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63. 夏の距離 後編 ~言えない理由は勇気じゃない~

 案内された先で足が止まった。


「……ここ」


 視線の先にあったのは、

 パステルカラーのレースと淡い照明に包まれた、女性専用のランジェリーショップだった。


「わ、わざとか?」


「えー、違うよ?」


 リサはすぐに首を振る。

 その仕草が妙に自然で、むしろ疑う方が悪い気さえしてくる。


「別に松前くんがついてくるからって、目的地変えてないよ?」


「そ、外で待ってる」


 一歩下がろうとしたマサキの腕を、リサが軽く掴む。

 逃がさないというより、"当然一緒にいる前提"の自然な動きだった。


「やーだ、なんのためについてきたの?ちゃんと意見言ってよ」


 声は軽いのに、引き止める力はやけに確かだった。


「ふ、普通の服とはわけが違うんだぞ。オレが意見なんか出せるか」


「だからでしょ?普通の服とは違って、他の人に見せるわけじゃないんだから。松前くんの意見、とおしやすい」


「オレが見るわけじゃないのに選ぶ意味あるか?」


「見せるんだったら選んでくれるの?いいよー?」


 軽く笑って返すその言い方に、マサキは一瞬だけ言葉を失う。


(今のは……失言だったか)


 リサは気にしていない様子で、店の中へと歩き出していた。


「そもそもそういう目的だから。あたしあんまり見せる用の持ってないんだよね。松前くんのおかずの写真、レパートリー少ないでしょ?」


(え、ほんとにオレに見せる用……?)


 あの画面越しに自分を狂わせる、過激な「プレゼント」。

 それをさらに更新しようというのか。


 直接的な物言いに、マサキの理性が音を立てて軋み始める。


(オレが…選んだのを、着けるのか)


 店内に入ると、空気が一段と静かになった。

 柔らかい香りと、布の質感の違いが視界に混ざる。


 リサはすでに自然な様子で商品を見ている。

 まるで日常の延長のように。


 その一方でマサキは完全に場違いだった。

 視線の置き場が分からず、立ち位置だけが妙に浮いている。


 そんなマサキの横で、リサは小さく息を吐くようにして、自然な動きで手を取った。


「こうしてた方が、変に見えないから」


 軽く言うその声は、あくまで実務的で、冗談の気配もない。

 "ここにいること"自体を説明するような、淡々とした理由だった。

 指が絡むというより、軽く繋ぐだけの自然な動き。


(……っ)


 一瞬だけ、体が固まる。

 リサはそれに気づいているのかいないのか、特に気にした様子もなく歩き出す。

 むしろ「こうするのが当然」と判断しているような、迷いのない動きだった。


 マサキは遅れて一歩だけ踏み出しながら、繋がれた手の感覚に意識が引っ張られる。


(不審者に見えないように……ってことか)


 理解はできるのに、状況の"距離感"だけがうまく処理できないまま、足だけがついていく。


(確かに、如月のいうとおり水着とそんな変わらない……はずだ)


 そう思おうとしても、うまくいかない。

 目の前の"それ"は、水着とは別の意味で距離感が違う。


(理屈では同じはずだ。なのに、全然同じに思えない)


 自分に言い聞かせるように視線を逸らす。


 リサはその間、棚の前で真剣な顔をしていた。

 普段の軽さとは違う、少しだけ集中した横顔。


(分からん……これは何が違うんだ)


 同じように見える色や形が並んでいるのに、リサは真剣に視線を動かしている。

 "可愛い"とか"似合う"とか、そういう単純な話ではなく、何か別の基準で選んでいるようだった。


(そもそも……何を基準に選んでるんだこれ)


 リサは小さく口を動かしながら、ほとんど独り言のように呟いている。


「うーん……これはちょっと甘すぎるかも……いや、でもこっちの色は可愛いし……」


 少し離れて見ると頷き、近づくと首を傾ける。

 その繰り返しが、楽しそうだった。


「でもさすがにこれは……ちょっと子どもっぽいかな……」


 小さく眉をひそめて、また別の棚へ視線を移す。


「うーん……フリル強すぎるとバランス悪いんだよね……」


(分からん……なにがそんな違うんだ)


 種類の違いが分からないというより、そもそも"何を比較しているのか"が分からない。

 マサキの中では全部同じようなものに見えてしまっている。


 しかしそれらが、リサの身体に重なる瞬間を想像してしまい——

 慌てて視線を逸らした。


 ◇   ◇


 リサが、ふと振り返る。


「松前くんはさー、フリルかリボンかでいったらどっち?」


 その言い方がやけに自然で、むしろ"普通の会話"にすら見えてしまう。


「は?」


(それって……下着の話だよな……?)


