74. 学習室 前編 ~お守りはもっているだけでいい~ (挿絵)
廊下の端は、妙に静かだった。
教室のざわつきから切り離された場所だけが、時間の流れから取り残されたように感じる。
ミオは壁際に追いやられる形で立っていた。
前には男子が三人。
距離は近いというほどではないが、逃げ道を塞ぐには十分な位置取りだった。
「如月さんの連絡先教えて」
「いいじゃんそのくらい」
「仲いいんでしょ」
軽い声が重なる。
出口を塞ぐみたいに、言葉だけが増えていく。
ミオは首を振る。
「イヤです」
はっきりした拒否。
それでも空気は動かない。
「保坂ちゃんって、真面目すぎ」
「ちょっとくらいさ、いいだろ」
同じ言葉が形を変えて戻ってくる。
抜けられないまま時間だけが伸びていく。
ミオは唇を結んだまま、もう一度だけ息を整える。
(こういうときのやり方、分からない)
答えのないまま頭だけが動く。
何か言えば終わるのか。
笑えば済むのか。
どう返せばいいか、形が出てこない。
(勉強はできるのに)
(こういうのは全部止まる)
視線が一瞬だけ廊下の先に流れる。
誰も来ない。
(リサちゃんなら、どうするだろう)
浮かぶのはすぐだった。
笑いながら間に入って、空気を変えて、そのまま話題ごとずらしていく姿。
でもすぐに思い直す。
(最初から、ああだったわけじゃない)
幼い頃のリサが浮かぶ。
うまく笑えず、自分の後ろに隠れていた姿。
知っている。
今みたいに誰とでも話せるようになったのは、リサが少しずつ積み上げてきたからだ。
(同じようにはできない)
(リサちゃんだから出来た)
男子の声がまた重なる。
「如月さんてガードかたくてさ」
「保坂ちゃんだったら怒られないよ」
ミオは一度だけ息を止める。
目の前の三人は、リサのことを知らない。
教室の中心にいるリサしか見ていない。
知ってほしいわけじゃない。
軽く触れられるのは、もっと違う。
(それだけはダメ)
ミオは顔を上げる。
声は小さいままでも、引かない形に整える。
「本当に無理です」
沈黙が落ちた。
それでも、まだ終わらない。
男子の一人が、スマホを手の中で回したまま、さらに一歩寄ろうとする。
(わたしは、ああはなれない)
そう思った、そのときだった。
「保坂さん、こんなとこいたんだ」
隣から声が落ちる。
ミオは目を上げる。
マサキだった。
「さっき教室見たけどいなくって」
「ま、松前くん」
反射で名前が出る。
「さっきの授業でわかんないとこあって」
何気ない声。
いつも通りの、淡々とした言い方。
けれどミオはすぐに分かった。
(助けに来た)
ただ、それを"助け"として見せる気はないやり方。
男子の一人が眉をひそめる。
「松前、こっち取り込み中」
「すぐ終わる」
マサキは視線をそちらに向けないまま答えた。
一歩だけミオの横へ寄る。
距離が、自然に男子の輪を崩す。
そのまま、ノートを開いた。
「ここ」
「あ、これはこっちの続きで……離れて書いちゃってますね」
ミオはすぐに反応する。
状況より先に、内容へ意識が切り替わっていた。
「ここから、こう繋がってて……」
ノートの上に指を伸ばして、該当箇所をなぞる。
線を追う動きが少し速い。
マサキは困った顔をする。
「待って、保坂さんの頭しか見えない」
前のめりになっていたミオの頭が、完全に視界を塞いでいた。
小さく笑いがこぼれる。
「ふふっ」
「こうですか?」
ミオはそのまま、位置を変えた。
肩がわずかにマサキの腕に触れる。
見えるかどうかが先で、距離なんて頭になかった。
マサキは短く息を吐く。
「いや、状況が悪化してる」
「座標を示してください」
「ここだ」
マサキは片手で軽くミオの頭に触れ、位置を調整する。
迷いのない動きだった。
ミオは素直に従いながら、ノートを見る。
「ノートを動かした方が効率的ですよ」
「オレもそう思う」
ノートが少し上に動く。
それを追って、ミオは背伸びした。
しかし、次の瞬間。
「ちょ、見えないです」
視界から完全に外れる。
その場で、ミオが軽く跳ねるように動いた。
マサキは一拍遅れて気づく。
「あ、悪い」
ノートの位置を下げる。
視界に戻った瞬間、ミオの表情がふっと緩む。
困っていた顔から、安心した顔へ。
「見えるか?」
「ばっちりです」
そのやり取りの間、男子たちは黙っていた。
「保坂ちゃんってあんな感じで笑うんだ」
「普通に可愛くね?」
「今の動きはズルいだろ」
さっきまでのリサの話題は、もうどこにも残っていない。
