60. うしろめたさの続き ~見てるのに、触れてこない2~
一方でリサは、自分がどんな体勢で乗っているのか理解した瞬間、顔から一気に熱が噴き上がった。
「ご、ごめんっ――!」
慌てて身体を起こしかけた瞬間、余計に状況が悪化した。
『むぎゅっ』
「むぐっ……!」
押し潰されたみたいなくぐもった声が真下から漏れて、リサの動きがぴたりと止まる。
「……っ、ん」
声にならない。
マサキは何か言おうとしているのに、口が塞がれてうまく出てこない。
スカートの裾がマサキの呼吸でふわりと浮く。
好きな男の子の顔に、自分のお尻を押しつけている。
(や、やっちゃった……!)
マサキの呼吸が、布越しに直接伝わってくる。
「……すー……っ」
深く息を吸う音が、布の奥でくぐもる。
そのたびに、熱が返ってくる。
薄い布越しに感じる体温が近すぎて、どこに触れているのか分からなくなる。
頬へ当たる柔らかさ。
鼻先へ触れる丸み。
少し動くだけで、むに、と感触が変わる。
スカートの内側へこもった空気が、そのたびゆっくり揺れた。
甘いシャンプーの匂いとは違う。
もっと近くて、生々しい体温の匂いが頭の中へ流れ込んでくる。
柔らかい。
押しつけられているのに、沈み込むみたいにふに、と形が変わる。
(やばい……)
呼吸するたびに全部入ってくる。
重い。
熱い。
まともに頭が回らない。
◇
「……す、ふー……」
深く息を吸うたびに、薄い布がふわりと鼻先へ張り付く。
吸い込まれる呼吸に合わせて、柔らかな感触が少し沈む。
熱を含んだ布越しに、リサの体温がそのまま伝わってきた。
吐き出せば少し離れる。
でもまた吸えば、触れる。
鼻先へ張り付くたびに、甘い匂いが濃くなる。
香水とも違う、近距離でしか分からない熱っぽい匂い。
呼吸するたび、それが全部肺へ落ちてきた。
(覚えようとするな)
眉がぎゅっと寄る。
理性では止めようとしている。
なのに呼吸するたびに全部入ってくる。
(待て)
理性が追いつかない。
さっきからリサの匂いを吸い続けている。
しかし、呼吸を止めるわけにもいかない。
顔の周囲がほとんど塞がれている。
薄い布越しの熱が近すぎて、頭がくらくらした。
「っ、ちょ、待って、今どくから……!」
リサが慌てて身体を浮かせようとする。
しかし、恥ずかしさと緊張のあまり足に力が入らない。
その瞬間、体勢が少しずれた。
『むにっ』
「……んぐっ」
下から小さなくぐもった息が漏れる。
リサの肩がびくっと跳ねた。
◇
さっきより、余計に密着している。
太ももの内側がマサキの頬へ触れて、柔らかな熱が広がる。
逃げ場みたいに残っていた隙間まで潰れて、スカートの内側へ熱がこもった。
薄い布が鼻先へ触れて、また吸い込まれる息に引かれるみたいに張り付く。
「……っ……」
リサの喉が小さく震えた。
熱い。
呼吸が当たるたびに、自分の内腿までぞわっと痺れる。
しかもマサキは動かない。
押し返さない。
掴まない。
ただ硬直したまま、下でじっと耐えている。
なのに。
マサキの呼吸だけがやけに深い。
吸い込まれるたびに、布越しに熱が伝わる。
柔らかな感触へ顔が沈み込むみたいに押されて、そのたびリサの身体までぴくっと震えた。
(だ、だめ……っ)
自分が動くたびに、マサキの吐息が内腿へかかる。
熱を含んだ息が、じわ、と肌を撫でていく。
少し体勢がずれるだけで、顔が柔らかいところへ押しつけられる感触まで伝わってきた。
リサの頭が止まる。
(なにこれなにこれ……!)
恐る恐る視線を落とす。
床へ倒れ込んだマサキは、完全に硬直していた。
肩も、腕も、指先も、不自然なくらい動かない。
なのに。
宙に浮いたままの手だけが、変だった。
触れそうなのに、止まっている。
腰へ回せば支えられるはずなのに。
押し返せば起き上がれるはずなのに。
それをしてこない。
「……ふ、っ……ん……」
また深い呼吸が布越しに伝わった。
そのたびに鼻先へ触れた布がふわりと吸いついて、熱い息がスカートの内側へこもる。
リサの肩がびくっと跳ねる。
(だめ……!)
