新学期 ~罰ゲームだと思った帰り道1~
放課後の教室は、昼とは違って静かだった。
人の気配が抜けて、机と椅子の並びだけがやけに整って見える。
マサキはカバンを肩にかける。
(……昨日、やりすぎたな)
喉の違和感と、思い出すだけで少し疲れる空気。
それでも……
(……まあ、悪くはなかったか)
ついでにリサの胸とお尻の感触も思い出す。
初めて触った女の子の身体。
(しかもあんな可愛い子の…)
感触を思い出すと、思わずニヤついてしまう。
同時に、また触りたいとも思う。
(いや、キモすぎる…)
昨日のあれは事故だった。
リサだって驚いていたし、困っていた。
それなのに、都合のいい部分だけ思い出している自分が、普通に嫌になる。
マサキは軽く頭を振って、意識を切る。
昨日は、たまたまだ。
席が隣で、流れがあって、そういう事故まで起きただけ。
今日も同じ距離で話せるなんて、最初から思わない方がいい。
今日は、朝に一度、『おはよう』と交わしただけだった。
リサの周りには、いつも通り何人かクラスメイトがいた。
それでも、こっちに気づいて、ちゃんと目を向けてくれた。
本来なら、それだけで十分すぎるはずだった。
(……何期待してんだ、オレ)
昨日の距離が、少しおかしかっただけだ。
あれを基準にしたら、全部おかしくなる。
(……こんなもんだろ)
昨日が少し異常だっただけで、本来は、ああいう距離じゃない。
(クラスが同じだからって、関わる理由もない)
あの空間だから隣にいただけ。
あの流れだから会話していただけ。
(もう、戻ったってことか)
自分の位置に。
こっち側じゃなくて、あっち側に。
マサキはそのまま教室の扉へ向かった。
小さく息を吐いて、出ようとしたとき。
「松前くん」
明るく通る声。
思考が止まる。
反射みたいに振り向きかけて、動きが止まった。
廊下側の光の中に、リサが立っている。
声をかけたあとも、すぐには近づいてこなかった。
扉の近くで様子を見るように立っていて、マサキが振り向いたのを確認してから、ほっとしたみたいに口元を緩めた。
揺れた髪。
制服の白。
笑いかける直前みたいに少しだけ上がった口元。
その全部が、一瞬で視界に入ってくる。
脳が追いつかない。
タイミングが悪すぎる。
ついさっきまで頭の中にいた相手が、そのまま現実に立っている。
しかも。
(声、可愛すぎだろ……)
名前を呼ばれただけなのに、耳の奥へ残る。
柔らかい。
近い。
距離の詰め方が自然すぎる。
『松前くん』ってその呼び方ひとつで、妙に空気が変わる。
(やばい、顔に出てないか……?)
マサキはすぐ目を伏せた。
「……おつかれ」
少し間を置いてから出た言葉。
学生同士の放課後の挨拶としては、少しだけズレている響き。
リサはぱっときょとんとした顔をしたあと、すぐにその意味を汲み取ったみたいに、ふっと笑った。
「おつかれー」
あえて同じ言葉で返す。
軽く合わせるその感じが、妙に自然だった。
少しだけ近づいてくる。顔がはっきり見えると、
(……綺麗すぎだろ)
無意識にそんなことを思ってしまって、軽く目線を外す。
リサは少し様子を伺うみたいに顔を傾けた。
「松前くんてさ、めっちゃ歌上手いんだね」
マサキは固まる。
「いや……ふ、普通」
「普通じゃなかったって」
リサが身を乗り出す。
距離がほんの少しだけ縮まる。
(……近い)
反射的に身体を引きそうになって、止める。
(露骨なのはやばい…)
視線をどこに置くか迷って、結局床を見た。
「ほんとすごいなぁって、今日もちょっと話題だった」
リサは嬉しそうに笑う。
自然で、作ってない感じで。
あの場で見た場を回す笑顔とは違うことに気づく。
(……やばい、会話が続かない…っ)
自分が何か言う番だと分かっているのに、言葉が出てこない。
「……ありがとう」
とだけ短く返す。精一杯だった。
リサは、
「ううん。あたしの方こそ…松前くん来てくれて助かったし、嬉しかった」
両手を合わせて、顔を伏せながら言う。
心から、そう言っているみたいに聞こえる声だった。
(社交辞令だよな…?)
それからリサは、言いにくそうに視線を落とした。
言いかけて、一度だけ口を閉じる。
指先がスカートの端を軽くつまんで、すぐに離れた。
それから、何でもないことみたいに顔を上げる。
「松前くん、ちょっと一緒に帰らない?」
マサキは止まる。
「へ」
間の抜けた声が、そのまま口から落ちた。
(……一緒に帰る?)
