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56. プール ~可愛いだけじゃない2~

 流れるプールを出てからも、マサキの頭の中は落ち着かなかった。


 何度も同じ場面が浮かんでは消える。

 視界に焼き付いたまま離れない。

 ほんの少しだけ見えてしまった、淡いピンクの残像。


 さっきの出来事。近すぎた距離。残ってしまった感触。


(……まだ残ってる)


 奥歯を噛む。

 忘れようとしても、逆に意識してしまう。

 そのたびに、自分へ苛立ちが向く。


 同時に。

 その感情の理由も、嫌でも分かってしまう。

 じわじわと自己嫌悪が広がっていく。


 だから――


 マサキは無意識に、リサと少し距離を空けて歩いていた。

 ほんの少しの距離。でも、やけに遠い。


 リサは前を歩いている。

 さっきまでと同じように、水を蹴って、軽い足取りで進んでいるのに。

 その背中が妙に遠く感じた。


 だが。

 その空いた距離こそが、周囲の目を引いた。


 オレンジ色の水着。目を引くスタイル。

 一人で歩いているように見えたリサの前へ、遊び慣れた雰囲気の男たちが立ち塞がる。


「ねぇ、一人?」


 軽い声。リサの進行方向に、数人の男たちが立ちはだかる。

 視線の向け方。距離の詰め方。どこか慣れている感じがした。


「一緒に回ろうよ」


「え、普通にめっちゃ可愛いじゃん」


「ねぇねぇ、無視しないでよ」


「ほら、こっち来なって」


「人数多い方が楽しいって、ね?」


 リサが足を止める。

 少しだけ首を傾ける仕草。濡れた髪をかき上げる。その動きすら、やけに目を引いた。


「ごめんね、彼氏と来てるから」


 口元に手を当て、くすりと笑う。


「さっき見てたけど……あそこにいる地味なのが彼氏?」


 男の一人が、顎でマサキの方を示す。


「ああいうのと一緒にいるの、もったいなくない?」


「釣り合ってないって。もっといいの選びなよ」


「絶対つまんないでしょ?こっちのが楽しいって、マジで」


 笑い声。軽い調子。

 悪意は薄いようでいて、確実に見下している響きだった。


(……っ)


 マサキは咄嗟に足が動く。

 遅れてでも、割って入ろうとする。

 けれど――


 その前に。


「はぁ?」


 リサの口から漏れたのは、拒絶と不快感を隠そうともしない声だった。


 彼女は足を止めたまま、男たちを正面から見据える。

 いつもの無邪気な空気は、そこにはなかった。


「なに言ってんの?あんたたちの相手なんてマジで御免なんだけど」


 強い言い方。それなのに、不思議と下品さはない。


「ていうかさ」


 リサは、ほんの少しだけ顎を上げる。

 濡れた髪の隙間から覗く表情は、さっきまでとはまるで別人みたいで。

 それでも――やっぱり、可愛いと思ってしまう。


「軽く見てんじゃないわよ、レベル合ってないって気づけないの?」


 凛とした声が響く。

 濡れた髪を、さっとかき上げる。


 マサキを「釣り合わない」と笑われたことが、完全に火をつけていた。


 周囲の空気が、一瞬だけ止まる。

 男たちが言葉を失う。

 冗談半分だった空気が、完全に崩れていく。


 その中心にいるのは、リサだった。

 ただ立っているだけなのに、男たちが一歩も動けないでいる。


 マサキは、小さく息を飲む。


(如月は、普通に強い)