 差し出されたのは、繊細なレースが層を成す大人っぽいフリルと、少女らしい可憐さを残したリボン。

 どちらも彼女の柔らかな曲線に重なる瞬間を想像してしまった。


(フリルか……リボンか…)


 大人っぽいか、可愛らしいか。

 どちらが"リサという人に近いか"。

 普段の喋り方、雰囲気、今のこの軽さ。

 どちらも浮かんでくるのに、どちらか一方には寄り切れない。


(どっちも似合う。じゃあ、どっちが好きか……)


 そう思った瞬間、思考が別の方向にずれる。


(なら、これは好みの問題か)


 そこで初めて、マサキは気づく。

 これは"正解"を当てる質問ではない。


「如月の好みがわからん」


「えー、あたしじゃなくて松前くんの好み聞いてるの」


 少しだけ唇を尖らせるようにして、リサはほんの少し不満そうに言う。

 その表情が妙に可愛くて、言っている内容との落差に頭が追いつかない。


「オレの意見は参考にしない方がいいんじゃないか、とくにモデルやってる如月には」


「えー、そんなことないよ。松前くんけっこーおしゃれじゃん」


「どこが……」


 即答で返すマサキに、リサは少しだけ笑う。

 その笑い方が軽くて、やわらかくて、否定の気配が一切ない。


「今はどっちかというとストリート系?」


 リサは会話を続けながら、マサキの服装を何気なく見ている。

 視線が評価というより観察に近い。


「松前くんスタイルいいから、身体のライン出した方がシュッてなっていいかなって思ったりもするんだけど」


 指先で空中にラインを描きながら、楽しそうに続ける。


「このだぼっとした感じが松前くんらしいっていうか、ちゃんと雰囲気出てるよね。普通はさ、ゆるく着ると途端にだらしなく見えちゃうんだよ」


 その動きは服の構造を追っているようでいて、どこか違った。

 理屈で見ているというより、気に入ったものを眺めている人の目に近かった。


 視線も言葉も、止まらない。


「松前くんはそういうのなくてすごい。この辺のシルエット、ここからここまでのラインが綺麗に繋がってるの、すごくいいよね」


 少しだけ目を細めて、続ける。

 軽く身振りをしながら、空中で"形"をなぞる指先がやけに楽しげだった。


「ほら腰の位置、ちゃんと形が出てるのがいい。ゆるいのにちゃんと綺麗に見えるの、すごいよね」


 リサはうっとりとした表情で続ける。


「はー、マジでいい。松前くんのファッションスタイル。無造作なのに完成されてる感じ、ほんとカッコイイよね」


 あまりのベタ褒めに、マサキは顔が焼けるような感覚を覚える。

 同時に、自分をここまで肯定してくれることが落ち着かない。


(こういうことをなんでもないことみたいに言うのか……)


「如月の方がなに着たって似合うだろ」


 思わず出た言葉は、少しだけ他人事だった。


 リサは一瞬だけ考えるように視線を上に向ける。

 それから、困ったように笑った。


「うーん、それがね。そうでもないよ」


 その言葉は軽いのに、妙に具体的だった。


「あたし体型に似合わず、胸が大きいんだよね」


 あまりに無造作に放たれた爆弾発言。

 マサキはその瞬間、反射的に視線を動かしかけて——止める。


(見るな)


