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59. うしろめたさの続き ~見てるのに、触れてこない~

 スマホの画面を見つめたまま、リサはしばらく動かなかった。


 あれから、会っていない。

 だから実際どうなのかは分からない。

 分からないけど。


(また、ぐるぐるしてそう)


 なんとなく、そう思った。


 こないだのこと。

 マサキがリサのことを、そういう目で見て、それで。

 その場では「気にしてない」って終わらせた。

 マサキも「分かった」みたいな顔をしてた。

 でも。


(松前くんて、あれで終わってるわけないんだよね)


 リサはスマホを持ち直す。

 マサキのことだから、どうせ一人でまた考え直してる。


 如月はああ言ってたけど、気を遣ってるだけだ。

 空気を悪くしたくなくて、気にしてないふりをしてる。


 容易に想像できた。

 そういうのを、誰にも言わずに全部抱えて、また少し離れようとしてる。


 違うのに、むしろ。


(……嬉しかったくらいなのに)


 顔が熱くなって、リサは誤魔化すみたいに視線を窓へ逃がした。


 でも、それをまた言葉で伝えても、たぶん同じだ。

 マサキは言葉じゃ伝わらないことが多い。

 だから、行動で示すしかない。


 いつも通り呼んで。

 いつも通りご飯食べて。

 本当に気にしてないところを見せる。


 そうすれば、戻れる気がした。

 自分から行かないと、マサキはまた勝手に遠くなる。

 それだけは、もう分かっていた。


 リサはトーク画面を開いて、一瞬だけ止まった。

 何を送ればいつも通りに見えるか。

 考えて、やめた。

 考えたら嘘っぽくなる。


『うちで蟹しゃぶしよ!』


 送信して、スマホを伏せる。


(来てくれるよね)


 胸の奥で、もう一個だけ声が落ちた。


(……がんばろ)


 ◇


 夏休みの午後だった。

 外へ出た瞬間から空気が重い。

 制服じゃないだけまだマシだったが、それでも背中にはじっとり汗が張り付いていた。

 イヤホン越しに流していた音楽も、熱気の中で少しぼやける。


 そんな中で届いたのが、リサからのLINEだった。


『うちで蟹しゃぶしよ!』


 相変わらず軽い。

 理由も説明もない。


 マサキはしばらく画面を見て、


『うん』


 それだけ返した。

 学校帰りに寄るのと、感覚は大差なかった。


(蟹か……いいな)


 その程度だった。


 リサの家は広すぎる。

 高級ホテルみたいな玄関。

 静かな廊下。

 冷房が効いた空間。

 大理石の床。

 高い天井。

 壁際に置かれた観葉植物まで、なんか高そうに見える。


 最初に来た時は普通に緊張した。

 というか、一人暮らしの女子の家へ行く、という状況自体が意味分からなかった。

 でも、何度も来るうちに感覚が狂った。


 広すぎて、生活感が薄い。

 女の子の部屋というよりモデルルームみたいで、現実感がない。

 しかも、リサ自身があまり特別扱いしてこない。


『ご飯できるまで適当にしててー』

『ネトフリ勝手につけていいよー』

『あ、冷蔵庫のプリン食べていいからね』


 そういう空気で普通に迎え入れてくる。


 放課後に寄って。

 飯を食って。

 少し話して帰る。

 それだけ。


 だから、マサキの中でも少しずつ感覚が麻痺していた。


(……まあ、今日もそんな感じだろ)


 そのくらいに思っていた。


 だから、インターホンを押して扉が開いた瞬間、思考が止まった。


「いらっしゃい。入って入ってー」


 いつも通りの声だった。

 なのに、格好だけが全然いつも通りじゃなかった。


 薄いキャミソールの肩紐が白い肌に細く引っかかっていて、笑って身体を傾けた拍子に胸元がやわらかく揺れる。

 短すぎるスカートの裾から伸びた脚が、玄関の照明を受けて白く浮いて見えた。

 エアコンの涼しい風が流れてくる。

 そのせいで余計に、肌の白さだけが際立った。


 マサキの視線が止まった。

 止まって、慌てて逸れる。


 キャミソールの薄い生地。

 鎖骨の線。

 肩から胸元へ落ちる柔らかな丸み。

 リサが笑って身体を屈めると、そこだけ視界へ勝手に入ってくる。


「今日あつかったよねー」


 リサが玄関のドアを閉めながら振り返る。

 その拍子に髪が肩から流れて、白い首筋が覗いた。


 すぐ逸れる。

 でも今度は脚が目に入る。


 短すぎるスカートの裾。

 ソファへ座ったら危ないだろ、と普通に分かる長さ。

 細い太ももが、冷房の風で鳥肌を立てていた。


(見えすぎ……)


