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62. 夏の距離 前編 ~会いたいって、なんだ2~

 笑い声がすぐ近くで弾けて、別のテーブルの会話がそのまま耳に流れ込んでくる。

 BGMはほとんど意味を失っていて、人の声に完全に埋もれていた。

 男子・女子グループの笑い声、椅子が床を引きずる音、食器がぶつかる乾いた音。

 そこに呼び出しベルの電子音が割り込んでは消え、また別の席の呼びかけが重なる。

 音が一つも途切れないまま、店全体が常に動き続けているようだった。


 気づけば、リサの声は聞こえているのに、周囲の音に押されて少しだけ遅れて頭に入ってくる。


(如月の声が、聞き取りづらい…)


 グラスを持ちながら、マサキが周囲を見る。

 小さく息を吐く。


「……こういうの、あんまり好きじゃないな」


 間を空けてから、付け足すように言う。


「騒がしいやつ」


 ◇


 リサは一瞬だけきょとんとしたあと、一つの言葉だけが引っかかった。


 "やつ"


(あたしのこと…?)


 笑い方とか、喋り方とか、今さっきまでの自分のテンションを思い返す。


(あたし、うるさかった? さっきめっちゃ喋ってたし……やっぱり松前くん、大人しい子の方が好きなんだ)


 リサはストローをくわえ直すと、さっきより少しだけ姿勢を正した。


(あたし、めっちゃ喋ってた。うるさいって思われた。どうしよう、嫌われちゃう…)


 胸の奥が少しだけ縮む。


(大丈夫、できるできる)


 声のトーンを一段だけ落とす。


「ミオみたいにしっかりした子がそばにいるとさ、ちょっと焦るときあるんだよね」


「…」


「休みの日も朝早いし、あたしはダラダラしちゃうから。正反対だなって思う」


「オレもダラダラしてる」


 その一言で、胸の中が少しだけ軽くなる。


(そーなんだー!って言いたい)


 いつもなら、身を乗り出して、そこから一気に話を広げていたはずだった。

 でも今は、それをしない。


「そっかぁ」


 少し静かに、言葉を足す。


「…」


 マサキは何も言わない。

 その沈黙が、悪いものではないのに、少しだけ重い。


「ま、松前くんは…休みの日とか、何してるの?」


(聞かない方がよかったかな。でもこれくらいなら…)


「ゲームとか」


 短い返事。

 リサは視線を少しだけ落とす。


(あたしもゲームする。乙女ゲームばっかりだけど、マリオとかポケモンとかもやる)


 言いたいことは頭の中にいくらでも浮かぶのに、口に出す前に全部一度止める。

 いっぱい喋りたい衝動が、喉の奥で小さく跳ねる。

 それを押さえるみたいに、呼吸だけを整える。


 ストローはもう触らない。

 グラスも持たない。

 手は膝の上で静かに揃える。

 背筋も少しだけ伸ばす。


(落ち着いた子の方がいいんだよね)


 そう思うと、自然と動きが減っていく。


「ゲームしてると、あっという間に1日終わることあるよね」


「…そうだな」


 マサキの声に、また小さく頷くだけ。

 いつもならここで「それでさ!」とか「この前もね!」とか、勝手に枝を伸ばしていたはずなのに、今はそれをしない。

 代わりに、少しだけ間を置いてから、静かに言葉を足す。


「何も考えなくていいからかなぁ」


 その言葉を口にしたあとも、動かない。

 手も、足も、視線も。

 全部を静かにしている。


 ストローをくわえようとして、途中でやめた。


(今、噛むのもやめた方がいいな。ストロー噛む癖なおさなきゃ)


 ストローから手を離す。

 代わりに、グラスの横で指先を軽く揃える。


(このくらいなら大丈夫?)


 そう思いながら、リサはただテーブルの上を見ていた。


 ◇


 マサキはグラスに触れたまま、視線を少し落とした。


(……全然喋らなくなったな)


 さっきまでのテンポが、どこかに抜け落ちている。


 リサは姿勢を整えたまま座っている。

 手は膝の上で揃えられていて、ストローにももう触れていない。

 さっきまでの無造作さが消えていた。


 いつものリサは、勝手に喋って、勝手に広げて、勝手に笑う。

 それが今は、必要な分だけ話して止まっている。

 何かを我慢しているように見えた。


(疲れたんだな)


 最初にそう思う。


(オレといても、やっぱり楽しくないか)


 胸の奥が、嫌な方向に沈む。

 さっきまで普通に笑っていたのに、それが急に静かになったように見えるのが余計に刺さる。


(話し上手いやつの方が、そりゃ楽しいよな)


 自分で考えていても、否定できない。

 勝手に、見えない誰かを思い浮かべてしまう。

 明るくて、返しが早くて、リサの話にちゃんと乗れるやつ。


 クラスの中でも、なんとなく誰か出てくる。

 リサと普通に話していた男子。

 冗談を返して、そのまま笑い合っていたやつ。


(あれは、別に嫌がってる感じでもなかったし)


