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58. うしろめたいこと ~距離を壊したのはどっちか2~

 その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちる。

 エアコンの風が、ゆるく部屋を撫でていく。


 マサキは、すぐには返さない。

 手元を見たまま、リサの言葉を反芻している。


(……大したことじゃない?)


 自分の中で抱えていたものとの温度差に、うまく整理がつかない。


 男が、女を性的に見る。欲情する。一人で処理する。

 そんなもの、珍しくもなんともない。

 だからこそ嫌だった。

 "普通にあること"として、リサを見る側に回ってしまったことが。


 ようやく、口を開く。


「……それで済む話じゃないだろ」


 低く、でも強く否定する。

 リサは少しだけ首を傾ける。マサキは続けた。


「普通に考えて、自分のことそういう対象にしてたやつと、何もなかったみたいに話せるか?」


 リサはうまく言葉を探そうとする。


「もちろん、誰でもってわけじゃないんだけど」


 前置きをする。


「普通にキモいなって思うときもあるし」


 少しだけ苦笑する。


「でも、松前くんはなんか違うの」


 少し考えてから、続ける。


「茶化して言ったり、冗談で誤魔化したりしないから…むしろ、ちゃんと聞けて嬉しいくらい」


 部屋の空気が、少しだけ緩む。


 マサキは、ゆっくり息を吐く。


「……じゃあ」


 静かに。


「オレは、このまま普通にしてていいのかよ」


「さっき言ったこと、分かった上で」


「うん」


 即答だった。


「いいよ」


 迷いなく言う。


「そこまで含めて松前くんだと思ってるから」


 マサキは返せない。


 欲望は隠すものだと思っていた。

 隠しきれないなら、距離を取るしかないと思っていた。


「だって、あたしのこと…少しはいいなって思ってくれてる証拠でしょ?」


 指先で、ソファの端を軽くなぞりながら言う。


「だったら別に…いいかなぁって」


 マサキは、手元を見たまま考える。


(別に…いいかな……?)


 簡単には答えが出ない。


 リサは、重くなった空気を少しだけ散らすみたいに、ふっと肩の力を抜いて笑う。


「松前くんも、あたしの魅力にやっと気づいたかー」


 冗談っぽい声。わざと軽くした言い方。


 マサキは一瞬だけ目を瞬かせる。


「……は?」


 思わず素で返す。

 リサはその反応を見て、少しだけ笑う。指を軽く立てる。


「そういう目で見ちゃうくらいには魅力あるんでしょ?」


「それはそうだろ」


 即答。少しだけ強め。


 リサは一瞬きょとんとして、それから


「ならいいや」


 肩を小さく揺らして笑う。


「いや、よくない」


 リサの動きが止まる。


 マサキは一瞬、間を置く。


(本当に表情が忙しいな……)


 さっきまでの軽さが嘘みたいに、今度は少しだけ慎重な空気になる。


「あの……答えたくなかったら、無理にとは言わないんだけど」


 指先がソファの縁を、意味もなくつまむように動く。


「……あたし以外でも、そういうことするの?」


 言ったあとで、少しだけ肩が縮こまる。

 聞いたはいいけど、怖い。そんな顔。


 マサキはすぐには返さない。短く息を吐く。


「するか、しないかで言ったら……する」


 リサの動きが、ぴたりと止まる。

 でもマサキは続ける。


「別に、如月だけってわけじゃないから」


 淡々とした言い方。変に誤魔化しもしない。


 リサは、その言葉をゆっくり受け取る。


「……そか」


 小さく、納得するような声。

 でも次の瞬間、少しだけ眉が下がる。


「そりゃ……そうだよね」


 自分で言って、自分で少し納得してる。


 マサキはその表情を見て、わずかに目を細める。


(なんだよ、その顔)


「あたしじゃなくても……誰でも、いいってことだよね」


 マサキの動きが止まる。


「そういうわけじゃ…」


 そこまで言って、言葉を止める。


(いや、どういうわけだよ…)