 喉が変に乾いた。


(いや、可愛いけど……)


 一瞬見えた谷間が頭に焼き付いて離れない。

 胸。

 細い腰。

 脚。


 視界に入るたびに、脳が勝手に認識してしまう。

 しかも最悪なのは、自分でも分かるくらい"見てる"ことだった。


(……いや待て)

(オレ、そういう目で見てるって、言ったばっかだろ)

(なのになんでそんな格好……)


 理性では止めているのに、目だけが勝手だった。


 ◇


 そのたびに、リサは気づいてしまう。


 マサキが何度も視線を外していること。

 そのくせ、一瞬だけちゃんと見てしまっていること。


 胸元を見て。

 脚を見て。

 慌てて逸らして。

 でもまた、気づいたみたいに戻ってくる。


 全部分かっていた。


(見てる……っ)


 胸の奥が熱くなる。


(松前くん、めっちゃ見てる……)


 からかって遊びたいわけじゃなかった。

 むしろ逆だった。


 マサキは、自分から来ない。

 リサの隣にはいてくれる。

 近づけば受け入れる。

 でも、自分からは絶対に踏み込んでこない。

 それが、少しだけ不満だった。


 だから、今日はわざとだった。

 薄着も。

 距離感も。


 マサキが"男の子として"ちゃんと、自分を女の子として見ているのか確かめたかった。


 ◇


「今日ちょっと奮発したんだよー」


 リサはキッチンへ向かいながら笑う。

 スカートの裾が揺れる。


 マサキは視線をテーブルの角へ向けたまま、動かなかった。


(なんでそんな格好で料理してんだ)


 棚の上へ手を伸ばしたリサの、キャミソールの脇から白い肌が覗く。

 鍋の準備をするリサは、無防備だった。


 身体を傾けるたびに、スカートの裾が少し浮く。胸元が危ない。


 マサキはもう蟹どころじゃなかった。


「松前くん、ポン酢とごまだれどっち派?」

「……どっちも」

「どっちも美味しいよねー」


 触りたい、と一瞬でも思う。

 自己嫌悪が上から潰してくる。

 視線を向けるだけで駄目な気がするのに、触れたら終わる。

 だから耐える。

 黙る。

 動かない。


 ◇


 けれど、その沈黙はリサには違う意味で伝わっていた。


 見ているのに来ない。

 意識しているのに触れない。

 それが少しずつ不安になる。


(……なんで?)

(見てるだけ?)


 リサは鍋をテーブルへ運びながら、ちら、とマサキを見る。

 マサキは逸らす。

 その反応が、逆に意識している証拠だと分かる。


 分かるのに。

 欲しかった反応は、それじゃなかった。


(松前くんから来てよ……)


 その気持ちだけが、静かに膨らんでいく。


 ◇ ◇


 鍋の蓋を開けた瞬間、ふわっと出汁の匂いが広がった。

 リサが満足そうに笑う。

 白い湯気が冷房の効いた部屋へゆっくり広がっていく。

 テーブルの上には綺麗に並べられた蟹と野菜。


「こないだテレビのグルメ旅で見てさ、急に食べたくなっちゃったんだよねー」


 リサはそう言いながら、蟹の脚を鍋へくぐらせる。

 細い指先。

 湯気で少し赤くなった頬。


 腕を前へ戻した拍子に、キャミソールの薄い生地が胸元の丸みを隠しきれなくなる。

 蟹をしゃぶしゃぶするたびに、肩から胸元のラインが小さく動く。

 そのたびに視界が引っ張られる。


「このくらいかな?」


 鍋の上で蟹を揺らしながら、首を傾げる。

 その動きで胸元がまた寄って、やわらかそうな谷間が一瞬だけ深くなる。


 マサキは慌てて鍋を見る。

 でも無理だった。

 湯気の向こうで揺れる白い胸元が、どうしても目に入ってくる。


(見ちゃダメだ)