マサキの喉が、ゆっくり上下する。
指先がぴくりと震える。
でも触れた瞬間に終わる気がして、マサキは結局、何ひとつ掴めなかった。
◇
(めちゃくちゃいい匂いする)
思った瞬間、自分で自分に引いた。
最低だろ、と思う。
こんな状況でそんなこと考えるな。
事故だろ。
困ってるだろ。
だからマサキは、指一本動かせなかった。
◇
自分ばっかり必死みたいで、急に恥ずかしくなってくる。
反応してほしくて。
男の子っぽく来てほしくて。
見てほしくて。
さっきから距離を詰めていたのは、自分の方だった。
なのにマサキは、こんな状態でも触ってこない。
リサは唇をきゅっと噛んで、
「ご、ごめん! ほんとごめんね……!」
ようやく身体を起こす。
勢いのまま床へぺたんと座り込んで、熱くなった顔をぱたぱた扇いだ。
横を見る。
マサキはまだ起き上がれていなかった。
天井を見上げたまま、呼吸だけが深い。
「……だ、大丈夫?」
リサがおそるおそる覗き込む。
「……無理」
返ってきた低い声に、リサの顔がまた熱くなった。
「え、えへへ……そっか……」
笑って誤魔化したものの、自分の心臓までうるさい。
「どっか痛い?」
「……いや」
マサキは短く返したあと、片腕で目元を隠す。
耳まで赤い。
リサはその横顔を見て、胸の奥が熱くなった。
「……あの、助けてくれてありがとね」
リサはふにゃっと頬を緩めた。
マサキは自分からは触ってこない。
なのに、助けてくれるときだけはいつも別。
「普通、あんなすぐ動けないよね」
マサキは何か言い返しかけて、結局黙る。
その沈黙が、なんだか少しだけくすぐったかった。
◇
起き上がり、マサキは片腕で目元を隠したまま、浅く息を吐く。
熱が引かない。
顔も、頭も、変にぼうっとしていた。
(……なにやってんだ、オレ)
助けようとした。
それは本当だ。
転びそうだったから、反射で手が出た。
あのまま落ちたら危ないと思った。
でも。
(いや、結果が終わってるだろ……)
頭の中へ、さっきの感触が勝手に戻ってくる。
柔らかかった。
息を吸うたびに、匂いまで入ってきて。
(だから思い出すな)
眉がぎゅっと寄る。
事故だ。
完全に事故。
なのに。
(結局また、"助けた"とか言いながら……)
胸の奥が重くなる。
プールの時も。
階段の時も。
触る理由は、いつも"わざとじゃない"で。
今回なんか特にそうだ。
助けた結果、顔の上に乗せるとか意味分からないだろ。
普通に最悪だ。
(……意識するほど)
リサはたぶん、事故として流そうとしてる。
空気を重くしないように、笑って。
なのに自分だけ、まだ引きずってる。
しかも。
(めちゃくちゃいい匂いだとか考えてる時点で終わってる……)
自己嫌悪が押し寄せる。
如月は困ってた。
恥ずかしがってた。
それなのに、頭のどこかで感触を覚えてる自分がいる。
最低だろ。
片腕で隠した目元の下で、マサキは歯を食いしばった。
「……っ」
声にならない息だけが漏れる。
隣ではリサが、まだ熱を逃がすみたいに自分の頬をぱたぱた扇いでいる。
その姿を見た瞬間、また胸の奥が変に熱くなって。
(なんだそれ、可愛いな……)
視線を逸らしたのに、結局また気配を追ってしまう。
◇ ◇
事故みたいな沈黙のあと、リサはようやくソファへ身体を沈めた。
さっきまで触れていた熱が抜けなくて、膝の上でぎゅっと指先を握り込む。
隣ではマサキが、ほとんど壊れたみたいに黙っている。
耳まで赤い。
呼吸も浅い。
視線だけが落ち着かなく揺れていて、けれど一度もリサの方をちゃんと見ない。
その横顔を見ているうちに、リサはだんだん自分の方が耐えられなくなってきた。
最初は、ただ見たかっただけだった。
自分にどんな反応をするのか。
どこまで男の子の顔になるのか。
でも途中から、完全に調子に乗っていた。
試すみたいに近づいて。
困らせて。
逃げ場をなくして。
なのに。
松前くんは、一回も来なかった。
床へ倒れ込んだ時だって、押さえつけるどころか、触れないようにしていた。
苦しそうだったくせに。