頭の中で言葉だけがゆっくり反復される。
と同時に。
(……なんで?)
すぐに疑問が浮かぶ。
(罰ゲーム、とかか?)
というより、昨日の悪ノリの続きみたいなものかもしれない。
昨日は、二人でいるだけでイチャついていると言われた。
松前にだけ甘いだの、隣から動かないだの、散々からかわれていた。
その流れなら、『じゃあ松前と一緒に帰ってこいよ』くらいの軽口が出てもおかしくない。
そう考えると、嫌なくらい納得できてしまった。
目の前には、遠慮がちにこちらを見ているリサ。
「……だめ?」
首を小さく傾ける。
その仕草がやけに自然で、変に意識してしまう。
(いや、だめとかじゃなくて……)
マサキは言葉に詰まる。
だめなわけがない。
自分なんかに、わざわざ声をかけて。
(……それで断られたら、さすがにショックだろ)
別の感情が混ざる。
(罰ゲームでも、一緒に帰れるのは嬉しいだろ)
そう思った瞬間、自分で自分の思考に少しだけ引く。
でも、そのまま肯定するのも違う気がして。
「……だめじゃない」
結局、それしか出てこない。
リサは目を細めてから、くすっと笑う。
「じゃあ決まりー」
あっさりと言い切られる。
(なんでだ……)
2人で校舎を出た。
◇ ◇
校門を出て、2人で並んで歩く。
夕方の光が少し傾いて、アスファルトに長く影を落としていた。
(オレが……可愛い子と2人で帰ってる)
改めて状況を整理しようとして、逆に思考が変に回り始める。
マサキは視線を前に落としたまま、隣を歩くリサを意識しないようにする。
けれど、意識しないなんて無理だった。
クラスの中心にいるような美少女が、最底辺の陰キャと一緒に帰る。
ちらりと横を見る。
リサは、普通に楽しそうに歩いている。
「今日めっちゃ暑かったよねー。昼とか夏みたいだった」
くすっと笑いながら、軽く空を見上げる。
「なんか急に夏っぽくなってきたよね」
「うん…」
短く相槌だけ返す。
(短すぎるだろ……)
自分でも分かる。
会話になっていない。
「このくらいの時間が涼しくていいんだよね」
「……そうだな」
(もっとなんか、言えよ……)
頭の中では言葉を探しているのに、口から出てくるのはこれだけだ。
少し歩いて、またリサが続ける。
「今日さ、消しゴムどこいったか分かんなくなってさー」
「ずっと探してたら普通に筆箱にあった」
「……あるな」
また、それだけ。
自分でも嫌になるくらい、広がらない返し。
相槌ですらまともにできていない。
それでもリサは気にした様子もなく、他愛ない話をぽつぽつと続けていく。
ただ、何度か言葉が途切れた。
何かを聞きかけるみたいに口を開いて、それからすぐに別のどうでもいい話へ戻していく。
マサキはその横顔をちらりと見て、すぐに前を向いた。
(……申し訳なさすぎる)
明らかに、向こうが会話を回してる。
自分はただ、乗っかってるだけ。
(これ、絶対つまんねぇだろ……)
せっかく話しかけてきてくれてるのに、まともに返せていない。
(……なのに)
「それでさ、先生に言われちゃってー」
リサは変わらず、楽しそうに続ける。
(……演技、上手いな)
そう思ってしまう。
リサは歩幅を合わせて、途切れないように会話を続けている。
その違和感に、ふと気づく。
(……あれ)
さっきから。
(この子、オレに質問してないな)
感想とか、出来事とか、全部自分発信。
こっちに話を振る形になっていない。
だから。
(オレが答えに詰まることもない、のか)
沈黙が怖いわけでも、会話が苦手なのを責めるわけでもなく。
ただ、自然に続く形だけ作っている。
(……そこまでやるか、普通)
昨日カラオケで見たやり方と、同じだ。
相手に負担をかけないように、空気を整えるやり方。
マサキは視線を落とす。
(それに甘えてるだけだろ、オレ)
気づいたところで、どうすることもできない。
それでも。
(罰ゲームなら…付き合わせてる時間、長いほど面倒だろ)
どうせ『やった』って形になればいいだけなら、適当なところで区切ればいい。
(……面倒なの引かせたな)
申し訳なさと、少しの納得が混ざる。
(罰ゲームだとしても)
一瞬、考える。
(それでも、嬉しいのは変わんないけど…)
そう思った瞬間、心の中でだけ認めた。
(だったら、早めに解放してやった方がいいよな)
「……あ、あのさ」
少しだけタイミングを見て、声を出す。
「ん?」
リサが顔を向ける。
その視線に詰まりかけて、マサキは目をそらす。
(自分から話しかけるのしんどいな…)
「……どこまで帰る」
無難な聞き方に変えた。