 蟹は美味かった。

 ちゃんと甘い。

 口に入れた瞬間、とろっとほどける。


「……うまい」

「ねーっ」


 リサがぱっと笑う。


「遠慮しないでいっぱい食べてね」


 そのまま身を乗り出した拍子に、キャミソールの胸元がふわりと揺れる。

 脳が勝手に焼き付ける。


 柔らかそう、とか。

 でかい、とか。

 なんでそんな薄着なんだ、とか。


 全部一気に流れ込んできて、自分で自分に引く。


「やっぱこういうのって」

「……ん」


 返事が一拍遅れる。


「一人で食べても味気ないんだよね」


 蟹をほぐしながら、小さく笑う。


「だから、来てくれて嬉しい」


 その声が、やけに柔らかかった。

 マサキの喉が詰まる。


「……そうか」


 短く返すので精一杯だった。

 本当はもっとちゃんと返したい。

 オレも嬉しいとか。

 呼んでくれてありがとうとか。

 でも今の頭は、まともに動いていない。


 リサが蟹を食べるたびに口元が少し緩む。

 美味しそうに頬張って、幸せそうに目を細める。

 その顔が普通に可愛い。

 可愛いのに。

 なのに視線は別の場所へ吸われる。

 テーブルへ腕を伸ばした時に、胸元がぽよん、と揺れた。


(最低だろオレ……)


 リサはちゃんと一緒に食べようとしてくれてる。

 なのに。


(柔らかそうとか、触りたいとか…そんなことばっかり考えるな)


 頭の中で否定しても、目だけが勝手だった。

 リサが笑うたびに胸が揺れる。

 そのたびに追ってしまう。

 逸らす。

 でも気づいたら、また戻っている。


 マサキは黙って麦茶を飲む。

 冷たいはずなのに、全然熱が引かなかった。


◇  ◇  ◇


「ね、せっかく夏休み中なんだし、今日はもっとゆっくりしていったら?」


 いつもなら、ここで終わりだった。

 飯を食って。

 少し話して。


『じゃ、また明日』


 それで帰る。

 実際、マサキもそろそろ立つタイミングを考えていた。

 なのに今日は、不意にそう言われて、マサキの動きが止まる。


(……なんだ今日)


 リサはじっとこちらを見ている。

 その顔が、なんとなく拗ねて見えた。


(……帰るなってことか?)


 喉の奥が鳴る。

 いつもなら、そのまま帰る。

 変に期待しない。

 踏み込まない。


 でも今日は違った。

 薄着のまま近づいてきて。

 視線に気づいて。

 なのに隠さない。


 そんなリサを見ているうちに、頭のどこかがおかしくなっていた。


(……今日、なんかあるのか)


 そんな考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に引く。

 なのに期待してしまう。


「……ん」


 曖昧に頷くと、リサの表情が少しだけ明るくなった。


「じゃ、リビングいこー」


 その声まで嬉しそうで、余計に心臓に悪い。


 ソファへ移動して、二人並んで座る。

 それだけで距離が近かった。

 食卓では向かい同士だった。

 だから視線が落ちる先は胸元ばかりだった。

 でも横に並ぶと違う。

 今度は脚が近い。


 浅く腰掛けたリサのスカートが、ソファへ座った拍子に少し上がる。

 マサキの喉が小さく動いた。


「ネトフリ見る?」

「……なんでもいい」


 白い太ももがすぐ隣にあった。

 細い。

 スカートの裾からむき出しになった肌が、冷房の光の中でやけに目を引く。


 慌ててテレビを見る。

 でも数秒後には視線が落ちて、また脚の方へ吸われてしまう。


(……見るなって)


 少し動いただけで触れそうな距離だった。


 ◇


 しかも如月は、その視線に気づいている。


(また見た)


 ちゃんと男の子みたいに意識してくれている。

 それは嬉しいのに。

 なのに、やっぱり松前くんは来ない。

 触れない。

 踏み込まない。

 その慎重さが、もどかしかった。


(一緒にはいてくれるんだ……)


 その事実だけは、少し嬉しい。


 リサはリモコンへ手を伸ばす。

 そのとき、髪が肩から滑り落ちて、甘いシャンプーの匂いが近づいた。

 マサキの肩がほんの少しだけ強張る。


(絶対、意識してるのに)


 リサは唇を引き結んで、わざと何でもない顔を作った。

 映画を選ぶふりをしながら、脚を組み替える。

 細い脚が擦れ合う音が、静かな部屋で聞こえた。


 マサキは画面を見ている。

 見ているはずなのに、全然集中できていないのが分かる。

 リサが動くたび、一瞬だけ目が吸い寄せられて。

 気づいたみたいにすぐ逃げる。


(なんでそんな我慢してるの)


 リサはソファへ身体を預けたまま、大きく伸びをした。

 キャミソールの薄い生地越しに、胸がふわりと揺れた。


「んー……食べたら眠くなるね」

「……ここで寝るなよ」

「まだ寝ないー」


 そう返しながら、リサはそのままマサキの肩へ寄りかかった。

 ぴたりと腕が触れる。

 その瞬間、マサキの呼吸が止まる。


 でも、動かない。

 肩を避けることもしない。

 抱き寄せることもしない。

 ただ耐えるみたいに固まっている。


(……なんで)


 リサの胸の奥が、静かに熱くなる。


 見ているくせに、絶対に踏み込まない。

 そのくせ、近づけば近づくほど苦しそうな顔をする。

 だから余計に分からなくなる。


(あたし、そんなに魅力ない?)