 自分にはできない動き。

 リサは普通に返していた。

 普通に笑っていた。


 一人ずつ、勝手に比較対象が増えていく。

 誰もかれも、自分より"うまくやれている"ように見える。


(オレ、今まで全然……楽しませてなかった)


 そこまで考えて、少しだけ呼吸が止まる。


 今まで普通にやれているつもりだった。

 リサも普通に笑ってた。

 リサがちゃんと笑ってくれてたから、今までそれでいいって思ってた。

 だから、変えようとか、うまく話そうとか……そういうの、ちゃんと考えたことなかった。


 でもそれは、自分が何かをしていたからじゃなくて——

 ただリサがそういう人だから、そう見えていただけ。


(楽しませたいのに…)


 思っているのに、形にならない。

 会話を続けたいのに続かない。

 広げたいのに、何も出てこない。

 そのズレだけが残る。


(……ダメだな、オレ)


 結局そこに戻ってくる。


 少しだけ間が空いて、マサキは視線を落としたまま口を開く。


「如月にばっかり……喋らせて、ごめん」


 声が思ったより小さい。

 言った瞬間、自分でも遅いと分かる。


 リサの反応が怖い。

 これ以上何か言って、今の空気を壊すのが怖い。


 それでも止めきれないまま、言葉が続く。


「さすがに……疲れたよな」


 一度、そこで切る。

 それでもまだ足りない気がしてしまう。


(これも、違うかもしれない)


 喉がひとつ動いてから、最後の一言が落ちる。


「如月も、その……ちゃんと、話できる男の方が……いいか」


 言い終えたあと、すぐに後悔が来る。

 けれどもう引っ込められなかった。


 ◇


 リサはその言葉を受け取った瞬間、少しだけ目を瞬かせる。

 すぐに意味を探すように視線が落ちる。


(ちゃんと話できる男の方がいいか)


 ゆっくり、頭の中で噛み砕く。


(ちゃんと話できる……って。本音を話してくれたり、悩みとか聞いてくれる人のことだよね)


 ぼんやりとした"そういう人"のイメージが浮かぶ。

 明るすぎず、でもちゃんと話を聞いてくれる人。

 ちゃんと返してくれる人。


(こういう人のこと、なのかな)


 そこまで考えかけて、ふとマサキの顔だけよぎる。

 でもすぐに、それ以上は深く考えない。


 ストローから手を離す。

 膝の上で指を揃え直す。


「……うん」


 短い返事。

 少し落ち着いた声。


 少しだけ間を空けてから、自然に続ける。


「そーだね、あたしも……ちゃんと話せる人の方がいいと思う」


 ◇


 マサキはその瞬間、すぐに視線を落とす。


(やっぱり、そうだよな。ちゃんと話せるやつの方がいい)


 さっきまで曖昧だった不安が、はっきりした形になる。


(オレは……違う)


 リサの「同意」が、そのまま"結論"として刺さってしまう。


「じゃあ、オレは……その」


 言いかけたまま、マサキは一度言葉を止める。


(いない方がいいよな?でも……)


 グラスの縁を指がなぞる。


(オレは…如月の、そばにいたい…どう言えばいいんだ)


 うまく言葉にできないまま、喉の奥で引っかかったものをそのまま押し出す。


「なるべく、ちゃんと話せるようにする」


 自分でも少し違和感がある。言い切れていない感じが残る。


「話題も、ふるし…。もうちょい、ちゃんと返せるようにする」


 リサのことが分かれば、少しは変わるだろう。

 何を話せばいいか、迷わなくなるかもしれない。


「如月の好きそうなのも、ちょっと見る。うまくできるか、分からないけど」


 返しが早いやつ。

 会話を途切れさせないやつ。

 リサの言葉を拾って、自然に笑いに変えていたやつ。


「如月が……楽しめるように、努力する」


 そこまで言ってから、ようやく息を吐く。


(これで……いいのか?結局、何も変わらない気もする)


 間が空く。


「だから……もう少し、このままでもいいか」


 その言葉は、自分でも整理しきれていないまま落ちた。


「え…?な、なに?松前くんと話すの普通に楽しいけど、別にいいよ。今のままで」


 リサは少しだけ目を瞬かせてから、慌てるように笑う。

 その笑い方が、少しだけぎこちない。


「如月、さっき疲れてただろ。オレが喋らなくて…」


「疲れてた…?」


 リサは首を傾げる。


「なんか、静かだった」


「……うん」


 短い返事。ほんの少しだけ間が空く。


「オレがうまく喋れないから、つまらなくなったんだよな?」


「違うよ?」


 リサは即座に否定する。けれどそのあと、少しだけ間がずれる。


「松前くんがあたしのこと、うるさいって言うから」


「………そんなこと言ったか?」


 反射で否定は出る。けれど、そのあとすぐに思考が詰まる。


(言った覚えがない。いや、言うわけない)


 頭の中だけが一瞬ざわつく。記憶を引きずり出そうとして、余計に散らかっていく。


(どこだ、いつだ、そんな言い方したか?)