 喉が一度だけ鳴る。視線を無理やり逸らす。

 理性が一瞬だけ強制的にブレーキをかける。


 リサはそんなことも気にせず続ける。


「Tシャツなんかガチで似合わない。模様が横に広がるから、伸縮性のない生地を選ばなきゃいけなくて」


 そう言いながら、軽く自分の服のラインを指でなぞる。


「ほらここ」


 リサはそう言って、自らの胸の下を指さす。

 薄い生地越しでもはっきりと分かる、その豊かな胸が作り出す急峻な段差。


「ここの段差が出ないように気をつかってる」


 あくまで"困りごとの説明"のような口調。

 それがどれほどマサキの理性を振り回しているか、全く気づいていないようだった。


「上だけLサイズにすることも多いんだけど、そうすると胸元が開くじゃん。じゃあ着れないわってなるし」


 リサは軽く肩をすくめながら、何でもないことのように言う。

 けれどその内容は、さっきまでと同じくマサキの処理能力を軽く超えていた。


「1番の悩みは背が高いってこと」


 さらっと続けられた言葉に、マサキは少しだけ視線を上げる。


「モデルって、背が高い方がいいんだよな…?」


「それはそう」


 即答。迷いもない。


「読者モデルになる前は、普通にコンプレックスだったんだよね」


 リサは棚のハンガーを指で軽く揺らしながら、少し遠いものを見るみたいに続ける。


「周りの子より頭ひとつ出るし、目立つし。いっつもでかいって言われてた」


 その言い方は軽いのに、長く繰り返されてきたものの響きがあった。


「でもモデルやるようになってからは、イヤだった身長もいいことになったんだけど…」


 そこで一度、言葉が途切れる。


「最近、またイヤになったの」


 ぽつりと落ちる。

 マサキは少しだけ眉をひそめる。


「なんで?」


 リサは一瞬だけ言い淀む。

 さっきまでのテンポが、そこでほんの少しだけ崩れる。


「仕事だとさ、別にいいんだよね」


 視線を少しだけ逸らす。


「でも…」


 もじ、と指先が小さく動く。

 さっきまで下着を選んでいたときとは違う、不器用な間。


「ま……男の子の隣に立ったとき、同じくらいの高さになるから」


 言いながら、自分の頭のあたりを軽く指で示す。


「なんか、可愛い感じになりにくいっていうか」


 声が少しだけ小さくなる。


「ちょっと見上げるくらいの方がさ、雰囲気出るじゃん」


 無意識みたいに、ほんの少しだけ上を見る仕草。


「そういうの、やろうと思えばできるけど…わざとらしくなるし」


 最後は少しだけ自嘲気味に笑う。


 短い沈黙が落ちる。

 マサキは少しだけ考える。

 けれど、考えたところで出てくる答えは変わらなかった。


「……別に、そのままでいいだろ」


 いつも通りの、不器用な結論。


 リサは一瞬だけ止まる。


「……うん」


 返事はする。

 でも、そのあと視線が少しだけ揺れる。


(松前くんて…背が高い女の子に対して、どうこう思ってないだけなんだろうけど…それって……あたしのこと、別に意識してないってこと……?)


 胸の奥に、説明しづらいズレが残る。


 そのまま空気が少しだけ沈みかけた、そのとき。


「如月、可愛いし。身長とか関係ないだろ」


 マサキが、ぽつりと付け足した。


「んなっ」


 一瞬で顔が上がる。


「下げて落とすなっ」


 即座に返す声は、さっきまでよりずっと速い。


 マサキは少しだけ眉をひそめる。


「下げるも落とすも同じ意味だろ」


「違うもん」


 食い気味に断言。

 リサはわずかに唇を尖らせる。

 その仕草はさっきまでの悩みを引きずりながらも、どこか子どもっぽくて、妙に素直だった。


 マサキはそれを見て、少しだけ言葉を探す。

 でも結局、何も足せなかった。


(……何言えばいいか、分からん)


 ◇   ◇


 店内をゆっくりと歩きながら、リサは相変わらず軽い足取りで商品を見ていた。

 指先でハンガーを揺らしたり、少し離れて全体を眺めたり。

 その動き一つ一つが無駄なくて、それでいてどこか楽しそうで、見ているだけで目を引く。


 ちらりと、リサがウィンドウに映る自分たちの姿を見ては、口角を上げている。


「ねぇ、松前くん」


 リサはレースのついた下着を指先で軽く揺らしながら、何気ない調子で声をかける。


「ん」


 隣を歩くマサキは、棚に並ぶ色をぼんやり眺めたまま短く返した。


「あたし最近、現場でね。笑顔が自然だって褒められるんだよね」


(現場…?ああ、モデルの仕事先ってことか)


 一瞬だけ考えてから、マサキは小さく視線を上げる。


「前はちょっと表情堅くってさ。素人目線だとバレなくても、プロ目線だと…怒られはしないけどまぁ仕事は減る」


 そう言いながら、ラックから別の商品を抜き取る。

 慣れた動きだった。


(やっぱ厳しいんだな……)