視線は完全にこちらへ移っていた。
ミオはそれに気づいていない。
ただノートを追い、また前のめりになる。
そのたびに、マサキが軽く位置を戻す。
男子の一人が小さく呟いた。
「……なんか、仲いいな」
それをきっかけに、少しずつ入り込む理由が消えていく。
「おい、行こうぜ」
誰かがそう言い、三人は肩をすくめて離れていった。
足音が遠ざかる。
廊下の重さが一気に薄くなった。
しばらくしてから、ミオが小さく息を吐いた。
「助かりました」
「ん、オレも助かった」
短い言葉。
どちらも、それ以上説明しない。
けれどミオには分かった。
今のは"守った"でも"助けた"でもなく、ただ状況を整えただけだということ。
貸しも借りも、作らないやり方。
(……そういうところ)
ミオはノートの端を指で押さえたまま、視線を落とした。
最近のリサは、前よりよく笑う。
作った感じじゃない、変な崩れたままの笑い方をすることが増えた。
誰かに見せるためじゃなくて、そのまま出てしまったみたいな顔。
ミオはそれを知っている。
(松前くんがいると、そうなる)
理由を考えると、いくつか浮かぶ。
まず、リサは「可愛い」と言われることに疲れていた。
周囲の男子から「可愛い」と言われるたび、(近づきたい)(好かれたい)(口説きたい)という下心が丸見えだ。
なのにマサキは、「可愛い」と言いながら距離を取る。
褒めようとして言ってない。
普通の男子なら、モデルのリサが話しかけてきたら近づこうとする。
でもマサキは逃げる。
興味がないわけじゃない。
見返りを求めていないだけ。
(いま助けたのも、わざわざそういう形にもっていった。なにも受け取ろうとしない)
余計なことを言わない。
評価もしないし、飾りもしない。
誤魔化さないし、誤魔化せない。
誰にでも優しく、空気を読める人気者。
作られたリサの仮面を、彼はそれを「リサの一部」と言った。
だからリサも、作るのをやめられる。
笑わなきゃいけない、が少しずつ薄くなる。
ミオは小さく息を吐く。
(居心地がいいんだと思う)
その理由を考えれば、答えは一つしか浮かばなかった。
ミオは苦笑する。
「松前くんには、かないませんね」
マサキは顔を上げる。
「なにが?」
「いえ、独り言です」
そう言ってノートへ目を戻す。
けれど口元だけは、ほんの少し緩んでいた。
リサが好きになるのも、無理はない。
◇ ◇ ◇
放課後。
学習室の奥の席には参考書とノートが広げられていた。
中間テスト前になると、毎年ミオとリサはここで一緒に勉強する。
もっとも、勉強しているのは主にミオだった。
「……リサちゃん」
「んー?」
向かい側では、リサが机へ頬を乗せたまま返事をする。
シャーペンは持っているし参考書も開いているが、ページは五分前から変わっていない。
「ページが進んでない」
「そんなことないよー」
言いながらリサは参考書へ目を落とし、数秒眺めたあとでまたミオを見た。
「進んでなかったよ」
「知ってる」
リサは机へ頬を押しつけた。
むにっと片側の頬が潰れ、そのまま足をぱたぱた揺らす。
頬を潰したまま上目遣いでこちらを見るその顔が、あまりにも可愛くて少し腹が立つ。
「松前くん早くこないかなー」
ふにゃっとした声だった。
ミオはシャーペンを止める。
今日は掃除当番だから少し遅れる。
その説明はもう三回聞いた。
(長いなぁ)
そんな顔をしている。
参考書より時計。
時計より入口。
完全にそんな状態だった。
ミオは問題集へ目を落としながら、ふと思い出す。
今のリサを見ていると不思議になる。
幼稚園の頃のリサは、先生に話しかけられても声が小さかった。
初めて会う子がいるとミオの後ろへ隠れてしまうような子だった。
輪の中に入るのも苦手で、今みたいに人を引き寄せるようなタイプじゃなかった。
「まだかなー」
机へ突っ伏したまま足をばたつかせる。
変わったのは、父親がいなくなったあとだと思う。
リサが笑うようになったのは。
母親を心配させないように。
困らせないように。
リサは笑うようになった。
最初はぎこちなかった。
でも続けていた。
笑うことを、続けていた。
詳しい理由は聞いていない。
言いたそうにしていたのに、結局なにも言わなかったから。
ミオはただ、ずっと横で見ていた。
その頃のリサはまだ、知らない子と話すのが苦手だった。
今みたいに場を回すことなんて出来なかった。
変わったのはもっと後、モデルを始めてからだ。