 守られるだけの存在じゃない。

 ちゃんと、自分で立って。拒絶して。守れる。


 その姿が、やけに眩しく見えた。


「ナンパする相手、ちゃんと選んだほうがいいよ?」


「あんたたちじゃ話す価値もないわよね」


「このあたしに声かけるとか、その自信どっから来てんの?ちょっと教えてほしいんだけど」


 リサは、わざとらしくもなく首をかしげる。

 その仕草は柔らかくて可愛らしいのに、言っていることは容赦がない。


 男たちの表情が、わずかに引きつった。


 リサは一歩だけ前に出る。

 距離を詰めるわけでもない。

 ただ、逃げ場を与えない立ち方だった。


「あとさ」


 声のトーンが、少しだけ落ちる。


「人のこと勝手に値踏みして、釣り合ってないとかつまんないとか決めつけてるけど――」


 一瞬だけ。

 視線がマサキの方へ向く。

 ほんのわずか。けれど確かに、そこに柔らかさが戻る。


 すぐに男たちへ視線を戻して、


「そういうの、一番ダサいよ?」


 言い切る。


 水面の反射が、リサの濡れた髪と肌をきらりと照らす。

 可愛いのに――今はそれ以上に、圧倒的だった。


「……如月」


 その声で、リサの表情が一瞬だけ止まる。

 張っていた空気が、ふっとほどけるみたいに。


 追いついたマサキが、彼女の隣に並ぶ。


 すると。

 さっきまでの鋭さが、嘘みたいに崩れていく。

 頬がふわっと丸くなって、口元が緩む。


「もー、なんで離れて歩くのー?」


 さっきまでの凛とした声とは別人みたいに甘い。

 完全に、いつものリサだった。

 ――いや、それ以上に甘い声音だった。


 一歩、距離を詰める。

 さっきまで空いていた数メートルなんて、最初からなかったみたいに。


「すぐどっか行くんだから」


 マサキは一瞬だけ手元を見る。

 それから、短く返した。


「……悪い」


 濡れた指先が、自然に絡んでくる。

 少しだけ間が空く。

 マサキはぼそっと言った。


「……ちゃんと見てた、如月のことは」


 ――一瞬。


 リサの動きが止まる。


「……え」


 小さく漏らして、マサキの方を見る。

 頬が、じわっと赤くなる。


 正面を向いたまま、少しだけ声を落とした。


「……そ、そうなんだ」


 それでも、指先だけはきゅっと絡めたまま。


「……ちゃんと見てたんだ」


 ぽつりと、少しだけ嬉しそうに呟く。


 少しだけ上目遣い。

 わざとらしい拗ね方なのに、嫌味がない。


 むしろ――


(……近い)


 マサキは、一瞬だけ言葉を失う。

 さっきまで距離を取っていた分、その近さが余計に強く感じた。


 水に濡れた肌の距離。体温。柔らかい空気。


 リサは、そんなマサキの様子を見て、くすっと笑う。


「……ちゃんと近くにいてね?」


 低い声で凄んでいた姿とは、まるで別人だった。

 今はただ、マサキにだけ向けられている柔らかさ。


 男たちは何も言い返せないまま、その場に立ち尽くすしかなかった。


「はい捕まえた」


 指先に、ぎゅっと力を込める。


「もう離れないでよね?」


 照れたみたいに笑う。

 その表情は、どんな瞬間よりも――圧倒的に可愛かった。


「行こ」


 リサは、それ以上は何も言わない。

 絡めた指を引くようにして、そのまま歩き出す。


 男たちは、もう何も言い返せなかった。


 さっきまで空いていた距離が、嘘みたいに縮まっている。

 並んで歩く。

 リサは何事もなかったみたいに、水を蹴りながら進んでいく。


 ぱしゃ、と小さな水音が鳴る。

 その横顔は、さっきと同じようで――でも、少しだけ違って見えた。


(……ほんと)


 繋がれた指先の熱が、やけに残る。


(可愛いだけじゃないな)


 その事実が、妙に胸に残っていた。


◇  ◇


「……これはオレが出す」


 トレイを差し出しながら、マサキはため息交じりに言った。


 プールの入場料を、リサに押し切られる形で払わせてしまったこと。

 それに加えて――今日一日で、彼女の胸を触ってしまったことや、水面から覗いたあの淡いピンク色の先端を直視してしまったこと。


 言葉にはしないまま、胸の奥に残り続けている負い目。

 それを少しでも埋めるための、不器用な「返し」だった。


「えー、松前くん優しいー」


 リサは、ぱっと表情を明るくする。

 子どもみたいに瞳をきらきらさせながら、まっすぐに喜ぶ。


 その笑顔は、作ったものじゃない。

 ただ純粋に嬉しいって感情が、そのまま形になっているみたいで――


(……眩しい)