 マサキは無意識にリサの横顔を見る。

 撮影の話をしているときのリサは、普段より少しだけ大人びて見える。


(オーディションも何度も落ちたって言ってたし、可愛いだけじゃ無理なのか……当たり前か)


 リサは少しだけ歩幅を緩める。

 人の少ない通路に入ったタイミングで、続けた。


「自分でもね、気づいてるの。松前くんのお陰だって……」


「なにもしてないが」


「松前くんといると、作らなくても自然に笑えてて…」


「で、その気持ちのまま現場行ったら…それがいいって言われた」


「それはオレのお陰と違うだろ。如月が頑張ったってだけ」


(オレは、別に……なにもしてない)


 実際、何かを教えたわけでも、励ましたわけでもない。

 ただ隣にいただけだ。

 会話だって、自分はほとんど受け身だった。

 わざわざ、自分を理由にしなくてもいい。


(如月がやったことだろ)


 なのにリサは、否定されても気にした様子もなく、どこか満足そうに笑っていた。


「今のあたしの目標ね」


 リサは、さっきまで下着を手に取っていた指を止める。

 軽い調子のまま話していた流れの中で、その一言だけが少しだけまっすぐだった。


 視線は逸らさない。

 ふざける様子も、誤魔化す気配もない。


「セブンの表紙を飾ること、単独で」


 言い終わったあと、ほんの少しだけ息が抜ける。

 強がっているわけでも、照れているわけでもない。

 ただ、自分の中にある"やりたいこと"を、そのまま外に出しただけみたいな言い方だった。


「……」


 言葉が一瞬出てこない。

 軽く返すには、少しだけ重い内容だった。

 それでも、結局出てくるのは変わらない。


「すごいな」


 短くて、曖昧で、でも嘘ではない言葉。

 それ以上を足そうとして、やめる。

 うまく言えないのが分かっていた。


 リサはその一言を受け取って、ほんの少しだけ目を細める。


(ほんとに、すごいな)


 最初から、リサはすごかった。

 クラスでも浮くくらい目立っていて、誰とでも普通に話せる。

 会話が途切れそうになっても、気づけば自然に拾って、そのまま流れを繋げていく。

 誰かが黙れば軽く持ち上げて、空気が変わりかければさりげなく戻す。

 そういうのを、考えてやってる感じもなく、当たり前みたいにこなしていた。


 でも、それだけじゃなかった。

 池沢のときも、前は流していたのに、ちゃんと嫌だって言えるようになっていた。

 ナンパされたときも、ああいう強い言葉を迷わず出せるようになっていた。


(あんな言い方、前はしなかった)


 自分の知っているリサは、確実に変わっている。

 しかも、それは"いい方向"に。


(……ちゃんと、前に行ってる)


 それを近くで見てきた。

 たぶん、誰よりも。

 だからこそ分かる。

 リサは、止まらない。


 一度近づいた距離も、気づけばまた少し先に行っている。


(……なんだそれ)


 少しだけ、何かが重くなる。


 自分はどうだ。

 相変わらず、自分から話すことはほとんどない。

 会話も受け身で、広げることもできない。

 性格も、変えようとしていない。


(どうにもならんだろ、これは)


 もともと諦めている。

 変わる必要も、方法も、はっきりしないまま。


 それなのに——


(それでも、そばにはいたいって思ってる)


 自分で考えて、少しだけ嫌になる。


 リサは前に進んでいる。

 自分はその場にいる。

 それでも同じ距離にいられると思っているのか。


(……無理だろ)


 そこまで考えて、思考を止める。

 言っても意味がない。

 そもそも、どうこうする話でもない。


 ただ一つだけ、残る。

 リサが先に行くほど、自分との差がはっきりしていく気がするという、ぼんやりした感覚。


「えへ、カッコつけちゃった」


 リサはそう言って、少しだけ肩をすくめる。

 さっきまでのまっすぐな目とは違って、ほんの少しだけ照れたように笑う。


 本気で言ったくせに最後だけ冗談みたいに崩す、その半端な感じが妙に自然で——


 その表情が、やけに素直で、子どもっぽくて——

 ちゃんと可愛かった。


 マサキは視線を少しだけ逸らす。


(同い年で……そこまで決まってるのか)


 目標。

 やりたいこと。

 そこに向かって動いている実感。

 どれも、自分にははっきりした形がない。


(オレは……)


 思考がそこで止まる。

 それ以上は進めない。

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