それでも、来なかった。
リサは膝の上で指を絡めたまま、息を吐く。
「……なんか、ごめんね」
その瞬間、隣の肩がびくっと揺れた。
マサキは何か言おうとして、でも失敗したみたいに口を閉じる。
リサは誤魔化すように笑った。
「別に、我慢しなくていいから」
今度はもっと分かりやすく固まった。
その反応だけで、分かってしまう。
ああ、本当に我慢してたんだ。
リサは熱くなった頬を誤魔化すみたいに、ぱっと両手を広げた。
「今日はおさわりOKです」
言った瞬間、自分でも何を言ってるのかと思った。
顔が熱い。
逃げたい。
でも、引っ込めたくなかった。
◇
マサキは完全に停止していた。
「……え」
掠れた声だけが落ちる。
そのまま動かない。
リサは恥ずかしさに耐えきれず、クッションをぽんぽん叩いた。
なにも誤魔化せてはいない。
「だ、だからその……ちょっとくらいならって意味で……」
マサキの喉がごくりと動く。
視線が一瞬だけ迷って、それから慌てたみたいに逸れた。
(さわっていい……?)
頭の中で声が響く。
どこを。
胸?
脚?
腰?
さっき押し倒された時に触れていた柔らかさが、一瞬で蘇る。
熱い。
柔らかい。
甘い匂いがする。
触りたい、と思ってしまった自分ごと、頭を抱えて消えたくなる。
(いや、それは駄目だろ……)
リサは勇気を出して言っただけだ。
受け入れようとしてくれたのに。
そんな時に真っ先に胸とか脚とか考えるの、最低すぎる。
オレと如月は、そういう関係じゃない。
そう思うのに。
触りたいという気持ちが消えない。
消えないまま、でもそれを出したら終わる気がした。
如月のことを、ちゃんと見たい。
身体だけじゃなくて。
笑う顔とか。
拗ねる顔とか。
必死に誤魔化そうとする顔とか。
そういうのが、ずっと頭に残ってる。
なのに、触れていいと言われた瞬間に真っ先に浮かぶのが胸で。
(……オレ、最低だな)
本当に。
視界の端で揺れた髪が、また意識を引っ張っていく。
毛先だけ少し巻かれた髪。
ふわっと肩へ落ちる柔らかい線。
照れて俯いたせいで、耳が赤い。
可愛い、と思った。
その瞬間、自分でもどうしてそうしたのか分からないまま、マサキの手が動く。
ぽん、と。
恐る恐るみたいに、リサの頭へ手が乗った。
「……え」
リサの肩が跳ねる。
マサキは自分の方が動揺した顔をしていた。
触れた髪は、思っていたより柔らかかった。
指が少し動く。
撫でる、というより確かめるみたいに。
壊れ物へ触るみたいに。
◇
リサは完全に固まっていた。
胸でもない。
脚でもない。
頭。
そんな場所を選ばれるなんて、思っていなかった。
「な、なんでそこ……」
口元を隠したまま漏れた声が、情けないくらい震える。
◇
マサキは視線を泳がせたまま、息を詰まらせた。
「……いや、その」
言葉が続かない。
本当のことを言えば、自分でも分からなかった。
胸に触れたかった。
それは本当だ。
ずっとそう思っていた。
なのに手が動いた先が、頭だった。
触りたい場所と、触れていい場所が、全然違う。
それだけは分かった。
撫でた手までぎこちなく止まりかけて、それでも離れない。
「……これが限界」
消えそうな声だった。
欲望じゃなくて。
誠実さでもなくて。
ただ、これ以上は無理だという正直さだけが、口から出た。
◇
その瞬間、リサの顔が一気に赤くなる。
だめだ、と思った。
そんなの。
そんな触り方、反則だ。
ずっと欲しがられたかった。
男の子として意識してほしかった。
だから近づいて、見せて、触れさせようとした。
なのにマサキが選んだのは、頭だった。
胸でも脚でもなく。
『これが限界』と言いながら、それでも離れない手。
さっきまでの自分が、急に恥ずかしくなる。
欲しがられることを確かめたくて、ずっと試していた。
なのにもらったのは、それより全然違うものだった。
ずっと苦しい。
頭へ残る手の重さが、やけに優しい。
リサは俯いたまま、そっと唇を噛んだ。
(……あたしのこと、大事にしてる)
その事実が、何より駄目だった。
◇ ◇
沈黙が落ちる。
