勉強会 後編 ~逃げられなかった2~
「国語ですね」
目は問題文にまっすぐ落ちている。
「傍線部だけ見ないでください。前後三行くらいを一緒に読んだ方がいいです。この<しかし>の前後で、言ってる内容が反転してます」
ミオは感情を交えずに、事実だけを並べるように続ける。
「だから、<逆の方向に切り替わっている場所>を探す感じです」
マサキは言われた通りに本文へ目を落とす。
(……切り替わってる、か)
さっきまで<読んでいるつもり>だった文章が、別の形に見え始める。
「つまり……言葉そのものより、文章がどこへ向かっているかですね。選択肢も、単語が合ってるかより、流れに沿ってるかで見た方がいいです。ここ、単語だけ見ると全部それっぽく見えるので、引っかかりやすいです」
マサキは短く息を吐いた。
「……なるほど」
理解というより、組み直されていく感覚だった。
次に開かれたのは理科のページだった。
「モル濃度ですね」
「式は分かる」
マサキの返事に、ミオは一度だけ頷く。
「じゃあ、引っかかってるのは代入の順番ですか?」
「たぶんそこ」
「一気にやろうとしない方がいいです」
ミオはノートに三つの枠を描いた。
「①与えられてる情報を書く。②単位をそろえる。③最後に式に入れる。分けるだけです」
マサキは目を瞬いた。
「分けるだけ?」
「分けるだけです」
即答だった。
「理科っていうより整理の問題なので。焦ると全部同時に扱おうとして、そこで崩れます」
マサキはノートへ目を落としたまま、息を吸った。
(……確かに、全部一緒に見てたかもな)
歴史では、ミオの説明はさらに簡潔になる。
「並び替え問題ですね」
「苦手」
「全部覚えなくていいです」
ミオは問題文の端を指で押さえた。
「キーワードは二つです。戦争と条約。社会の出来事って、だいたいこの間に挟まります。だから順番は、流れが崩れないように並べるだけです。迷ったら、どっちが先に起きないとおかしいかで判断します」
マサキは顔を上げる。
「理屈でいけるんだな」
「いけます」
短い返事だった。
英語のページを開いた瞬間、ミオはマサキを見た。
「ここは長文ですね。全部読むと、逆に分かりづらくなります」
マサキは首を傾げる。
「読んでた」
「真面目ですね」
苦笑でもなく、ただ事実として置かれる言葉。
「まず設問を先に見てください。英語は<探す読み方>です。①何を聞かれているか見る。②その答えがありそうな単語を探す。③そこだけ読む」
マサキは間を置く。
「全部読まなくていいか」
「はい、大丈夫です。全部理解しようとすると、そこで止まります。設問ごとに必要な場所だけ拾った方がいいです。そこを整理できるだけで、かなり変わります」
マサキはノートに目を戻したまま、頷いた。
しばらくして、ミオはペンを止める。
「全部に共通してるんですけど」
その声は少し柔らかくなった。
「松前くんは、かなり出来てます。ただ」
言葉が切れる。
「全体を見すぎて、同時に処理しようとして崩れてます。見ようとしてること自体は悪くないです。でも今は、順番通りに解く感覚を作った方が楽です。それができてから、全体を見る形でいいと思います」
マサキは息を吐く。
「……分かった」
「じゃあ、さっきのところ。もう一回やりましょう」
ミオは淡々と言った。
「一回できるようになると、かなり変わります」
マサキはペンを持ち直す。
(分かってくると……まぁまぁ面白いな)
初めて、そう思えた。
そしてその感覚が、少しだけ<続けたい>に変わり始めている。
ミオはすぐに次のページをめくった。
問題文を指で追いながら、順序を組み直していく。
「まずここは情報整理です。数字を全部書き出してから。単位が混ざってるので、そこを揃えます。最後に式に入れれば終わりです」
言葉は途切れさせる。
マサキが一つ頷いてから、ミオは次の説明へ進む。
「ここ、さっき飛ばしたところが原因でした。なので今はそこだけ直せば大丈夫です」
説明が、机の上に積まれていく。
