6. 新学期 ~ちょっと一緒に帰らない?~
放課後の教室は、昼とは違って静かだった。
人の気配が抜けて、机と椅子の並びだけがやけに整って見える。
マサキはカバンを肩にかける。
(……昨日、やりすぎたな)
喉の違和感と、思い出すだけで少し疲れる空気。
それでも――
(……まあ、悪くはなかったか)
ついでにリサの胸とお尻の感触も思い出す。
初めて触った女の身体。
(しかもあんな可愛い子の…)
感触を思い出すと、思わずニヤついてしまう。
同時に、また触りたいとも思う。
(いや、キモすぎる…)
軽く頭を振って、意識を切る。
――今日は、ほとんど話していない。
朝に一度、「おはよう」と交わしただけ。
(……こんなもんだろ)
昨日が少し異常だっただけで、本来は、ああいう距離じゃない。
(クラスが同じだからって、関わる理由もない)
あの空間だから隣にいただけ。
あの流れだから会話していただけ。
(もう、戻ったってことか)
自分の位置に。
あっち側じゃなくて、こっち側に。
マサキはそのまま教室の扉へ向かった。
小さく息を吐いて、出ようとしたとき。
「松前くん」
明るく通る声。
――思考が止まる。
反射みたいに振り向きかけて、動きが止まった。
廊下側の光の中に、リサが立っている。
揺れた髪。
制服の白。
笑いかける直前みたいに少しだけ上がった口元。
その全部が、一瞬で視界へ入ってくる。
脳が追いつかない。
タイミングが悪すぎる。
ついさっきまで頭の中にいた相手が、そのまま現実に立っている。
しかも。
(声、可愛すぎだろ……)
名前を呼ばれただけなのに、耳の奥へ残る。
柔らかい。
近い。
距離の詰め方が自然すぎる。
「松前くん」ってその呼び方ひとつで、妙に空気が変わる。
(やばい、顔に出てないか……?)
マサキはすぐ視線を逸らした。
「……おつかれ」
少し間を置いてから出た言葉。
学生同士の放課後の挨拶としては、少しだけズレている響き。
リサはぱっときょとんとした顔をしたあと、すぐにその意味を汲み取ったみたいに、ふっと笑った。
「おつかれー」
あえて同じ言葉で返す。
軽く合わせるその感じが、妙に自然だった。
少しだけ近づいてくる。顔がはっきり見えると、
(……綺麗すぎだろ)
無意識にそんなことを思ってしまって、軽く目線を外す。
リサは少し様子を伺うみたいに顔を傾けた。
「松前くんてさ、めっちゃ歌上手いんだね」
マサキは固まる。
「いや……ふ、普通」
「普通じゃなかったって」
リサが身を乗り出す。
距離がほんの少しだけ縮まる。
(……近い)
反射的に身体を引きそうになって、止める。
(露骨なのはやばい…)
視線をどこに置くか迷って、結局床を見た。
「ほんとすごいなぁって、今日もちょっと話題だった」
リサは嬉しそうに笑う。自然で、作ってない感じで。
あの場で見た"場を回す笑顔"とは違うことに気づく。
(……やばい、会話が続かない…っ)
自分が何か言う番だと分かっているのに、言葉が出てこない。
「……ありがとう」
とだけ短く返す。精一杯だった。
リサは、
「ううん。あたしの方こそ…松前くん来てくれて助かったし、嬉しかった」
両手を合わせて、少しだけ顔を伏せながら言う。
心から、そう言っているみたいに聞こえる声だった。
(社交辞令だよな…?)
それからリサは、少し言いにくそうにしてから、
「松前くん、ちょっと一緒に帰らない?」
マサキは止まる。
「へ」
間の抜けた声が、そのまま口から落ちた。
(……一緒に帰る?)
頭の中で言葉だけがゆっくり反復される。
――と同時に。
(……なんで?)
すぐに疑問が浮かぶ。
(罰ゲーム、とかか?)
