51. 花火大会 前編 ~大事になった2~
人の流れはすでに普通に戻っている。
屋台の光も、ざわめきも、さっきと同じなのに。
二人がいる場所だけが、少しだけ静かだった。
リサはしばらくマサキの胸元にしがみついたまま、呼吸を整えていた。
抱きついた体勢のまま、離れる気配はない。
やがて、少し顔を上げる。
「……ねぇ」
くぐもった声。まだ甘えが残っている。
「なに」
マサキは視線を前に向けたまま返す。
リサはひと呼吸おいてから、急に空気を切り替えるみたいに言った。
「お腹すいたー」
「……今か」
思わず出る。
さっきまでの緊張との落差が大きすぎる。
リサはまだ肩に軽く額を当てたまま、当たり前みたいに続ける。
「ご飯まだじゃん」
「そうだな」
そのやり取りで、ほんの少し二人の間が緩む。
マサキは小さく息を吐く。
「……屋台、行くか」
「うん」
返事は軽い。
歩き出そうとしたところで、リサは少し体勢を変える。
でも、離れる気はないまま、今度は腕に抱きつく形に移る。
「……こっちの方がいい」
「そっか」
マサキは淡々と返す。
リサは足元を見ながら、小さく笑う。
「下駄さ、ほんと歩きづらいんだよね」
「そうだな」
「うん。だからこうしてないと、さっきみたいになる」
軽いやり取り。
でも腕にしがみつく力はしっかりしている。
少し歩いたところで、リサがふと思い出したように顔を上げる。
「ねぇ」
「なんだ」
「さっきの松前くん、かっこよかったねー」
「そう見えるか?」
「"今かける"ってやつ」
「あの状況で印籠みたいにスマホ突きつけてさー、今かけるの一言だけだよ?しかも全然焦った感じもなかったし、超冷静でー、すごいカッコ良かった」
「かっこ良くはない」
即否定。
さっきのは、冷静な判断というより「やるしかなかった処理」だった。
本当なら、もっと単純な解決方法がある。
殴って止める。
掴まれている腕を引き剥がす。
そういう"早い手段"。
でも、自分にはそれができない。
筋力も、反射も、喧嘩の技量もない。
一対三でやり合える前提に立てない。
だから、選べたのはあれだけだった。
それに―
(本当は殴りたかった)
あいつらが如月を怖がらせたから。
殴りたい理由は、それだけで十分だった。
(だから、かっこ良いわけじゃない)
マサキはそれを言葉にはせず、前を向く。
リサは楽しそうに続ける。
「あとさ、『これはオレの』ってやつ」
その瞬間、マサキの動きが一瞬だけ固まる。
リサは気にせず言葉を重ねる。
「なんかさ、あの言葉グッとくるよね。松前くんの所有物扱いされちゃったーみたいな。守られてるときにあれ言われたらほんとヤバいよ。あたし、ああいうの好きかも。ちょっと強めに『オレの』って言われるの」
「……」
マサキは目をそらす。
(……いや待て)
脳内が一瞬だけうるさくなる。
さっきのはまずい。
余計な一言だった。
そういうつもりで言ったわけじゃない。
いや、でもあの場面を思い返すと──
(そういうつもり、なかったか?)
いや違う。
あれはただ、目の前の状況を切るための言葉で。
リサを引き離すために必要で。
(あいつらがムカついたのも事実だし。でも違うだろ)
じゃあ何だ。説明できない。
そもそも今のリサの言い方がよくない。
『所有物扱い』って何だ。
『好きかも』って何だ。
これ、どう返すのが正解なんだ。
否定?冗談?流す?