 マサキは一瞬だけ手元に目を落とした。


 空いている席を見つけて、二人は向かい合って座る。


 ――それが、間違いだった。


 テーブル越し。自然と視線が正面に向く距離。

 それがマサキにとって、新たな、そして一番きつい試練の始まりになる。


 リサが少し身を乗り出す。

 それだけで、オレンジのビキニに縁取られた胸の曲線が、視界の中心に入ってくる。


 水に濡れた肌が、照明を受けて柔らかく光っている。

 呼吸に合わせて、輪郭がわずかに揺れる。


(……落ち着け)


 フォークを握る手に、少しだけ力が入る。


(見るな。飯に集中)


 そう言い聞かせても、視界に入ってくるものは消えない。


(……メロンが2つ)


 あまりにも短絡的な連想だった。

 マサキは内心で、自分に強く毒づく。


 それでも、目の前の現実は容赦がない。


 テーブルに腕を乗せ、身を乗り出すリサ。

 その動きに合わせて、オレンジ色の薄い布地が、はち切れそうなくらい引っ張られる。

 その中で、胸の形が柔らかく変わる。


 嫌でも、目に焼き付く。

 一瞬だけ、思考が投げ出しかける。


 それでも無理やり意識を逸らして、マサキはフォークを握りしめたまま、ポテトへ目を落とす。


「……さっきの、すごかったな」


 少しだけ間が空く。


「1人でちゃんと言い返せて…感心した」


 リサは、その言葉に少しだけ目を丸くした。

 それから――


「あむっ」


 たい焼きをひと口、頬張る。

 柔らかい生地にかぶりつく仕草。その動きが妙に小動物みたいで、頬が少しだけ膨らむ。

 もぐもぐと動く口元まで、妙に目を引く。


 飲み込んでから、リサは少しだけ照れたみたいに笑った。


「あれね、松前くんの真似」


 首を少しだけ傾ける。


「まー、さすがに本家みたいに一言で黙らせるのは、まだ無理だけどね」


 悪戯っぽい笑み。

 さっきまでナンパを一蹴していた強さとは違う。年相応の、少し無邪気な顔。


 リサは、もう一口たい焼きをかじる。


「今までは、変に角立てないように我慢してたんだけど――」


 もぐ、と咀嚼する。飲み込んでから、続ける。


「今日やってみたら、バカみたいにスッキリした」


 くすっと笑う。

 その笑顔は、何かを手放したあとみたいに軽かった。


「自分の言いたいこと、ちゃんと言うのって大事だよね」


 まっすぐな言葉。取り繕っていない、素直な感想だった。


 リサの変化に、自分の影響が少しでもある。

 それが分かって――


(……ああ)


 マサキは小さく目を伏せる。

 胸の奥に、少しだけ熱が残る。


 誰かに何かを残せたみたいな。そんな感覚。


 けれど――


 ふと、視線が落ちる。

 テーブルに身を乗り出した拍子に、また胸のラインが強調されているのが目に入る。


(……違う)


 さっきまでの感情が、一瞬でかき消える。


(今そういう流れじゃないだろ)


