75. 学習室 後編 ~リサは今日も笑っている~
マサキの手が消しゴムを弾いた。
机の端に当たり、ころころと転がる。
「あ」
反射的に手を伸ばす。
だが指先が触れる寸前、消しゴムは机のふちへ当たった。
かつん。
小さく跳ねて方向を変えた。
そのまま長椅子の座面へ。
マサキは咄嗟に身を乗り出して腕を伸ばす。
届く。そのとき——
リサも消しゴムに気づいたらしい。
「あっ」
逃がさないように慌てて足を動かす。
ぺちんっ。
軽い音がした。
マサキの動きが止まる。
柔らかい。思ったより、柔らかかった。
弾力があって、それが手のひら全体を包み込んでくる。
リサの足だ、と認識した瞬間、手を離せなくなった。
リサも止まる。
「あれ?」
消しゴムは確かに捕まっていた。
長椅子の上で、リサの足で押さえられている。
同時に、消しゴムへ伸ばしたマサキの手も、一緒に押さえられていた。
リサは消しゴムを逃がさないようにしただけだ。
ずっと座りっぱなしだったせいかもしれない。
(……なんか少ししっとりしてる)
ほのかな湿り気がマサキの手にじんわりと染みてくる。
消しゴム。
消しゴム取ろうとしただけだ。
なんでこうなった。
数秒。
誰も動かない。
リサがぱちぱちと瞬きをする。
それから手元へ目を落とした。
自分の足。
に挟まっているマサキの手。
そして、自分のスカートの裾が少し捲れ上がって、太ももが露わになっていることに気づく。
「……あ」
ようやく状況を理解したらしい。
「ごめん?」
なぜか疑問形だった。
マサキは小さく息を吐く。
動かせば余計に触れる。
動かさなくても触れている。
スカートの裾が捲れて、太ももの丸みが視界に入ったままだった。
見ないようにしようとして、でも手を動かすたびに柔らかさが伝わってくる。
「いや………足、ひらいてくれ」
リサはさらに数秒固まった。
そして。
「え、女の子に足ひらけとか言う?」
真顔だった。
「状況が…」
「いやでも、言い方があるじゃん」
「じゃあなんて言えばいい」
「もっとこう…」
リサはもぞりと足を動かす。
離れるのかと思った、が違った。
位置を変えただけだった。
その動きで太ももの位置がずれて、マサキの手のひらに完全に乗り上げてくる。
柔らかくて、弾力があって、体温だけがじわじわと染みてくる。
ほのかな湿り気。
手を引くより先に、頭が止まった。
そのときだった。
向かい側で、ぱたんと参考書が閉じられる。
ミオだった。
二人の視線がそちらへ向く。
「学習室は、利用目的を明確にした上で所定の申請を行い、許可された目的以外で使用してはならない」
「……?」
リサが首を傾げた。
マサキが即座に反応する。
「これは事故…」
「事故であることは理解しています」
ミオは頷く。
そして二人の足元へ目を落とした。
「でも、リサちゃんが動かないのはわざとなので」
その瞬間。
リサの肩がびくりと跳ねた。
図星だった。
普段なら絶対にない。
マサキから近づいてくることなんて、ほとんどない。
もちろん事故だと分かっている。
消しゴムを取ろうとしただけ。
でもマサキの方から手を伸ばした事実。
そう思ったら、足が言うことを聞かなかった。
急に居心地が悪くなった。
リサは慌てて足をひらく。
解放されたマサキの手がようやく自由になる。
しかし——
スカートの裾が捲れ上がっていたせいで、リサが足を開いた拍子に、スカートの奥が一瞬だけ視界に入った。
マサキの目が、そこで止まる。
見ようとしたわけじゃない。ただ目がいった。
だめだ、と思った次の瞬間にはもう遅かった。
慌てて前を向く。
でも頭から消えてくれない。
さっき触れていた柔らかさと、今見てしまったものが、頭の中でひとつに繋がっていく。
(なに考えてるんだ)
見ようとしたわけじゃない。
本当に違う。
でも、頭の中から消えてくれない。
一瞬だったはずなのに。
やめろ。
忘れろ。
思い出すな。
そう思うほど逆効果だった。
リサはリサで固まっている。
ミオに図星を突かれたことが効いていた。
離そうと思えば離せた。
それは自分でも分かっている。
だから何も言えない。
ミオには勝てない。
先に口を開いたのはマサキだった。
「わざとっていうか」
二人が顔を上げる。
「頭で分かってるのに止まれないこと、あるだろ」
リサが目を瞬かせた。
マサキはうつむいたまま続ける。
「だから別に、リサが離せなかったのも…変じゃない」
今のは完全に、自分の話だった。
頭では駄目だと分かっている。
なのに、勝手に考えてしまう。
忘れようとしているのに忘れられない。
その状態を説明しただけだった。
見ていたことを気づかれたくなくて、リサの話にしてしまった。
しかし、リサは嬉しそうな顔になる。
(ずるいな)
ミオはシャーペンを置く。
無自覚なのが一番ずるい。
気づいてやっているなら警戒もできるのに、この人はたぶん何も分かっていない。
それでもリサがこんなふうに笑うから。
少し羨ましかった。
◇ ◇
昨日のやり取りがそのまま残ったままの朝だった。
翌日、マサキは男子生徒たちに囲まれ、自分の席に座っていた。
机の周りに数人分の影が落ちていて、自然に逃げ道だけが塞がれている形になっている。
空気は軽い。
軽いのに、逃げづらい。
「真面目な話、松前くんはどっち選ぶわけ」
最初にそう言った男子の声に、マサキは一瞬だけ目線を上げた。
どっち。
(どっち…?)
