50. 花火大会 前編 ~大事になった~
公園のベンチ。
マサキは端の方に座っていた。
周囲は、すでに祭りの空気が流れ始めている。
浴衣の人影、屋台の匂い、遠くから聞こえるざわめき。
その中で——
少し離れた通路で、歩いてきた何人かの男が同時に目を向ける。
会話が一瞬だけ途切れる。
通り過ぎたはずの視線が、戻る。
(……なんだ)
マサキは顔を上げる。
すぐに、理由が分かる。
白地の浴衣。
淡い朝顔の柄。
その中心に、リサが立っていた。
(目立ちすぎだろ)
周囲と明らかに浮いている。
良い意味で。
そして——それ以上に。
普段の如月理沙とは違う。
きちんと整えられた髪、淡い色の浴衣、歩き方まで含めて完成している。
ただそこに立っているだけなのに、周囲の視線が一斉に引き寄せられる。
(……これ、もう綺麗とかいう次元じゃないな)
目をそらす。
関わらない方がいい。
そう思った瞬間——
「松前くーん」
名前を呼ばれる。
顔を上げる間もなく、まっすぐこっちに来る。
迷いがない。
一直線。
逃げ場がない。
目の前で止まる。
少しだけ息が上がっている。
「待った?」
「……別に」
短く返す。
リサは少しだけ笑って、そのまま一歩近づく。
さっきまで周囲の視線を全部吸い寄せていた存在が、そのまま何事もなかったように自分の前にいる。
(これから、この美少女と一緒に歩くのか)
ただ隣にいる、という意味ではない。
周囲の視線ごと背負うような形で。
(軽くはないな)
責任、とまでは言い切れない。
でも、確実に"自分の側にいること"が周りに伝わる距離だと分かる。
「どう?」
リサがくるっと軽く回る。
浴衣の裾が揺れる。
「見てほしくて、頑張ったんだけど」
そのまま、正面。
距離が近い。
目も、逃げない。
(なんでそんな普通に言えるんだ)
一瞬だけ目を上げる。
ちゃんと見る。
白地に朝顔。
帯の色。
髪のまとめ方。
全部、整っている。
「……似合ってる」
短く言う。
それだけ。
でも——
リサの表情が、一気に変わる。
ぱっと明るくなる。
「よかった」
肩の力が抜けるみたいに笑う。
それで十分だったみたいに、もう一度小さく頷く。
「じゃあ行こ」
隣に並んで歩き出す。
その瞬間だった。
(……いや、足りない)
マサキの中で、はっきりと引っかかる。
"似合ってる"だけでは、今目の前にいる彼女を表しきれていない気がした。
白い浴衣の色の強さ、整った顔立ち、周りの視線が一瞬止まる感じ、その全部をまとめて見たときの感覚が言葉から抜けている。
(今のはそれじゃない)
少しだけ間を置く。
リサはすでに歩き出している。
その横で、マサキはようやく言葉を足す。
「……こんな可愛いのが隣にいると落ち着かないな」
言い切った瞬間、リサの足が一瞬止まる。
「……え?」
間の抜けた声。
一気に顔が赤くなるのが分かる。
「え、今のなに?」
目が泳ぐ。
(あ、やっぱ変だったか)
マサキは少しだけ前を向く。
「さっきの"似合ってる"だけじゃ、言い足りなかった」
リサは完全に処理が追いついていない。
「足りないって何!?」
声が裏返る。
マサキはそれ以上説明しないまま歩き出す。
「……行くぞ」
リサは一拍遅れて追いかける。
「待って、今の説明してってば!」
その声を背に受けながらも、マサキは少しだけ考える。
(……やっぱり言わない方が楽だったな)
でも隣にいるリサは、まだ耳まで赤いまま必死についてきていた。
◇ ◇
公園を抜けて、祭りの会場へと続く道。
夕暮れの色が少しずつ濃くなっていく中、人の流れがゆるやかに増えていく。
屋台の明かりが遠くに見え始めて、ざわついた音が近づいてくる。
マサキはその流れの端を歩きながら、足元に目を落としていた。
(人、多いな……)
まだ"混雑"と呼ぶほどじゃない。
けど、この先は確実に増える。
わかってるだけに、少しだけ気が重くなる。
リサが隣を歩く。
浴衣の帯がきゅっと腰を細く締めていて、その下だけがやけに丸く見えた。
歩くたび、布越しのラインが小さく揺れる。
浴衣は隠れているはずなのに、逆に形だけが妙に分かる。
(なんで浴衣ってこんな……変に色っぽいんだ。いや、考えるな)
そのとき。
「ねえ」
隣から声。
顔を上げるより先に——
きゅっ、と手を握られた。
「……は?」
反射的に声が漏れる。
見ると、リサが何事もなかったみたいな顔で、マサキの手をしっかり握っていた。
指と指が絡む、完全な"恋人繋ぎ"。
「人多いし」
あっさりした口調。
「迷子になっちゃうから」
理由はそれだけ、みたいに言う。
「……いや、ならないだろ」
即座に返す。
声は落ち着いているが、少し困っているような響きが混ざる。