(そりゃあ、如月以外でもするだろ…。むしろ…そっちが普通だろ。今回の方が、普通じゃなかった)


 口を開きかけて、そこで止まる。


(……違う。違うけど、どう説明するんだこれ)


 言葉にしようとしても、うまく形にならない。

 "誰でもいいんだよね"という言葉だけが、やけに残る。


「説明すると変になるから、言わない」


 そう切ってしまう。


「ふーん、いいけど。こっちにも考えあるし」


 そう言ったリサは、それ以上その話題を深追いしなかった。


 リサの体調が戻ったあと、マサキは彼女を家まで送り届け、その日は無事に終わった。

 結局、最後までその"考え"が何なのか分からないままだった。


◇  ◇  ◇


 夜。

 部屋に戻り、ようやく一息ついたタイミングで、スマホが震えた。

 リサからだった。


『あたしのこと、いっぱい考えて』


 短いメッセージ。

 続けて、画像が送られてくる。


 リサの下着姿の写真だった。


 かなり無防備な格好で、ベッドに座っている姿。


 さらに、数枚。

 角度が違う同じ下着姿。


(……は?)


 マサキは思わず息を止めた。

 画面を見つめたまま、数秒固まる。


 リサが、挑発するような写真を送ってきていた。


(な、なにやってんだ……っ)


 スマホを持つ手に力が入る。

 次のメッセージ。


『これでも、あたし以外でそういうことする?』


 数秒、画面を見つめたまま固まる。


(いや、これ……)


 すぐに閉じればいいのに、指が動かない。

 代わりに、慌てるように写真を保存してしまう。


(消えたら困るとかじゃなくて……いや違う、そうじゃなくて……)


 頭の中が妙にうるさい。

 そしてまた通知。


『足りないなら』

『もうちょっとだけ』


 その短い文字列が、やけに重い。

 そのまま数秒、マサキは動けなかった。


 次に送られてきたのは、

 ブラを脱いだ状態で、手で隠している写真だった。


(いや、これは……何のつもりだ)


 手が震える。

 次のメッセージ。


『ダメ?』


 短い。

 指先が一瞬止まる。


(……これ、放っとくとまずい)


 ため息を一つ落として、ようやく返信画面を開く。

 打ち込む文字は短い。


『やめろ』


 一瞬だけ迷って、消す。


(言葉がキツすぎる)


 書き直す。


『そういうのはやめろ』


 それでもまだ違う気がして、また消す。

 また通知が来る。


 1枚の写真。


 胸元を隠していた手を少しだけどけ、少しためらいがちな表情でカメラをじっと見つめている。

 隠していた手が離れたことで、柔らかな肌がそのまま画面に映る。


 髪がさらりと胸元にかかり、それがかえって輪郭を際立たせる。

 マサキの喉が、ごくりと鳴った。

 目を離せなくなる。

 理性で止めようとしているのに、感情が言うことを聞かない。

 写真を保存する動作を、ほぼ無意識にしている。


(……こんなの……おかしいだろ)


 そう思うのに、スマホを握ったまま、思わず顔を覆って深く息を吐いた。

 如月の写真を見続けているという背徳感が、マサキの頭の中を余計にかき乱す。


 視線は画面から外れないまま。


(何やってんだよ、オレも如月も……)


 理性がブレーキをかけるのに、手は勝手に動いている。

 如月に対してだって、申し訳なさが湧く。

 でも、手が止まらない。


 写真の中の如月は少し困ったような表情をしている。

 その顔が、余計に頭から離れない。


(この顔……可愛い……)


 呼吸がうまく整わない。

 画面から目を逸らせないまま、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 静かな部屋の中で、時間だけが妙に長く流れていく。


 ――


 深くため息をついて、額に手を当てた。


「落ち着け……」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 罪悪感を感じながらも、再びスマホに目を戻した。

 新しいメッセージが届いていた。


『反応ないの恥ずかしい><』


(返信しないと…)


 文章を書こうとした時、余計な思考がよぎる。

 それを振り払うように手を動かす。


『こういうことはやめた方がいい』


 そう打ち込む。


(……でも、本当にそう思ってるのか?)