取材を受けて、撮影現場へ行って、それを繰り返すうちにいつの間にか誰とでも話せるようになっていた。
話題を拾って、人を笑わせて、場を止めない。
そこで初めて、みんなが知っている如月理沙になった。
リサはたぶん、人よりずっと練習している。
ミオは努力だと思っている。
リサがずっと積み重ねてきたものだと。
勉強なら分かる。
問題集も参考書もあるし、解き方もある。
でも人付き合いは違う。
どこで話して、どこで笑って、どこで断るのか。
今でも分からない。
今日だってそうだった。
男子に囲まれた廊下。
結局、自分では終わらせられなかった。
リサなら出来たと思う。
きっと自然に、当たり前みたいに。
そう考えながら向かい側を見ると、リサは相変わらず机へ頬を乗せていた。
「松前くんまだかなー」
「勉強して」
「してるよー」
していない。
ただ、ミオはそこで少し止まる。
昔のリサは、誰かを待ってこんな顔をするような子じゃなかった。
母親の帰りを待つ間、ゲームをして映画を見て漫画を読んで、一人で時間を潰すのが上手だった。
だらけることも、拗ねることも、誰かを待ってこんな顔をすることはしなかった。
それだけ、力を抜ける相手ができたということだ。
ミオはシャーペンを握り直した。
そして向かい側を見る。
ふにゃふにゃした顔のまま入口を見ているリサ。
その姿を見て、思わず苦笑が漏れた。
「その顔」
「え?」
「顔」
「なにー?」
リサが笑う。
そのまままた入口を見る。
ミオもつられて目を向けた。
まだマサキの姿はなかった。
◇
学習室の扉が開く。
リサがぱっと顔を上げた。
次の瞬間には椅子から半分立ち上がっていた。
「松前くん、お疲れ様ー」
とびきり機嫌のいい声だった。
さっきまで机へ突っ伏していたのが嘘みたいに顔が明るい。
(単純ね)
ほんの数秒前まで時計と入口ばかり見ていたのに。
ミオは思わず問題集から目を上げる。
マサキは鞄を肩に掛けたまま足を止めた。
机を見る。
学習室の席は四人掛けの島になっていて、ミオとリサが向かい合わせに座っている。
空いている席は二つだった。
リサの隣。
ミオの隣。
どちらでも座れる。
一瞬だけ目が止まる。
「どうしたの?」
リサが首を傾げる。
「いや」
短く返しながら、もう一度机を見る。
どちらに座るのが正解なのか分からなかった。
さっきの出来事が頭をよぎる。
廊下で男子に囲まれていたミオ。
最後は妙に距離が近かった。
ノートを覗き込んで、頭の位置を直して、肩まで当たっていた。
思い返すと余計なことをした気もする。
だからというわけではないが、今そこでミオの隣へ座るのは違う気がした。
変に意識しているみたいで落ち着かない。
というか、実際に少し意識していた。
そんな自分に気づくと余計に落ち着かない。
リサが椅子の上で足を組み替えた。
その拍子に制服のスカートの裾がわずかに持ち上がって、白い太ももの曲線が視界の端を横切る。
マサキは咄嗟に前を向いた。
逸らしたはずなのに、輪郭だけが妙に残った。
見るつもりはなかった。
なのに目がいった。
結局マサキは何も言わず、リサの隣の席へ鞄を置いた。
リサはそれだけで満足そうに笑う。
「くふっ」
意味は分からない。
「なに」
席へ座ると、リサはすぐに身体を向けてきた。
距離が近い。というか、最初から近かった。
「選んでくれたなーって」
そう言いながら、リサはさらに満足そうに笑う。
意味はやっぱり分からなかった。
マサキは鞄から参考書を取り出しながら思う。
リサは強い。
少なくとも、ずっとそう思っていた。
モデルで、人気者で、誰とでも話せて、クラスの中心にいる。
オレとは違う人間だと思っていた。
ただ最近は、一つだけ前と違うことに気づいていた。
強い人間だと思っていたのに、そうでもないらしいということだ。
寂しいこともあるんだろうと思う。
一人で平気なわけじゃない。
ただ言わないだけだ。
モデルで学校では高嶺の華のくせに、よく笑って、よく食べて、よく拗ねて、でもすぐ戻る。
マサキにとっては、普通の女の子だ。
ネカフェで寝ていたときのことが頭をよぎる。
『あっためて』
寝言だった。
『一人にしないで』
あれも寝言だった。
起きているときは絶対に言わない。
だから余計に分からない。
本当は何をしてほしいのか。
オレじゃ足りないのか。
あっためてと言われればあっためるし、一人にしないでと言われれば一緒にいる。
でも言われないと動けない。
言われないまま何か出来るほど、器用でもなかった。