けど、手はそのまま離れない。
「なるよ?」
リサは一歩も引かない。
むしろ、少しだけ指に力を込める。
「だって松前くん、すぐどっか行きそうだし」
「行かない」
「行くよ」
「行かない」
短いやり取り。
でも、その間も手は離れない。
むしろ——
じわじわと、距離が近づいている。
肩が触れそうな位置。
浴衣の袖が、かすかに腕に当たる。
(……近い)
意識しないようにしても、無理だった。
手の温度が、はっきり伝わる。
細い指。
でも、逃がさないみたいにしっかり絡んでくる力。
(なんでこんな普通に……)
周りを見れば、カップルもいる。
手を繋いでるやつも、別に珍しくない。
でも——
(オレら、そういうのじゃないだろ)
そう思った瞬間。
人の流れが一気に詰まる。
「わ、すみません!」
前のグループが立ち止まり、視界が完全に塞がれる。
屋台に並ぶ列とぶつかって、道が一瞬で"止まる"。
マサキの足も止まる。
その瞬間——
リサの体が、ほんの少し前に引っ張られた。
人混みに押されてバランスを崩したリサが、一歩踏み出す形でマサキの方へ倒れ込む。
「……っ」
マサキは反射的に支えようとして、逆に腕を引かれる形になる。
その拍子に——
距離が一気に詰まった。
(……近い)
いや、近いどころじゃない。
身長がほぼ同じせいで、顔の位置がそのまま揃う。
ほんの少しでもどちらかが動けば——そのまま、唇が触れる距離だった。
息が、普通に当たる距離。
どちらかが少し呼吸を強くすれば、それが相手に届くくらいの近さ。
(いや待て今の、この状況…なんだっ)
脳内で一気に警報が鳴る。
目が外せない。
逃げる余裕もない。
目の前にリサがいる、という事実が強すぎる。
頭の中だけが異常に速い。
外側の自分だけが、動けていない。
そのとき。
リサの方が、ほんのわずか先に動いた。
「……っ」
距離を詰め、そのまま自然にいこうとした"勢い"のまま前に出る。
(やば——)
マサキが反射的に、ほんの少しだけ身体を引いた。
その瞬間、二人の間に隙間が戻る。
距離が戻る。
ほんの数センチ。
でも、それで全部が終わる。
(な、何やってんだオレ…いや、でも引かなかったらどうなってた?どうなってたって何だ…っ)
リサは一瞬だけ固まってから、小さく息を吐いた。
「……あー」
ちゃんと"逃した"って分かってる声だった。
目をそらしながら、
「今の、いけたと思ったのに」
少しだけ悔しそうに眉が動く。
「……ほんとに惜しかった」
周囲のざわめきだけがやけに遠い。
やがて人の流れが戻り、横からの押しが抜ける。
今のは何だ。
何を"いけた"と言った。
今の"惜しかった"とは。
リサの体が少しだけ戻る。
でも——手はまだ繋がれたまま。
距離だけが、妙にそのまま残った。
(……今の、危なかっただろ)
マサキは何も言わないまま歩き出す。
リサも、何事もなかったように隣に並ぶ。
でもその横顔には、まだ口元だけがわずかに動く。
悔しい気持ちを押し込めたみたいに。
(ほんと、今のはあと少しだったのに)
そんな思いを自分の中だけで処理して、すぐにいつもの呼吸に戻す。
そのまま、人の流れの中へ溶けていく。
◇ ◇
人の流れが、一気に濃くなる。
さっきまでの"多い"とは明らかに違う。
前も、横も、後ろも——人。
屋台の光と音が混ざって、マサキは無意識に目を細めた。
(……きついな)
手はまだ繋いだまま。
それでも、距離はどんどん詰められる。
肩がぶつかる。
足が止まりかける。
押される。
流される。
「……如月」
呼びかける。
隣を確認しようとした、そのとき。
「ちょっと待って」
リサの声。
「ごめん、歩きづらくて。ちょっと下駄——」
次の瞬間、足元がずれる。
人波に押されて、体勢が崩れる。
その拍子に——
繋いでいた手が、ふっと離れた。
「……は?」
手の感触が消える。
◇
人の流れが、一気に濃くなる。
さっきまで隣にいたはずなのに、気づいたときにはもう周囲が全部"人"だった。
(あれ)
手の感覚が、ふっと軽くなる。
繋いでいた指先が、離れている。
次の瞬間、前も横も後ろも埋まった。
「……っ」
声を出す前に、体が押される。
足元が崩れかける。
「きゃ」
踏み直そうとしても、地面が取れない。
人の流れに足場をずらされる感じで、同じ場所に立てない。
一歩戻ろうとすると、逆に横へ押される。
「松前く…」
呼ぼうとしたその時だった。
グイッと誰かに腕をつかまれる。反射的に息を呑む。
「ほら危ないって、こっち」
そう言いながら、リサの腕を強引に引く。知らない男の声。
リサは人の圧から抜け出せていた。
視界が広がり、やっと息ができる感覚。