ありがちなやつだ。
「松前と帰ってこいよ」みたいな軽いノリ。
昨日のカラオケの流れを考えれば、むしろ自然だった。
目の前には、少しだけ遠慮がちにこちらを見ているリサ。
「……だめ?」
首を小さく傾ける。
その仕草がやけに自然で、変に意識してしまう。
(いや、だめとかじゃなくて……)
マサキは言葉に詰まる。
だめなわけがない。
自分なんかに、わざわざ声をかけて。
(……それで断られたら、さすがにショックだろ)
別の感情が混ざる。
(罰ゲームでも、一緒に帰れるのは嬉しいだろ)
そう思った瞬間、自分で自分の思考に少しだけ引く。
でも、そのまま肯定するのも違う気がして。
「……だめじゃない」
結局、それしか出てこない。
リサは目を細めてから、くすっと笑う。
「じゃあ決まりー」
あっさりと言い切られる。
(なんでだ……)
2人で校舎を出た。
◇ ◇
校門を出て、2人で並んで歩く。
夕方の光が少し傾いて、アスファルトに長く影を落としていた。
(オレが……可愛い子と2人で帰ってる)
改めて状況を整理しようとして、逆に思考が変に回り始める。
マサキは視線を少しだけ前に落としたまま、隣を歩くリサを意識しないようにする。
けれど、意識しないほうが無理だった。
クラスの中心にいるような美少女が、最底辺の陰キャの自分と一緒に帰る。
ふと横を見る。
リサは、普通に楽しそうに歩いている。
「今日めっちゃ暑かったよねー。昼とか夏みたいだった」
くすっと笑いながら、軽く空を見上げる。
「なんか急に夏っぽくなってきたよね」
「うん…」
短く相槌だけ返す。
(短すぎるだろ……)
自分でも分かる。会話になっていない。
「このくらいの時間が涼しくていいんだよね」
「……そうだな」
(もっとなんか、言えよ……)
頭の中では言葉を探しているのに、口から出てくるのはこれだけだ。
少し歩いて、またリサが続ける。
「今日さ、消しゴムどこいったか分かんなくなってさー」
「ずっと探してたら普通に筆箱にあった」
「……あるな」
また、それだけ。
自分でも嫌になるくらい、広がらない返し。
相槌ですらまともにできていない。
それでもリサは気にした様子もなく、他愛ない話をぽつぽつと続けていく。
マサキはその横顔をちらりと見て――すぐに前を向いた。
(……申し訳なさすぎる)
明らかに、向こうが会話を回してる。
自分はただ、乗っかってるだけ。
(これ、絶対つまんねぇだろ……)
せっかく話しかけてきてくれてるのに、まともに返せてない。
(……なのに)
「――それでさ、先生に言われちゃってー」
リサは変わらず、楽しそうに続ける。
(……演技、上手いな)
そう思ってしまう。
リサは歩幅を合わせて、途切れないように会話を続けている。
その違和感に、ふと気づく。
(……あれ)
さっきから。
(この子、オレに質問してないな)
感想とか、出来事とか、全部"自分発信"。
こっちに話を振る形になっていない。
だから――
(オレが答えに詰まることもない、のか)
沈黙が怖いわけでも、会話が苦手なのを責めるわけでもなく。
ただ、自然に"続く形"だけ作っている。
(……そこまでやるか、普通)
昨日カラオケで見たやり方と、同じだ。
相手に負担をかけないように、空気を整えるやり方。
マサキは少しだけ視線を落とす。
(それに甘えてるだけだろ、オレ)
気づいたところで、どうすることもできない。
それでも――
少しだけ、胸の奥がざわついた。
(罰ゲームなら…付き合わせてる時間、長いほど面倒だろ)
どうせ"やった"って形になればいいだけなら、適当なところで区切ればいい。
(……面倒なの引かせたな)
申し訳なさと、少しの納得が混ざる。
(罰ゲームだとしても)
一瞬、考える。
(それでも、嬉しいのは変わんないけど…)
そう思った瞬間、心の中でだけ認めた。
(だったら、早めに解放してやった方がいいよな)
「……あ、あのさ」
少しだけタイミングを見て、声を出す。
「ん?」
リサが顔を向ける。
その視線に詰まりかけて、マサキは目を逸らす。
(自分から話しかけるのしんどいな…)
「……どこまで帰る」
無難な聞き方に変えた。
「え?あたし?駅の方かな」
