55. プール ~可愛いだけじゃない~
プールの入口を抜けた瞬間、空気の質が変わる。
照り返す日差し。水面が弾く光。
子どものはしゃぐ声。遠くで鳴るアナウンス。
非日常みたいな賑やかさの中。
マサキは一人、着替えを終えて指定された場所に立っていた。
(……まだか)
周囲を見渡すでもなく、なんとなく足元へ視線を落とす。
時間の流れが妙に遅く感じる。
そのときだった。
「おまたせー」
聞き慣れた声。
反射的に顔を上げる。
――一瞬、思考が止まる。
そこに立っていたのは、如月理沙。
オレンジの布地に、大きなピンクのリボン。
少し甘めで、でも派手すぎないデザインのビキニ。
夏休み前に、マサキが選んだ水着。
それを、リサは当たり前みたいに着こなしていた。
肌は透き通るように白い。日差しを受けて、柔らかく光っている。
細い肩から伸びる腕のライン。
無駄がないのに、ちゃんと女の子らしい丸みが残っている。
ウエストはきゅっと引き締まっていて、その下のラインは自然に曲線を描いていた。
ただ立っているだけなのに、すれ違う人の視線がほんの一瞬止まる。
通り過ぎたあとに、振り返る人もいる。
それが特別なことじゃないみたいに、リサは普通にそこへ立っていた。
浴衣のときも綺麗だとは思った。
でも、今はそれ以上だった。
隠れていたものが全部出ている分、"モデル"としての完成度が、そのまま現実に出てきたみたいな存在感。
笑っていなくても目を引く。
何もしていなくても目立つ。
(……すごい)
言葉にすれば、それだけだった。
けれど――
マサキの視線は、ある一点で止まる。
思考がそこで固定される。
(……でかい)
一瞬で出てきた、あまりにも単純すぎる感想。
次の瞬間、我に返る。
(……いや違うだろ)
頭の中で、即座に否定が入る。
(可愛いとか、綺麗とか、そういうのが先に来るだろ普通)
分かっている。
分かっているのに。
視線が、どうしてもそこへ引っ張られる。
水着という形のせいで、普段は意識しないラインが強調されている。
どうしても目に入る。
オレンジの布地から溢れそうな、リサの胸。
浴衣のときには隠れていたボリュームが、今はすぐ目の前で、呼吸に合わせて小さく揺れていた。
(……最悪だ)
自分の思考に、すぐ嫌気が差す。
(いや、でもこれは……)
一瞬だけ、言い訳みたいなものが浮かぶ。
(男の性だろ……)
納得じゃない。ただの逃げ道。
それでも、その一言でしか処理できない。
視線を逸らす。
でも、完全には切れない。
意識してしまった以上、どうしても引っかかる。
(……見んな)
自分に言い聞かせるみたいに、心の中で呟く。
顔には出ていないはずなのに、なぜかいたたまれなさだけが残る。
リサはいつも通りの軽い調子で、少しだけ首をかしげた。
「どう?」
その一言。
試すでもない。からかうでもない。
ただ純粋に、感想を求めている声。
それなのに、自分は真っ先にそんな感想を抱いてしまった。
マサキは一瞬だけ言葉に詰まる。
それから、
「……似合ってる」
短く、それだけ答えた。
本当は、それ以上に言うべきことはいくらでもあるのに。
◇
リサはぱっと表情を明るくする。
「まずはウォータースライダー!」
弾む声。まるで子どもみたいに、楽しさを隠そうともしない。
「ここの名物なんだよ」
そう言いながら、くるりと振り返る。
その動きに合わせて、明るいオレンジの水着が陽の光を弾いた。
大きなピンクのリボンがふわっと揺れる。
やたらと目を引く。
自然と視線が追いかけてしまう。
(……ほんと、目立つな)
後ろ姿ですら完成されていた。
細い背中のライン。腰へ流れる曲線。
その動きに合わせて、胸がわずかに揺れる。
(……だから見るなって)