どれも危ない気がする。
一瞬で選択肢だけ増えていくのに、正解がない。
(そもそもオレ、そんな意味で言ってない)
たぶん。いや、たぶんじゃない。
(……たぶん、そうだ)
マサキは結論をひとつに潰す。
そして、口を開く。
「……言ってない」
即答に近い否定。
自分でも少し間が早いと思う。
「言ったよー?」
すぐ横から返ってくる。
(今のこれ、非常にまずい)
さっきの一連の判断が一気に後から繋がってくる。
さっきはナンパ対応で頭が埋まっていた。
スマホの位置、距離、三人の動き、人の流れ。
全部"切るための処理"で埋まっていて、リサの言葉の意味を深く拾う余裕がなかった。
だからあの場では「これはオレの」も「今かける」も、"意味"じゃなくて"手段"だった。
でも今、人混みから抜けて、危機が消えたことで──その言葉だけが遅れて残っている。
気づいてしまう。
さっきのリサの言葉。
『これはオレの』
リサに抱きつかれた。
今も腕にくっついてる。
全部が一気に繋がる。
リサはまだ腕にしがみついたまま歩いている。
距離が近い。というか近すぎる。
肩、腕、浴衣越しの体温。
人混みを避けるようにして歩くリサは、マサキの腕を離すどころか、さらに深く、隙間を埋めるようにしがみついてきた。
その拍子に、マサキの二の腕に、抗いようのない柔らかい感触がダイレクトに押し付けられる。
(おっぱい……当たってる)
認識した瞬間、脳内がもう一段階止まる。
浴衣の薄い生地越しに伝わる、圧倒的な弾力。
リサがさらに体重を預けてくるせいで、彼女の胸がマサキの腕の形に沿って、むにゅりと歪むほど強く圧迫されているのが分かった。
柔らかいのに、芯には確かな質量がある。
(いやこれ今、普通にまずいだろ)
さっきの抱きつかれた距離感もまだ残っている。
自分も背中に手を回していた。
(いや待て、これ今さら気づくの遅いだろ。さっきからずっとこうだったのか?)
脳内で自分に突っ込みが入る。
ナンパ対応で頭が埋まっていたときは、「手段」として処理できていたはずの距離感。
リサに抱きつかれ、腕にくっつかれ、さらには胸の形が変わるほどの強さで押し付けられている。
マサキは肩を固くしたまま、前を向く。
リサはさらに身を寄せてくる。
「ねー、言ったよー?これオレのだーって。ちゃんと説明して」
「言ってないって」
「言ったってば」
リサは思わず腕にぎゅっと力を込める。
もちろん、自分の胸をさらに強く押し当てながら。
(あんな怖い思いをした後だ…無下にはできない…)
何もなかった顔をするしかない。
しばらく、そのまま歩く。
屋台の明かりが視界の端を流れていく。
焼けるソースの匂いと、人のざわめき。
リサはまだ腕にくっついたままぶつぶつ言っている。
「絶対言ったもん」
「いや言ってないって」
「はぐらかす意味がわかんない」
(これ、終わらないな)
マサキは目だけ横にずらす。
ちょうど視界に入ったのは、たこ焼きの屋台だった。
「……たこ焼き食うか?」
話題を切るというより、強制的に流れを変える言い方。
次の瞬間、さっきまでの追及モードがあっさり切り替わる。
「食べるっ」
即答だった。
腕にしがみついたまま、リサは屋台の方へ体ごと向く勢いになる。
さっきまでの『これはオレの』の話題は、もう半分くらい頭から消えている様子だった。
(……切り替え、早いな)
マサキは視線を落とす。
(如月は、食い物で流せるタイプだ)
なんとなく、扱い方が一つ分かった気がして。
それが正解かどうかは分からないまま、マサキはたこ焼き屋へ足を向けた。
◇ ◇
屋台の明かりが一段と濃くなる場所で、たこ焼きの鉄板からソースの焦げる匂いが漂っていた。
「あたし揚げたこがいい」
リサがメニューを見て即決する。
「如月に合わせる」
マサキは一拍も迷わず返した。
注文を受けた店員が鉄板に油を落とす音が、じゅっと弾ける。
リサは少し横目でマサキを見る。
「他のも気になるから半分こでいい?」
「うん」
やり取りはあっさり決まった。
会計のとき、リサが一歩前に出る。
「さっき助けてもらったし、ここはあたし出すね」
「如月が悪いわけじゃない」
マサキはすぐに否定する。
だがリサは首を横に振った。
「うん、でも嬉しかったから」
