反応が遅れる。
(……来た)
視線だけ落とす。
《さっきはありがとね》
短い文。
それだけなのに、少しだけ呼吸が詰まる。
(……別に)
打つのは簡単なはずなのに、指が一瞬止まる。
周囲の音が少し遠くなる。
リサの視線がどこかにある気がして、無意味にページをめくる。
《別に》
送信。
すぐに既読。
間。
返ってくる。
《本当に助かった。あとカッコ良かった》
(カッコ良かった、って何だ)
ほんの少しだけ、眉が動く。
《そうか》
(深くしない方がいい)
そう判断したはずなのに。
すぐ返ってくる。
《今度お礼させて》
指が止まる。
(……お礼?)
視線がノートから外れる。
教室の音が少しだけ戻ってくる。
でも、思考は戻らない。
(別にそんな大したことしてない)
送るべき答えは決まってる。
《気にしなくていい》
即答。
(これで終わる)
はずだった。
《じゃあ勝手にする》
(……勝手に)
わずかに息が止まる。
返す言葉はあるのに、少しだけ遅れる。
周囲から見ればほんの一瞬。
でも本人には長い間。
(どういう意味だ)
結局、短く返す。
《好きにしろ》
送信した瞬間、指が止まる。
(……今の、言い方きつくないか)
一拍遅れて、違和感が浮く。
返すならもう少し言い方があった気がする。
でも、もう戻せない。
既読がつく前の数秒が、妙に長い。
(……会話、終わったな)
そう思ったのに。
さっきより少しだけ、心臓のリズムが乱れたまま戻らない。
ペンを握り直す。
ノートに視線を戻す。
でも、内容はあまり入ってこない。
(……別に、普通のやり取りだろ)
そう言い聞かせながらも。
指先だけ、少しだけ強くペンを握っていた。
◇
「ねえ」
横から軽い声。
リサがいつもの調子で、机の横にひょこっと顔を出す。
さっきの空気を引きずっている様子はない。
むしろ、さっきより少しだけ距離が近い。
肩の高さより少し下から覗き込むようにして、自然に視線を合わせてくる。
髪が一度だけ揺れて、頬の横で止まる。
その動きだけがやけに目に残る。
「松前くんのLINE、なんか楽だねー」
「……は?」
マサキは顔を上げる。
(え?なに?LINE?楽?どこが?)
頭の中で言葉が散る。
リサはスマホを軽く振りながら続ける。
画面の光が指先に反射して、白く抜ける。
「一言で返ってくるから。超わかりやすい。簡単」
(簡単って何だ……それ悪い意味じゃないよな?いや、雑って言われてる?)
「……褒めてる?」
口から出た声はいつも通りを装っているけど、少しだけ遅い。
リサはきょとんとして、それからすぐに頷く。
「褒めてる褒めてる」
にこっと笑う。
口元だけじゃなくて、目の形ごと柔らかくなる笑い方だった。
笑った拍子に、まつ毛がわずかに揺れる。
光を拾って、そこだけ少しだけ明るく見える。
その瞬間だけ、空気が軽く変わる。
(……いや今の、可愛すぎるだろ)
ただ笑っただけなのに、変に間が残る。
首を少し傾けたままこちらを見ている。
待っているわけでもなく、急かしているわけでもないのに、視線だけは逃げ道がない。
距離が近い。
近いというより、勝手に視界の中に入ってくる感じだった。
マサキはわずかに視線を外す。
「というか」
小さく息を吸って、言い直すように口を開く。
「先に一言だけ送ってきたの如月さんじゃ…」
言ってから、少しだけ間が空く。
リサが固まる。
(いや今それ言う必要ないよな?!いや事実だけど、でも責めてるみたいな言い方…っ)
「……あ」
一拍。
「……それは、そう」
あっさり認める。
そして、すぐに笑う。
「じゃあお互い様ね」
「お互い様か?」
マサキはぼそっと返す。
(お互い様って何だ……会話成立してるのかこれ……)
でも、さっきまでの張りつめた感じはもうない。
リサは楽しそうにマサキを見る。
視線が軽いのに、やけにまっすぐで、逃げ場がない。
(……)
マサキの視線が止まる。
髪の流れ。
笑ったときに少しだけ下がる目尻。
口元の動きがやわらかくて、言葉より先に表情が動く感じ。
あと、距離が近いせいで、瞬きのたびに視線がぶつかる。
(……普通に顔かわいいんだけど)
鼻筋とか目の形が整ってる、というより。
動いたときに崩れないバランスがずっと安定してる感じ。
こっちが見てることに気づいても、変に作らないままそのままでいるのが余計に目に残る。
(いや何考えてんだ今、ちゃんと会話しろ)
「さっきの、ほんと助かったよ」
その言葉だけ、少しだけトーンが落ちる。
マサキは動きを止める。
(助かった…?さっきもLINEで言ってたな。あれは助けたんじゃなくて…いや、説明できない。無理だ)
「……別に」
短く返す。
頭の中が少しだけ忙しい。
でも表には出さない。
リサは、それを深くは聞いてこない。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑う。
「やっぱマサキくん、カッコイイよね」
一瞬。
(……は?)