 ふと、そんな疑問が浮かんでくる。


 消す。


 ゆっくりと文字を打つ。


『写真ありがとう』


 そう入力したところで、ようやく送信ボタンを押す。


(これでいいのか?……間違ってはいないはず……)


 スマホの画面をしばらく見つめる。

 そして、如月からの返信がきた。


『それだけ?』


(やばい……)


 焦りを感じながら、必死に考える。

 如月がどんな気持ちでこの写真を撮ったのかを考えると、どうしても率直な感想を言うことができなかった。


 つい、画面を見てしまう。

 すると、如月の新たなメッセージが表示された。


『満足した?』


 その質問を見て、思わず息を呑む。


(これ、答えたら………したってバレるよな。いや、もうバレてるか?)


 スマホを操作して、返信する。


『写真は見た』


 送信すると、すぐに既読がつく。

 そして数秒後、如月からの返事が来た。


『答えになってないよ』

『見たいのあったら言って』


(見たいのって……)


 頭の中でその言葉がぐるぐると回る。


(こんなこと続けてたら、間違いなくヤバい。オレも如月も冷静じゃない。やめさせないと……)


 決意し、深呼吸をしてから文字を打ち込む。


『服着ろ』

『今日はありがとう』


 画面には『送信済み』の表示が出た。



 夜。

 お風呂上がりのリサは、ベッドに寝転がったまま、スマホを胸の上に乗せていた。

 まだ少し湿った髪から、シャンプーの匂いがふわっと残っている。


 天井を見上げる。でも、頭の中に浮かぶのは、今日のことばかりだった。


(……今日の松前くん、カッコよかったな)


 熱中症寸前だった自分を支えてくれた腕。

 焦ったみたいに低くなっていた声。

 お姫様抱っこで運ばれた時の、あの真剣な表情。


 そして――


『……一人で、思い出して』

『……そのまま、如月で抜いた』


 あの告白。

 顔が熱い。


 今までだって、似たようなことを軽いノリで言ってくる男はいた。


 でも。


 松前くんの言葉だけは、全然違った。

 嫌じゃなかった。

 むしろ、胸の奥が変に熱くなる。


 だけど――


『別に、如月だけってわけじゃないから』


 その言葉だけが、ずっと引っかかっていた。


 リサはゆっくり起き上がる。

 スマホを握る。

 少し考えてから、クローゼットを開けた。


 中から、お気に入りの少し透け感のある黒い下着を取り出す。


 鏡の前に立つ。


(……誰でもいいとか、やだ)


 手早く着替えて、ベッドの上に座る。

 スマホのインカメラを起動し、どうすれば一番、彼が「リサじゃなきゃダメだ」と思うかを計算してシャッターを切る。


『今日のこと、いっぱい考えて』


 送信ボタンを押す指先が、微かに震える。

 昼間の彼との会話があったからこそ、このメッセージはただの悪ふざけじゃない。


 立て続けに、角度を変えた写真を数枚送りつける。


『これでも、あたし以外でそういうことする?』


 画面にはすぐに「既読」がついた。

 しかし、返信は来ない。


(見てる……。いま松前くん、あたしの写真見てる……っ)