顔を上げた瞬間、その先にいたのは、全く知らない男3人組。
「いま完全に流されてたでしょ」
前にいる男が軽く笑う。
「……すみません、助かりました」
リサは一度だけ短く頭を下げる。
感謝は事実として言う。
腕は掴まれたまま。
腕に込められた力が、どうにも嫌な感じがした。
「いやいや、いいっていいって」
「てか、顔めっちゃ可愛いじゃん」
「いや普通にレベル高くない?」
横の男が距離をつめてくる。
「助けてあげたんだしさ、ちょっと付き合ってくれない?」
リサの中で警戒が走る。
「イヤです、彼氏と来てるので」
腕を引こうとする。
でも力が強くて抜けない。
「まぁまぁちょっとだけだって」
「こっちおいでよ」
「せっかくだしさぁ、仲良くなろーよ」
言葉は軽い。でも動きは全然軽くない。
逃げられない。
腕を引かれるまま、リサの足が一歩ずれる。
(やばい)
人の流れの端に寄せられていく。
視界が少しずつ、屋台の光から外れていく。
「悪いことしないって」
「……離してください」
声は出る。
でも押し負ける。
腕にかかった力が、そのまま方向を作る。
「いいからいいから」
そのまま人混みの薄い方へ引かれる。
(やだ…怖い…っ)
リサの目が一瞬だけ泳ぐ。
マサキの姿を探す。
でも、見えない。
「やめてくださいっ」
声が一段上がる。
初めて、はっきりと拒絶の音になる。
腕を強く引く。
「何もしないって言ってるじゃん」
「やめてくださいって言ってます!」
今度は、はっきり言い切る。
その声で一瞬だけ動きが止まる。
でも——
止まったのはほんの一瞬だけだった。
「……えー、助けてあげたのに」
前の男が小さく笑う。
そのとき、腕がもう一段引かれる。
目の端がずれる。
屋台の光が遠のく。
(ほんとにまずい)
息が浅くなる。
もう一度振りほどこうとした。
◇
マサキは一歩引いて、全体を見る。
三人。距離。逃げ道。人の流れ。
すぐにポケットからスマホを取り出す。
ロックは解除済み。
画面は通話履歴のまま開いた状態。
親指は、発信ボタンのすぐ上に。
"今押せば繋がる"状態。
そのまままっすぐ歩いて、リサの前へ出る。
ナンパの視線が一瞬だけ自分に向く。
でもマサキは見ていない。
スマホだけ、そのまま見せる位置に持ったまま。
「今かける」
短い声。
説明じゃない。警告でもない。
"いつでも外部に繋がる状態だ"という事実だけを置く。
一瞬、動きが止まる。
掴んでいた手の力がわずかに緩む。
「これはオレの」
その隙に、マサキはリサの腕を引く。
強くない。けど拒否できない引き方。
それで終わる。
ナンパの一人が口を開きかけるが、何も続かない。
"今かける"という状態のまま、場だけが完成しているからだ。
言い返す余地がない。
マサキはもう目を外している。
リサの手を握り、
「行くぞ」
隣に戻る。
数歩進んだところで、人の流れに紛れる直前。
その瞬間だった。
リサの足が止まる。
次の瞬間、マサキの胸に飛びつくように抱き付く。
「……っ」
息が詰まったみたいな声。
「うわぁーん、怖かったー」
しがみつく力が強い。
離す気がないというより、離れたくない動き。
「やめてって言ったのに……っ」
声が震えながらも、はっきりしている。
マサキはリサの方を見る。
そっと背中に手をまわす。
「……もういない」
短く言う。
状況の整理だけ。
リサはそれでもすぐには離れない。
肩に顔を押し付けたまま、呼吸だけが少しずつ落ち着いていく。
マサキは一拍置いてから、手元を見る。
リサを抱く腕に少しだけ力をこめる。
「手、離して悪かった」
淡々とした声。
責めるでも、言い訳でもない。事実だけ。
リサは小さく首を横に振る。
「……ううん」
リサはまだ離れない。
マサキは少しだけ間を置いて、続ける。
「下駄、歩きづらかったよな」
その言葉で、リサの肩が少しだけ緩む。
「……うん」
ようやく小さく返事が落ちる。
でも、まだ腕は離れないまま。
マサキはそれを急かさず、ただ一度だけ前を向く。
「……歩けるか」
その言葉のあと、リサは少しだけ間を空ける。
マサキにしがみついたまま、小さく息を吸ってから、ぼそっと言う。
「……歩けるけど」
そこで一度止まって、少しだけ力を込める。
「もうちょっと、このままがいい」
言い方は弱いのに、意志だけははっきりしている。
マサキはすぐには返さない。
一拍だけ置いてから、
「……いいよ」
それだけ言う。
否定もしないし、強制もしない。
リサはその返事を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜く。
でも腕はまだ離さないまま、立つ位置だけを少し整える。