 内心で、自分に突っ込む。


 それでも、一度意識したものは戻らない。

 可愛いと思う気持ち。どうしようもなく卑俗な意識。

 その両方が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。


 マサキは何も言わず、ただフォークを動かすしかなかった。



「松前くん見て、夏祭りのときに言ってたやつ」


 次にリサが手に取ったのは、念願のチーズハットグだった。


「あぁ、それが……」


 マサキが思い出したみたいに小さく呟く。

 その前で、リサは嬉しそうにかぶりついた。


「んっ」


 ひと口。

 次の瞬間、中からとろりと溶けたチーズが現れる。


 リサは、わざとらしくじゃなく。

 ただ楽しいからという理由だけで、そのまま「びよーん」と伸ばしてみせた。


「見て見てー!」


 目をきらきらさせながら、少しだけ身を乗り出す。


「切らずにここまで食べれるの、すごくない?」


 自慢げな笑顔。

 その姿は、さっきナンパを一蹴していたモデルの顔とはまるで違っていた。


 綺麗にまとめることを、あっさり手放してしまうくらい無防備で。

 ただ純粋に「楽しい」を全身で出している。そんな、どうしようもなく愛らしい表情。


(……なんだそれ)


 マサキは一瞬だけ見とれる。

 そのまま、思ったことを口にしてしまった。


「……すごいけど。……自慢することか、それ?」


 ぽつりと落ちる声。

 悪気はない。むしろ逆だった。


 リサには、そんなことで自慢しなくてもいいくらい、他にいくらでも魅力があると思っていた。


 けれど――


「……あ」


 リサの動きが、わずかに止まる。


「う、うん……そうだよね」


 さっきまでの勢いが、少しだけしぼむ。


「ごめん、はしゃぎすぎた……」


 小さく笑って、伸びていたチーズをくるっと口に収める。

 目が、ほんの少しだけ下を向く。


 その変化は一瞬だった。

 けれど確かに、テーブルの上の空気がほんの少しだけ変わる。


(……違う)


 マサキは内心で即座に否定する。


(そういう意味じゃ――)


 言い直そうとする。

 けれど、その前に。



 リサの目が、ふっとテーブルの端に落ちる。

 ほんの少しだけ、考えるような間。


(松前くんって、騒がしいのあんま好きじゃないんだった)


 前に聞いた言葉が、頭に浮かぶ。


(あたし……)


 さっきの自分の姿を思い返す。

 チーズを伸ばして。はしゃいで。見て見てって言って――


(……やりすぎた)


 胸の奥が、きゅっと縮む。


(こういうの、子どもっぽいよね)


 勝手に思い描いている、"マサキが好きそうなタイプ"。

 落ち着いていて。大人っぽくて。無駄に騒がない女の子。

 そこに、自分は全然なれていない気がした。


 リサは目を落としたまま、残りのチーズを口に収める。


(……ちゃんとしなきゃだったのに)


 指先に残る熱が、やけに現実っぽい。


(また、変なことした)


 ほんの少しだけ胸の奥に沈むものを抱えたまま、リサは何事もないふりを続けた。



 その様子を見て、マサキはすぐに「そういう意味じゃない」と言いかける。

 けれど――


 次の瞬間。

 新しくテーブルに置かれたものを見た途端、その言葉が喉の奥で止まった。

 最後のデザート。アイスチョコバナナ。


 リサは、さっきの空気を少し誤魔化すみたいに、それを手に取る。

 目がほんの少し泳ぐ。

 それでも、すぐに小さく笑って、


 ためらいなく、一口かじった。


 冷たいチョコの音が小さく響く。

 中のバナナをゆっくりと口の中に含む。


「……ん、おいしー」


 そのまま、リサはゆっくり味わうように口を動かした。


 バナナを迎え入れるために開かれた口が、マサキの視界を支配する。


(……っ)


 マサキの思考が、そこで止まる。


 頭の中で、繋がってしまう。

 スライダーで触れてしまった胸の感触。背中に押し付けられた、あのやわらかさ。

 そして――一瞬だけ視界に焼き付いた、淡いピンクの小さな突起。


 それらが、今目の前で起きている光景と、最悪な形で結びつく。


(だから……っ)


 思考を切ろうとする。


(見なきゃいいだけの話で……!)