自分で突っ込んで、自分で逸らす。
それでも完全には切れない。
リサはためらいもなく階段へ向かっていく。
軽い足取り。水に濡れた床も気にせず、テンポよく上っていく。
階段を一段上がるたび、オレンジの水着に包まれた胸が揺れる。
すれ違う男たちの視線が、自然と集まっていた。
リサがマサキの手を軽く握る。
「松前くーん、はやくー」
その声に急かされて、マサキも階段を上っていく。
息を弾ませながら笑うリサ。
(……うん、可愛いな)
そんなことを考えているうちに、頂上へたどり着く。
視界が一気に開けた。
そして――
「……う」
リサの足が、ぴたりと止まる。
さっきまでの勢いが、嘘みたいに消えた。
目の前に広がるのは、想像以上の高さ。
下まで続くコースが、遠くまで伸びている。
遥か下の着水地点を覗き込んだ瞬間、リサの顔が引きつった。
「……思ったより、高いねぇ」
声がほんの少し小さくなる。
手すりへ触れたまま、じっと下を見つめる。
さっきまでの無邪気さが、少しだけ引っ込んでいた。
あんなに元気だったリサが、今は小鹿みたいに膝を震わせていた。
そのギャップが、また妙に守ってあげたくなるような可愛さを放っている。
それでも、完全に引くわけじゃない。
「……うん」
リサは一度だけ、小さく頷いた。
自分で納得するみたいに。
それから、くるっと振り返る。
「せっかくだし、2人乗りにしよ。松前くん前どうぞー」
引きつった愛想笑い。
そのまま、リサはマサキの背中をぐいぐい押した。
自分は安全そうな後ろを確保しようとしている。
怖いのを隠そうとしてるのが、分かるくらい分かりやすかった。
――そのとき。
「すいません」
横からスタッフの声が入る。
「ひっくり返る危険がありますので、前は軽い人でお願いします」
あっさりした、業務的な一言。無情だった。
リサの動きが、ぴたりと止まる。
「……え」
絶望したみたいな声。
リサはゆっくり、自分とマサキを見比べた。
「……あたし?」
確認するように、小さく呟く。
スタッフは当然みたいに頷いた。
「はい、前が軽い方でお願いします」
その言葉を聞いた瞬間。
さっきまでの勢いは、どこかへ消えた。
完全に想定外だった顔。
でも、その表情すらどこかおかしくて。
変に取り繕わない分だけ、余計に目が離せない。
困ってるのに、ちゃんと可愛い。
「……前どうぞー」
マサキがぽつりと言う。
ただ事実を告げる声。
リサは涙目になりながら、逃げ場のないスライダーの最前部へ向かう。
震える足で、ゆっくり進んでいった。
◇
リサは手すりに触れたまま、ほんの少しだけ視線を揺らしていた。
迷っているみたいに。
さっきまでの勢いは、まだ戻っていない。
そんな背中を見かねたように、マサキが静かに言う。
「……やめるか?」
押すでもない。引くでもない。
ただ選択肢を置くみたいな言い方だった。
リサは一瞬だけ、マサキを見る。
それから、小さく首を振った。
「ううん、松前くんがいれば大丈夫だから」
少しだけ強がった声。
でも、甘えるみたいな響きも混ざっていた。
根拠があるわけじゃない。
それでも、本人の中ではそれで成立しているみたいな声だった。
そのままスタッフに案内されて、浮き輪の前へ行く。
二人乗りの大きな浮き輪。
先にリサが座り、その後ろへマサキが乗る形になる。
足を浮かせる。体を預ける。
リサは落ち着かない様子で、何度も後ろを振り返った。
「……あ、ちょっと待って」
振り返りながら、リサが言う。
「ちゃんと掴んでて」
当然みたいなお願い。
でも――
(……どこを)
マサキの手が、空中で止まる。
水着姿のリサには、掴む"分かりやすい場所"がない。
肩に手を置くのも違う気がした。安定性に欠ける。
(……どこだ?)