思考がそこで止まる。
しかしすぐに続く言葉で意味が補完された。
「如月さんと保坂ちゃん、どっちともいい感じじゃん」
(どこが真面目な話だ…)
マサキは問題集を手元に置いたまま、何も言わなかった。
こういうノリが一番苦手だった。
答えを求めているようで、実際は答えを消費したいだけの会話。
「別に」
短く返す。
それ以上広げる気がなかった。
だが男子たちは構わず続ける。
「如月さんの方はグイグイきてんじゃん。あれもう彼女ムーブだろ」
机の上に手を置いたまま、誰かが身を乗り出す。
「保坂ちゃんはさ、勉強教える口実で一緒にいたいって感じ」
(なんでそういう見え方になるんだ)
マサキはうつむく。
本人の意図と、他人の解釈がここまでズレるのは珍しくない。
ただ、その前提で会話が進むのが厄介だった。
「如月さんの方はもう隠す気ないんだろ」
「それ言ったら保坂ちゃんも誰にでもああいう感じじゃないから」
机の周りの男子たちが、勝手にうなずき合って盛り上がる。
「てかさ、普通に思うんだけど」
一人が椅子を前にずらして、さらに距離を詰めてくる。
「なんで松前くんだけなん?」
その言葉に、別の男子が笑う。
「正直さ、どっちか寄越せって思うわ」
「だから早く本命決めろよ」
誰も本気で詰めているわけじゃない。
むしろ面白がっているだけだった。
「どっち選ぶんだよ」
圧というより、雑な興味の塊だった。
マサキは少し間を置いてから言った。
「どっちでも」
その瞬間、空気が止まる。
「いやいやいや」
誰かが即座に笑いながら手を振る。
「今の一番危ないやつだろ」
「は?両方ってこと?」
マサキは内心で眉をひそめる。
(どっちでもは、どうでもいい…だろ)
興味がないから適当に流しただけの返答だった。
それ以上の意味はない。
だが男子たちは勝手に盛り上がる。
「え、欲張りじゃん」
「どっちもキープするってこと?」
「いやそれはさすがに」
別の男子がすぐに笑いながら食いつく。
「実際どっちにも可能性残してるじゃん」
教室の空気が、妙な方向に盛り上がっていく。
誰も本気で責めているわけではない。
ただ面白い方向に転がっているだけだった。
「如月さんてさ、みんなに優しい感じじゃん」
「でも保坂ちゃんて、特別な人にしか優しくしないタイプだろ」
「あー、確かにそう」
(如月はともかく、保坂さんてそうなのか…)
マサキの手が中途半端な形で止まった。
ペン先が紙に触れかけたまま。
(特別な人にしか)
考えようとして、頭の中で言葉が形になる前に、会話が上から被さってくる。
「如月さんてグイグイくる感じだけど」
「保坂ちゃんはじわじわ型」
「そういうのって1番沼るんだよなー」
「分かる、気づいたら抜け出せないやつ」
マサキはそれを拾うでもなく、ただ一つの流れとして聞き流す。
内容の区切りだけが増えていき、意味の輪郭がぼやけていく。
(沼るって何だ)
「如月さんてちょっと天然じゃん」
「保坂ちゃんは真面目」
「そのまんまだろ」
誰かが笑うと、すぐ別の誰かが乗ってくる。
なにが面白いのかマサキには分からない。
「で、結局どっちがいいんだよ」
「どっちもそういうのじゃない」
マサキは一度だけ目を上げて、そう言い切る。
「じゃあさ、質問変える」
「好きなタイプは?」
「そんなの聞いたって面白くないだろ」
マサキは手元から目を離さないまま、淡々と返す。
言葉だけが先に出て、意味の整理は後から追いつかない。
「明るい子か静かな子か」
(結局まだリサかミオかって話になってる)
けれど次の瞬間には別の話題が上書きされる。
会話が変な方向に転がり始めた、そのときだった。