リサはきょとんとしてから、すぐに答える。
そのあと、ほんの少しだけ表情が柔らぐ。
話しかけられたのが嬉しいみたいに。
「……そうか」
短く返す。
(駅なら、ちょうどいいか)
人も多いし、そこで解散しても自然だ。
その横で、リサはほんの少しだけ間を置いてから口を開く。
「松前くんってさ」
さっきより、ほんの少しだけ声が軽い。
「……なに」
「帰り道、いつも一人?」
「……まあ」
それ以外に答えようがない。
リサは「そっかー」と小さく頷く。
その声が、さっきより少しだけ柔らかかった。
(……なんだ)
マサキは違和感を覚える。
無理してる感じが、あまりない。
さっきまでより、少しだけ自然に見える。
(いや、でもな)
逆に考えれば、"ちゃんとやってる"だけかもしれない。
そういう罰ゲームの役を。
マサキはそれ以上考えるのをやめる。
(どっちでもいいか)
どうせ、自分には関係ない。
「あの、それって。彼女とかいないってこと?」
リサが遠慮がちに問いかける。
マサキは足を止めかけた。
さっきよりも、踏み込んだ質問。
(……なんだそれ)
軽い雑談の流れにしては、温度が違う。
「……まあ」
短く答える。考える余地もない質問だった。
リサはその返事を聞いて、表情をゆるめる。
「へー」
どこか安心したような声だった。
マサキはそれに気づいて、眉をひそめる。
(……なんだ今の)
ただの確認にしては、反応が妙に引っかかる。
でも――
(深い意味ないだろ)
そう片付ける。
「……なんで」
思わず口に出ていた。
リサはきょとんとしてから、
「え?」
と、間の抜けた声を返す。
「いや、なんでそんなこと聞くのかって」
視線を逸らしながら言う。
リサは「あー……」と小さく間を置いてから、
「彼女いたらさ、あたしとこうやって帰るのまずいと思って」
軽く言う。
でも、その言い方は少しだけ曖昧だった。
言葉よりも、少し慎重な間。
マサキはそれ以上追及しなかった。
(どうせ、深い意味ないだろ)
そうやって、考えを閉じる。
けれど――
リサは歩きながら、肩が触れるか触れないかの距離まで近づいてきた。
(……近い)
さっきより、明らかに。
偶然じゃない距離。
リサは、そのまま視線を上げる。
「じゃあ、気になる人とか」
言い終わる前に、声が弱くなる。
さっきよりも、はっきりと踏み込んでいる。
マサキは、呼吸を忘れた。
(……なんだその質問)
軽い雑談じゃない。
でも――
(……いや)
そこまで考えて、止める。
踏み込んでる理由を考えるより先に、"そういうものじゃない"方に寄せる。
「……いない」
短く答える。
それ以上は、何も言わなかった。
◇ ◇
リサは目を瞬かせて、それから
「ほんとに?」
少しだけ顔を覗き込むようにしてくる。
(近いって……)
マサキは視線を逸らす。
「……なんで疑う」
「え、松前くんモテると思って」
その目は真剣だった。
(モテてるのはそっちだろ…)
「オレがモテるわけないだろ。ただの陰キャ野郎なのに」
リサはその言葉を聞いて、クスッと笑う。
「えー、謙虚なんだね。でもちょっと無理があるかな」
マサキは眉をひそめる。
「……どこが」
「カラオケ一曲歌うだけで、あんなに盛り上げた人が?」
マサキの顔を覗き込む。
思考が止まる。
整ってるとか、そういうレベルじゃない。
角度が変わるだけで印象が変わるのに、どこから見ても崩れない。
(普通に美人すぎる……)
マサキは慌てて視線を前に戻す。
(見すぎだろ……キモいって)
自分で自分にツッコミを入れる。
リサはそんなことも知らずに、少しだけ歩くペースを緩めて隣に並んだ。
「あれはたまたま」
リサは前を向いて歩いている。
少しだけ髪が揺れて、頬にかかる。
それを指で軽く払う仕草。
(……なんでその動きでいちいち綺麗が成立するんだ)
自然なのに、無駄がない。見てしまう。そして、そのたびに思う。
(ほんとに、美人だな……)
何回目か分からない感想が、また浮かぶ。
「たまたまか…そっかぁ」
少し歩いて、信号で止まる。
自然と足が止まる。横に並ぶ形になる。
沈黙。
(……ここでいいか。これ以上引っ張るの、さすがに悪いだろ)
