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73. 席替え 後編 ~進路なんてわからない~

 真夏の空気は、まだまったく衰えていなかった。

 窓の外では蝉が途切れなく鳴いていて、教室のエアコンも焼け石に水みたいに弱い。

 そんな午後。

 担任がプリントを配り始めた瞬間、教室の空気が少しざわついた。


『進路希望調査』


「え、もう?」


「早くない?」


「まだ決まってねーよ……」


 そんな声が飛び交う。

 担任は苦笑しながら黒板を軽く叩いた。


「別に今決めろって話じゃない。現時点のアンケートみたいなもんだから、気負わず書くように」


 そう言っている。

 だがマサキは、まったく気負わずにはいられなかった。

 配られた紙を見下ろす。


『志望校』『興味のある分野』『将来やってみたい仕事』


(……なにもない)


 シャーペンを持つ。

 止まる。

 最近は勉強している。

 前より真面目に机へ向かっている。

 でも、それは"なりたいもの"が見つかったからじゃない。

 逆だった。

 何もないから。

 焦っているから。

 止まりたくなかったから。

 だから、とりあえず積んでいるだけだ。


(学生の本分だろ……)


 間違ってはいない。

 でも、それだけじゃ紙は埋まらなかった。

 周囲では、なんとなくでも書き始めている生徒が多い。


「美容系かなー」


「公務員って安定してね?」


「サッカー続けたいんだよな」


 みんな、"方向"はある。


(……同い年なのに)


 その時。


「将来かぁ」


 隣から、のんびりした声が落ちてきた。

 リサだった。

 頬杖をつきながら、マサキのプリントを覗き込んでいる。

 さらりと髪が肩から流れ落ちる。

 夏服の薄い生地が、前屈みになった拍子にわずかに動く。

 その瞬間だけ胸元のラインが入ってきて、マサキは反射的に紙へ目を落とした。


(……だから見るな)