男子の一人がふと声のトーンを落とす。
「あ……でもほら、保坂ちゃんてさ。あれじゃん」
一瞬だけ、さっきまでの笑いが細くなる。
言い方だけが少しだけ慎重になる。
「あー……確かに」
軽い冗談から、妙に具体的な方向へ寄っていく。
「最終的にそこで選ぶか」
マサキはその言葉の意味が掴めないまま、ただ聞いていた。
「結局さ、巨乳か貧乳どっちがいいかだよな」
一瞬、別の種類の雑さが混ざる。
さっきまでの"比較"が、急に単純な二択に落とし込まれる。
「松前はどっち?」
「巨乳か貧乳」
視線が一斉に集まる。
マサキはその問いが"別の話題にすり替わっている"と思った。
(さっきの話じゃないなら……)
少しだけ間が空いてから、素直に答えてしまう。
「……巨乳」
「わかってんじゃん!」
「やっぱそーだよな!」
勝手に納得されていく。
最初から決まっていた結論に押し込まれていくような笑いが広がる。
マサキはその反応の意味を完全には処理しきれない。
答えた瞬間、頭の中にリサの顔が浮かんだ。
あの距離感。
いつも向こうから寄ってくる感じ。
密着したときの圧。
(違う、今の質問とは関係ない)
自分でそう打ち消したが、遅かった。
そのときだった。
「あ、如月さん」
誰かの声が跳ねる。
マサキの肩がわずかに動く。
「っ」
振り返ると、机のすぐ隣にリサが立っていた。
にこにことした顔のまま、こちらを見ている。
「楽しそうな話してるね、あたしも仲間に入れてくれる?」
空気が一瞬で変わる。
「いや、あの……」
「いやちょっと今は……」
男子たちの反応が一気に崩れる。
さっきまでの勢いが嘘のように引いていく。
「あ、オレら用事あるから」
「松前、あと頼むな」
逃げるように席から離れていく背中。
残されたのはマサキとリサだけだった。
リサはそのままマサキの隣の席に腰を下ろした。
座ったとき、スカートの裾が少しだけ引っ張られた。
太ももの丸みが一瞬だけ視界をかすめて、マサキは即座に問題集へ目を落とす。
(いや、今はそういう場合じゃない)
机の上に肘をつき、頬を少しだけ寄せるようにして、さっきの空気をそのまま持ち込んでくる。
「松前くーん」
いつもの軽い声。
なのに、どこか楽しんでいる響きが混ざっていた。
マサキは一度だけ目を落としたまま、問題集のページをめくるふりをする。
紙の端が少しだけ指に引っかかる。
(オレ悪くないよな…?)
その思考だけが、さっきから堂々巡りしていた。
リサはそんなことを気にした様子もなく、ぽつりと口を開いた。
「松前くん、巨乳好きなんだね。やっぱ男の子だよねー」
「……」
マサキの手が一瞬止まる。
ページの途中で止まったまま、指は微動だにしない。
紙の端がわずかに歪んで、そのまま時間だけが置き去りになったような空白ができていた。
(いや、あの二択だったらそっち選ぶだろ…)
さっきの場面を思い返して、説明になりそうな言葉を探す。
だが、どれも途中で引っかかる。
言い切れば言い切るほど、余計な意味が混ざる気がした。
しかも今、リサが隣にいる。
胸元のラインが、どうしても目に入ってしまう。
(見るな)
リサはその迷いを見透かしたみたいに、前へ身を乗り出す。
「無視しないでよ、即答だったじゃん。ねぇねぇ」
軽い声なのに、どこかちゃんと待っている響きがある。
続けて、わざとらしいくらい自然な調子で言葉を落とした。
「ねぇねぇ、あたしわりと巨乳だよ。好き?」
一瞬。
周囲の音が一段だけ遠くなる感覚だった。
マサキの手がページの途中で完全に止まる。
折れかけた紙がそのまま固定されて、動く理由を失う。
(……は?)