マサキは小さく息を吸う。
「……じゃあさ」
「ん?」
リサがこっちを見る。
その視線に言葉が詰まりかけて、マサキは続ける。
「ここでいいよ」
「……え?」
リサの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「駅、あっちだよな」
マサキは軽く顎で方向を示す。
「……うん、そうだけど」
「じゃあ、もう大丈夫だろ」
できるだけ普通に言う。
突き放さないように、でも長引かせないように。
これで"終わり"の合図にはなる。
リサは何も言わなかった。
信号が青に変わる。周りの人が動き出す。
マサキも歩き進める。それに合わせて、リサも横に並んでついてきた。
「き、如月さん…?」
マサキは足を止める。
リサは、止まったマサキを不思議そうに見つめる。
(いや可愛いな………じゃなくて)
「ここで別れて帰る流れだったよね?」
リサは首を傾げて
「え?」
と言った。
夕方の光が、横から当たっていた。
影が少し伸びて、輪郭がやわらかくなる。
それなのに、目だけは妙にくっきりしていて。
さっきから何回も見ているのに、慣れない。
真正面で見たときの整い方も、横から見たときのラインも、こうやって光が当たったときの雰囲気も、どこを切り取っても成立している。
(可愛さが反則級だろ……)
リサは少し不安そうにしている。
「ご、ごめん。意味わかってなくて…あたしも家こっちだから、いいかなって」
「オレはいいけど、如月さんが無理してるんじゃないか?」
リサは、その言葉に目を瞬かせた。
「……うん?」
きょとんとした顔のまま、少しだけ首を傾ける。
マサキは前を向いたまま続ける。
「昨日もそうだけどさ、なんか……気、遣ってるだろ」
言いながら、自分でもうまく言葉にできていない感覚が残る。
少し言いすぎた気もするが、止まらなかった。
「オレと一緒にいても、別に楽しくないよな」
リサの動きが止まる。足音も、ぴたりと止まった。
言葉の意味を探すみたいに視線が揺れて、そのあとで遅れて止まる。
(いまの言い方はヤバかったか…余計に気を遣わせるだけだ)
後悔がよぎる。
リサは明らかにムスッとした表情で、見て不機嫌だとすぐに分かった。
こんな顔もするのかと思っていると、一度だけ言葉を飲み込むみたいに視線を落として、
「勝手に決めつけないで。あたし楽しくなさそうにしてた?それなら謝るけど」
マサキは言葉を失う。
「……いや」
否定しかけて、止まる。
楽しくなさそうだったか、と聞かれて――思い返す。
笑っていた。普通に、ずっと。
無理してる感じも、少なくとも"分かりやすく"はなかった。
(じゃあ、なんで……)
答えが出ないまま、口だけが動く。
「そういう意味じゃなくて……」
リサはじっと見ている。
さっきまでの柔らかさはなくて、少しだけ棘のある視線。
でも、その表情さえ――
(……可愛い)
機嫌が悪そうに眉を寄せてるのに、崩れない。
むしろ、普段とのギャップのせいで余計に印象に残る。
(ほんとに、美人だな……美人に睨まれてる)
場違いな感想が浮かんで、自分で嫌になる。
「……その、なんていうか。如月さんがオレといる理由が分からなくて」
少しだけ、正直に出た。
リサの眉が、ぴくっと動く。
「り、理由?」
「普通に考えて、おかしいよな」
視線は合わせないまま続ける。
「クラスで中心にいる人が、わざわざオレみたいなのと一緒に帰るとか」
言ってから、後悔する。
(言い方、最悪だろ……)
でも止まらなかった。
「だから、その……罰ゲームとか、そういうのかなって」
最後は声が弱くなる。
言った瞬間、空気が止まる。
沈黙。
さっきまでの空気より、少し重い。
リサはしばらく何も言わなかった。
ただ、じっとマサキを見ている。
やがて口を開くと、
「じゃあさ、断ればいいじゃん」
声が、少しだけ震える。
一歩近づいて、
「こっちだって期待して…浮かれてたの、バカみたいじゃん」
その声は、さっきまでよりも低かった。
怒ってる、というより――傷ついてる。
マサキは、何も言えなくなる。
リサが続ける。
「松前くんには、罰ゲームにしか見えなかったんだ」