 その考えが頭をよぎった瞬間、リサは勢いみたいに身体を起こした。


「ねー」


 わざと間延びした声を出しながら、ソファの上で脚を伸ばす。

 つま先がマサキの太ももへ軽く触れた。


「男の子って、こういうの好きなんじゃないの?」


 いたずらっぽく笑う。

 でも、指先は少しだけ落ち着かなかった。


 ◇


 マサキは黙る。

 視線だけが、一瞬リサの脚へ落ちた。


 白い肌。

 短い裾。

 無防備な距離。


 頭がおかしくなりそうだった。

 触れたいと思う。

 近づきたいと思う。

 でも、そのたびに胸の奥が重くなる。


(……最低だ)


 リサを見て、こんなことばかり考えている自分が嫌だった。

 大事にしたいはずなのに。

 守りたいはずなのに。

 頭に浮かぶのは、そんなことばかりだった。


 だから視線を逸らす。

 これ以上見たら、本当に耐えられなくなる気がした。


「……やめろ」


 低い声だった。

 怒鳴ったわけじゃない。

 でも、リサはぴたりと止まる。

 数秒遅れて、眉がむっと寄った。


「……は?」


「その格好で近づくなって……」


 最後まで言い切る前に、マサキは口を閉じる。


 ◇


 リサはクッションをぎゅっと抱き締めた。


 頑張ってるのに。

 勇気出してるのに。

 返ってきたのは、拒絶みたいな言葉だった。


「なにそれ」


 笑おうとして失敗したみたいな声になる。


(……あたしだって恥ずかしいんだけど)


 リサはソファの上に立ち上がると、そのまま背もたれへ腰を乗せた。

 背もたれは柔らかく、体重をかけるたびぐら、と傾く。

 細い脚がバランスを取るみたいに揺れた。

 短いスカートの裾が、また危ない位置まで上がる。


 マサキは反射的に目を逸らした。

 その反応が、逆にリサを意地にさせる。


 リサは片脚をゆっくり持ち上げ、ソファの上からマサキへ近づける。

 白い脚が視界へ入る。

 リサの足先が、そろ、とマサキの太ももをなぞった。

 服越しなのに、変に熱い。


 ゆっくり。

 試すみたいに。

 爪先が太ももの上を滑って、膝の近くで止まる。

 ソファが揺れるたび、リサの身体も小さくぐらつく。

 それでも視線だけは逸らさない。


「……ねえ」


 少しだけ拗ねた声だった。


「こういうのは?」


 わざとらしく首を傾げながら、リサ自身が先に耐えきれなくなる。


(いや待って、松前くん反応薄すぎ)


(ここまでやって何もなかったら…)


(あたし女として終わる)


 その瞬間、マサキが顔を上げる。


(はっ、やばい! この角度はパンツ見える!)


 慌てて脚を閉じようとして、逆に身体が傾いた。


「わ、ちょ――」


 ぐらり、と視界が揺れる。

 落ちる、と思った瞬間には、マサキが動いていた。


 反射みたいに腕が伸びる。

 リサの肩を掴み、そのまま勢いごと床へ倒れ込んだ。

 鈍い音が響く。


「っ、……」


 気づけば、リサは完全にマサキの上へ乗っていた。

 しかも体勢が最悪だった。


 マサキの腰へ上半身が乗っている。

 マサキの目の前には、むき出しの太もも。

 その間に覗く、白色の布地。


 レースの縁がちらりと視界へ入った瞬間、マサキの思考が完全に止まる。

 柔らかな太ももに挟まれるようにして、視界の中心へ飛び込んできた。


(……っ)


 丸みを帯びたラインがすぐそこにある。

 布越しにも分かる柔らかな曲線。

 マサキの喉が、ごくりと上下した。


(いや待て)


(白)


(無理……っ)


 離さなきゃいけない。

 目を逸らさなきゃいけない。

 なのに視界へ入ってしまう。


 細い腰。

 むき出しの太もも。

 その間にある白い布。


 しかもリサは、マサキへしがみつくようにしていて、逃げ場がない。

 動けば触れそうな距離。

 呼吸をするたびに、ふわりと甘い匂いが落ちてくる。


 頭が止まる。

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