脳が空白になる。
意味は分かる。
褒め言葉だというのも分かる。
でも処理が追いつかない。
(いや今の流れでそれ出るの?なんで?え、何基準?)
「……そういうの、いいから」
ぼそっと返す。
いつも通りのトーンに戻そうとした声。
(最悪だな今の。何が「いいから」だよ、感じ悪すぎだろ。本当にそういうつもりじゃない。どう返せばいいのか分からなかっただけだ。こういうの言われ慣れてないのに、さらっと返せるわけないだろ……っ)
リサは、きょとんとする。
「やだな、お世辞とかじゃないよ」
悪気がないのは分かる。
むしろ本当に、ただそう思っただけの顔だ。
それが逆に厄介だった。
(いやだから困るんだってこういうの。否定したら角が立つし、肯定したら微妙な空気になるし、流したら今みたいになる。どうすれば正解なんだこれ。こういうときに、ちゃんと返せない自分が一番ダメだ)
思考だけが一瞬だけ爆速になる。
(この子はただ褒めてくれただけなのに、それに対してまともな返し一つできない。でもこれ以上は無理だ)
そこまで考えてポロッと出てしまう。
「ごめん」
その一言が、少しだけ宙に浮く。
リサは目を瞬かせる。
「え、なにが?」
軽い声。
(違う、今のはそういう意味じゃない、感じ悪くしたかったわけでもないし謝る場面でもないのに、でもどう言えばいいのか分からなくて、結局一番無難そうな言葉がそれしか出なかっただけで、でも今それ言うのは余計変だし)
口を開きかけて、やめる。
沈黙が一拍だけ落ちる。
その間に、リサは特に急かすこともなく、ただマサキを見ていた。
不思議そうでもなく、評価するようでもなく、ただ待っているだけの視線。
(いや違う、これ以上考えるな、説明しようとすると全部ズレるやつだ、余計なことを足した瞬間に終わるタイプのやつだこれ)
マサキは短く息を吐く。
「さっきの……」
言いかけて、また止まる。
(何を言うんだ、感じ悪かったとか説明するのも違うし、今さらフォローするのも変だし、そもそも何をフォローしてるんだこれ)
結局、言葉を削っていくしかない。
「別に……深い意味はない」
ようやく、それだけ出す。
リサは少しだけ目を細める。
「ふーん」
納得したのかしてないのか分からない声。
でも、それ以上は踏み込んでこない。
その代わり、ふっと笑う。
「じゃあ気にしないでおく」
その軽さに、マサキはほんの少しだけ肩の力を抜く。
(……助かる、これ以上掘られたら確実に変な方向行ってたし、正直ここで引いてくれるのはありがたい)
リサは一度スマホを机に置いて、少しだけ首を傾ける。
「マサキくんて、ほんとに喋るの苦手なんだね」
(……今さらそれ言う?というか、それは事実だけど、わざわざ言語化されると普通に恥ずかしいんだが)
マサキは間を置いて、視線を上げる。
「それは、褒めてないよな」
声はいつも通りのつもりなのに、ほんの少しだけ硬い。
リサはきょとんとして、それからすぐに笑う。
「ううん、頑張って返事してくれてるの偉いよー」
(偉いってなん……)
意味の整理が終わる前に、リサの手が伸びる。
何の前触れもなく、ほんとに自然に。
ぽん、と。
マサキの頭に触れる。
そのまま優しく、軽く、髪の流れを整えるみたいに撫でる。
(――え)
思考が一瞬で止まる。
音が遠くなるみたいに、教室の気配だけが残って、自分の頭の上だけがやけに現実的になる。
(いや待て、今これ何だ。撫でられてる?頭?え?なんで?)
動こうとすると全部おかしくなる気がして、身体が固まったまま動かない。
リサはそのままの距離でそっと続ける。
(こういうのって、もっと特別な時のやつじゃないのか……?いや、特別って何だ……)
頭の上だけがやけに熱を持って残る感覚に、思考がさらにぐちゃっとなる。
(いや待て、これ普通に無理だろ……何してんだこの人……距離感がバグってるだろ……)
リサは特に気にした様子もなく、ほんの軽い仕草のまま、数秒だけ撫でて、すっと手を離す。
あくまで"さっきの続き"みたいな自然さで終わる。
その瞬間、逆に余韻だけが残る。
(いやほんと、こういうとき何か言えよ…オレ)
手を離したあと、リサは何事もなかったように視線を外す。
でも、口元がほんの少しだけゆるんでいるのは、自分でも隠せていない。
何かを伝えようとしているみたいに、その目だけがやわらかかった。