 分かっている。それなのに、目が離れない。


 平静を装ったまま、マサキはフォークを持ち直す。

 けれど、呼吸だけが少し乱れていた。


 リサは、そんなことにはまったく気づいていない。

 ただ普通に、美味しそうに甘いものを食べている。


 頬が少し緩む。小さく笑う。何も疑わないまま。

 その姿は、ただ純粋に可愛いだけのはずなのに――


(……なんだよ、これ)


 フォークを持つ指先に、じわりと力が入る。

 どんな露骨なものより、ずっと破壊力がある。


 その無邪気さを見ている自分の、どうしようもなく歪んだ意識。

 その二つが、同じ場所でぶつかっていた。


 静かに。でも、確実に。胸の奥を乱されていく。


 リサは、何も知らないまま、また小さくアイスチョコバナナをかじる。

 そのたびに、マサキの思考はうまくまとまらなくなる。


 結局。

 マサキは何も言えないまま、ただ目を逸らすことしかできなかった。


◇  ◇  ◇


 日が沈みきった夜。

 自室のベッドに横たわったマサキは、天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。


(……無理だろ)


 小さく、吐き出すみたいに思う。

 今日一日が終わったはずなのに、頭の中は全然静まらない。

 むしろ、忘れようとするほど、勝手に浮かんでくる。


 暗い部屋の中。脳裏に焼きついて離れないのは、あのオレンジ色のビキニ姿だった。


 ウォータースライダーで腕にぶつかった、やわらかい衝撃。

 流れるプールで背中に密着してきた、逃げ惑うようにして形を変えた感触。

 そして――水面からほんの一瞬だけ覗いた、世界で最も無防備で淡いピンク色の先端。


 思い出すたびに、呼吸が少しだけ浅くなる。

 そして――

 笑った顔。照れた顔。怒った顔。あのとき見せた、柔らかい表情。


(……ダメだ)


 目を閉じる。それでも消えない。

 追い出そうとするほど、記憶だけが妙に鮮明になる。


 最後に浮かんだのは、アイスチョコバナナを食べながら笑っていたリサの顔だった。

 無防備に甘いものを頬張る姿。無邪気で。楽しそうで。何も疑っていないみたいな顔。


(違うだろ……)


 頭の中で否定する。


 夏祭りのときは、まだ抑えられていた。

「大事にしたい」とか、「変なことは考えたくない」とか。

 そういう理屈で、どうにか止められていたはずだった。


 でも今日は違う。

 可愛いだけじゃない。綺麗なだけでもない。

 近づくたびに意識してしまう。触れた感触が消えない。

 別のことを考えようとしても、結局また思い出してしまう。


(……最悪だ)


 自覚した瞬間、余計に逃げ場がなくなる。

 頭の中が、完全にリサで埋まる。


 リサのことを考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。

 今日一日で起きたこと全部が、頭の中で何度も繰り返される。


(……ダメだ)


 そう思いながらも、止まらない。

 理屈も、誠実さも、全部追いつかない。


 マサキは溢れ出す衝動に抗うことを諦める。

 一人、熱く脈打つものを握りしめた。

 リサの柔らかな肌の感触を、あの瞬間の熱を、狂おしいほどに思い浮かべながら自らを――。


 激しい衝動の末に、マサキは一人、果てた。



 ――やがて。


「はぁ…………っ」


 部屋の中に、荒い呼吸だけが残る。

 しばらくの間、マサキはそのまま動けなかった。

 天井を見上げたまま、息を整える。


(……やった)


 事実だけが、重く残る。


 目を閉じる。

 さっきまでとは違う意味で、リサの姿が浮かぶ。

 笑っていた顔。無邪気に食べていた姿。


(……もう)


 元には戻らない。


 彼女をただ「大事な存在」として棚の上に置いたままにしておくことはできない。

 どれほど理屈を並べても、自分は彼女の圧倒的な美しさと柔らかさに。

 男としての、どうしようもない部分で負けてしまったのだ。


 それを体の奥の、どうしようもない部分で理解してしまった。


 真っ白な天井に、またリサの笑顔が浮かぶ。


(……どうすんだよ、これ)


 答えは出ないまま。マサキはもう一度、目を閉じる。


 脳裏から消えないのは――

 やっぱり、笑っているリサの顔だった。

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