触れてはいけない場所に触れそうで怖い。
ほんの一瞬、躊躇う。
その間を埋めるみたいに、リサが動いた。
「ほら、ここ」
リサは少し強引にマサキの腕を引く。
そのまま、自分の細い腰へ回させた。
マサキの思考が真っ白になる。
(……っ)
距離が、一気に変わる。
近いとか、そういうレベルじゃない。
体が、ほとんど密着していた。
柔らかい肌の感触。伝わる体温。逃げ場がない。
(やばいだろこれ)
頭の中で、警報が鳴る。
腕の位置。その少し上。
そこに、胸が触れそうな距離で存在している。
モデルらしい引き締まった腰。
その対極にある圧倒的なボリューム。
浮き輪が揺れるたび、距離がほんの少し変わる。
そのたびに、意識が引っ張られた。
(動くな)
自分に言い聞かせるみたいに、腕へ力を入れる。
でも、完全に固定できるわけじゃない。
少しでもバランスが揺れれば、そのまま触れてしまいそうだった。
それでも、リサは気にした様子もなく、
「絶対、離さないでね?」
振り返る。近い。顔もすぐそこにある。
少しだけ不安を残しながら、それでも笑おうとしている表情。
その無防備さが、余計に危なかった。
「……ん」
短く返すだけで精一杯だった。
リサはその返事を聞いて、少しだけ力を抜く。
ほっとしたみたいに。
触れそうで、触れない。
少しでも腕を上げれば。
あるいは、スライダーの振動で体が跳ねれば。
その指先は、確実に彼女の胸へ触れてしまう。
「掴んでて」
リサのその純粋な言葉が。
今のマサキには、理性を焼き切るみたいな拷問だった。
そのギリギリの状態のまま、スタートの合図を待つことになった。
◇
スタートの合図と同時に、浮き輪が一気に押し出される。
「きゃっ――」
短い悲鳴。次の瞬間には、もう加速していた。
水の上を滑るというより、叩きつけられるみたいな感覚。
予想していたよりも遥かに速い。
(はやっ――)
視界が一気に流れる。
直線を滑り落ちる。身体がふわりと浮く。
その衝撃で――
(……っ!?)
腕に、柔らかい何かがぶつかった。
一度じゃない。
コースの継ぎ目を越えるたび、浮き輪が激しく跳ねる。
そのたびに、何度も、何度も。
水面を弾く衝撃。カーブに入るたびの横揺れ。
その全部に合わせて、マサキがリサの腰へ回していた腕に、胸が押し付けられる。
(ちょ、待てこれ……)
腕の上で跳ねるたび、形を変えながら押し寄せてくる柔らかさ。
水着の薄い布地越しに、体温が伝わる。
驚くほどしなやかで、弾力のある感触まで、妙に鮮明だった。
回避できない。
リサは恐怖を紛らわすみたいに、マサキの腕をギュッと掴む。
バランスを取るだけで精一杯。
それでも、感触だけはやけにはっきり残った。
(無理だろこれ……)
思考が追いつかないまま、次のカーブへ突っ込む。
その瞬間だった。
強烈な遠心力で、身体が外側へ持っていかれる。
「――っ!」
リサの細い身体が、大きく左へ流れた。
(危な――)
反射だった。
考えるより先に、腕へ力が入る。
逃がさないように。支えるように。
咄嗟に伸びた両腕が、リサの胸を、真正面から掴んでいた。
――ぐに、と。
指先が沈み込む。
掌全体で、圧倒的な柔らかさと重みを受け止める。
(……あ)
一瞬、時間が止まる。
触れている。完全に、掴んでいる。
衝撃を殺そうと反射的に。
そして、思いきり。
マサキは、リサの胸を両手でしっかりと鷲掴みにしてしまっていた。
指先は抵抗なく沈み込み、それでも確かな重みがある。
遠心力に耐えるため、無意識に指へ力が入る。
何度も指を食い込ませ、その形を歪ませてしまう。
水着越しの薄い布一枚だけを隔てて、リサの体温と形が、手のひらへダイレクトに伝わっていた。
逃げ場も、言い訳もない。
けれど、その感覚を認識するより先に、スライダーは次の直線へ入る。
そのまま、一気に加速。
水しぶきを上げながら、最後のカーブを抜け――
ドン、と水面へ着水した。
勢いのまましばらく流され、ようやく止まる。
静止。