マサキは短く返すだけだった。
「……ああ」
「なるほど」
「分かった」
それでも、不思議と混乱は増えなかった。
むしろ、ばらばらだった思考が順番に並び直されていく。
その横顔を、マサキはふと見てしまう。
如月のような華やかさはない。
けれど、黙って問題を解き続けるその横顔には、落ち着いた整ったラインがあった。
(もし、こういう子が彼女だったら……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
リサという、手を伸ばしても届ききらない光のような存在に振り回される日々よりも。
ミオの隣にいる今の方が、自分の位置としては自然なんじゃないか。
そんな、少しだけ都合のいい想像。
マサキはすぐに問題集に目を戻す。
(いや、あり得ない。オレが勝手にそう見えてるだけだ)
その考えを、静かに打ち消した。
ミオは何も気づかないまま、次の問題へ進んでいた。
「ここはさっきと同じ考え方です。順番を間違えなければ解けます」
説明は止まらない。
マサキの返事は少ないまま、それでも少しずつ増えていく。
「そういうことか」
「うん」
「分かった」
ただそれだけのやり取りなのに、さっきより会話は確実に<繋がって>いた。
そのほとんどを、ミオが埋めていた。
◇ ◇
リサの肩が、わずかに落ちる。
笑顔を作ろうとしているのに、目の奥の集中が薄くなっているのが分かる。
(……疲れてる)
ミオは気づいていた。
さっきからリサの解答スピードが、ほんの少しだけ遅くなっている。
ミスの質も変わっている。
<できていない>ではなく、<崩れないよう維持している>に近い状態。
それでもミオは何も言わなかった。
理由はひとつではない。
まず、マサキの集中がまったく切れていなかった。
むしろ逆だった。
今のマサキは、かなり良い状態に入っている。
問題文を見る。
整理する。
必要な情報を抜き出す。
手が止まらない。
さっきまで詰まり続けていたのが嘘みたいに、テンポよく解け始めていた。
ここで流れを切れば、せっかく掴み始めた感覚が崩れる可能性がある。
そして、もうひとつ。
リサが<マサキの前だから>無理をしていることにも、ミオは気づいていた。
本当は少し休みたい。
でも、マサキが集中しているから、自分だけ先に止まりたくない。
そんな意地みたいなものが、今のリサにはあった。
だからミオは、あえて言わない。
自分が言えば、リサはたぶん笑って誤魔化す。
そのあと、余計に頑張ろうとする。
それが分かっていた。
リサは再びペンを握り直す。
笑顔を戻そうとしているのに、少しだけ力が入っている。
(……無理してる)
ミオは分かっている。
しかし、そのあとすぐ。
「あの…」
静かな声が落ちた。
「……休憩、入れない?」
マサキは、問題集から視線を外さないまま言った。
リサがぱちりと瞬きをする。
「え?」
意外そうな声。
「その……ちょっと頭、回らなくなってきたから」
嘘だ。
ミオには分かる。
今のマサキは、むしろかなり回っている。
解答の速度も、視線の動きも、さっきより明らかに良かった。
だから、その言葉が本音ではないことは分かってしまった。
『自分を理由にして、休憩へ持っていった』
リサを止めるために。
でも、本人には言わない。
ミオは少し迷ったあと、肩の力を抜いた。
「……わたしもです」
その声で、張り詰めていたものがゆるむ。
マサキは「そっか」とだけ返した。
たぶん、本当にそれだけのつもりなんだろう。
その様子を見てから、ミオは小さく囁く。
「集中、切れてなかったですよね」
マサキの視線が止まる。
ミオはそれ以上追及しない。
ただ、静かに続けた。
「その方が言いやすいって選び方をしたの、ちゃんと分かりましたよ」
責める響きはない。
柔らかい笑顔を見せる。
「……優しいですね、松前くん」
その一言だけが、静かに残った。
マサキは、言葉に詰まる。
「……別に」
反射みたいに返す。