さっきまであんなに近かったのに、今は少しだけ距離があった。
リサは膝の上で指先を握る。
何度も開いて、また閉じる。
「……ごめんね」
ぽつりと落ちた声に、マサキが顔を上げた。
「今日、その……いっぱい近づいたりしたの」
視線が泳ぐ。
でも、途中で逃げるのをやめるみたいに、息を吸った。
「なんか……松前くんが困ってるの、分かってたのに」
頬が熱い。
自分で思い返しても、かなり大胆だったと思う。
露出の高い服を着て。
隣にぴったり座って。
脚を乗せて。
"おさわりOK"なんて言って。
普通に考えたら、完全に変な女だ。
「……あたしだけ、そういうこと考えてるみたいになっちゃって」
小さく笑おうとした声は、うまく形にならなかった。
「松前くん、優しいから。あたしのこと、責めないけど…変なことしてる」
マサキは何も言わない。
ただ、黙って聞いている。
その静けさが怖くて、でも逃げたくなくて、リサは続けた。
「でも……言い訳なんだけど」
ぎゅっとスカートを掴む。
「困らせたかったわけじゃなくて……ちゃんと、女の子として見てほしかった」
声が震える。
「松前くん、全然来てくれないから」
言った瞬間、自分でも恥ずかしくなる。
でも止まらなかった。
「見てくれてるのは分かるの。たぶん、意識もしてくれてる。でも、なんで離れちゃうのかなって…」
そこでようやく、リサは少しだけ笑った。
「だから、わかんなくなっちゃって」
自分は嫌がられてるのか。
それとも、違う理由なのか。
「……こういうの、いやならごめん」
そう言って俯いたリサの頭に、そっと手が乗った。
驚いて顔を上げる。
マサキは、少し困ったみたいな顔をしていた。
「……嫌じゃない」
その声は小さいのに、逃げていなかった。
「……普通に、意識はするし」
マサキは視線を落としたまま言う。
「近いとドキドキするし、触りたいとかも思う」
喉の奥で、何かを引っかけたみたいに言葉が止まる。
マサキはしばらく黙ったあと、口を開いた。
「如月のこと、ちゃんと見たいと思うのに…」
リサが息を止めた。
マサキは苦しそうに眉を寄せる。
「顔とか身体ばっかり見てるみたいになるのが…いやで」
言ってから、自分でさらに気まずそうに視線を逸らした。
「如月って、そういうとこだけじゃないのに」
リサが瞬きをする。
「オレが黙ってても、空気悪くならないようにしてくれるし」
「無駄に明るいし、前向きで、なのに子供っぽいし、すぐ拗ねるのにすぐ戻る」
ぽつぽつと出てくる言葉は、不器用なのに妙に具体的だった。
「今日のも、わかる。オレがこないだのこと、まだ引きずってるせいで…如月なりに"大丈夫"ってしてくれようとしたの、分かってる」
事故みたいな接触も、本当ならもっと気まずくなってもおかしくなかった。
でもリサは、毎回なんとか空気を戻そうとしていた。
「助かった」と笑って終わらせようとして、
「ごめんごめん」と流して、
マサキが変に意識しても、それ以上引っ張らなかった。
だから余計に、苦しくなる。
「……なのに、そこで触りたいとか考えると」
マサキは、ゆっくり息を吐いた。
「自分が、結局そこしか見てないみたいになる」
言い切ったあと、気まずそうに視線を逸らす。
リサはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、静かに熱い。
恥ずかしい。
でも、それ以上に――嬉しかった。
マサキは、自分をちゃんと見ようとしてくれていた。
身体だけじゃなく。
今日の行動の意味まで、ちゃんと受け取ろうとしてくれていた。
そんなふうに考えて苦しくなっていたなんて、思わなかった。
リサは顔を隠すみたいに口元へ手を当てる。
「そ、それはなんか……ずるい」
声が、完全に照れていた。
「そんなちゃんと見られてたら……触られるより恥ずかしいんだけど」
マサキが少しだけ目を丸くする。
リサは視線を逸らしたまま、でも前より柔らかい声で続けた。
「……ありがと」
その一言だけで、耳まで赤くなっているのが自分でも分かった。