その一言で押し切られる形になる。
「……そっか」
マサキはそれ以上言わなかった。
ちょうどそのタイミングで、店員がリサの顔を見て少しだけ笑う。
「可愛いね、おまけしとくよ」
紙の容器に、もう一つたこ焼きが追加された。
「え、いいんですか?わーい」
リサが目を瞬かせると、店員は軽くうなずく。
「彼女かわいいねー」
マサキは一拍だけ止まる。
(……彼女)
その単語だけが、妙に雑に頭に残る。
今までなら、こういうときは決まって余計な一言が飛んできた。
「え、これが彼氏?」「釣り合ってなくない?」みたいな、そういう類のやつ。
でも今みたいに、腕を組んで歩いていると、
(そう見えるのか…)
否定する理由も、思いつかなかった。
リサの方を見ると、本人はまったく気にしていない様子で、増えたたこ焼きを嬉しそうに見ている。
「やったー、1個増えたー」
完全に"おまけ"の方に意識が向いている。
(……まあ、そう見えるなら、そうなんだろ)
そのままひとつに片付けて、思考を切る。
そのまま飲み物の流れになる。
「何にする?」
リサが聞くと、マサキはすぐに答えた。
「コーラでいい」
「うん、じゃあ一本でいいね」
リサはそう言ったあと、少し補足するように続ける。
「ジュース重いし、荷物になるから」
最初から一本にするつもりではあったが、それを先に言わず、マサキに選ばせてから自然に合わせた形になる。
「じゃあそれ一本で」
リサは当たり前のようにそうまとめた。
◇
少し離れた飲食スペースに移動する。
リサがベンチに座る。
浴衣の裾を整えながら腰を下ろした瞬間、布が張る。
お尻のラインだけが、やけにはっきり浮いた。
(……っ)
柔らかそう、とか。
自分で自分に引きながら、もう一回見そうになる。
木のベンチに並んで座ると、屋台の喧騒が少し遠くなる。
リサが先に串を取る。
「いただきまーす」
一口かじる。
熱さに目を細めて、普通に咀嚼する。
そして次に、そのままマサキの方へ差し出した。
(どうせ1個ずつ取ればいいって止められちゃうだろうけど)
「はい、あーん」
マサキは一瞬だけ止まる。
(……待て)
頭の中で、まず正解っぽい選択肢が浮かぶ。
(分け合うなら普通、1個ずつ取るだろ)
それを言えばいい。
それで済む話だ。
なのに口は動かない。
リサが当然みたいに差し出してくる、それを自分から切る理由が出てこない。
目の前には、リサが一度かじったたこ焼き。
(これ、間接キス……)
認識した瞬間、脳内が一気に熱くなる。
(いや待て待て、落ち着け。別にそれは初めてでもないし…)
むしろ、受け入れている自分の方がいる。
言えば止まる。
言わなければ続く。
その選択だけがはっきりしていて、どちらを選ぶかはもう決まっている。
マサキは何も言わないまま口を開ける。
リサの食べかけをマサキが食べる。
(え、松前くん…食べた?なにも言わずに食べちゃったんだけど…あれ?松前くん、間接キスだって気づいてない?)
熱さと一緒に、妙な意識だけが残る。
リサは次を取る。一口かじる。
そして当然のように差し出す。
(今さら変えるの無理だよね。…え、待ってじゃあ。これ止めるタイミングない)
「はい」
マサキは今度も迷う間もなく食べる。
3個目。
かじる→差し出す→食べる。
そのたびに、頭のどこかが小さく騒ぐ。
(いや、言えば終わるんだよな……)
でも、その言葉は出ない。
リサは顔色を変えずにいるが、頭の中では混乱していた。
(いやいやいや、松前くんこれ間接キスだよ?分かってるよね?分かってないの?分かっててスルーしてるの?どっちなの?)
4個目。
(今ここで変えるのは違うだろ……今さら……)
終わるのが惜しい、という判断がまた上書きする。
リサはずっと同じ顔だ。
そこに意味を置いていない。
マサキだけが、少し遅れて意味を拾っている。
(……落ち着け、落ち着け)
リサは自分のしてることが、あとになって背徳感を帯びて返ってくることにようやく気づいた。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け…これ、やばくない?松前くんに全部あたしの唾液付きたこ焼き食べさせてるんだけど…あたし、どういう神経してんの…!?)