だが、声に鋭さがない。
問題集へ目を落としたまま、シャーペンを指で転がす。
優しいのは、そっちだろ。
マサキは内心でそう思っていた。
(保坂さんが黙ってたのは、オレの集中力を切らさないためだ……むしろ、オレの方が助けられてる)
問題を整理して、詰まった場所を見抜いて、否定せずに、順番だけを整えてくれる。
しかも、それを当たり前みたいな顔でやる。
「松前くん、不器用なんですね」
マサキはすぐには返さない。
数秒だけ間を置いてから、
「……そういうの、いいから」
ぽつりと落とした。
否定ではない。
ただ、真正面から言われるのに慣れていないだけだった。
◇ ◇ ◇
休憩に入ろうという話になって、三人は学習室を出た。
夕方の廊下は、部活帰りの生徒たちで少し騒がしい。
自販機の並ぶロビー。
冷房の効いた室内。
自販機の低い駆動音。
窓の外は、少しだけオレンジ色になり始めている。
リサが自販機の前へしゃがみ込む。
長い髪が肩から流れ落ち、制服のスカートがふわりと揺れた。
(……見るな)
マサキは反射的に顔を背ける。
でも、目へ入ってしまう。
細い脚。
動きに合わせて揺れる胸元。
身体を傾けたことで強調される制服越しのシルエット。
意識するなと言う方が無理だった。
顔だけじゃない。
スタイルまで良い。
だから目立つ。
廊下にいるだけで視線を集める。
一方でミオは、その少し後ろで缶コーヒーを選んでいた。
リサほど派手ではない。
でも、整った顔立ちをしている。
ただ愛想が少ない。
男子相手に営業スマイルを作るタイプじゃないから、どうしてもリサの隣だと<落ち着いた友達>側へ回されやすかった。
その時、
「あ、如月さんじゃん」
背後から男子の声が飛んできた。
マサキは内心で舌打ちする。
「なにしてんの?」
振り返ったリサは、すぐに笑顔を作った。
「3人で勉強会だよー」
慣れている。
「真面目じゃん。保坂ちゃんもいるー」
その瞬間、リサの笑顔がほんの一瞬だけぴくっと揺れた。
たぶん、他のやつは気づかない。
でもマサキには分かる。
「……どうも」
ミオは軽く会釈だけした。
いつもの感情を乗せない声。
「如月さんいつ見ても可愛いね」
「えー、そんなことあるかなー」
リサは慣れた調子で返す。
男子の一人がさらに距離を縮めた。
「如月さんさー、次はオレらとも勉強会しようよ」
その言葉に、マサキの眉がわずかに動く。
リサは笑顔のまま返した。
「あたし頭よくないから邪魔になっちゃう」
「いや絶対そんなことないって、いるだけでいいし。ていうか最近、松前といる率高いよね。ずるくない?」
「うん、言われてみたら確かに一緒にいるー」
軽い調子。
いつもの、角を立てない返し方。
「保坂ちゃんも一緒にさー、勉強会どう?」
ミオへ話が向く。
けれど、その流れのまま男子が笑った。
「保坂ちゃんも可愛いけど、オレやっぱ如月さん派かなー」
「オレもー」
マサキが口を開いた。
「……<も>って言い方、なに」
会話が止まる。
ほぼ被せるみたいな速度だった。
「普通に失礼」
淡々とした声。
怒鳴っているわけじゃない。
でも温度は低い。
「いや、そんなつもりじゃ……」
マサキは眉を動かした。
「見る目ない」
即答だった。
ミオの耳が、一気に赤くなる。
今までは、表情を変えずに平気なフリをしていればよかった。
だから、こういう庇われ方に慣れていない。
しかもマサキは、からかう感じがまったくない。
本気で言っている声だった。
マサキは、男子たちへ目を向けたまま続けた。
「それと、勉強会は遊びじゃない」
男子たちは完全に勢いを削がれていた。
「……悪かったって。じゃ、またな」
苦笑いしながら去っていく。
静けさが戻る。
自販機の駆動音だけが響いた。
ミオはまだ少し赤いまま、目を落として呟くように言う。
「ありがとうございます……」
マサキは自販機からコーラを取り出しながら短く返す。
「……ん」
それ以上なにも言わない。
だからこそ、余計に本気っぽかった。