 松前くんが、自分の写真を見ている。

 その想像だけで、胸の奥が落ち着かなくなる。


 リサはさらに数枚送る。

 角度を変えて。

 少しだけ距離を近づけて。


 松前くんが今、自分の写真を見ながら息を荒げているのだとしたら。

 その手に握られているのがスマホだけではないのだとしたら。


「……っ!」


 ベッドに倒れ込む。


『足りないなら』

『もうちょっとだけ』


 理性のストッパーが外れたように、リサは背中に手を回してホックを外した。

 ブラをベッドの端に放り投げ、露わになった胸を自分の片手で隠す。

 緊張でシャッターを切る手が震えた。

 うまく表情が作れず、恥ずかしさがそのまま出てしまった写真になる。


(まぁ、これはこれでいっか)


 送信。

 既読はすぐにつくのに、画面の向こうのマサキは完全に沈黙している。


『ダメ?』


 短いメッセージを送るが、やはり反応がない。


(……どうしよう。やりすぎちゃった? ……いやいや、違う。松前くんは今、文字を打つ余裕もないくらいなんだとしたら…)


 リサはゆっくりと胸を隠していた手をどけた。

 スマホの画面に映る自分。

 隠していた部分が、そのまま画面に映る。


 自分からこんな写真を送るなんて、異常だ。

 でも、相手が松前くんなら、全部知られてもいい。

 全部、彼のものでいい。


 やっぱり表情が作れない。

 撮り直しても、ためらいが出てしまう。

 リサはそれでも、覚悟を決めて送信した。


(……送っちゃった)


 もう後戻りはできない。

 自分のすべてを差し出した。

「誰でもいい」なんて二度と言わせないための、リサなりの「考え」の答え。


 数分が経過する。

 でも、返信は来ない。

 既読だけ。


 その沈黙が、逆にリサの想像を膨らませる。


(……どうしてるんだろ)


 スマホを見つめたまま、唇を噛む。


(困ってる?)

(それとも……)


 そこまで考えて、自分で顔を埋める。


「っ……もしかして……」


 恥ずかしい。


 恥ずかしさと、焦燥感と、得体の知れない高揚感が混ざり合う。

 リサはたまらずメッセージを打ち込んだ。


『反応ないの恥ずかしい><』


 すると、画面上部に「入力中…」のアイコンが出たり消えたりし始めた。

 マサキが何かを打とうとして、消して、また打っている。

 その迷っている姿が想像できて、リサの口元が自然と緩む。


 そして、ようやく送られてきたメッセージ。


『写真ありがとう』


「…………は?」


 リサは思わずスマホに向かって声を出してしまった。


(なにそれ?こっちは先っぽまで見せてるのに、ただの『ありがとう』!?)


 拍子抜けしてベッドに倒れ込む。

 でも、マサキらしいといえばあまりにもマサキらしい。

 不器用なくらい真面目な防衛線だった。


 マサキが今、どんな顔をして画面を見つめているのか。


『それだけ?』


 少しだけ意地悪な気持ち。

 少しだけ試したい気持ち。


『満足した?』


(してないよね?本当はもっと見たいよね?)


 昼間の告白を逆手に取るような気持ちで、リサは彼の返信を待つ。

 返信が来る。


『写真は見た』


(……まだ逃げるんだ)


 リサはクスクスと笑いながら、寝転がったまま足をパタパタとさせた。


『答えになってないよ』

『見たいのあったら言って』


 挑発するようなメッセージを送った直後、今度は迷いなくすぐに返信が飛んできた。


『服着ろ』

『今日はありがとう』


 そのそっけない二行の文字を見て、リサは枕に顔を埋めた。


「もー……っ」


 顔が熱い。


 突き放してるみたいなのに、全然そうじゃない。

 これ以上見たら危ないって、自分で分かってる感じ。

 昼間、自分を助けてくれた時と同じ。

 不器用なくらい真面目な優しさ。


 リサはスマホを胸に抱きしめる。

 ベッドの上で、ごろりと転がる。


「……大好き」


 画面をもう一度見る。

 短いメッセージ。


 でも、その裏でマサキがどんな顔をしてるのか、なんとなく想像できた。


 リサは目を閉じる。

 胸の奥が、じんわり熱い。


 そのままスマホを抱えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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