遅れて音が戻る。
周囲の声。水の音。
全部が、少し遅れて耳へ入ってきた。
(……終わった)
マサキの頭は真っ白だった。
何が起きたのか、うまく整理できない。
ただ一つだけ。
確実に分かることがある。
(……やった)
やってしまった。
その事実だけが、重く残る。
マサキはゆっくりと手を離した。
どこを見ればいいのか分からないまま、とりあえず視線を逸らす。
「あ、いや……悪かった……その……」
言葉が続かない。
謝罪になっていない謝罪。完全に崩れている。
一方で、リサは――
「ぷはっ……びっくりしたぁ」
着水プールへ滑り込み、浮き輪から降りたリサが、濡れた髪をかき上げながら笑う。
胸元へ手を当てる。
呼吸を落ち着けるみたいに。
少し驚いてはいる。でも、怒っている様子はなかった。
むしろ——
「今のカーブめっちゃ怖かったー」
振り返って、普通にそう言った。
「やっぱ、松前くんいたら大丈夫だったね」
軽く笑う。無理に明るくしている感じじゃない。
本当に、そう思っている顔だった。
リサはもちろん分かっていた。
あの瞬間。マサキの手がどこに触れて、どれだけ強く掴んだのか。
(……気にしてないわけないよな?)
マサキの視線が少し泳ぐ。
あれだけのことがあって、この反応。
リサは小さく首をかしげた。
「松前くん?」
むしろ、心配している側みたいな声だった。
その無防備さというか。変に引きずらないところが、やたらと彼女らしかった。
「……平気」
マサキは短く返す。
それだけ言うので精一杯だった。
リサは、その言葉を聞いて小さく笑う。
「よかったー」
その笑顔は、さっきまでと何も変わらない。
怖がっていた時の顔も。今の、少しテンションが上がっている顔も。
全部まとめて、ただ純粋に楽しんでいるみたいだった。
その自然さが、逆に眩しい。
「ほら、つぎー! 今度は流れるプールでゆっくりしよっか」
頬をほんのり赤くしながら、リサはまたマサキの手を取る。
その温もりに、少しだけ救われる。
それでも。マサキの右手には、さっきの感触が残ったままだった。
どうしようもない罪悪感と。認めたくないくらいの高揚感。
その両方が、まだ消えない。
◇ ◇
スライダーの余韻が、まだ体のどこかに残っていた。
耳の奥に、水音と風の音が張り付いて離れない。
腕にも、さっきの感触が残っている気がする。
(……最悪だ)
思い出すたびに、自己嫌悪がじわじわ広がる。
謝ったはずなのに。ちゃんと謝りきれていない気がする。
でも、どう言えばよかったのかも分からない。
そんなマサキの内心とは関係なく——
「ね、次あっち行こ」
リサはもう切り替えているみたいだった。
楽しそうに先を指差す。
流れるプール。
ゆったりした水の流れに乗って、浮き輪で流されるだけのリサ。
「泳げないからさー、こういうのが一番楽しいんだよね」
そう言いながら、掌で水面を叩き、ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせる。
笑っている。
その無邪気さが、さっきまでの空気を全部流していくみたいで。
マサキは少しだけ肩の力が抜けた。
リサは大きめの浮き輪に体を預ける。
ぷかりと浮かぶ。水に揺られながら、ゆっくり流れていく。
日差しを受けて、水面がきらきら光る。
その上で揺れているリサの姿も、自然と目を引いた。
少し濡れた髪。頬に張り付く毛先。
それすら、妙に絵になる。
「見て見て、なんもしてなくても進むー」
子どもみたいな声で笑う。
(……普通に可愛いな)
さっきまでの動揺が、少しずつ薄れていく。
マサキは、その少し後ろを歩きながら流れについていく。
無理に話さなくてもいい距離。
ただ見ているだけで落ち着くような空気だった。
——そのとき。
「……っ」
リサの様子が急に変わる。
何かに気づいたみたいに、はっと振り返る。
浮き輪を外したまま、迷いなくマサキの方へ寄ってきて——
ぴたり、と。
背中に密着する。
(……っ!?)