 最近、本当に集中力がおかしい。


「松前くんはやっぱり音楽関係なの?」


「………」


 マサキは少し黙った。

 音楽。

 それは確かに好きだ。

 イヤホンの中にいる時間だけは、昔から落ち着けた。

 でも。


「……そういうのって、なれるのは一握りだろ」


 歌う側。

 作る側。

 ステージに立つ側。

 そういう世界は、選ばれた人間のものだと思っていた。


 リサは「んー」と考えるように首を傾げた。


「ううん、歌う側に限ったことじゃなくって……」


 そこで、ぱっと表情が明るくなる。


「歌う人に曲を作ってあげる人もいるでしょ? あと、それを売る人もいるでしょ」


「……」


「あと、えっと……分かんないや。うちだと照明さんとかヘアメイクさんとかスタッフさんがいるの」


 リサは話し始めると、少しずつ熱が乗っていく。

 普段の"学校用のゆるい喋り方"より、言葉が前へ出てくる感じ。


「みんなファッション好きだから、撮影の合間とかのお喋り楽しいよー。最近の流行り教えてもらったり、可愛い服見せあったりするの」


 マサキは相槌も打たない。

 ただ黙って聞いている。


「そうそう、学校あるからあたしネイルできないやって思ってたんだけど、お湯で一日で落とせるのがあるんだって」


 リサは楽しそうに身振りまで混ぜ始める。


「前は子供用のおもちゃみたいな扱いだったんだけど、今すごい人気なんだよ!種類めちゃくちゃあるの!ラメ入ってるのも透明なのもあるっ」


 目がきらきらしていた。

 教室の女子たちが時々見惚れる理由が分かる。

 ただ綺麗なだけじゃない。

 好きなものを話している時の顔が、人を引きつける。


「……ごめん、自分の話しちゃった」


 そこでようやく、リサははっとしたように口を止めた。


「……続けて」


 マサキが言うと、リサは嬉しそうに笑った。


「ライブとかってさ、歌ってる人だけで成り立ってるわけじゃないじゃん?」


「……」


「照明で雰囲気変えたり、音響で聞こえ方作ったり、映像で世界観作ったり。あれ全部、別の人がタイミング考えて動かしてるんだよね」


 マサキは黙って聞いていた。

 言われてみればそうだ。

 ライブ映像を見ていても、歌っている人しか見ていなかった。

 でも確かに、光も、音も、空気も、全部"誰か"が作っている。


「同じ曲でもさ、照明暗いか明るいかで全然違うし、音ちょっと変わるだけで別物になるの。すごいよね」


「……」


「音楽好きならさ、そういうの関われるだけでも結構楽しいと思う。目立つとか関係なく」


 リサはそこで笑った。


「むしろそっちのほうが、ずっと多いしね」


 マサキは長く黙った。

 教室の音が遠い。

 ステージの上しか見えていなかった。

 歌える人。

 才能がある人。

 選ばれた人。

 そこへ入れないなら、自分には関係ない世界だと思っていた。

 でも。


(……外側にもいる)


 照明。

 音響。

 編集。

 裏方。

 "好き"を仕事にしている人間は、ステージの中央だけじゃない。

 その考え方は、マサキにとって少し衝撃だった。


 リサは再びプリントへ目を落とす。


「実際あたしも、モデル目指してたけど今は変わってきてるもん」


 マサキは顔を上げた。


「……目指してたって、如月は今モデルやってるんだよな?」


「あたしは読者モデル。モデルさんとは違うよー」


「?」


 マサキの反応を見て、リサは少し笑う。


「モデルさんって、ブランドとか企業側から"この服をこう見せたい"って求められる仕事なの。雑誌とかランウェイとか」


「……ん」


「あたしは読者モデルだから、"読者に近い子"って感じ。一般の子寄りなんだよね」


 そう言いながら、リサは自分の髪先を指でいじった。


「あたし元々ね、着る側より考える側のほうが楽しいなーって思ってて」


(考える側?)


 マサキは少しだけ顔を上げる。


「あのね、スタイリストって仕事があるの」


「……スタイリスト」


「誰かに合う服を決めてあげる人」


 リサの声が、少しだけ熱を帯びる。

 マサキは黙って聞いていた。

 でも、さっきまでの"なんとなく聞いている"感じとは違う。

 リサがただ夢みたいな話をしているわけじゃないことが、なんとなく分かった。

 ちゃんと、自分で見て。

 考えて。

 "好き"を積み重ねた先に、その言葉がある。

 だからマサキも、自然と耳を傾けていた。


「自分だけじゃなくて、他の人のおしゃれも考えていいなんて最高じゃん」


 その笑顔は、本当に楽しそうだった。

 "有名になりたい"という顔じゃない。

 "好きだから話している"顔だ。


「でさ、結局あたしは、"なりたいからやる"っていうより、"楽しいからやりたい"の方が大事なんだよね」


「……」


「モデル目指してたのも本当だけど、それも途中で変わっていいじゃんって思うし」


 リサはあっさり言った。


「むしろ変わるの普通だし」


 マサキはその言葉を、しばらく考えてしまった。

 変わっていい。

 決まってなくていい。

 "何になるか"が先じゃなくてもいい。


「将来って、"何になるか"より、"何してると楽しいか"のほうが先でいいと思うなぁ」


 窓の外で風が鳴る。

 マサキは、自分の進路希望調査を見る。

 まだ空欄だった。

 でもさっきまでとは少し違って見えた。

 "選ばれた一握りしか入れない世界"だと思っていた場所にも。

 もしかしたら、自分の立てる場所があるのかもしれない。

 そんな考えが、初めて頭に浮かんでいた。


 ◇ ◇ ◇


 マサキは無言のまま、シャーペンを持ち直す。

 カリ、と小さな音。


『第一希望』


 一瞬だけ止まる。


(……無理かもしれない)


 そんな考えは、まだ消えていない。

 才能。

 技術。

 経験。

 自分より上の人間なんて、いくらでもいる。


(……それでも)