 心当たりがないはずなのに、"もし違う意味で取られていたら"という考えだけが遅れて追いかけてくる。


「言ったよ。騒がしいやつ、あんま好きじゃないって……あたしのこと見て言ったじゃん」


「……あ」


 マサキの声が止まる。

 一瞬、頭の中で記憶を探るように間が空いて、それからようやく"引っかかっていたもの"が形になる。


(……あれかよ)


 力が抜けるみたいに、息が一つ落ちる。


「あ………あのな…」


 少しだけ頭を振って、視線を周囲に向ける。

 ガヤガヤとした店内。笑い声、食器の音、誰かの呼び出しベル。


「騒がしいやつってのは、店のこと」


 視線をリサに戻す。


「騒がしい場所が好きじゃないって言っただけ」


「……」


 リサは一瞬固まって、それからゆっくり目を開く。


(え、そういう意味……?)


「オレが如月にそんなこと言うわけないだろ…」


 少しだけ困ったような声になる。


「喋っていいの?」


「いいよ」


 即答。

 その瞬間、リサの肩の力がほんの少しだけ抜ける。


(……よかった)


「でも、松前くんって…大人しい子の方が好きだよね」


「……なんで」


「なんとなく」


「なんとなくで人の好み決めないでくれ」


 少しだけため息混じり。

 その言い方は責めていないのに、どこか必死さがある。


「松前くんの好みわかんないもん、教えてよ」


 リサは小さく笑う。

 まだ完全には戻っていないけど、空気が少しだけ軽くなる。


 マサキは一瞬だけ言葉を探す。


(……これ、どう言えばいい)


 頭の中で何かを組み立てようとして、途中で崩れる。


(自分が喋るの苦手だから、明るくてよく喋ってくれる子の方がいいとか言ったら…それ、完全に如月のことになるな)


 喉の奥が一度動く。


「如月が静かだと……オレ、ちょっと間が持たないから」


 言ったあとで、少しだけ後悔する。

 話が逸れてる。

 聞かれたことはそれじゃない。

 でも続ける。


「だから、その……そのままでいい」


 リサはその言葉を受け取った瞬間、ほんの一瞬だけ固まる。


(そのままでいい)


 意味を噛み砕く前に、先に安心が来る。


(え、いいの?)


 次に、頬が緩む。


「……ほんとに?」


 確認するみたいな、小さな声。

 その顔はさっきまでの"気をつけたモード"よりもずっと自然で、少し年相応に崩れている。


「じゃあ、戻っていい?」


 軽く首を傾ける。

 ストローにそっと指が伸びる。


「さっきみたいに、喋っていい?」


 その言い方は少し控えめなのに、もう抑えきれていない感じが混ざっていた。


 マサキは一拍だけ置いてから、


「いいよ」


 小さく頷く。

 リサは嬉しそうに微笑んでから、いつものようにストローを噛む。


 もし自分がもっとうまく喋れるようになって、

 ちゃんと楽しく会話を続けられるようになって、

 如月が飽きずにこのまま一緒にいられるようになったら——

 そんなふうに、うまくできる自分になれたらいいのにと、ぼんやり思う。


 ◇   ◇


 食事を終え、店を出たあとも、マサキはどこか落ち着かないままだった。

 別れ際の空気が妙に軽くならず、足が自然と止まりかける。


 本当は、このまま普通に解散していいはずだった。

 駅まで歩いて、そこで別れて、それだけのはずだ。

 それなのに、もう少しだけ時間が欲しいと思ってしまう。

 理由をうまく言葉にできないまま、その気持ちだけが残っていた。


「……あのさ」


 自分でも少し意外なくらい、声が出ていた。


「ん?」


 リサは振り返る。

 日差しの中で軽く髪が揺れて、その動きだけで目を引く。

 さっきまで店で見ていた姿よりも、外の光のせいでさらに柔らかく見えた。


 このまま歩いていけば、この時間も終わる。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ引っかかる。


(もう少し……いてもいいんじゃないか)


 会話がうまく続くかどうかとか、気まずいかどうかとか、そういう理屈ではなくて。

 ただ単純に、このまま離れるのが早すぎる気がした。


「このあと……如月はどうするんだ?」


「駅前イオンで買い物してく」


 その答えを聞いた瞬間、ほんの少しだけ間が空く。


「……ついてってもいいか?」


 言ってから、少しだけ遅れて後悔が来る。


(いや、さすがに変か……?)


 だがリサはあっさり頷いた。


「いいよー」


 その軽さに救われるような、逆に不安になるような気持ちのまま、マサキはリサについていくことになる。


 ◇   ◇


 しかし、案内された先で足が止まった。


「……ここ」


 視線の先にあったのは、パステルカラーのレースと淡い照明に包まれた、女性専用のランジェリーショップだった。

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