一瞬で思考が止まる。
背中越しに伝わる、柔らかすぎる感触。
濡れた肌が吸い付くみたいにくっついて、リサの体の柔らかさがダイレクトに伝わってきた。
「な、なにして……」
声が裏返る。
すると、耳元で小さな声。
「ごめん……水着の上、とれちゃった……っ」
焦った声が震えていた。
(……は?)
マサキは絶句する。
周囲の視線から隠れるみたいに、リサは必死にマサキへしがみついている。
離れようとしない。
その言葉と今の状況が繋がった瞬間、マサキの血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待て……」
慌てて、水面へ目を走らせる。
人が多い。当然、視線も多い。この状況はまずい。
リサは完全に背中へ隠れるようにして、ぎゅっとしがみついたまま動かない。
その必死さが伝わってくる。
同時に——
(……生か、これ)
背中へ押し付けられる感触が、逃げ場なく伝わる。
水の流れで少しずつ位置がずれるたびに変わる。
(……やばい)
頭の中で警報が鳴る。
でも、それ以上に。
(探せ)
マサキは自分に言い聞かせる。
今はそれどころじゃない。
目を凝らして、水面を見る。
——すぐ見つかった。
オレンジ色の布地。
リサの浮き輪の紐に引っかかっていた。
案外、すぐ近くだった。
(あった)
それなのに。
マサキは手を伸ばしかけて、ぴたりと止まる。
(……いや)
ほんの一瞬。迷いが生まれる。
このまま取れば、すぐ終わる。
終わるはずなのに。
背中へ押し付けられている感触が、少し動くだけでまた変わる。
(……オレは)
自分が何を考えているのか、分かってしまう。
視界の端に、ちゃんと見えている。
手を伸ばせば届く距離。一秒もかからない。
それなのに。
マサキは、わずかに視線をずらした。
あえて、水面をもう一度なぞる。
探している"ふり"。
(……何やってんだ、オレ)
自覚はあった。
その躊躇が、ただの確認じゃないことも。
この状態をほんの少しだけ引き延ばそうとしていることも。
水の流れに合わせて、背中に密着したリサの体が揺れる。
そのたびに、マサキの背中でぐにりと形を歪ませる。
(……っ)
押し付けられて。ずれて。また密着する。
水着越しに伝わる、圧倒的な柔らかさ。
(ダメだ)
どこかで強くブレーキがかかる。
それでも、ほんの少しだけ遅れる自分がいる。
上半身に回された腕。
その内側へ収まるように、リサは必死に身を寄せていた。
顔は見えない。でも分かる。
今、どんな顔をしているのか。
「……っ」
小さく息を呑む気配。周りに見られないよう、必死に隠れている。
(……頼ってるだけだろ)
それは事実だった。
ただ助けを求めているだけ。そこに変な意味なんてない。
背中越しに伝わる、濃い体温。
水の中で浮力を得たリサの体は、普段よりさらに柔らかく感じられた。
リサは、マサキが必死に探してくれていると信じている。
誰にも見られないよう、さらにきつくしがみついてくる。
(オレは……)
自分のやっていることが、一気にはっきりする。
たくさんの視線を浴びることに慣れているはずの彼女が。
今は、一人の女の子として、自分だけを頼っている。
その信頼が、マサキの罪悪感を強く刺激した。
(よくないことをしてる……)
嫌悪感がじわじわ広がる。
(如月の気持ち、踏みにじって……)
頼ってくれている相手に対して。
自分だけが、別のことを考えている。
それが、どうしようもなく嫌だった。
小さく息を吸う。
未練を切るみたいに。
そのまま、迷いを振り払って手を伸ばした。