短い疑問だけが頭の中に落ちる。
意味は分かる。
言葉としては成立している。
なのに、会話としての位置が定まらない。
目を上げるかどうか一瞬だけ迷って、そのままやめる。
上げたら、リサの胸元が視界に入る。
今の状態でそれは駄目だ。
自分でも分かってるから、上げられない。
上げた瞬間に何かが確定しそうな気がした。
(いや、なんでそうなるんだ…)
さっきの流れは単純だったはずだ。
雑な質問に、雑に返しただけ。
それ以上でも以下でもない。
なのに今、それが妙に"個別の答え"として扱われている。
リサはそんなマサキの沈黙を見て、楽しそうに目を細めた。
「無視しないでよー」
声は相変わらず軽い。
けれど、その軽さの中にだけ、ちゃんと待っている気配があった。
マサキはちらと横を見た。
ニコニコしたまま覗き込んでくるリサの顔が、近い。
近すぎて、首を動かしたついでに胸元が視界に入った。
制服越しでも分かる、はっきりとした膨らみ。
マサキは即座に前を向く。
(やばい、今の絶対見た)
「………一般論で、答えただけだから」
ようやく出た声は、いつもより少し遅れていた。
マサキは手元から目を離さないまま、ページの角を指で軽く整える。
意味もなく整える動作だけが、思考の間を埋めている。
(一般論だろ…あれは)
頭の中ではそう繰り返しているのに、言葉にすると妙に弱くなるのが分かる。
リサはその返答を聞いて、間を置いたあと、ふっと笑った。
「ふーん」
納得したようにも、していないようにも聞こえる声。
マサキはページをめくる。
めくっただけで、内容は頭に入っていなかった。
隣では、リサが頬杖をついたままこちらを見ている。
「一般論なんだ?」
「……そう」
「へぇー」
軽い返事。
でも、終わる気配がない。
マサキは問題集へ目を落としたまま、小さく息を吐く。
(なんで詰められてるんだ…)
さっきの会話を思い返す。
そもそも、あれは二択だった。
意味なんてない。
ただ聞かれたから答えただけ。
「あたしの身体に飽きたの?」
マサキの指が止まる。
ぴたりと。
ページの端を押さえていた指先だけが、わずかに紙を歪ませた。
「…………は?」
数秒遅れて、ようやく声が出る。
リサは周りに人がいないか確認してから、マサキの耳元で小さく囁く。
「あたしで抜いてるって言ってたわりにはさ。触ってくるわけでもないし、ガツガツしてこないじゃん」
マサキの呼吸が、一瞬だけ止まる。
耳元に落ちた声が、近すぎた。
息がかかる。
甘い匂いが混ざって、耳から首筋にかけてじわりと熱くなる。
身体を引こうとして、でも引いたらリサに気づかれる。
(動けない)
柔らかい。
位置的に、甘い匂いまで一緒に吹き込まれる。
でも、言ってる内容は全然柔らかくない。
「……っ」
マサキは反射で少しだけ身体を引く。
「……如月」
低い声。
リサは小さく首を傾げる。
マサキは目を落としたまま黙る。
リサはその反応を見ながら、少しだけ声を落とした。
「普通さ、そういう目で見てるなら…もっとベタベタしたりするのかなって思ってたのに」
リサはそのまま間を置いた。
「ないじゃん」
身体を揺らしながら、マサキの横顔を見ている。
マサキは答えない。
「だから飽きたのかなって」
「………」
「ねぇねぇ」
「…我慢してるだけだろ」
「今も我慢してる?」
マサキは手元から目を離さなかった。
指先だけが、めくりかけのページの端を押さえたまま動かない。
「…」
「飽きちゃった?」
「飽きてない」
「えへへ」
リサの顔が、そこでふっと崩れた。
ちゃんと見られてると分かると、目元だけがやけに柔らかくなる。
(なんでそんな嬉しそうなんだ)
マサキはリサの変化の理由を知らない。
ただ、そういうものとして目の前のやり取りをそのまま受け取っている。
知らないままでも関係は崩れない。
踏み込みもしないし、誤魔化しもしないまま、同じ距離のまま続いていく。
リサはそれを見ている。
理由がはっきりしないまま、それでも落ち着いてしまう感覚だけが残る。
どう戻すか分からないままの顔で、そこにいる。
本当に楽しそうで、嬉しそうに、隣にいる。