 マサキは息を吐いた。

 そして。


『音楽大学』


 そう書いた。

 続けて、少し迷いながら。


『第二希望 音響・映像関係』


 そこまで書いて、また止まる。

 最後の欄。


『第三希望』


 しばらく見つめたあと。


『未定』


 そう書き込む。

 まだ決まっていない。

 まだ怖い。

 本当に行けるかも分からない。

 それでも。

 真っ白だった紙には、もうちゃんと文字が残っていた。


 隣では、リサが自分のプリントを見ながら「うーん」と唸っている。

 マサキはその横顔を一瞬だけ見る。

 楽しそうに将来を話していた顔。

 好きなものを語る時、少し早口になる声。

 ――ああいうふうに、なっていいのかもしれない。

 そんなことを、少しだけ思った。


 ◇ ◇ ◇


 進路希望調査を書き終えてから数日。

 マサキは以前より、少しだけリサの話を真面目に聞くようになっていた。


 昼休み。

 教室にはパンの袋を開ける音と、雑談のざわめきが広がっている。

 その中で、リサはマサキの机へ頬杖をつきながら、じーっとこちらを見ていた。


「……なんだ」


「んー?」


 リサは笑う。

 そのまま目を外さない。

 夏服の袖から伸びる白い腕。

 頬杖をついた拍子に、ふわりと揺れる髪。

 読者モデルとして活動しているだけあって、やっぱり人目を引く。

 しかも本人にその自覚が薄いから、余計にたちが悪かった。


「あたしさー、松前くん見てると、いろんなの着せたくなっちゃうんだよね」


「……」


「マジでなんでも似合いそうだし、着る物で全然違う人になりそうじゃん」


 マサキは少しだけ眉を動かした。


(また服の話か……)


 でも、不思議と前ほど聞き流せなかった。

 進路の話を聞いてから、なんとなく分かってきたからだ。

 リサはただ「可愛い服が好き」と言っているわけじゃない。

 人をどう見せるか。

 どう変わるか。

 そういう部分ごと楽しんでいる。

 たぶん、今も。


「変なクセがないっていうかさ」


 リサはマサキを観察するみたいに目を細める。


「こういうの着てほしいって思ったら、そのまま"そういう人"になってくれそうっていうか」


「……」


「なんかさ、あたしがこう見せたいって思った通りに、ちゃんと変わってくれるイメージあるんだよね」


 そこでリサは、ふと楽しそうに笑った。


「あれも似合うし、これも似合うし、ちょっと雰囲気変えるだけで別人っぽくなるの、絶対楽しい」


 マサキは少し黙る。

 自分が"似合う側"の人間だなんて、一度も思ったことがなかった。

 地味。

 目立たない。

 陰キャ。

 せいぜいその程度の認識だ。

 だから、リサの言っていることは、正直よく分からない。

 だが、リサの目は本気だった。

 からかっている感じではない。

 新しい服の話をしている時と同じ目。

 "面白そうなもの"を見つけた時の顔だった。


(こういう話、前からよくしてたよな……)


 他人のおしゃれに興味があるんだと思っていた。

 でも違う。

 今なら分かる。

 これはたぶん、"スタイリスト目線"だ。


 その時、リサがふいに身を乗り出した。


「松前くん意外と黒系着ないじゃん。でも、あたしは上にグレー、下は黒でシルエットを浮かせたいんだよね。でもそれだと暗くなっちゃうから、シルバーアクセをこの辺に」


 前のめりになった拍子に、夏服の柔らかい生地がわずかに動く。

 胸元のラインが目に入って、マサキは反射的に顔を背けた。


(……だから見るな)