今度は躊躇わない。
浮き輪の紐に引っかかっていたオレンジ色の布地を掴む。
(終わり)
それでいい。余計なことは考えない。
「あった」
短く言う。少し低い声だった。
その瞬間。
背中に回っていた力が、ふっと緩む。
「よかったぁ……」
安心した声。焦りが消えて、やわらかくなっていた。
(……ほんと)
こんな状況でも。
必死に隠れてる姿も。弱った声も。
全部まとめて——
(可愛いな)
そう思ってしまう自分がいる。
それが、さっきまでの自分との差で。少しだけ救いだった。
マサキは振り返らないまま、手に取ったそれを後ろへ差し出した。
「ありがとう……」
安堵と申し訳なさが入り混じった声。
リサは震える手でオレンジ色の水着を受け取ると、周囲の視線を遮るようにマサキから離れないまま体を横へ移動させた。
背中からするりと脇腹へ、そのままマサキの正面に回り込む形。
「あ……っ、動かないでね……」
背中に押し付けられていた、およそ現実のものとは思えない凄まじい質感の胸。
それがムニムニとマサキの横をすり抜け、脇腹から正面へと半周していく。
水に濡れた柔らかな肌が、マサキの体をなぞるように移動し、ついには腹のあたりで止まった。
(……っ)
マサキは視線の置き場に困る。
(……やばい)
視線を逸らそうとするのに、うまくいかない。
目の前にいるのは、無防備な姿を自分にだけ晒しているリサだった。
少し乱れた髪。水滴をまとった白い肌。困ったように揺れる視線。
落ち着こうとしているのに、どこか余裕のない呼吸。
至近距離で見下ろす形になったマサキの視線の先に、深く刻まれたリサの胸の谷間があった。
(見るな)
分かっているのに、視線が引き寄せられる。
遮るもののない、白く滑らかな双丘。
呼吸に合わせて上下するその圧倒的な質量。
近すぎる距離のせいで、どうしても目に入ってしまう。
(いや、隠さないと)
そして、リサが水着を着けようとマサキの体から少しだけ距離を取った瞬間だった。
隠れていた部分が、わずかに露わになる。
マサキの視界に飛び込んできたのは、あまりにも鮮烈な、淡いサクラ色の先端だった。
(――っ)
マサキはそれを、数秒間、完全に直視してしまった。
リサは必死に水着を整えることに集中しており、自分の最も恥ずべき部分をマサキに凝視されていることには気づいていない。
(……最悪だ)
頭の中で、自分を責める声が響く。それでも。
耳に残る荒くなった呼吸が、妙に近い。
水の音も、周囲のざわめきも、どこか遠く感じる。
ほんの一瞬の出来事のはずなのに、頭の中に焼き付いたまま離れない。
(……消えろ)
そう思っても、簡単には消えてくれない。
やがて、小さな衣擦れの音。
「……できた」
安心したような声が落ちる。
その一言で、ようやく現実へ引き戻された。
リサが、少し照れくさそうに笑っていた。
頬がほんのり赤い。乱れた髪を指で整えながら、視線を合わせてくる。
「松前くん……ありがとね」
小さいけど、ちゃんと届く声だった。
守られたことへの安心。少しだけ混ざる恥ずかしさ。それでも変わらない信頼。
全部が、その表情に出ていた。
(……ああ)
さっきまで考えていたことが、少しずつ遠ざかる。
ただ一つだけ、はっきり残る。
(……やっぱ、可愛いな)
マサキは何も言えないまま、少し顔を逸らした。
ただ、真っ直ぐ見るのが無理になってしまっただけだった。
その隣で。
リサは何事もなかったみたいに水面を叩いて笑う。
その無防備さと、変わらない距離感が——
さっきまでより、少しだけ特別に感じられていた。