リサはそんなミオを見て、目を細めた。
何か言いたそうにしてから、やがてそれを引っ込めた。
◇ ◇
男子グループが去ったあとも、ミオの頭の中だけは静かになっていなかった。
缶コーヒーを両手で持ちながら、冷たい感触で思考を整えようとする。
松前くんが、止めた。
しかも、かなり早かった。
『……<も>って言い方、なに』
ほぼ反射だった。
考えて出した言葉じゃない。
本音。
しかも、
『見る目ない』
そこを思い出した瞬間、また耳が熱くなる。
(なんであそこで<そっち>を肯定するんですか……)
意味が分からない。
でも頭がいい、教えるのが上手いとか。
そっちを言わなかった。
もっと根本的なところを、当たり前みたいに肯定した。
(しかも、あの人たぶん無自覚……)
そこが一番まずかった。
もし軽口なら、処理できる。
からかいなら、流せる。
でも松前くんは、本気で思っている声だった。
だから困る。
なぜか松前くんだけ、うまく扱えない。
すぐ断る。
言葉が少ない。
距離感も不器用。
なのに、変なところで他人をよく見ている。
しかも、見返りを求める感じがない。
(……リサちゃんが気になるの、分かる気がする)
ふと、そんな考えが浮かんで…
ミオは数秒停止した。
(待って。それは、かなりまずいのでは)
真顔のまま、缶コーヒーを一口飲んだ。
冷たい。
でも全然、頭は冷えなかった。
◇ ◇ ◇
休憩を終えて学習室へ戻る頃には、外は暗くなり始めていた。
窓ガラスへ夕焼けの色が薄く残り、室内の蛍光灯が机を照らしている。
三人は元の席へ戻った。
向かい合う形。
問題集。
ノート。
シャーペンの音。
ただ、ミオの頭の中だけはまだ全然整理できていなかった。
(落ち着いて、まず勉強。今は勉強会。感情は後回し)
そうやって、なんとか思考を戻そうとしていた時だった。
正面から、制服の袖を軽く引かれる。
「ミオちゃん」
声で目を向けると、リサが前のめりに身体を寄せてきていた。
距離が近い。
しかも妙ににやけている。
(嫌な予感がする)
「……なに?」
ミオが警戒気味に返すと、リサは声を潜めたまま言った。
「さっきさー」
一拍。
「松前くんに庇われて、顔赤くなってたよね?」
ミオの思考が止まる。
図星だった。
しかも、よりによってそこを拾う。
「な、なってない」
声が少し裏返った。
リサの目が細くなる。
「いや、なってたってー。だってさ、『見る目ない』だよ?」
また耳が熱くなる。
そこを反復しないでほしい。
勉強の理解は苦手なくせに、人の表情が少し揺れた瞬間だけは見逃さない。
しかも、自分が大事にしているものが関わると、さらに早い。
しかもリサは悪気なく続ける。
「かっこいいでしょ、あたしの松前くん」
ミオの目が止まる。
<あたしの>の部分だけ、妙に自然だった。
本人も無意識なんだろうな、とミオは思う。
「………それは否定しない」
返した瞬間、リサの目がぱっと嬉しそうに細くなる。
「あげないよー」
軽い、可愛い 声。
冗談みたいな言い方。
でも、これは本気だ。
ミオは数秒だけ黙る。
(……だから、違う。違うって……)
否定しようとして。
けれど、さっきの声がまた頭をよぎる。
『見る目ない』
本気の声。
当たり前みたいな言い方。
(だからなんであそこで<可愛い側>を肯定するの……)
ミオが真顔で固まり始めた、その時だった。
「保坂さん」
正面から、低い声。
ミオの肩がぴくっと揺れる。
マサキだった。
問題集を持ったまま、わずかにこちらへ身を寄せた。
「ここなんだけど」
距離が近い。
実際にはそれほど近くはない。
でも少し近づかれるだけで、さっきの会話が頭をよぎる。
<保坂ちゃんも可愛い>
<見る目ない>
<優しいですね>
情報量が多い。
しかも全部、処理方法が分からない種類だった。
「…………」
沈黙。
マサキが首を傾げる。
「……保坂さん?」
ミオはゆっくり顔を覆った。
そして、呟く。
「……整理させてくださいっ」