 最近こればっかりだった。


「いつものゆるっとしたパーカーもいい。なんか可愛くて。でもせっかく脚長いのに隠すのは勿体ないじゃん」


「……」


「あと髪も、ちょっとだけセットしたい。松前くん素材いいから、やりすぎない方が絶対いいんだよね。あたしおでこ広くってさー、松前くんみたいに分けれないんだよね」


 リサはもう完全に楽しくなっていた。

 机へ肘をついたまま、あれこれ想像している。

 その顔が、生き生きしている。


 マサキは少しだけ目を落とした。

 自分のことを、こんなふうに見ている人間がいる。

 それは、なんというか。

 変な感覚だった。


「……例えば」


「え?」


「どう変わるんだ」


 その瞬間。

 リサの顔が、ぱっと明るくなった。


「え、聞いてくれるの!?」


 身を乗り出す。

 嬉しそうだった。


「パンツは細め、これは絶対。伸縮性あるタイプなら動きやすいから大丈夫。靴のデザインにも寄るけど、刺し色は青か紫が松前くんぽいかな。シルバーアクセ付けれないときは派手めのプリントTシャツ。奇抜なデザインほどいい」


 そこから先は、ほとんど止まらなかった。

 リサは「これは絶対似合う」「その服ならこういう髪型」「アクセは多すぎない方がいい」と、楽しそうに話し続ける。

 マサキは相槌も少ない。

 でも、一応ちゃんと聞いていた。


 以前なら、「なんで俺の服でそんな盛り上がってるんだ」としか思わなかったはずなのに。

 今は少し違う。

 リサはたぶん。

 自分が思っているより先に、"自分の可能性"を見つけている。

 しかも本人は、それを特別なことだと思っていない。


「こんど服選んでいい? 買ってあげるから」


「……選んではほしいけど、買わなくていい」


「えー、そこは遠慮しなくていいのに」


 リサが唇を尖らせる。

 マサキは息を吐いた。

 でも、不思議と嫌じゃない。


 将来。

 進路。

 自分に何があるのか。

 今までは、全部"答えを出さなきゃいけないもの"だと思っていた。

 でもリサは違う。

 楽しそうだから。

 好きだから。

 面白いから。

 そんな理由で前へ進んでいる。

 それでも、ちゃんと未来へ繋がっている。


(……別に、全部重く考えなくてもいいか)


 そんなふうに思えたのは、たぶん初めてだった。


「じゃ、まずはなに着るか方向性から考えよっか」


 リサは楽しそうに笑う。

 マサキは少しだけ呆れた顔をする。

 でも。


「……任せる」


 その言葉は、思っていたより自然に口から出ていた。


 ◇ ◇ ◇


 休憩時間の終わりが近づいた頃。

 教室の空気は、体育前特有の落ち着かなさに包まれていた。

 女子は更衣室で着替えの準備を始め、男子は「今日外だっけ」「暑っ……」と騒いでいる。


 そんな中。

 マサキは自分の席で、問題集を開いたまま手を止めていた。

 シャーペンを回す。

 英文を読む。

 ここ最近、机へ向かう時間が増えていた。


 進路希望調査。

 あの紙へ、"音楽大学"と書いた。

 もちろん、まだ本当に行けるかなんて分からない。

 そもそも何をしたいのかも、全部が明確になったわけじゃない。

 でも、"行きたいかもしれない場所"が出来た。

 だったら、最低限そこへ届く努力はしたかった。

 焦りすぎている自覚は、まあある。


 その時。


「松前ー、保坂ちゃん来てるぞ」


 男子の声が飛んだ。

 マサキは顔を上げる。


「……え」


 一瞬、身構えた。

 保坂美緒、リサの友達。

 つまり、"リサ側の人間"という認識が強い。

 だから、自分へ直接用事があると思っていなかった。


 教室の入り口を見る。

 ミオが立っていた。

 さらりとした黒髪。

 柔らかそうな雰囲気。

 派手ではないのに、目に残る可愛さがある。

 静かな空気の子だ。

 でも、その静けさが逆に目立つ。


 ミオはこちらへ気づくと、ひそかに会釈した。

 そのままマサキの席まで歩いてくる。


「こんにちは」


「……どうも」


 マサキは反射的に姿勢を正した。

 なんとなく、この子相手だと背筋が伸びる。


 ミオは隣で足を止める。


「ここ、リサちゃんの席ですか?」


「うん」


 リサはまだ更衣室だ。

 ミオは「失礼します」と言って、リサの席へ座った。

 椅子を引く音まで静かだった。

 周囲の男子が微妙にざわつく。


 如月理沙(きさらぎ りさ)保坂美緒(ほさか みお)

 最近のマサキは、その二人と接点があるせいで目立っていた。

 だがミオ本人は、そういう空気を気にしていない。


「リサちゃんから聞いたんですけど」


 ミオは鞄から、薄いA5ファイルを取り出した。


「最近、松前くんが結構勉強してると」


 その言葉に、マサキの手が少し止まる。


(……如月が?)