「え?あたし?駅の方かな」
リサはきょとんとしてから、すぐに答える。
そのあと、ほんの少しだけ表情が柔らぐ。
話しかけられたのが嬉しいみたいに。
「……そうか」
短く返す。
(駅なら、ちょうどいいか)
人も多いし、そこで解散しても自然だ。
その横で、リサはほんの少しだけ間を置いてから口を開く。
「松前くんってさ」
さっきより、声が軽い。
「……なに」
「帰り道、いつも一人?」
「……まあ」
それ以外に答えようがない。
リサは「そっかー」と小さく頷く。
その声が、さっきより少し柔らかかった。
(……なんだ)
マサキは引っかかりを覚える。
無理してる感じが、あまりない。
さっきまでより、少し自然に見える。
(いや、でもな)
逆に考えれば、ちゃんとやってるだけかもしれない。
そういう罰ゲームの役を。
マサキはそれ以上考えるのをやめた。
(どっちでもいいか)
どうせ、自分には関係ない。
その横で、リサが少し黙った。
いつもの雑談を続けるには、間が空きすぎていた。
指先がカバンの持ち手を小さく握る。
それでも何かを確かめたいみたいに、リサは小さく息を吸った。
「あの、それって。彼女とかいないってこと?」
遠慮がちな問いかけ。
マサキは足を止めかけた。
さっきよりも、踏み込んだ質問。
(……なんだそれ)
軽い雑談の流れにしては、温度が違う。
「……まあ」
短く答える。
考える余地もない質問だった。
リサはその返事を聞いて、表情をゆるめる。
「へー」
どこか安心したような声だった。
マサキはそれに気づいて、首をかしげる。
(……なんだ今の)
ただの確認にしては、反応が妙に引っかかる。
でも。
(深い意味ないだろ)
そう片付ける。
「……なんで」
思わず口に出ていた。
リサはきょとんとしてから、
「え?」
と、間の抜けた声を返す。
「いや、なんでそんなこと聞くのかって」
目線を前に向けながら言う。
リサは「あー……」と小さく間を置いてから、
「彼女いたらさ、あたしとこうやって帰るのまずいと思って」
軽く言う。
でも、その言い方は少しだけ曖昧だった。
言葉よりも、少し慎重な間。
マサキはそれ以上追及しなかった。
(どうせ、深い意味ないだろ)
そうやって、考えを閉じる。
けれど。
リサは歩きながら、肩が触れるか触れないかの距離まで近づいてきた。
(……近い)
さっきより、明らかに。
偶然じゃない距離。
リサは、そのまま顔を上げる。
「じゃあ、気になる人とか」
言い終わる前に、声が弱くなる。
さっきよりも、はっきりと踏み込んでいる。
マサキは、呼吸を忘れた。
(……なんだその質問)
軽い雑談じゃない。
一瞬、隣を歩くリサの横顔が頭に浮かびかけた。
(いや、違う。そういう意味じゃない)
マサキはすぐに打ち消す。
そもそも、如月さんをそういう枠に入れること自体がおかしい。
でも。
(……いや)
そこまで考えて、止める。
踏み込んでる理由を考えるより先に、そういうものじゃない方に寄せる。
「……いない」
短く答える。
それ以上は、何も言わなかった。
◇ ◇
リサは目を瞬かせて、それから
「ほんとに?」
顔を覗き込むようにしてくる。
(近いって……)
マサキは前を向く。
「……なんで疑う」
「え、松前くんモテると思って」
その目は真剣だった。
(モテてるのはそっちだろ…)
「オレがモテるわけないだろ。ただの陰キャ野郎なのに」
リサはその言葉を聞いて、クスッと笑う。
「えー、謙虚なんだね。でもちょっと無理があるかな」
「……どこが」
「カラオケ一曲歌うだけで、あんなに盛り上げた人が?」
マサキの顔を覗き込む。
思考が止まる。
整ってるとか、そういうレベルじゃない。
角度が変わるだけで印象が変わるのに、どこから見ても崩れない。
(普通に美人すぎる……)
マサキは慌てて視線を前に戻す。
(見すぎだろ……キモいって)
自分で自分にツッコミを入れる。
リサはそんなことも知らずに、歩くペースをゆるめて隣に並んだ。
「あれはたまたま」
リサは前を向いて歩いている。
少し髪が揺れて、頬にかかる。
それを指で軽く払う仕草。
(……なんでその動きでいちいち綺麗が成立するんだ)
自然なのに、無駄がない。見てしまう。そして、そのたびに思う。
(ほんとに、美人だな……)
何回目か分からない感想が、また浮かぶ。
「たまたまか…そっかぁ」
少し歩いて、信号で止まる。
横に並ぶ形になる。
沈黙。
(……ここでいいか)
ここまでずっと、リサが話をつないでくれていた。
自分はまともに返せていないし、歩く場所だって向こうが合わせてくれている。