残るたこ焼きはあと3個。
(……今さら分け方変えるのは無理だよね)
一度始めた以上、途中でやり方を変える方が不自然に見える気がした。
それに、松前くんは特に何も言わずに食べている。
(このまま続けたら……全部あたしが1回かじったやつ、食べさせることになる)
さっきからずっとその事実だけが遅れて追いついてきて、じわじわと重くなる。
(それって、普通にどうなの……)
リサは一瞬だけ手元のたこ焼きを見下ろす。
(……これ、あたしが先にかじってるのが問題なんだよね)
マサキは何も気にしていない顔で食べている。
だから余計に、止めどころが分からない。
(先に松前くんに食べてもらえば……いいだけ、だよね)
ふと思いついた形に、呼吸が少し乱れる。
(どうせなら松前くんと……間接キス、したいし)
口元が、ほんの少し緩む。
リサは残りのたこ焼きを持ったまま、一瞬だけ迷ってから顔を上げる。
「ねぇ、今度は松前くんがあたしに食べさせて」
その言い方は、あくまで軽い。
でもほんの少しだけ、声が固い。
マサキは視線を落とす。
手元のたこ焼きと、リサの顔を交互に見る。
(まぁ……それくらいなら、いいか)
その判断は、理屈というより"処理の続き"だった。
マサキはたこ焼きを一つだけ取り、軽くリサの口元に寄せる。
かじらず、そのまま。
「……はい」
リサはそれを見て固まる。
(これじゃ、ただの餌やりじゃん……)
自分が求めてるのは間接キスであって、食べさせてもらうことではない。
リサはたこ焼きをじっと見てから口を開く。
「……それじゃ半分こじゃないでしょ」
少し拗ねている。
マサキは一拍遅れて止まる。
(半分こ……?)
そこでようやく、意味のズレに気づく。
言われた通りにやっただけのつもりだった。
リサは小さく息を吐いて、たこ焼きを見下ろす。
(やっぱ松前くん、気づいてないだけじゃん)
リサは少し迷ってから、顔を上げる。
「ちゃんと半分食べてから」
その一言は、少しだけ小さかった。
でも、意図だけははっきりしている。
マサキは一拍遅れて、ようやく意味を飲み込む。
(そ、そういうことか……!?)
一気に現実に引き戻される感覚。
(いや待て、自分がかじったやつを如月に食わせるってことだろこれ)
頭の中で急に雑に具体化して、変な汗が出そうになる。
(それは普通にまずいだろ……)
さっきまでの自分の動きが、まとめて事故に見えてくる。
でもその直後、別の違和感がふっと浮かぶ。
——自分がさっきの行為をやる側になる。
マサキは無意識に、たこ焼きを持つ手を見た。
自分が一度口にしたものを、リサに渡す。
その光景を想像した瞬間、胸の奥が妙にざらつく。
(それは……違うだろ)
リサが自分の食べかけを食べることへの抵抗とは、質が違う。
異性との距離が近すぎることへの戸惑いではない。
もっと別の、言葉にしづらい引っかかり。
自分の手で触れたものを、リサがそのまま辿る。
その構図だけが、どうしても頭から離れない。
男の手が触れたもの。
汚くて、乱れていて、どこか不完全な自分のもの。
それが、そのままリサの中に入っていく。
(なんか……それは)
如月はそういうものから一番遠い場所にいる。
きちんとしていて、整っていて、変に汚れていない。
だからこそ、余計に想像が噛み合わない。
自分の側から渡されるものは、どこかで必ず歪みを含む。
その歪みごと、彼女が受け取ることになる。
(同じことしてるだけなのに……如月は、きれいだからな…)
対等なはずなのに、どこかで釣り合っていない。
そのわずかなズレが、妙に引っかかったまま残る。
マサキは息をひとつ吐いて、手元を見る。
たこ焼きと、リサの顔をもう一度見る。
(……どうするんだ、これ)
さっきから頭の中で同じところを回っている。
出せば終わる。出さなければ続く。
リサは軽く身を乗り出してくる。
「ねぇ、早く」
(急かすなって……)
心の中でだけ返して、口はまだ動かない。
リサはほんの少し頬を膨らませる。
「冷めちゃうでしょ」
その一言で、マサキは一瞬だけ現実に引き戻される。
(いや、冷めるとかじゃなくて……)