 少しだけ考える。

 ここ最近、自分が勉強しているのは事実だ。

 あの件のあと。

 マサキの方が意識しすぎて、あまりリサの顔を見れていなかった。

 勉強へ集中していたのもある。

 胸へ突っ込んだ感触を思い出してしまって、変に目を避けていたのもある。

 だから気づかなかっただけで。

 リサから見ると、思ったより無理しているように見えていたのかもしれない。


(……心配させたか?)


 そう考えた瞬間、少しだけ気まずくなる。

 ただ、リサ本人はいつも通りだった。

 変に踏み込んでくるわけでもなく、明るく話しかけてきていた。

 だからマサキも、"そこまで気にされてはいない"と思っていたのだが。


「寝不足になるくらいは、ちょっとやりすぎです」


 即答だった。

 そして、そのままファイルを差し出してくる。


「2学期の範囲で、予習しておくと良いところをまとめてきました」


「……え」


 受け取る。

 中にはルーズリーフが綺麗に綴じられていた。

 マサキは一枚めくる。


『ここは暗記』

『この問題は引っかけ多め』

『ここは手順だけ理解』

『優先度高い』


 情報量は多い。

 でも、見やすかった。


(……分かりやす)


 一瞬で頭へ入る。

 基礎部分は削られている。

 代わりに、応用や引っかかりやすい部分だけが抜き出されていた。

 マサキに合わせて作られている。


「ここだけやれば大丈夫、って要点だけまとめてあります」


(……これ全部書いたのか)


 一枚どころじゃない。まとめ方も、抜き出し方も、かなり時間がかかっている。


(如月だけじゃなくて、保坂さんにまで心配かけてたのか)


 そこまで考えて、少しだけ言葉が詰まる。

 最近の自分は、焦っていた。

 ただ机に向かって、ただ勉強して。

 "やってる感"だけで埋めようとしていた。

 気づけば、周りのことをあまり見ていなかった気がする。


(……余裕なかった)


 その事実が、じわりと遅れて効いてくる。


 ミオは穏やかな声で続ける。


「量を増やすより、"どこをやるか"の方が大事なので」


 マサキは少し黙った。

 最近の自分は、"とにかくやる"方向へ寄りすぎていた気がする。


「前、言ってましたよね」


「……?」


「自分のペースでやりたいって。わたし、それは松前くんに合ってると思うんです」


「……」


「なのに今は、ちょっとペース上げすぎな気がします」


 責める口調ではない。

 ただ、整理して説明しているだけだ。


「続けられなくなると意味ないですから、"必要なところだけ"やればいいんです」


「……」


「とくに、寝不足はダメです。頭まわらなくなりますから」


(確かに……)


 反論できなかった。

 最近、英文を二度読みすることが増えている。

 集中力が落ちている自覚はあった。


 マサキはファイルを見る。

 綺麗な字。

 整理された内容。


「いや……あのさ」


 マサキは少し言葉を探した。


「こういうのは嬉しいんだけど」


「……はい」


 ミオの返事は、さっきまでより少しだけトーンが落ちた。

 ほんのわずかだが、空気が変わる。


(……もしかして、重かったかな)


 ミオは一瞬だけそう思った。

 作っている時は、確かに楽しかった。

 どこを削るか考えて、マサキに合う形に整えていく作業は、むしろ集中できたし、嫌な感覚はなかった。

 けれど、渡した瞬間に、少しだけ現実に引き戻される。


(これは、やりすぎだったかも……)