(そんな頼りないか……)
参考書へ目を落としたまま考える。
そして自分で答えを出した。
(頼りないよな)
◇ ◇
ミオは問題集へ落としていた視線を止めると、しばらく考えるようにペン先を見つめていた。
やがて何か思いついたように筆箱へ手を伸ばし、静かにファスナーを開ける。
筆入れの内ポケットから、小さな布袋を取り出した。
紺色の学業成就のお守りだった。
角は少し擦れている。
マサキは参考書から顔を上げ、そのお守りへ目を向ける。
(お守りか、女の子ってそういうの好きだよな)
女子は、そういう類のもので盛り上がるイメージがある。
願掛けとか、おまじないとか、占いとか。
自分では持ったことがないからよく分からない。
ミオは指先で軽く持ち上げた。
「中学の頃にもらいました」
マサキは女の子のそういう文化に対して、よく分からないけどそういうの好きなんだろう、という程度の認識しかない。
それが顔に出ていたのかもしれない。
ミオは小さく首を傾げた。
「これが…代わりに問題を解いてくれるわけじゃないですし、点数だって上がりません」
そう言いながらお守りを机の上へ置く。
指先で布袋の端をなぞる。
「急に頭が良くなるわけじゃありません。自分が勉強したぶんしか伸びません」
その言葉はミオらしかった。
努力した分しか結果にならない。
勉強に関しては誰よりもそう考えている。
だからこそ、マサキはふと不思議に思う。
(じゃあ何でもってる)
口には出していなかったはずだが、ミオは間を置いてから答える。
「でも、持っていると安心します。いつも以上に頑張れる気がします」
「テストって、結局は一人で受けるじゃないですか。誰かに頼りたいと思っても、自分で解くしかありません」
「結局1人でなんとかしなきゃいけないこと、多いです」
ミオは目を上げずに言葉をつなぐ。
「うまくいかないかも知れないとか、失敗するかも知れないとか、そういうことを考える時……お守りに触れると落ち着きます」
ミオはお守りをそっと指先で包んだ。
リサはいつの間にか会話を聞きながら頬杖をついている。
ミオは気にした様子もなく続けた。
「お守りじたいは、自分では何もしてないと思ってるかも知れません」
マサキは眉をひそめる。
「でも、そこにいるだけで支えになってるんですよ」
「そばにいてくれるだけでいいんです」
話の流れが引っかかる。
(まただ……)
お守りの話をしているはずなのに、別のものを説明している気がした。
数秒考えたあと、マサキは顔を上げる。
「それ、誰の話だ」
「お守りですよ?」
数秒、マサキは黙った。
机の上のお守りを見る。
それから目を横へ動かした。
リサは首を傾げている。
何の話だろう、とそんな顔だった。
マサキは小さく息を吐く。
だいたい分かった。
分かったからこそ返しづらい。
(自分がそんな役割になれるとは思えない)
先に浮かんだのはその言葉だった。
(オレじゃ足りない)
ミオは何も言わない。
代わりにお守りを筆入れへ戻した。
「それだけです」
「そうか」
短い返事だった。
向かい側では、リサがまだ考えている。
そして数秒後。
(そばにいてくれるだけでいいって、なんか松前くんみたい)
そこまで考えて。
なぜそう思ったのか分からなくなった。
首を傾げたまま、
「?」
という顔になる。
リサはずっと頑張ってきた。
母親を心配させないように、人に好かれるように、モデルとして期待されるように。
明るくして、愛想よくして、ちゃんと笑って。
でもマサキは、そういうリサをあまり見ていない。
まわりがリサに求めるような、可愛さや愛想や明るさ。
そういうものを、マサキは不思議なくらい求めない。
むしろリサがそれを見せようとすると、困った顔で逃げようとする。
ミオは小さく笑った。
(そんな変な人、なかなかいない)
可愛いリサを見せると、マサキはよく逃げる。
なのに。
拗ねたり、いじけたり、だらけたり。
遠慮なくお肉を頬張ったり。
格好つけて失敗したり。
思ったことをそのまま喋ったり。
子供みたいに空回りしたり。
そういうカッコ悪いリサの時のほうが、不思議とマサキは逃げない。
そのせいだろうか。
最近のリサは、どんどんカッコ悪くなっている。
いい意味で。
たぶん本人も気付いていない。
前なら誰にも見せなかったような顔を、今は平気で見せている。
だからリサは、マサキの前でだけ肩の力が抜けるのかも知れない。
挿絵はAI生成。
SDで生成、Geminiで編集しています。