向こうがどれだけ上手くやってくれても、こっちは乗っかっているだけだ。
長引かせるほど、相手に余計な役を続けさせることになる。
(これ以上引っ張るの、さすがに悪いだろ)
マサキは小さく息を吸う。
「……じゃあさ」
「ん?」
リサがこっちを見る。
その視線に言葉が詰まりかけて、マサキは続ける。
「ここでいいよ」
「……え?」
リサの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「駅、あっちだよな」
マサキは軽く顎で方向を示す。
「……うん、そうだけど」
「じゃあ、もう大丈夫だろ」
できるだけ普通に言う。
突き放さないように、でも長引かせないように。
これで終わりの合図にはなる。
リサは何も言わなかった。
信号が青に変わる。
周りの人が動き出す。
マサキも歩き進める。
それに合わせて、リサも横に並んでついてきた。
「き、如月さん…?」
マサキは足を止める。
リサは、止まったマサキを不思議そうに見つめる。
(いや可愛いな………じゃなくて)
「ここで別れて帰る流れだったよね?」
リサは首を傾げて
「え?」
と言った。
夕方の光が、横から当たっていた。
影が少し伸びて、輪郭がやわらかくなる。
それなのに、目だけは妙にくっきりしていて。
さっきから何回も見ているのに、慣れない。
真正面で見たときの整い方も、横から見たときのラインも、こうやって光が当たったときの雰囲気も、どこを切り取っても成立している。
(可愛さが反則級だろ……)
リサは少し不安そうにしている。
「ご、ごめん。意味わかってなくて…あたしも家こっちだから、いいかなって」
「オレはいいけど、如月さんが無理してるんじゃないか?」
リサは、その言葉に目を瞬かせた。
「……うん?」
きょとんとした顔のまま、首を傾ける。
マサキは前を向いたまま続ける。
「昨日もそうだけどさ、なんか……気、遣ってるだろ」
言いながら、自分でもうまく言葉にできていない感覚が残る。
少し言いすぎた気もするが、止まらなかった。
「オレと一緒にいても、別に楽しくないよな」
リサの動きが止まる。
足音も、ぴたりと止まった。
すぐに怒ったわけではなかった。
言葉の意味を探すみたいに視線が揺れて、一度だけ何かを言おうとして、口を閉じる。
そのあとで、遅れて表情が変わった。
(いまの言い方はヤバかったか…余計に気を遣わせるだけだ)
後悔がよぎる。
リサは明らかにムスッとした顔になっていた。
不機嫌だとすぐに分かる。
けれど、その顔になるまでに一瞬だけ間があったせいで、マサキは余計に目を逸らせなくなる。
こんな顔もするのかと思っていると、リサは一度だけ言葉を飲み込むみたいに視線を落として、
「勝手に決めつけないで。あたし楽しくなさそうにしてた?それなら謝るけど」
マサキは言葉を失う。
「……いや」
否定しかけて、止まる。
楽しくなさそうだったか、と聞かれて思い返す。
笑っていた。
普通に、ずっと。
無理してる感じも、少なくとも分かりやすくはなかった。
(じゃあ、なんで……)
答えが出ないまま、口だけが動く。
「そういう意味じゃなくて……」
リサはじっと見ている。
さっきまでの柔らかさはなくて、棘のある視線。
でも、その表情さえ。
(……可愛い)
頬を膨らませて、むすっとしているのに崩れない。
普段とのギャップのせいで、余計に印象に残る。
(美人にジト目で見られてる)
場違いな感想が浮かんで、自分で嫌になる。
「……その、なんていうか。如月さんがオレといる理由が分からなくて」
少し正直に出た。
リサの口元が、かすかに動く。
「り、理由?」
「普通に考えて、おかしいよな」
視線は合わせないまま続ける。
「クラスで中心にいる人が、わざわざオレみたいなのと一緒に帰るとか」
言ってから、後悔する。
(言い方、最悪だろ……)
でも止まらなかった。
「だから、その……罰ゲームとか、そういうのかなって」
最後は声が弱くなる。
言った瞬間、沈黙が落ちた。
さっきまでの空気より、少し重い。
リサはしばらく何も言わなかった。
ただ、じっとマサキを見ている。
やがて口を開くと、
「じゃあさ、断ればいいじゃん」
声が、少しだけ震える。
一歩近づいて、
「こっちだって期待して…浮かれてたの、バカみたいじゃん」
その声は、さっきまでよりも低かった。
怒ってる、というより、傷ついてる。
マサキは、何も言えなくなる。
リサが続ける。
「松前くんには、罰ゲームにしか見えなかったんだ」