 そんな考えが、遅れて浮かぶ。


 マサキの言葉は続く。


「お返しとか出来ないし……悪いなって」


 ミオはきょとんとした顔で見ていた。


「保坂さん、クラス違うのにわざわざ……」


「迷惑でしたか?」


「そうじゃなくて」


 マサキはすぐ否定する。

 それだけは違った。

 むしろありがたい。

 ありがたすぎて困る。


 ミオは少し考えてから、ふわっと笑った。


「そんな大したことじゃないですよ」


「……」


「お返しとか貰っても困りますし。これは、わたしがやりたかっただけなので」


「………なんで?」


 思わず聞いていた。


「なんでって……」


 ミオは不思議そうに瞬きをする。


 少しだけ考えているようだった。

 理由はいくつかあるはずだ。


 マサキは、やればできるのに途中で止まることがある。

 どこをやるべきかが分かれば、もっと進むタイプだと思った。

 それを整理して渡すのは、単純に効率がいい。

 それに、こういうのをまとめる作業自体も嫌いじゃない。

 どこを残して、どこを削るか考えるのは少し楽しい。

 マサキには、その結果が伝わりそうな気がした。


 だから。

 本当は理由はいくらでもあるのに。


 ミオは本当に自然な顔で言った。


「松前くんは、大事なお友達なので」


「だっ……」


 マサキの喉が詰まる。


(友達の前に『大事』ってつくのか……)


 正直なところ、しっくりきていない。

 如月とは距離が近いから、なんとなく分かる。

 あれが友達としての接し方なのだろう。

 人気すぎて、手が届かなくて、そういう枠に入れていいのか迷うこともあるけど。


 ミオとは話すことは増えたが、まだ数回勉強を見てもらっただけだ。

 それを友達と言っていいのかも分からない。

 そもそも。


("友達"って、どのくらいからなんだ……)


 基準が曖昧なまま、ずっと宙に浮いている。

 だからそこに突然、


(大事、って何だ)


 余計な一言が付いた気がした。

 評価みたいなものなのか。

 距離の話なのか。

 それとも別の意味なのか。

 整理できないまま、喉だけが詰まる。

 そんな概念、あまり馴染みがない。


 ミオはマサキの反応を気にした様子もなく、ファイルへ目を落とした。


「自分で書き出して気づいたんですけど」


「……?」


「説明を文字にするのって難しいですね」


 ミオは少し困ったように笑う。


「口で言うとすぐ終わるのに、文字にするとゴチャゴチャしてしまって」


 マサキは黙って聞く。


「あれも大事、これも必要って思うと、削れなくなるんですよね」


 ミオはルーズリーフを軽く叩いた。


「でも、うまく一言でまとまると嬉しいです」


 マサキは少し目を細めた。

 削って、残して、それを一つにする話だ。


 マサキはファイルを見る。

 整理されているのに、妙に軽い。

 必要なものだけが残っている。


(これの話か……?)


 それとも。


(いや、オレのことか?)


 言いたいことは浮かぶ。

 でもそのままでは長くなる。

 だから削る。

 最後に一つだけ残す。

 その感覚と、さっきの話が重なる。


「……両方?」


 ミオは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


「はい」


 その一言だけが落ちる。

 窓の外から、体育へ向かう生徒たちの声が聞こえる。


 マサキはもう一度、ファイルを見る。

 "必要なものだけ"を残したノート。

 それはどこか、ミオ自身みたいだった。


 ◇ ◇


 ミオが帰ったあと。

 教室はまたいつもの騒がしさへ戻っていた。


 マサキは机の上のファイルを見る。

 綺麗に整理された文字。

 必要なものだけが残されたページ。


 進路希望調査の控えを見る。

 そこには、自分で書いた文字が残っていた。


 『音楽大学』

 『音響・映像関係』


 少し前なら、どちらも書かなかった。


 まだ分からない。

 本当に行けるかも。

 何になりたいのかも。


 全部。


 でも、真っ白だった紙は、もう真っ白じゃなかった。


 窓の外では夏の終わりの風が吹いている。

 マサキは進路希望調査をファイルへ挟んだ。


 それから問題集を解く。

 今度は、手が止まらなかった。

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